上田萬年
清音
濁音

!-- 清濁

 上田萬年

茲に帝國文學會第二總會を開かるゝに當り、幹事の君まづ予が家を訪ひたまひて、是非とも此折に一席の演説を爲すべしと所望せらる。されど予は此程漸く地方の巡回を終りて歸京せし事とて、其後公に私になにやかやと猶爲す事多かれば。得難き名譽とは知りながら、殘惜さを堪へ忍びて幾度か断りまゐらせしに一度も聽したまはず、やがては心ならずも此清濁音といふ題にて、敢て諸君の清聽を煩す事となりぬ。従て予が今述ぶる所は兼々予が抱ける意見の一斑をば、まこと一時の責塞ぎのために、御話致すに過ぎざる者にて、其詳細なる研究にいたりては、猶他日を期す者なれは、此段は幾重にも諸君の御含み置きを冀ひ奉るなり。扨て日本語の上にて、清濁音に就きて研究せんとする者は、三箇の異りたる觀察の方面ある事を忘るべからず。即ち第一言語學上の觀察第二心理學上の観察、第三審美學上の観察これなり。

第一 言語學上の觀察

日本に語學の開けてより以來、最早短からぬ年月をば經たれども言語の躰形に關する研究に至りては、今も昔も殆ど仝様にて、誠に未開の域にありていはざるべからず。試に清濁音のみに就きていふ、此區別を本質の上より確知し居る文法家は、但に二三に止るべく、其他は大概夢中に法を説く者なるが如し。此等の所謂文法家が、清濁音の定義を下すを見るに、清音とは清みたる音なり、濁音とは濁りたる音なり、半濁音とは半濁りたる音なりといひ、而して又、清音は輕し、濁音は重し、半濁音は急促の強音なりなど注解す。然れど、一層巌密に質問して、清みたりとは何をいふか、濁りたりとは何をいふか、何故に全く濁らねばならぬか、何故に半濁らねばならぬかと問へば、彼等は單に濁點を打たぬ者即清音なり、濁點を打てる者即濁音なり、而して小環を打てる者即半濁音なりと答ふる外、其道を知らざる者なり。一言にていへば、彼等は字の上の區別を知りて、音の上の區別を知らず、字の上の區別を示す事、即音の上の區別を示すなりと迷信し居る者なり。
かゝる迷信は、一層能く彼等の母韻論上に現はれ居るなり。彼等はいはく、アはよろづの親聲なりと、其故を問へは五十音の頭にあればなりといふ。又いはく、日本語にはアイウエオの音を以て終ることばなしと、其故を問へば、アイウエオの字决してことばの下に來ることなければなりといふ。總して所謂文法家が言語の躰形を論ずる事は極めてポエチカルには相違なきも、仝時に亦不條理的なりと評するも、誣言にはあらざるべし。こは言語學を待ちて始て知るまでもなく、苟もコムモンセンスを有する人は、夙に承認し居る所なるべし。
故に茲に清ぬ音に就きて、一應其言語學上の説明を爲すことも、决して無益の事にはあらざるべしと信ず。たゞし所謂清音なる者の中には非常に多くの種類ありて、一々これを説明する事は、音韻學の大半を講ずる事ともなるべけれは、今は假りに濁音を有し得るだけの清音につきて説明せんと欲す。然らばまづ、かゝる清濁音には若干の種類ありやと問ふに、普通には四種なりといヘども、事實は必ずしも然らざるが如し。
第一、パ行ファ行ハ行(清音)とバ行(濁音)と、P.F.H.=B
   此行の清音につきては、古より沿革しば〳〵ありて、現に最近の發音法即
   わいうゑをと發音する者を合せては、P f h wの四期あるなり。こは正し
   く歸納的に證明し得らるゝなり。之に反し、濁音は第一期の清音即P音の
   濁音通りに、いつも不變に殘りたるが如し。たゞし方言研究の事其歩を進
   むる曉には、此上に、多少の例外を見出すに至るやも知りがたし。猶パ行
   を半濁音と稱する事の全くいはれなきは、後段の説明を見て知るべし。
第二、タ行(清音)とダ行(濁音)と、T=D
   今日の發音法によれば、チとツとは共に此行中に入るべきものにはあら
   ず。此二音は、今は全くタテトの如き、古より存する性質を失ひたる者なれ
   ばなり。
第三、カ行(清音)とガ行(濁音)と、K=G
   此濁音には、地方によりて鼻にかゝるものあり。たとへば東京語のうぐひ
   す、むごいなどに於けるぐごの如し。是等の語を九州人の發音する時は全
   く純粹の濁音なり。予輩は,この鼻にかゝる濁音を示すに、かりにか`き`く`け`
   こ`の字を以てす。これをローマ字にて書けば即ngなり。
第四、サ行(清音)とザ行(濁音)と、S=Z
   サ行に於けるシも、亦此行中に入るべきものにあらず、是亦チツト仝じく、
   今は全く他の價直を有するに至りたる者なればなり。
   以上はこれ普通に文法家の區別する四種の清濁なる者なれどゝ、其中の例外を取
   り來りて、予輩は左に猶三種を附加し得べし。
第五、チャ行(清音)とヂャ行(濁音)と、CH=JH
   たとへば、チヤン〳〵チュー〳〵チョク〳〵ヂヤン〳〵などの如し。
第六、ツァ行(清音)とヅァ行(濁音)と、TS=DS
   たとへばオトッツァン、ヅッシリ、ヅブロクなどの如し。
第七、シャ行(清音)とジャ行(濁音)と、SH=ZH
   たとへばシヤッポ、シャツ、ジヤー〳〵、ジュバン、ジョサイなどの如し。
以上列擧する所の清濁音は、抑も如何にして生じ來る者なるか、これ予が次に説明
せんと欲する所の者なり。

清濁音(承前)

清音とは、呼息が聲帶の支障を蒙らずして、單純に口内を過ぎて流出するに際し、其一部にて特に支障を蒙むるより生ずるものなり。假令は兩唇にて支障を蒙むる者をP或はF音とし、硬口蓋及び舌端にて支障を蒙むる者をS或はT音とし、軟口蓋及び舌後にて支障を蒙むる者をK音とするが如し。其他CH TS SH音の如き、皆其支障を蒙むる時の、舌及び口蓋の部位如何に由りて其差を生し來る者とす。音韻學の上にては、過常此等の音を密閉音摩擦音の二種に別つ、即ちPTKの三音は密閉音にして、F S CH TS SH等の音は摩擦音なり。たゞし此等の事を明晰に叙するには、多少解剖圖の挿入をも要すべく、かた〳〵あまりにくた〳〵しければ、今は總て他日出版せんとする拙著日本音韻學に譲る事とせり。
濁音とは、呼息が豫め聲帶の支障を受けて韻的性質を帶び、然る後清音に於けるが如く、ロ内の一部にて再び支障を蒙むるより生ずるものなり。従って濁音の有する騒音的性質は、毫も其清音に於ける者と異ることなしと知るべし。假令ばBのPに於ける、DのTに於ける、GのKに於ける、ZのSに於けるが如し。
此濁音を發するに當り、ウビュラ能く口腔鼻腔間を密閉せざる時には、予輩は所謂鼻濁音なるものを有するに至る。この鼻濁音中にて、普過我國語上に現はるゝ者をWの音とす。其他は梅毒患者にて俗に鼻の障子のぬけしなど、いふ人の言語に、此類の音を多く認むべし。
以上陳述するが如く、清濁音の區別は全く生理的及び物理的に、聲帶の作動如何楽音騒音の性質如何等より論究すべきものとす。かくの如くせざる以上は、予輩は到底其本質を甄別し難しと謂はんと欲す。其例證は今日までの國語學者が、如何に此上に一種曖昧の説明を附して、自ら甘ぜざるを得ざりしか悔ても知らるべし。
殊にその好き例はP音の上にあり。今日までの国語學者は、ハ行を以て唇音なりといへり。然れども今日のハヒヘホ等の音は、决して唇音にはあらざるなり。而して實際發音上のBの濁音に對する清音はP音にして、このP音は五十音圖製作上の模範たりし悉曇韻学の上よりいふも、又支那韻学の上よりいふも共に純粹なる清音の地位に措かれ居るを以て見れは、今は何の疑ふべき處も論ずべき點もなし。然るに何時の頃よりかなりけむ我國にてはこれを半濁音と稱するに至りぬ、甚しきに至りては、これを反濁音など書き換ふるに至りぬ。勿論此音が近代の國語上にて、連想上トボケたる、或は野鄙なる事柄を指示するは事實なれども、さりとてそのため
に溷雑とか紆曲とかいひて、茲に一の別稱を與へしとせばこは極めて謂はれなき次第と評せざるべからず。況してハの字に小圏を附するが故に、ハの字に二點を施して示すバの濁音に對して、これを半濁音と稱すといふが如き説明を試むる語學者に至りては、予輩は寧ろ小癪にもこざかしくも、アナロヂーの論理を弄する者なり、と斷言するに躊躇せざるべし。猶此上には波行發音考あり、不日公にすべければ一讀を賜はらんことを冀望す。

言語學上より日本語に於ける此清濁音を觀察せば、猶ほ他に論ずべき事、研究すべき事多かるべし。假令ば
一、本濁の事、古代の日本語にて本濁音を有する語の統計の事。
二、連濁の事、何故に連濁は日本語上に現はれ來りしかの事。
三、TS SH CH及び其各濁音が日本語に發達し來りし年代の事。
四、G或はNGが、現今の日本語にては如何なる地方にて、區別して發音せられ居るかの事。
五、SHI TSI CHI TI等の濁音は、何處に現存し居るかの事。
六、漢呉音等の支那音上にある清濁音が、如何に日本語に影響せしかの事。
七、清濁音に關する研究の歴史の事。
其他列擧せば猶數多の項目を得べしと信ず。さてはあまりに長引くべければ、今は一先づ第二の觀察點に移るべし。

第二 心理學上の觀察

予が心理學上の觀察と稱するものは、清濁音が連想上予輩に一種奇異の感覺を與ふるを研究するにあり。而して此研究に入るには、先づ言語發達の時別には、聲音上より三期を畫し得べき事を忘るべからず。三期とは即ち、
  第一期 オノマトポエチック時期、即ち初代の人類が萬物自然の聲音を萬物其物の符牒とせし時期。
  第二期 シムボリック時期、別ち第一期に於て普通に用ゐたる幾多の聲音の上より一種の音を抽象的に抜萃し來りて、これを使用して複雑に發達しゆく予輩の觀念を代表せしむる時期。
  第三期 アイディヤル時期 即ち聲音の特質に斟酌なく、全くこれをば思想を顯表する奴隷的機械として用ゐる時期。
今予の論ずる所は、主として第一第二の時期に屬するものにして、第三期の言語にては、寧ろかゝる連想上の主義は珍重せざるものとす。故に一種の極端的論者には、左に掲ぐるが如き語をば、野蠻時代の言語の遺物なりなど評するものあり。さはれ予は茲に言語の優劣を論ずるものにあらざれば、單に事實のみを陳べて、他は凡て諸君の高評に任ぜんと欲す。
予の考ふる處によれば、我國語に於ける清濁音には、左の連想的特質ありと信ず。尤も語の上には、二三或は三四の特質、互に相連合して顯はるゝ事常なりと知るべし。
   清音の連想的特質 濁音の連想的特質
(一)小なる事、    大なる事、
(二)少き事、     多き事、
(三)強き事、     弱き事、
(四)輕き事、     重き事、
(五)鋭き事、     鈍き事、
(六)陰なる事、    陽なる事、
(七)明なる事、    暗なる事、
(八)壯なる事、    老なる事、
(九)速き事、     遅き事、
(十)淋しき事、    騒がしき事、
(十一)有る事、    無き事、
(十二)静なる事、   動く事、
(十三)美しき事、   醜き事、
(十四)優しき事、   ぶしつけなる事、
(十五)賢き事、    愚なる事、
(十六)善き事、    惡き事、
猶ほ考へなば數種を得べし。假令はチーチャイホソィなどいふ時と、デッカイドエライなどいふ時には、如何程の差あるかを見るべし。トン〳〵ハタ〳〵、ホト〳〵などいへば、如何にも物を輕く寂しく静に優にたゝく事と聞ゆれど、ガラン〳〵ガタピシ ドン〳〵 ドサ〳〵 バタ〳〵などいへば、何かむさくろしき奴が無器用にもいぎたなく、立ち振舞ふ状を思ひ出づべし。
コーンと鳴り、ゴーンと響く鐘の音、ホンノリ又はホノ〳〵と明くる暁の空、ボンヤリドンドリと照る春の夜の月、キッパリ、シッカリ、サッパリとした意氣な事、グズ〳〵 グニャ〳〵としたドヂ、ベラボー、バカ、ブショーモノ、其他父といひヂヾーといび、母といひバヾーといひ、ウツといひブツといひ、フケルといひボケルといふ類ペチャ〳〵しゃべるオチャッピーに於ける、べチャ〳〵どなる山神に於ける、或はオホと笑ふ美人、シト〳〵あゆませたまふ淑女、或はゲタ〳〵ゲラ〳〵笑ふ田舎者、ザハ〳〵ゾハ〳〵とする浮気娘、切り果すといへば奇麗にあらずや、胴切りにする、プッパナスといへば、きたなくまづくをかしきにあらずや、ありてとあらで、なすとせず、皆此上にいへる連想上の關係と有せざるものなし。
かくの如き例を、思ひ出るまゝ書きゆかば、限りなからむ。しかれども、これを筆にする時は、これを口にする時よりも、其語勢を失ふ事多ければ、煩しき割に讀者は其興味を感ぜらるゝこと少からんと信し、他は敢て茲に割愛す。

第三 審美學上の觀察

我國にては母韻なり子音なりが、それ〳〵詩歌の上にて、如何程の力を有するかに注目し、この上の統計をとり、此上に規則を立てんと企てしもの、殆んどなきが如し。
况んやまた清濁音の上に於てをや。よし一歩を譲りて、假りにこれ有りとするも、其説は広く世間の承を經たるものにありざるは論なし。勿論音義説を主張する一派の文法家には、五十音圖にかけて一種奇異の解釋を試むるものあれども、それとて歌學の上にまで論及したりしか疑はし。
故に予は今日以後の語學者に對ひ、切にこの上の研究を促さんとするものなり。而してその上に最も幸福なる結果の、一日も早く現はれ來らむことを渇望するものなり。
たとへばゲーテがミニヨンの詩に於ける、

   Kennst du es wohl ?
          Dahin ! dahin
   Moecht' ich mit dir, o mein Geliebter, ziehn!

U(ウ)及びO(オ)の音が、如何に曇りたる、秘密なる、涙もろき感情を予輩に惹起せしめ、
またI(イ)の長音が、如何に鋭く、切なる、而して又落着かざる感情を、予輩に惹起せしむるかを見よ。

其他SPR STRの兩音が勢強き運動を示し、GRの音が薄黒きこと或は不吉などを示す等、總てこの種の事を獨乙にてはクラングマーレラィ(音畫)と稱し、研究極めて盛んなり。
詩入は聲音の有するこの力を、分析的に研究する必要を認めざるべし。然れども詩人たるもの苟もこの力を感得するにあらずんば、よし思想上の美のみは現はし得べしとするも、思想及び言語の和一的美は到底描き出し難からむ。
謹みて清聽を賜はりたるを謝す。
(完)

『帝国文学』第一巻


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Last-modified: 2022-08-08 (月) 09:39:12