中山泰昌
東京堂
昭和三一年一二月二〇日 初版発行
昭和四九年二月一日 二一版発行

まえがき
 当用漢字の普及によって、漢字習得上の労苦は、いちじるしく軽減されましたが、しかし、これで以て漢字に対する一切の負担が、悉く除去されたと思うのは早計でありましょう。
 われわれ今日の生活の根基となっている古来伝承の文化は、漢字と極めて密接な関係がありまして、その因縁は一朝一夕に断ち切ることは出来ません。しかるに当用漢字だけの知識では、手近な姓氏や地名も満足に読むことは出来ぬ始末でありますから、まして上古・中古の文献を探究するといったようなことは、非常な困難を伴うのはもとより、昔は、女・子供の読み物であった草双紙や浄瑠璃本、また明治・大正・昭和初期の小説すらも、完全に読むことは不可能でありましょう。元来漢字には、根本的に複雑な煩わしさがあればこそ、将来の学問や実務の世界への贈り物として、当用漢字が制定せられたのでありますが、それはどこまでも、今日以後に役立つ手形であって、過去の世界に対しての通貨とはならないのであります。
 こうした事面倒な漢字の世界に、今一つ厄介千万な問題があります。それは、漢字固有の音・訓・義のいずれを頼りにしても、訓むことの出来ぬ言葉や物名が、当用漢字の中にさえ無数に有ることであります。その中には、呉音・唐音・宋音、また延語約語・略語・縁語・転訛・斎詞(いみことば)等々で解読して見て、やっと合点のゆくものも多少はありますが、中には又、全然見当のつかぬ訓み方をするものが沢山あります。所がこれらは、訓み方が不明ですから、いきなり国語辞典に頼って引き出すことは出来ないし、漢字典に依るとしても、今の一般の漢字典の熟語中には、そうした類のものは殆ど挙げてありませんから、結局これらの言葉は、全く「辞典の捨児」であります。そこで此の捨児―「難訓」の言葉だけを拾い集めて、一つの辞典を作っておくことも、決して無用の業ではないと思いまして、この一書を編成したのであります。
 ただしこの難訓語のうち、「姓氏」と「地名」とは、切り放して一所にまとめた方が便利だと思いまして、これを第二部として別個に集成しました。また附録の「名数録」は、必ずしも難訓ではありませんが、その名数だけでは難解でありますし、これも一つにまとめて見ると、一種の節用的なものとなりまして、百科の知識を誘発する興味も多分にありますので、特に巻末に添えた次第であります。
昭和三十一年十二月五日
編者

この書に収録した言葉は、純然たる難訓語の外に
 呉音・唐音・宋音で訓まれるもの
 古語・延語・約語・略語・縁語・雅語・斎詞いみことば・仏教語・転訛・俗訓・仮字・訳語・音訳字その他漢名を和語に仮用したもの
等々、すべて漢字の音・訓のみでは読み下しがたいものの外、一般に読みあやまり易いものをも広くとり入れた。
第一部を「一般語」、第二部を「姓氏・地名」としたのは、後者は説明を要しない、単純なものであるから、別個にまとめた方が見出しよいと思ったからである。
見出し語は画数別とし、同画数中では、同一文字を一所にまとめて配列した。
地名には、県・国・郡名、山・川・湖・沼名、また古称・古地名等もある程度採リ入れた。
姓氏・地名ー殊に地名には、町・村名、小字等に、珍名・奇名が無数にあると思う。この君には、それらを収録しきれなかったが、他日、これのみで大成したい念願もあるので、有る限りのものを委しく御教示下さらば幸甚であります。
地名は県別だけにしたが、ここに掲げた以外の県にも所在するものがあるかも知れないし、又、地方的の訛りで、清音・濁音を誤っているもの、或はその他の訛りちがい等があるかも知れず、お気づぎのものを併せて御教示願います。
附録の「名数録」は、名数順に配列した。この類のものでは古く、貝原益軒の「和漢名数」・「読史備要」中の「名数一覧」(二十三頁)があり、当然相通じ、相似るべきものではあるが、前者の中には現代と縁遠きものが多いので、ほとんど採るところが無く、また後者のは、解釈不明のものが多いので、本書に採録したものは、多少手がかりとなる言葉を添えておいた。

一人 ひとり 入数のただひとつであること。いちにん。

一人 いちじん 天子の謙称。又、天子の尊称。

一人 いちのひと 摂政・関白の異称。

一人 いちびと すぐれた人。一の者。

一入 ひとしお ①染物を染汁にただ一回入れひたすこと。 新六帖和歌集「しのぶてふただ一しほのすり衣、浅きものゆゑ何みだれけむ」②転じて、一きわ。一層。一段。「ーー感を深うした」

一入染 ひとしおぞめ 染物を染汁に一回入れて染めること。又その物。

一八 チーハー 字花ともかく。中国人の聞に行われる一種の賭事。

ー上 いちのかみ 古、左大臣の称。

一寸 ちよっと ちょと 鳥渡ともかく。ごく短い時間。しばし。少しの聞。わずか。又、てがるに。たやすく。

一寸物 いっすもの 一種物ともかく。昔、各人が一種ずつの肴を持ちよって酒宴を催したこと。続古事談「殿上のいっすものは常の事なれども」

ー月 むつき 陰暦正月の異称。この他の異称をあぐれば、睦月(むつき)・むつび月・年端月・太郎月・早緑月・暮新月(くれしづき)。又、諏月・暢月など。

一日 いちんち ひていいちじつ「いちんち」は「いちにち」 の転。「ひてい」は「ひとひ」の転で、共に「終日」の意。「いちじつ」は「ある日・某日」の意に用いる。

一日花 とろろ とろろあおい 秋葵・黄蜀葵ともかく。「きょうふのり(京海蘿)」の別名がある。錦葵(ぜにあおい)科の多年生草本。中国の原産。肥大なる長根を有し、その粘液は紙漉の「ねり」に用いた。花は朝開いて夕にしぼむ。

一切 いっさい いっせつ 「いっさい」は、多くの物事を一まとめにして総称する語。すべて。悉く。どれもこれも。「――-合切」。又、「いっせつ」は、どんな事があっても。一向に。全然。

一斤染 いっこんぞめ べにの花一斤で絹一匹を薄紅にそめたもの。

一牛鳴地 いちごみょうち 仏典より出た言葉で、一頭の牛の声の聞えるほどの近い距離にある地。牛吼地。

一日向 ひたぶる 「ひたすら(只管)」に同じ。ただひとむきに。ただそれのみに。ひとすじに。

一季居 ひときおり 一季を期限として奉公すること。一季奉公。

ー枝黄花 あきのきりんそう 秋麒麟草ともかく。菊科の多年生草本。方言、やまな。

一品 いっぽん 諸親王の位階の第一。

一昨日 おとつい おととい 昨日(きのう)の前の日。

ー昨年 おとどし 昨年の前の年。前々年。去々年。

一昨昨日 さきおとつい さをおととい 一昨日の前の日。

一昨昨年 さきおとどし さおとどし さいとどし 一昨年の前年。

ー食頃 いちじききょう 仏家で、一度の食事をなす聞。即ち短い時間。

一途 いちず 一図ともかく。一つの事に思いこんで心を傾けること。 一徹。

ー家 いちのいえ 摂政・関白となるべき家筋。

ー夏 いちげ 仏教にて、陰暦四月十五日より七月十五日までの九十日聞をいう。この愛だ僧侶は行脚(あんぎゃ)をしないで、安居(あんご)して聴講、修徳する。(「安居」の条参照)

ー転 いちころ ①無造作(京都の方言)。②ばくちで、相手に割のつかぬ内に大きな目が一遍に出たこと。


トップ   編集 凍結 差分 履歴 添付 複製 名前変更 リロード   新規 一覧 検索 最終更新   ヘルプ   最終更新のRSS
Last-modified: 2022-08-08 (月) 10:03:34