上田万年

上田万年『國語のため 第二』所収
(明治文学全集)


私は最後に此の洒落本の研究が、他の方面にどういふ關係を有ち、又どういふ影響を與へるかといふ事につき、一言して置きたく思ひます。
第一 洒落本は狂言記と共に、國語假名遣の沿革を調べるには、此の上もない必要な材料であります。御存知の通り徳川時代には、一方に定家流の假名遣が行はれ、一方に契沖流の假名遣が行はれて居ました。しかし此の兩方の假名遣法ともに、俗言を書き出す點には何の標準をも與へませんでした、又與へようとしても與へられるものでなかつたのであります。そこで吾々の祖先で、当時の俗言で文章を書かうとした人々は、勢ひ自分ーに假名遣をこしらへなければならぬやうになつたのである。その尤も著しいのが足利・徳川氏をかけての狂言記と、徳川氏に於ての通俗文學、特に此の洒落本や臺帳やである。勿論私は此の洒落本の上に、一定の假名遣の主義が行はれて居るとはいはぬ、明治の假名遣制定の上に、必要缺くべからざるものだともいはぬ。しかし、いやしくも假名遣の研究をなし、一主義に基いた假名遣法を定めようといふには、是非これをば見て置かなければならぬものだといふのである。
第二 江戸の言語史、從つて東京の言語史、進んでは日本の標準語の制定などに興味を有つて研究する人は、どうしても此の洒落本を見逃すことは出來ないのである。たとへば千七百七十九年(安永二年)今から丁度百二十五年程前に出た辰巳の園によると、共中に當時の通言が出て居る。
    通言
  ばからしい     うそはねエ    よふあてなさつた
  どふしやうのふ   けしからねエ   ほんにか
  あゝらつちもねえ  きいてあきれる  よくいふものだ
  よしか      ついぞねエ    おきのどく蠅の頭
    又
  上總木綿 (情のなき客をいふ)
  とんちき (あしき客)
  ひやうたくれ (あしき客)
  蟲がいひ (おしのつよい事をいふ)
  ちょくら (辯口にて人々をあやなす事)
  ちやら (うそをつく人になぞらへていふ)
かやうの例が出て居る。
又京傳の傾城觽の中にも、家々の通言などがあげてある。今日のわれ〳〵は江戸言葉をしらず〳〵語つて居るのであるけれども、此の江戸言葉には、かゝる不都合な社會から出た言葉がいくらもある事を忘れてはなりませぬ。現に大槻博士に從へば、デスといふ言葉つかひは、御維新前までは芳原より外にはつかはなかつたといふ事であります。しかし、言葉の變遷にはいろ〳〵理由のあることですから、こんなものを皆棄てゝしまはうといつても、それはなか〳〵むつかしい。
しかし言語の研究をする人は、かういふ側の事もよく調べて置かなければなりませぬ。御存知の通り文化、文政の極めて泰平を謳ひました時分に、當時の社會が共同の快樂を取つた所は、何處であるかといへば、つまり此の側の揚所で、藏前の札差であるとか、銀座の役人であるとか、大名の留守居であるとか、旗本であるとかいふやうな人が行つて交際するのは、此の場所に於てした。いはゝ今の帝國ホテルであるとか、紅葉館であるとかいふ場處が、此處であつたとして見ると、此の社會に發達した、此の社會から流行した言葉が、江戸言葉に影響したことは申すまでもありませぬ。現に江戸時代の演劇を見ればよくわかります、大抵な演劇に遊廓遊女の出ないのはない。從つて芝居の側から此の社會の言葉を通俗にしたことだけでも、大きい事と信じます。
今一ツ附け加へて申して置きたいのは、遊廓殊に芳原に一種の人工的言語の制定されて、實用に供された事實であります。これにはだん〳〵面白い話もあり、長い話もありますが、ここには申し述べぬ事といたします。しかし、これも言語の研究者には一研究を要する事で、この點でも洒落本はなくてならぬ好材料であるのであります。


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Last-modified: 2022-08-08 (月) 09:57:27