岩波日本古典文学大辞典 高松政雄
国語学辞典・国語学大辞典 奥村三雄
国語学研究辞典・日本語学研究辞典 前田富祺

http://www.let.osaka-u.ac.jp/~okajima/uwazura/kokusyokaidai/y3/kokusyo_yo003.html>
ようじれい
   傭字例   一巻  關藤政方《マサミチ》
 音の「ん」と「む」との區別を主と考論したるものなり。附録あり、同じく音韻轉化等の事に就きて論ぜり。天保五年甲午〔二四九四〕の著、翌六年の自序あり、同十三年刊行す。
 ◎關藤政方の傳は「聲調編」の下にあり。

http://www.let.osaka-u.ac.jp/~okajima/uwazura/syomokukaidai/hoi/kaidai_hoi032.html>
ようじれい 傭字例 一卷 附録
  關政方《マサミチ》撰 天保六年自叙、兼松誠序、依田利用序、源清之跋、關藤成章跋、天保五年成る、附録、天保六年九月成る、天保十三年刊、浪華種玉堂發行
この書は、ンム等の昔の區別より論じて、「蝉《セミ》」、「文《フミ》」、「旻樂《ミネラク》」、「支那」、「近義《コニキシ》」、「灘」、「安逹」、「爾太遙越賣《ニホヘルヲトメ》」、「狹殘《サヽムエ》」、「甜酒《タムザケ》」、「習宜《シフキ》」、「雑豆臘《サヒヅラフ》」、「芭蕉」、「杲《カホ》」、「多配《タへ》」などの字音の用ひさま、「せみ」、「ふみ」の字音より來れるものならぬよしなどをいへり、
附録には、漢呉音圖の説によりて、「芭蕉」「杲」、「鍾禮《シグレ》」、「さうび」、「きちかう」、「けにこじ]、「しをに」、「りうたむ」、「はなかむし」、「四十九日」、「唯《ヲヽ》」、「諾」といふことの考を補ひたるなり、
この書、首卷に足代弘訓、屋代弘賢の書翰をも序にかへて掲ぐ、なほ傭字例評辨、聲調篇、男信等とあはせ見るべし

関政方

新潮日本文学大辞典 補遺にて「政方をみよ」と。

本文

http://www.let.osaka-u.ac.jp/~okajima/ingaku/yojirei/yojirei.htm

大阪市立大学森文庫
http://dlisv03.media.osaka-cu.ac.jp/infolib/user_contents/mori/482.djvu

金城学院大学本(国文学研究資料館)
http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=0275-000602&IMG_SIZE=&IMG_NO=1


傭字例序
石川君達備中笠岡人也 来游余門一日手其兄關士常郎著傭字例一巻眎之余 披閲之其於聲音國語假借用字之義 経緯画堤悉得其節目引據典博辨論確核質而不陋信而有徴 蓋邃韵學者也 平維章東海談嘗謂 州名邦訓武蔵・安房・信濃・但馬・因幡・讃岐類 為漢音變而不知其出五聲仮借訾灘字訓「奈太」之非而又不知假借用之因 是書而究之則思過半矣
丙申孟春之月

 匠里依田利用撰
       宮原龍書

!--
天保十三寅歳孟春新鐫
嘉平田舎翁著
傭字例 全
浪華 種玉堂


余嘗問輪池屋代翁國字ん字ン字所由出翁曰吾見佐理行成諸人之書ん作ん盖従毛字而来者如ン則従梵字吽點而假借者也余唯々而退未能無疑頃日與友人君達談次及此君達示以其兄葭汀君所著傭字例余借而讀之再四則傭字之例以声韻辨明之歴二有據積疑氷釋者甚多矣實意外之賜也惟其継此而源々請益君達幸為之介及返其書々之以志喜因以通名姓於君側也戊戌秋日兼松誠誌

傭字者何傭之彼以達我〓也譬
如傭人苟随其乎性駆而使之雖
千百人唯吾所欲無不如志焉使
字之然苟達其音韻轉以用之
雖千栄字唯吾所令無不聴命
焉此古人傭字之妙所以不言萬
語無一舛差也夫古之賢達
合稽漢呉之音兼以悉曇之学
舌運筆寫神機話不可意
測其蹟存乎今昭々者日本書
紀古事記及萬葉集之類皆是
也中世此學漸廃古言亦〓轉
訛於是間新撰字鏡倭名類聚
鈔等之作其後数百年世道陵夷
禍亂薦臻而古訓掃地焉後又
四百五十年所雖世或小康未
及此之起慶元爾降治運日
隆文教漸闡至於元禄享保間
古訓之學大起矣當是時荷田
氏〓[風易]聲于平安契沖氏振響
于浪華加茂氏接至于江戸更於
唱導學徒輩出〓然其力而本
居氏間〓〓生後跨前人而著
述尤多如其字音假字用格三
音考實可謂起千古之廢矣吾
輩〓{弓翦}劣梯之得窺其一斑者耳
雖然愚者或有一得智者千慮
寧無一失如彼舌脣之韻混以
為一者蓋亦白圭之微〓[玉占]也
余於音韻雖不能解粗檢尋古
人傭字之例掲其一二以示子弟
非敢曰磨之〓[玉占]也天保六年
二月備中関政方自叙
   香雪山内晉書

傭字例

せみは.蝉の字音を収(ヲサ)めたるか.又は.せみ〳〵と鳴聲によりて.素(モト)より名づけたるか。定めがたしと。本居氏の玉がつまに見ゆ.今按に.字音にはあらず.せみ〳〵となく聲によりて.固(モト)より名付けたるものなり。其故は古書に.字音を傭(ヤト)ひ用たる例を見るに.萬葉集第二巻に.玉藻吉讃岐國(タマモヨシサヌキノクニ)云々.また難波方塩干勿有曽称(ナニハガタシホヒナアリソネ)云々.第三巻に.珠藻刈敏馬乎過(タマモカルミヌメヲスギ)云々.第四巻に吾背子之往乃萬二(ワガセコガユキノマニマニ)云々.
第六巻に岸乃黄土粉二寳比天由加名(キシノハニフニニホヒテユカナ).第七巻に妻唱立而邉誓着毛(ツマヨビタテテヘニチカヅクモ).また不可顕事等不有君(...コトトアラナクニ).第十一巻に珍海(チヌノウミ)云々.
第十二巻に丹波道之(タニハヂノ)云々.また射去為海部之楫音湯鞍干(イサリスルアマノカヂノトユクラカニ)云々.また従明日者戀乍将有今夕弾(アスヨリハコヒツツアラムコヨヒダニ)云々.十三巻に散釣相(サニヅラフ)云々また草社者取而飼旱水社者把而飼旱(クサコソハトリテカヘカニミヅコソハクミテカヘカニ)云々.これらの.難讃敏邉粉君珍丹弾干散旱等の字は.韻鏡第十七轉.第二十轉.第二十二轉.第二十三轉.に収めたる字等なり.
讃丹弾敏の四字は.韻鏡に見えねども.寒翰珎等の韻の字なり.其外にも.乙訓(オトクニ).短冊(タニザク).蓮(レニ).蘭(ラニ).錢(セニ)などの類あり.
是等のタン.カン.セン.などの如く撥(ハヌ)る音は.古へはなかりしかども.漢字を傭(ヤト)ひ用らるゝことになりては.いつとなく云なれためれど猶.タニ.カニ.クニ.セニ.などいひつけるものなる
べし.さて.五十音の中にしては.ナニヌネノの五音。やゝ鼻にかかりて韻(ヒビ)き高ければ.おのづからかくはいはるゝなり.故(カレ).珎敏等をば.チヌ.ミヌ.とも轉し用たるものなり.
しか有て後に.今の平假字(ヒラカンナ)片假字(カタカンナ)といふもの出来て是等の字どもの音を.傍訓つけむに.タニ.カニなど書(カケ)ば.辞(コトバ)にまぎらはしとてぞ.ニの字の末を撥てンに造り.にの字
の末をはねてんに造れるものなり.されば.韻鏡十七轉より.二十四轉までの字韻は.皆.ン.んと書べく.ム.むなどは書べからぬ例なり.ケム.ラム.テムなど書べき字韻.また.萬葉集に傭用たる例は.第一巻に天下所知食兼(アメノシタシロシメシケム)云々.第二巻に妹見監鴨(イモミケムカモ).第四巻に三笠之杜神思知三(ミカサノモリノカミシシラサム).また待恋奴濫(マチコヒヌラム).また鬱瞻乃世人有者(ウツセミノヨノヒトナレバ)云々.また獨鴨念(ヒトリカモネム).第五巻に可久夜歎敢(カクヤナゲカム)云々.第六巻に見欲賀藍(ミガホシカラム)云々.また戀度南(コヒワタリナム).第七巻に古尓有險人母(イニシヘニアリケムヒトモ)云々.また甘南備乃里(カミナビノサト).また真袖以着點等鴨(マソデモテツケテムトカモ)云々.第十巻に梅乃散覧(ウメノチルラム).第十二巻に過西戀也乱今可聞(スギニシコヒヤミダレコムカモ).十三巻に今還金(イマカヘリコム).などあり.是らの兼濫三瞻念敢藍南險甘點覧金今等の字は.韻鏡第三十八轉.三十九轉.四十轉.に収たる字等なり.今瞻二字は韻鏡に見えねども.今は金の字子.瞻は の字子にて.共に鹽韻の字なり.其他(ソノホカ).印南(イナミ).品治(ホムチ).玖覃(クタニ).鹽冶(エムヤ)。などいと多し.さて.韻鏡三十八轉より.四十轉までの字韻はみな.ム.む.とかくべく.ン.ん.などは書べからぬ例なり.かく古へに定められたるは.韻學のうへにて.其故あることなり.マミムメモの
五音は.ナニヌネノよりは.同じく鼻に韻(ヒビ)く音なれども.少しひきく聞ゆるなり.されば.ナム.タム.セム.等をば.ナミ.タミ.セミ.ともおのづからいはるゝならむ.是らによりて思ふに.蝉字は韻鏡中に見えねども.先仙韻の中にて.二十一轉より二十四轉までの中に入べき字なり.しかれば.セニといふ假字(カナ)に用べし.萬葉中に。打蝉(ウツセミ).空蝉(ウツセミ).などかけるは.其辞を借用たるものなり.字音を傭へるには.鬱瞻(ウツセミ)と書り.例によりてセミと轉し用たるなり.凡(スベ)て.萬葉集中に.この格に違(タガ)へる例なし.第四巻に鬱蝉とかける所あり.是は音訓并(アハ)せ用たるなり.又第八巻に.秋山尓(アキヤマニ)黄反,木葉乃移去者(コノハノウツリナバ)云々.この黄反木葉を古點にキバムコノハと訓(ヨ)めり.反字は韻鏡二十二轉に入てハンなり.ハニとは轉(ウツ)し用べく.ハムと轉るべき例の字韻にはあらず.近世の達人の.モミヅコノハ.とよまれたるがよろしき.さて.新撰字鏡に蝉を世比
と訓めり.こはミを濁音に呼(ヨ)べるなり.マミムメモの濁音はバビブベボとなれり.共に脣音なる故なり.【ナニヌネノの濁音の同じ舌音のダヂヅデド.となるとおなじ例なり.】倭名抄に蝉の訓なきは.冩(ウツ)し脱(モラ)せるか.又は.此ごろはやく字音を収めたるなり.と人皆おもへるか.とまれかくまれ.せみは.その鳴聲によりて.固(モト)より名づけたるものにて.字音にはあらじとぞ思ふ.

ふみは.踏(フミ)の義にて.古へを歴見するといふ意なり.故に書史等の字を訓めり.文の字音を収めたり.と思ふはあらず.文は.韻鏡二十轉に入りたる字にて.音ブン.呉音モンなれば.フニ.モニ.とは轉し用べけれども.フミ.とは轉るべき例にあらず.是も蝉とおなじ例にて.音を譯(ヲサ)める例にはあらずなむ.
  郷俗の語に老病々て不食になれるをブニの無なれるならむなといへり此ブニは分の字音を譯めたる也思ひしるへし

 旻樂

續日本後紀に太宰府馳傳言遣唐三箇舶.共指松浦郡旻樂埼發行第一第四舶忽遇逆風云々とあり.本居氏の地名字音轉用例に旻樂肥前續後紀ニ見ユ.萬葉十六に美弥良久(ミミラク)トアル是ナリ.旻呉音ミンヲミゝニ用ヒタリとあり.此万葉十六といへるは.筑前國志賀白水郎(アマ)歌十首云々とある左註に.自肥前國松浦縣美祢良久(ミネラク)埼發舶直射對馬渡海云々.と有をいへるなり.この美祢良久(ミネラク)の祢字を弥の誤字として.ミゝラクと訓たるなり.【散木集に.尼うへうせ玉ひて後.みゝらくの島のことを思ひ出てよめる.みゝらくの我日の本の島ならばけふもみかけにあはましものを.袖中抄云.今考に.能因坤元儀云肥前國ちかの島.この島にひゞらこの埼と云所あり.其所には.夜となれば.死たる人あらはれて.父子相見
ると云々.俊頼我日の本の島ならばとよめるは.日本にはあらずとなる.
考万葉集十六.自肥前国松浦縣美祢良久埼発舶云々.此国と云事は一定なり.能因はひゞらこと書たれと.俊頼みゝらくとよみたるはたかはす.必ず此事慥に考本文可詠也不然共僻事出来歟といへり.かゝれば.顕昭の本には美弥良久と有けるなるべし.本居氏も是によられたるにや.又.かげろふの日記にも.みゝらくの島と有を見れば.そのかみはやくよりかく訓來しにや.】今按に旻は.真諄韻中の字にて音[王民]なり.[王民]は韻鏡十七轉に収(ヲサメ)たる字なりされば.ミゝと轉し用べき例の字にはあらず.美祢(ミネ)と有ぞかへりて正(タダ)しかりける.ミゝラクと訓は字音轉用の例に違(タガ)へり.此字の韻は.ナニヌネノの五聲の中に轉(ウツ)し用べき例なり.かし.旦.肥前風土記松浦郡値嘉(チカ)島の條(クダリ)に.西有泊舩之
停二處遣唐之使従此停發到美祢良久(ミネラク)之濟(ワタリ)云々.
とあり.是にてミネラクと訓べきこと明けし.そも〳〵
韻學者流.五十音の中にて.タラナの三行(ミクダリ)を舌音と
し.ハマの二行(フタクダリ)を脣音とせり.しからば仮字(カナ)に用るに
も.その差別(ワイタメ)あるべき事なり.本居氏の三音考にも.悉
曇の空涅槃點三内の説を引ていへらく.漢ノ對注ニ仰
講向等ノ字ヲ用ヒタルヲ喉内声ト云【此方ノ音ニテウノ韻ナル字ミナ同シ】安
見桿等ノ字ヲ用ヒタルヲ舌内声ト云. 嚴劒等ノ字ヲ
用ヒタルヲ脣内声ト云.【此方ノ音ンノ韻ミナ舌内脣内ニ摂ス】此字トモヲ此方ノ
音ニテ分ツニ.仰等ハウノ韻ナレバ喉声ニ論ナキヲ.安等 
等ハ共ニンノ韻ニシテ舌脣ノ差別ナシ.故ニ脣内声ヲハムトシ
舌内声ヲハントシテ是ヲ分カツナリ.然レトモ.ンハ全ク鼻声ニコ
ソアレ.舌ニハサラニ関(アヅカ)ラザレバ.是ヲ舌内ニ充(アツ)ルハ謂(イハ)レナシ.因テ
思フニ.舌内ヲハヌノ韻トスベシ.ヌハ舌声ナレバナリ云々.かく
つはらに論らひながら.旻樂をばいかで誤られけむ.旻は
舌内聲にて唇内聲にはあらす.悉曇舌内聲の例は沙
摩那(シャマナ)といふを沙門(シャモニ)と譯(ヲサ)め.舎枳也謨尼(シャキヤモニ)を釈迦文(シャキャモニ)と譯(ヲサ)むる
かごとし.摩那(マナ)に門字を充(ア)て.謨尼(モニ)に文字を充(アツ)るも.ナニ
ヌネノの舌音に収(ヲサ)まる故なり.ヌの韻をのみ舌内聲と
するはいかゞあらむ.よしやヌのみとせば.かの旻樂をば.
ミヌラクとこそ訓べけれ

 桑門をもシヤモニと訓り桑をシヤと譯るは桑は本[又3]字にて音ジヤク也
 今は韻を略けるものなり釈字の例に同し
 支那

梵語に.漢國を支那泥舎(.ナテイシャ)といへり.この泥舎は.中國といふを
麼駄也泥舎(マダヤテイシャ).天竺國を[口皿]怒泥舎(キドテイシャ)などいふを見れば.國といふ
ことゝ見ゆ.支那(シナ)は按(オモフ)に晉の字音なるべし.佛書の初
て唐山(モロコシ)へ来たるは.後漢明帝の時なりといへども.盛(サカリ)に
行(オコナ)はれたりしは.晋代より六朝の間.天竺の僧等おほく来
て.専ら翻譯のわざをせしことゞも見ゆ.今こゝにも
人の尊(タフト)むめる.法華経は晋の鳩麼羅汁(クマラジフ)といひし僧
の翻訳せしなり.されば.晉字を梵音にうつして支那
といへるなるべし.晉は舌内声の字にて.門を摩那.文を
謨尼といふにおなじ.又按に.八字三昧經に.於此瞻部洲東
北方有國名大振郡云々.この大振郡は.大秦にて.大支那
といはむがごとし.漢書張騫傳に.益發使抵安息奄蔡
犂軒條支身毒國云々.とある註に.師古曰自安息以下五
國皆西域胡也.犂即大秦國也といへり.是によりて見れ
ば.本は秦字の音にや.されど秦晋ともに舌内聲なれ
ば.義は違(タカ)ふ事なし.また震旦とも書(カケ)り.是も支那と同
じ.那字の漢音ダなれば.シダとも.シナとも轉るなり.震
旦の二字.共に舌内聲なれども.韻を省(ハブ)きてシダと呼(ヨ)
べるなり.今俗シンダンと唱(トナ)ふるは僻事(ヒガコト)なり.是らは.御
國言(ミクニゴト)にわたらぬことなれども.天竺の音は御國(ミクニ)の音と
いとちかく.脣舌内の韻などのさま違(タガ)ふ事なければ.
因(チナミ)にいふなり.御(ミ)國にても信濃をシナヌ.雲梯をウナ
デ.民太をミノダ.雲飛をウネビなと訓るがごとし.此
雲民信等の字は.文欣真諄等の韻にて.共に舌内
聲なり.

近義

姓氏録に.近義首(オビト)新羅國王(コニキシ)角析王之後云々.この近義は.
いかに訓べきにや.近比或人の訂正(タダ)せる本にコムギと訓り.今
按に.書紀に.任那(ミマナ)新羅(シラキ)百濟(クタラ)等の國王を干岐また旱岐と
書て.コニキシ又はコキシと訓り.通證に杜氏通典云百濟
王号於羅瑕百姓呼為(ヨヒナス)〓吉支といへり.旱岐.干岐は共に下の支
を省かれたるにて.やかて[牛建]吉支なり.[牛建]は.玉篇に居言切
ケン呉音コンなり.舌内声の字なればコニと轉る.故にコニギシ
と訓べし.干旱等も呉音コンなるべし.又カとコとは
常に通ふ例なれは.轉してコニとせしにも有べし.されば
この近義氏は新羅國王(シラキノコニキシ)の後なる故に.コニギシノ首(オビト)といふ
姓氏を賜(タマ)ひて.近義の字を充(アテ)られたるものなるべし.近字
は玉篇に其謹切にて.漢音キン.呉音コン.欣韻にて舌内
声なり.かゝれば.是もコニギシと訓べし.下の支(シ)に充(アツ)る字
省(ハブ)きたるは.干岐の例にひとし.且二字にさだめられし故にも
有べし.又同書に.温義といふ氏あり.是はヲヌギなるべし.後
世小野木といへる氏は.この温義の轉れるにや.野は古へはヌと
呼べり.温は合口音舌内聲の字なり。【假字用格ゐむ尹の條に.尹字
ハいゆむノ音ナルヲ直音ニ轉シ
タル者ナリ.他ノ例ニヨレバいむナレトモ.是ハ姑ラクゐむト定ム.其故ハ元日宴會儀
式ニ.大臣宣(ノル)侍座(シキヰン)ト云コトアリ.是ヲ北山抄ニ.之支尹トカヽレ.江次第ニモ敷尹ト
カヽレタル。是ゐんノ假字ニテ合ヘリ.韻鏡ニモ合轉ニ属セリ云々.と見えたり.
今江次第を閲るに.内辨宣(ノル)之支井尓(シキヰニ)とかゝれたる所あり.この之支井尓といふ
ことは.敷居(シキヰ)ニセヨ.又は敷居ニヲレ.などいふ義なるべし.されば.之支井尓の尓は辞に
て.後の詞を省ける也.今尹字は.舌内声のヰニといふ音韻を傭ひて居○といふ
言とするものなり.尹字は韻鏡一八轉準韻舌内ンとなるなり.
今脣内ム韻とする時は.ヰムなり.さらばかの文義解難かるべし.】同書に猶.巴
〓.〓斯。堅祖.等の氏あり.皆舌内の字なり考ふべし.

今俗(ヨ)に.海上のいと廣らかなるを奈太(ナダ)といへり.遠江灘(トホタフミナダ).播
磨灘(ハリマナダ).など是なり.この灘字は義(コトワリ)たがへりとて.近世の學
者達(.タチ)は洋字を書けり.そも〳〵奈太(ナダ)といふ称(ナ)は今世人.
海上のことゝ思へるは.中々に違(タガ)へるなるべし.古歌にも.
あしのやの灘の塩やき.またなたの浦.云々などよみ
て.摂津(ツ)國の地名に今も灘といふ處あり.猶他國にも
多かり.吾郷人(.サトビト)ども.濱邉(ハマベ)の潮(ウシホ)の満(ミチ)くるをりに.濱づ
たひ出て.網打(アミウチ)するを.ナダウチといへり.奈太は.なだら
か.なだむ.など活用(ハタラ)く詞(コトバ)にて.濱邉(ハマベ)の波(ナミ)の高(タカ)からぬ
處(トコロ)をさしていへるにて.澳中(オキナカ)のことにはあらずまた灘字
は.他丹切寒韻の字にて舌内声なれば.呉音ナンを轉(ウツ)
してナダとしたるなり.字を充(アテ)たるは誤(アヤマリ)にはあらず.傭
字の例になむ.そも舌内聲といふは.(音は)何にまれ.韻(ヒビキ)の舌
内に収(ヲサ)まるをいふなり.脣内声も是に准(ナラ)ふべし.

安達

萬葉集十四巻に.安太多良乃祢尓布須思之(アダタラノネニフスシシ)云々.また
美知乃久能安太多良末由美(ミチノクノアダタラマユミ)云々.このアダゝラは地名
にて.後にアダチの真弓(マユミ)ともよみて.今の安達なることは.
先達の説にて知られたり.さて安太多良(アダタラ)を安達と書(カ)
けるよしは.地名を二字に定められし時などに.安達の
二字に定めて.猶アダゝラとぞよめりけむ.そも安字は.
灘と同韻なれば.舌内声の例にて.ンをダに轉し用たる
なるべし.河内(カフチ)國の郡名.多治比(タヂヒ)を丹比と書.多遅麻國
を但馬と書るがごとし.丹但ともに舌内聲の字なれば.
ンをヂに轉したるなり.【ンは本.ニ字なる故にタチツテトに轉る
時は皆濁音となるなり.灘安丹但等是也.】
後世になりて.古言を失ひしより.安達の字のまゝに.
たやすく.アダチと唱(トナ)ることゝはなれりけむ.さて達字を
タラと訓(ヨム)よしは.達磨をダルマともダラマとも訓が如し.
ダルマもダラマも梵語なるを.唐山(モロコシ)にてやゝ近き音の字
を充て.達磨と書(カケ)るなり.今の安達もこの例なり.又達は
寒桓韻の入声字なれば.舌内声にて.タラナの三行に
轉し用べき例植えに居減るが如し.

 尓太遥越賣

萬葉集十三巻に.都追慈花尓太遥越賣作樂
花在可遥越賣(ツツジバナニホヘルヲトメサクラバナサカエヲトメ)云々.とありて.遥字をヘルと訓(ヨ)めり.
こは此歌の前に.茵花香未通女(ツツジバナニホヘルヲトメ)櫻花盛未通女云々.と有
歌と.その反歌と.又一首と有がまぎれて.一歌となれる
にて.尓太遥(ニホヘル)の遥は邉字の誤なるべし.ヘンをヘルと轉
し用る例.建字の處にいへるが如し.舌内声のンを.ラリ
ルレロの行(クダリ)に轉し用る例は漢韓等の字をカラと訓(ヨム)が
如し.カラといふは.空殻(カラ)の義にて.彼邦をいやしめて.カラ
國(クニ)といふ辞なり.と思へるは.傭字の例をしらぬなり.萬
葉集に.情進をサカシラとも訓り.なほ播磨をハリマ.
駿河をスルガ.得干をウカレ.人名仲満をナカマロ.と訓
る類ひおして知べし.さて越賣(ヲトメ)の越は入声字にて.ヱツ.
ヱチ.ヲツ.ヲチ.など通例なり.舌内タチツテトの通韻に
てヲトと轉したるなり.凡て舌内入声のツは.タチツテト
に轉る例なり.設樂をシダラ.秩父をチゝブ.伊達をイ
ダテ.といふたぐひ准(ナゾラ)へ辨(ワキマ)ふべし.

 狹殘

萬葉集第六巻に家持卿歌の序に.狹殘行宮といへる
あり.荒木田神主の槻落葉に.延喜式神名帳に.伊勢國
多氣(タケ)郡に佐々夫江(ササブエ)神社みえ.倭姫命(ヤマトヒメノミコト)世記に.真鶴
佐々牟江(マナヅルササムエ)<ノ>宮<ノ>前<ノ>葦原還行鳴(アシハラニカヘリテナク)とあり.この佐々夫江(ササブエ)は.多氣
郡大淀村の西.根倉(ネクラ)村.行部(イクベ)村の間に入江ありて.そこに架(ワタ)
せる橋を.今猶,篠笛(ササブエ)の橋といふ.是古への頓宮の地なるべし
云々といへり.今按に.この篠笛(ササフエ)<ノ>橋は.古への佐々夫江(ササブエ)なること
さも有べし.然(サレ)ど.狹殘を佐々牟江(ササムエ)なり.といふはいかゞあ
らむ.残は寒韻の字にて昨安切サン舌内声なり.佐牟と
脣内には呼べからず.舌内のン韻.タラナの三行に轉る例を
猶いはゞ.書紀孝徳の御巻(ミマキ)に.人<ノ>名紫檀とあるを.天武の
御紀(ミマキ)に辛檀努(シダマ)とあり.檀は寒韻なれば.ダヌと訓べき
を知らせて.努字を添(ソヘ)て.かゝれたるなるべし.又神の御(ミ)名
素戔嗚(スサノヲ)<ノ>尊(ミコト)の戔字は在安切.是も寒韻にてサノと轉し
たるなり.又姓氏録に.丸部とある氏はワニベと訓なり.古事記
に丸迩臣(ワニノオミ)とみえたる迩字を省(ハブ)きて.丸字をワニと訓り.萬
葉集八巻に相佐和仁(アフサワニ)といふ辞を.十一巻に相狭丸(アフサワニ)とも書り.
丸は胡官切本音ウワンなれどもウはおのづから省(ハブ)かる例な
れば.ワニと轉るなり.其他(ソノホカ).出雲風土記に近志呂(コノシロ)といふ魚の
名見えたり.又薫衣香をクノエカウ.近衛をコノヱ.と訓
ことは人よく知れり.又日本紀竟宴歌に.段楊尓を多仁
野宇仁(タニヤウニ).と訓る類(タグヒ)みな舌内声の例なり.是らをもて思へば.狹(サ)
殘は別地(コトトコロ)なるか.又は本書に脱誤などあるにやとおぼし.
佐々牟江(ササムエ)に字音を傭(ヤト)はゞ.脣内声の字を用べきなり.脣内
聲の字は.侵覃咸嚴等の韻の上去入の字等なり.是らの
字韻には.ハマの二行を轉し用る例なり.伊参をイサマ.伊甚
をイジミ.南佐をナメサ.恵曇をヱトモなどのたぐひ是なり.

 甜酒

書紀神代巻に.醸(カミテ)天甜酒(アマノタムザケヲ)甞之(ニヒナメキコシメス)云々.谷川氏通證に.釈日
本紀の甜酒(タムサケ)<ハ>美酒也云々.倭名鈔に私記<ニ>甜酒<ハ>多無佐介(タムサケ).
説文<ニ>〓甜同<シ>.切韻<ニ>〓<ハ>酒味長也といへる.又貞観儀式の多
米都物云々.延喜式の多明米多明(ヨネタメ)酒等.また姓氏録多米(タメ)宿
称.云々.成務天皇御世仕奉(ツカヘマツリテ)大炊寮御飯香美.特賜嘉名<ヲ>等(ナト)
いへるを引て.多無(タム)と多明(タメ)と通ひ米都(メツ)の切無(ム)なりといへり.
本居氏の古事記傳に.多米都物(タメツモノ)のことを説(イヘ)るにも.これ
らの書等(ドモ)を引て多米(タメ)は.古への美味飲食をいへる名
なり云々.書紀の甜酒も本の訓は多米邪祁(タメザケ)なりけむ
を.後人さかしらに字音と意得て.多武(タム)とはよみなし
つらむ云々.とみえたり.今按にタムはタブに轉り.タメは
タベと轉り.又出羽<ノ>國<ノ>郡名.置賜をオイタミと訓めり.此タミは
タビとも轉るべし.是らのタビ.タブ.タベは賜の義なり.ハマ清
濁の通(カヨヒ)にて.タミ.タム.タメとも云べし.しかれば.多米酒は
賜酒にて.多牟(タム)酒ともいふべし.故(カレ)多牟(タム)といふ言に.甜の字音を
傭へるなり.甜字は玉篇に徒兼切テムなれども.同じ唇内声
覃韻の〓と同義なる故に.借音にてタムと轉したるものなり.
字音によれる訓にはあらず.傭字の例にこそ有けれ.かゝ
れば.多米佐介と訓(ヨマ)むもなでふことかあらむ.

 習宜

姓氏録に.中臣(ナカトミ)<ノ>習宜<ノ>朝臣<ハ>.味瓊杵田命之後也(ウマシニキタノミコトノスヱナリ)とある.習宜
は.いかに訓べきにか.或人はシフギと訓れどもいかゞあらむ.
是も字音を傭へるには有べけれども.シフギといひては.い
かなる事とも聞えず.今試にいはゞ.シホゲなど訓べからむか.
殊(コト)に考へ得たるにはあらねど.味瓊杵田命(ウマシニキタノ)之後とあるに因
て.塩笥(シホゲ)を強(シヒ)て思ひよれるなり.又は塩氣(シホゲ)にもあらむか.習
字は脣内声に属る入声字なれば.フ韻なり.フをホに
轉し用たる例多し.入字は音シフなるを.一入再入と書
て.ヒトシホフタシホと訓み.又呉音ニフなれば.入鳥をニホトリと
よめり.今用る鳰字は.入鳥の新製字なり.又備前國の郡
名.オホクを邑久とかけり.邑字は漢音イフ.呉音オフなり.
また播磨國郡名イヒボを揖保とかけり.是はイヒボとも.イ
フボとも呼べり.フ韻をホに轉し用る例.これらにて準ら
へ知るべし.又淡路國郷名賀集を加之乎とあるは.例に違
へる如くなれども.悉曇にてはワヰウヱヲを脣音とする
故に.入声のフ韻を.ワ行のヲに轉し用たるなるべし.抑.
脣内声の緝合葉洽業乏等の入声字のフ韻は.ハヒヘホに
轉し用る例なり.愛甲をアユカハ.雜賀をサヒカ.周匝をス
サヒ.の類にて推て知べし.さて又宜字はギの 字に用ひ
たるは.萬葉集に芳宜といふあれども.古書には大方ゲの
傭音としたり.今是等の例によりて.習宜もシホゲと訓
べきにはあらしかといふなり.

 雜豆臘

萬葉集七巻旋頭歌に.住吉.波豆麻君之馬乗衣.雜豆臘.
漢女乎座而.縫衣叙.といへる歌を古點に.スミノエノ.ハヅマノキミ
ガ.マソゴロモ.サニヅラフ.ヲトメヲスヱテ.ヌヘルコロモゾ.と訓り.近比の
達人たち.馬乗衣をウマノリゴロモ.【一説に.ワキアケゴロモと訓べし.倭名鈔に.缺掖とあり.闕腋なり.
ケツテキと訓ならへり.四位以下武官の服なり.といへり.】漢女乎座而をアヤメヲマセテと訓める
いとよろしきを.雜豆臘は猶古點のまゝに.サニツラフと訓り.
サニツラフといふことは.集中に.散釣相.散追良布.狹丹頬相.
など書り.散は.舌内声の字なれば.サニと訓は.固よりなれ
ども.雜は.韻鏡三十九轉入声字にてサフと呼ぶ.脣内聲
なり.サッとつめて呼べども.そは入聲の常なり.脣内フ韻
は.ハヒフヘホに活き轉る例にて.伊雑をイサハ.雑賀をサヒ
カと轉し用たり.サニと轉し用し例なし.今按に.雜豆
臘はサヒヅラフ.又はサヘヅラフ.など訓べくや有む.ラフ
はルてふ言を延たるにて.サヒヅルヤ辛碓につき.などいへるに
同じく.サヒヅル漢女といふ義なるべし.かゝれば.漢女はカ
ラメと訓べくや.アヤメと訓むも.義は違ふ事なし.

 芭蕉

芭蕉は.倭名鈔に.巴焦二音.倭名發勢乎波.とあり.古今集に
もバセヲバと書り.波字は葉のことなれば省くべきよし.餘材
鈔にもいへり.焦は韻鏡二十六轉宵韻の字なり.セヲの如く聞
ゆる故に.轉してかくいへる.襖子をアヲシ.といふも同じ.そも〳〵
韻に用るはアイウエオ等なれば.セオと書べけれども.拗音の
ヲをかけるは.直音の字なれども.御國の音より見ればなほ.
拗音なる故に.御國の拗音の韻を用しにや.御國の音韻は
紀伊.基肄.都宇.斗於.囎唹.弟翳.頴娃.などゝは韻けども.セオとは
韻かず.焦は子姚切にて.シエウのつゞまる音故に.拗音にて
おのづからセヲの如く聞ゆるなり.紀長谷雄卿の書玉へる.大藏
太夫の七十壽序にも.自の名を發昭と書玉へり.この昭字も同じ
宵韻の字にてセヲなり.又拾遺集に.紅梅をかくして.鴬の巣つ
くる枝を折たらばこをばいかでかうまむとすらむ.此紅字は
東韻の字にて.コウなれども.コオのごとく聞ゆる故に.セヲの
例にて.拗音にコヲとしるにや.しかれども又.高字をコの
假字に用たるは.カヲの切コなる故と見え.刀字をトの假字
に用るも.タヲの切トとなる故なり.かゝれば.蕭宵豪肴等
の字韻は本はカヲ.タヲ.ハヲ.サヲ.アヲ.なるか又はワヰウヱ
ヲの行を脣音とする.悉曇の切によりて.此ウ韻はおのづ
から.ヲとも.ウとも.轉るにやあらむ.

萬葉集二巻に.見杲石山.六巻に在杲石.十巻に来鳴杲鳥.十
六巻に己蚊杲.また十巻に朝杲.など杲字をカホと訓り.玉
篇に古老切又公老切にてコウなり.今カホと訓は.音を借る
なり.と先達はいはれたれど.猶委しからず.按に杲字は.
韻鏡二十五轉晧韻にて.豪の上声の字なれば.セヲの例に
て.カヲとは轉し用べけれども.カホとは轉るべからず.【ホハ入声
フ韻轉用ノ例ナリ】書紀に考羅濟をカワラノワタリと訓り.古事記
には加和羅とあり.此考字また晧韻なれば.カヲと轉し
用べきを.ワヰウヱヲの通音にて.カワとしたり.しかれば.
杲もカヲ.カワ.など轉用べきを.カホとする解きは例に違へり.
故又按に杲は本音カヲにて.悉曇家に.ワ行を脣音と
するによりて.脣内声の例をもて.ヲをホに轉してカホ
としたるなるべし.かゝれば.倭名鈔に筑前國郡名早良
をサハラと訓り.早字また晧韻の字なり.古事記に平群都
久宿称者平群臣.佐和良臣.云々等の祖也.とあるを.姓氏録に早
良臣と書り.是考羅と同例なり.さるをサハラとかけるは.杲
と同例にて.ハヒフヘホとワヰウヱヲを相通はせて.轉用ひたる
なるべし.さておのれ韻學に踈ければ.こゝに疑はしき事
あり.杲考早等の例によれば.韻鏡二十五轉のウ韻は.脣内
声なるべきに.入声借音に鐸藥等の韻字を出せり.鐸藥は.
三十一轉唐陽韻の入声字なり.是は喉内声にて.相樂をサガ
ラ.相模をサガム.と訓が如く.悉曇にはカキクケコを喉音とする
故に陽韻の相字をサガと轉し用たり.さる故に喉内声に
属る入声クキ等の韻を.カケコと轉し用るなり.八尺をヤ
サカ.葛飾をカトシカ.周防國郷名益必をヤケヒト.色男をシコ
ヲ.烏徳をヲトコなどのたぐひなり.因て又さらに考ふるに.彼
二十五轉の借音は.韻を借れるには非ず.唯音のみを借れる
ものならむか.音のみを借とは.カウ.コウ.サウ.ソウ.タウ.トウ.など
のまぎらはしき故にコウにはあらず.カウなり.トウには
あらず.タウなりといふ切音をしらしめむとて.タク.ヤク.カ
ク.などの入声字を借れるものにやあらむ.よくたつぬべし

 多配

倭名鈔に讃岐國郷名多配を多倍と訓り.配字漢音ハイ.呉
音ヘなり.書紀には.裴拜等の字をヘの假字に用られたり.
今按に韻鏡十三轉より十六轉までの〓海代灰賄隊佳蠏泰.
等のイ韻には.エ韻なるもまじれりと見ゆ.たとへば.才.采.等
の字是なり.古へ共にサエと訓り.又裴字は合口音灰韻にて
歩回切なり.拜は隊韻にて布怪切なれば.并に音フワイとなる.
これをまた切むればハイとなる.しかれども.ハイを切めてヘとは
ならず.かゝればこの.裴拜等もフワエ.ハエにて終にヘとは
ならむ.才字を古への片假字にセに用るも.サエの切セとなる
故なるべし.又開階をケの 字に用るは.カエの切め.代 は
タエの切め.愛哀はアエの切.礼はラエの切.賣米はマエの切.
隈はウワエの切.などにはあらじか.されど.裴.拜.隈.等の合
口音のフワエ.ウワエなどは.フワヱ.ウワヱ.とワヰウヱヲのヱならむ
かともいふべけれど.花をクヱ.帰をクヰ.和をクワ.などの如く.クス
ツヌフムユルウ.等の音の韻は.ワ行なれども.ウワ.クワ.の韻は
アなる故に.エ韻とすべし.今配字は.合口音隊韻にて普對
切.また切字脣音なれば.ハヒフヘホの行にて.フワイ.又切まりて.ハイ
となる.此イ韻をエ韻とする時は.ハエの切ヘとなるものなり.然は
あれども.配は猶.漢音ハイなりとせば.ハイの切ヒなれば.ヘとは云
べからず.さらば漢音.五十連音の第一位なるは.合口音なれば
大かた第三位の同行の音となる.呉音の礼に因ときは.ハイは
フエなどに轉るべきか.フエの切やがてヘとなるなり.是等のことは.
おのれ思得たりとにはあらず.試に古の例をあげて猶.よく
しれらむ人のさだを待のみ.

そも〳〵.漢字に直音拗音の差別あれども.吾大御國の音より
見れば.皆.拗音なり.五十連音の中.ヤイユエヨ.ワヰウヱヲ.
の二行は拗音なれども.唐山の拗音に比ぶれば.猶直音なり.
此外の四十音は悉く單直の音なり.されば.唐山人の如くは
言がたき故に.かの拗音をも.直音になほして用ひられたり.
譬ば.水良玉.水長鳥の水字は.玉篇に尸癸切スヰなるを.
直音になほしてシとせり.されど猶.本音のまゝにスヰとも呼
べり.石字をシの假字に用たるも.イシのイを省けるにはあらず.
セキの切シとなる故なり.韓人の.島津氏を石曼子と呼しも.
石はシの音.子は舊の唐音スなるを.今の唐音にヅウと
呼ゆゑに.石曼子は即ち島津なり.【子字は 似切音シにて.此間
にても古へは.障子.厨子.合子.など
音便によりて.清濁はかはれども.皆シと呼べり.後に唐音のスと轉れるを聞なれて.こゝに
も又.倚子.扇子を.イス.センス.など呼ぶことも.出来れるなり.さるに.今の支那人はます〳〵
訛りて.ヅウと呼ぶ.かの國の
古音を失へることしるへし.】また雷杯等の字は.韻鏡合轉にて.拗音
なれば.雷は本音ルワイなれども.ルワの切ラなる故にライと呼.
杯はフワイなれば.フワを切めてハイと呼が如し.然れども猶.
拗音のまゝに呼字もあり.懐回等是なり.又法華経はホクヱ
キヤウ.源氏をグヱンジ.變化はヘングヱ.などの類ひ.物語文などに.
たま〳〵拗音のまゝにも呼べり.是等のおもむきは.假字用格.
三音考.等に委曲にかゝれたり.されど字音の假字に.ンとムと
の差別をせられざりしは惜むべし.ンは御國になき音なり
とて.なべてムとせられたれども.ンはニ.んはに.の字の末を撥たる
にて.殊に字音のへのことなれば.何てふことにかはあらむ.しから
ざれば.舌内.脣内の差別なし.古書の例.こと〴〵に是を分てるもの
をや.又悉曇字記に.短阿字.【上声短呼音近惡.】長阿字.【依声長呼】短甌字.【上声
近屋.】短伊字.【上声近於翼反.】など有を見るに.吾大御國の如く.アイウ
オ.と単直に呼ことあたはざる故に.惡に近し.屋に近し.など
いひて入声の如くよぶ.是はおのづから.國土の異ひめなるべし.
この故に.彼邦人等.梵音を訳むるに.多く入声字を用たり.
然るに.近世の學者たちの著せる書等に.歌.或は者名.など悉
に入聲字を充たり.唐山には.御國の如く単直なる音なき
故に.せむかたなく入声字を充たるなり.されどそれも猥りに
然るには非ず.今その一をいはゞ. 字を阿勒迦と訳むるが如し.
先この勒は入声にて.ロクなり.さて 字は素は. と と
二合の字にて. の上へ.半體の を加へたるものなり.さらば
アラキヤなれば.阿洛迦などの字を訳むべけれども.洛のラ
の韻アにて喉内声.クの韻はウ【ワ行】にて脣内声なれば.
舌内を超て.喉脣連属するときは不音便なる故に.勒字を
用て.ラを口に轉し.アロキヤと譯むるなり.勒字音ロの韻は
ヲにて脣内声.クの韻もまたともに脣内声なれば.是を
音便よろしとするが故なり.といへり.又我御國言を.支那人の
訳めたるも.天皇を主明樂美御徳.あめたらしひこといふ
を阿毎多利恩比孤.やまとを耶摩堆.また邪馬臺.つしまを
都斯麻.つくしを竹斯國.まつらを末盧國.など書る類ひ.
吾傭字の例と異なることなし.又かの國後世南宋といへる
時に.御國の僧安覺がいへる言を訳めたるを見るに.筆を分
直.墨を蘇彌.頭を加是羅.手を提.眼を媚.口を窟底.耳を
 々。雨を下米.風を客安之.塩を洗和.酒を沙嬉.などいへる
たぐひ.世降りて音韻やゝ 差たれども.猶降のおもかげ
残れるところもあり.此後.蒙古に國を奪はれてより.訛音ます
〳〵出来て.凡て他邦の言を訳むるに.入声字をおほく用
たり.【入声字を多く用るきは.元主の名を勿必烈.または銕木耳.または碩徳八剌.と
書るが如し.又轉訛の音は.尓.児.而.似.等の字をルと呼ぶ類ひなり.近世の御國人
皆この格にならへり.且おらんだ学の徒.かの邦言を.訳むるに.舊阿蘭陀とかけるを.和蘭陀.
または 蘭陀とかけり.阿は開口音なれば.オとは轉るべし.和 は共に合口音にて.呉音ウ
ワなればヲと轉る例なり.かの邦人の語音いかゞ聞ゆるにや.又サフランといふ物を.散法郎.また
 夫藍.など訳めたり.郎をランと呼は.喉内ウ韻をンに轉ずる唐音の例なり.さるを
藍字と互に用るは違へり.藍は脣内声ラムなり.喉.舌.唇.の
差別もなく.猥に翻訳をするは.尾籠なるわざならずや.】かくて.我御國の
傭字のさまは.音韻をよく正し.拗音をば直音になほ
し.喉舌脣三内の字韻などそれ〳〵に轉し用る差別
ありて.猥ならぬものを.吾古へを學ばず.漢をのみまね
び得て.かしこの人に諾なはれむと思ふ故に.古人のごとく.
我物にすることあたはず.中々にも字のつかはれて.
彼が奴丁とならむは.いとあさましきわざになむ.
天保五年といふとしのきさらき

                                     関万沙路誌

ンん.の二ツの假字は.ニ.に.の末を撥て.造れるならむと.吾楢岡大人のいはれつるを幼かりし時既く聞をり.さて後に本居氏の三音考を見れば吾黨の人の考に.云々.是もおもしろし.とて同じ考を今注せられたれども.猶あかずや思はれけむ.蝉といふ名は.その泣く聲か.はた字聲かとおぼめかれつ。政方.をぢなき身にして.かにかくに聞定め.かつ古人の聞わきおきつる.字聲のあらましをさへ考へそへて.

 おく山のをかひにさわぐ蝉のこゑあなかまと  にきく人もがれ.といふもいとをこなりや

附録

傭字例者.初.事乃次手遠母定須.其所墓止無久書鶴随尓.僻事將有者.訂之賜倍止思弖.楝園大人乃.道後深津尓御座之許邉.遣而有 連婆.其福山殿人森島主看坐而.是者.同殿人太田氏乃.前尓物世良礼之.漢呉音圖説尓甚好恊篇.尚此路多土流手着止毛成南.令見弖与等弖大人乃許辺所送之乎借弖見者.吾疑思篇之事共随事奈久説明目羅連天.既久我同心乃人叙等念婆其人柯乃於牟加斯久.将森島主誠意乃伊々登々母々宇禮志氣礼婆.彼説言一二取出傳.
此附録叔母物斯都.

天保六年九月 嘉平田舎麼裟密

いようじれいは。はじめ。ことのついでをもさだめず。そこはかとなくかきつるままに。ひがことあらむは。ただしたまへとおもひて。あふちぞののうしの。みちのしりのふかつにおはすがもとへ。やりたりければ。そのふくやまのとのびともりしまぬしみまして。こは。おなしとのびとおほたうじの。さきにものせられし。かんごおむづせつにいとよくかなへり。なほこのみちたどるたづきともなりなむ。みせてよとて。うしのもとへおくられしをかりてみれば。わがうたがひおもへりしことども。おつることなくときあきらめられて。はやくわがおなじこころのひとぞとおもへば。そのひとからのおむかしく。はたもりしまぬしのまめこころの。いともいともうれしければ。そのときごとひとつふたつとりいてて。
このふろくをばものしつ
                    かへてのやのまさみち

 芭蕉 杲
芭蕉.發昭.のことは前にいひつれど.おのれ音韻の學に踈ければ猶うたがうしきことゝも多かりつるに.太田氏の説にて明らかになれるが如し.その説にいへらく.豪爻宵蕭ノウ韻ハ.脣韻ニテワ行の于ナリ.其其證ハ萬葉集に杲カホノ假字ニ用タリ.是ハ行トワ行トハ.倶ニ脣音ナル故ニ【三内ニテハハマワ脣内ナレバナリ】通フナリ.言ニ顔カホヲ口語にカヲト呼.オモヒヲオモヰト呼ブモ.ハ行トワ行トノ通ナリ.考ヲカワ.襖ヲアヲニ用ルモ同ジ例ナリ.といへり.今是等に因て見れば.紅梅の紅字を.コヲと轉したるは.謬りと見ゆ.太田氏又云.東冬江陽唐耕清青蒸等ノ轉ノ字.ウ韻【東トウ攻コウ】ナレトモ.清青蒸ノ韵ニハイノ韻モマジリ.又唐音ハ.ンノ韵ナリ.【東トン攻コン】因テ此轉ノウ韻ハイトントニ通フウ也.又云此轉ノウ韻ハ.蕭宵爻豪尤侯幽ノウ韻ト同ジカラズ.凡テ.入声ハ撥假字ノアル轉ニノミアリテ.餘ノ轉ニハナキナリ.蕭宵肴豪ハ.唐音ハ撥假字ニ非ズ.ウ韵ナレトモワ行ノウ也.云々かゝれば.紅字をコヲに轉したるは.中昔に有りて.音韻やゝミダれたる世のしわざと見ゆ.そも中昔より.音韻やゝ亂れたらむと覚ゆるは.精進また正身をサウジミと訓.頓をトミと訓たぐひなり.此進身頓等の字はいづれも舌内声なり.シミトミなどゝ脣内声には呼べからず.脣内声は燈心をトウシミと呼ぶ是なり.心字は脣内声なればなり.又後に.目論をモクロミと呼も.舌脣違へり.

 鐘禮

萬葉集に鐘禮能雨云々.また鐘禮とも書り.鐘は韻鏡第三轉合音の字にて.漢音シヨウ呉音シユウにて.鐘も同音也.今シグと轉し用るは.黄鐘をワウシキと呼例なり.ウ韻をク韻に轉し用る例は香山をカグヤマ.勇禮をイクレ.といふ類あまたあり.悉曇に.カキクケコを喉音とするによれるなるべし.この故に香止をカゞト.芳谷をハガヤ.水嚢をミナギ.當麻をタギマ.愛宕をオタギ.又アタゴ.伊香をイカゴ.など訓たぐひを見て知べし.倭名鈔地名の假字は.格別の例なり.といへる説あれどもしからず.神名興台産霊の興台をコゞト.双栗神社の雙栗をサグリ.又雙六をスグロクともスゴロクとも呼べり.また邦は異なれども.韓國の地名.東寧をトグネギ.平壌をヘギチヤクと呼が如き.韻轉の例は等しきなり.太田氏云.鐘ハ漢轉音チヨク.如今小盃ヲチヨクト喚做リ即鐘字也.コノ鍾ノ入声燭ニ竹ノ原音チヨクアルノ轉ナリ.又呉轉音シユク.萬葉集ニ鐘礼ヲシグレトアリ.又此轉ノウ韻ハ唐音撥假字ノ音ニテ.朝鮮音ナドハクト呼ヤウニ聞ユトイヘリ. 州ヲチヤクチウトイフ類ナリ.云々.かゝればこの.鐘字は呉音の入声シユクを.直音になほしてシグと呼べるなり.竹の本音チユクを.チクと呼がことし.【喉内ウ韻をク韻に轉るときは.カキクケコ皆濁音となれり.是はマミムメモの濁音はバビブベボとなり.ナニヌネノの濁音ダヂヅデドとなる例とひとしく.
アイウエオの濁音はガギグゲゴとなるものか.】そも〳〵.喉音ウ韻は撥假字ノ音といへるは.東京をトンキン.と呼が如きをいふにて.悉曇に.ンは喉舌二内に通ふ.といへる是なり.然れども今の唐音と云ものは.後世の轉訛の音韻なるべし.

 さうび

古今集物名に.我はけさうひにそ見つる花の色をあだなるものといふべかりけり.此さうびは薔薇なり.薔は陽韻にて.漢音シヤウ.呉音スワウ.かくてシヤの切サとなり.スワの切も亦サなり.開口音なる故にサウとなれり.ソウにはあらず.

 きちかう

同集に.あきちかう野はなりにけり白露のおける草葉も色かはり行.此きちかうは桔梗なり.桔は玉篇に居屑切にて.漢音ケツ.呉音ケチ.なるをいかでキチとはするならむ.と思ふに.太田氏云.桔音結呉音キチ.此ハ十七轉質韻ノ吉ニ轉スルなり.故ニ田陳音同シク窒兩轉ニ出タリ.といへり.梗ハ漢音キエイ.呉音キヤウにて.キヤの切カなれば.やがてカウなり.今俗呼は.桔の韻を省き梗は本音のまゝに.キゝヤウと呼り.

 けにごし

同集に.うちつけにこしとや花の色を見むおく白露のそむるはかりを.此けにこしは牽牛子なり.牽字は.韻鏡二十三轉先韻にて舌内声なり.牛は.三十七轉尤韻の字にて.音ギユウ.呉音グウなり.然るにゴといふ音に用るは.萬葉集に.瞿麥を牛麥と書るは.ウ韻を畧きてクと呼なり.又普通に.鐘樓をシユロウと唱ふる例と同じことにて.また其クを通音のコに轉したるなるべし.牛王.牛頭.牛膝.等の類ひ准らへ知べし.太田氏云.尤虞通用ニテ.牛ノ呉音ギユナリ.其ギユノ切ゲトナレリ.云々.又云.牛ノ呉音ゴハ.富ニホ.救ニコノ音響也.といへり.

 しをに

同集に.ふりはへていざ故郷の花見にとこしをにほひぞうつろひにける.此しをには紫苑なり.苑は遠と同音にて.漢音ヱン.呉音ヲン.合口音舌内声なる故にヲニとなれり.倭名鈔に.紫苑和名之乎迩.また若狹國郷名.遠敷を乎尓不とあり.

 りうたむ  はなかむし

同集に.吾宿の花ふみしたくとりうたむ野はなれけばやこゝにしもくる.又拾遺集に.五月雨にならぬかぎりは郭公何そはなかむしのぶばかりに.此りうたむは龍膽.はなかむしは花柑子なり.膽は韻鏡四十轉敢韻の字.柑は同轉談韻の字にて.ともに脣内声なれば.タムカムとなれり.猶脣内声轉用の例は.出雲國郷名.美談ミタミ.塩冶を 屋.とも書き.多武峰を談峰.又新撰萬葉に.調店鳴蝉之音 などの類ひ悉く挙るに暇あらず.さて古今集物名等既にいへる如く.古の傭字の例.更に違へることなきに.當純といふ作者の名を.マサズミと假字にかける處あるは.いかなる故にや.此純字は.韻鏡十八轉舌内声諄韻なり.さるをいかでか脣内声には訓まれつらむ.いと疑がはし.又倭名鈔に.寒蜩を加無世美とあるも意得ず.寒は舌内声の字にて.ム韻にはあらず.同書に.櫺子和名礼迩之とあり.櫺字は郎丁切にて音レイなれども.清韻の字等のイ韻は.舌内ン韻に通ひて.レンとも呼ばるゝ故に礼迩とせられたるなり.しかるを寒字を脣内声として.カムと訓まれたるはおぼつかなき事なり.
今私に按に.當時語言おほく音便にくづれて.ンとムとやゝ分ち難くなり.且.ンに充る字なき故に.せむかたなく斯はせられしなるべし.其故にや.國郡郷名の假字には.舌内のンを悉く脣音のムにせられたり.【コノ事ハ余別ニ辨セリ.】かの古今集の純字も.又この類ひにや.又は後世に誤りしにや.然れども.天慶の純友をスミトモと訓るを見れば.はやくより誤りしものとみえたり.

   三郎を今  サムラウ又 サブラウと 呼べり。又法華纖法に至心をシシモと訓り
 四十九日

拾遺集に.秋風のよもの山よりおのがじゝふくにちりぬる紅葉悲しな.此四十九日の十字.入声にてジフなれば.かくよまれたるなり.そも〳〵.古今拾遺の比までは.傭字の例も正しく.喉舌脣三内聲など.亂れたるはいと稀なるを.世の移行につけて.古訓の學おろそかになり.すへての假字づかひさへあらぬさまに ぬるこそ悲しけれ.今その一二をいはゞ.山家集に.古今.後撰.拾遺.これを梅桜山吹によせたる題をとりてよみける.
紅の色こきむめを折人の袖にはふかき香やとまるらむ.
春風の吹おこせむにさくら花となりくるしくぬしやおもはん.
山吹の花さく井手の里こそはやしうゐたりと思はざりけむ.
と見えたり.此古今は.今字脣内声なれば.コキムメにて字韻は違ふ事なけれども.梅をムメといふ.古くは聞えず.中昔より.謡ものにうたふ時に.ウはムのごとく.聞ゆる故に.馬をムマ.梅をムメ.とやうにいひ.訛まれり.と云説ありさも有べし.又後撰の撰字は.韻鏡二十二轉 韻.合口音にて.本音スヱンを直音にしてセンとなる.舌内声なれば.オコセムといひては違へり.セニとか.セヌとか.いはざれば叶はず.又拾遺は.拾字は韻鏡三十八轉.緝韻十と同音にて.脣内声ジフなり.遺字は本音ユヰにてイとなれば.シウヰといひては皆叶はず.されど此ヤシウヰタリといふ句.いかなることゝも觧がたければ.たしかにはいひ難し.
又同集に五葉の下に.二葉なる小松どもの侍けるを.子日にあたりける日.折櫃に引うゑてつかはすとて.君がためごえうの子日しつる たび〳〵千代を経べきしるしに.たゞの松引そへて.此松の思ふ事申べくなむとて.子日する野べのわれこそぬしなるをごえうなしとて引人のなき.と見えたり.此ごえうは.五葉を御用にとり合せたりと聞ゆ.葉字は.韻鏡三十九轉脣内入声にてエフなり.用字は.第二轉.喉内声合口音なれば.ヨウなり.かゝれば.音の開合も.韻の喉脣等悉に違へり.そもこの歌などは.かりそめの戯ことには有べけれど.古人はかゝる僻事はなかりしものを.後世になりて.古訓の學を失ひ.さしもの都人すらかゝり.伊勢人のみしからむや

   山家集
   伊勢人はひかことしけりさゝくりのさゝにはならて柴とこそなれ

神武紀に.曰唯唯而寐云々.これを.ヲゝトマヲストミテサメヌ.と訓り.また續紀以下の諸書に.宣命.祝詞.等の一段をはるところに.称唯といふこと多くありて.是をヲゝトマヲスと訓り.祝詞考に.唯々とは答申す聲にて.口を閉たるまゝに聲を出し.口を開きて去声にいへり.云々といへり.是等は漢籍に.唯々謙應之聲.とある意を得て訓るものあり.又唯字は韻鏡第七轉.合口音なるに因て.ワ行のヲを用てヲゝと呼なるべし.假字用格にも.ヰの音とせられたり.しかるに.源順ぬしの集.あめつちの歌四十八首の中に おもひをも戀をも瀬々にみそぎする人形ならではらへてはおゝ.といふ歌あり.是はお字を沓冠におきてよまれたるにて.末のおゝは.神樂歌の阿知女.於々.於々.於介阿知女.於々於々.とある於々にて.古説に.警蹕には口を開きて聲を發し.平声に於々といふ.神樂の始に於々とあるも.警蹕なれば.平声に於々於々といふなり.と祝詞考にも引れたり.今按に.神楽の於々も.阿知女と呼出して.やがて於々と應ふる聲なるべし.かゝれば.唯々は.於々と開口聲に應ふる聲なるべし.然れども猶.ヲゝと合口声にいふ明證ありやしらず.【祝詞考に.神武天皇紀に雄々と書つといはれたるは.唯を雄とうつし訛りし冩本.など有しにや.】ヲはワ行のヲなり.ワ行は.すべて音頭にウを帯る聲にて.是御國の拗音なれば.ヲゝとも.ウゝとも.通はせいふべし.ウゝを約むれば.ウとなる.此ウといふ應の聲には諾字を傭へり.【諾のことは次に云べし.】又このウゝを.口を閉て應ふる時は.その聲鼻より出てンとなれり.是はいと〳〵無礼き應の聲なり.宣命.祝詞.等の應へにいふべくもあらぬことなれば.唯は必ず.開口声のオゝなるべくこそ覚ゆれ.且太田氏云.韻鏡影喩ノ第一第二第三ノ等ハ.阿王兩行ノ格.【開轉ナレバア行.合轉ナレバワ行.】第四等ハ耶行ノ定位ナリ.コノ兩母ノ三等ト四等ト.音近似ニテ國字付ノヤウ各異ナルナリ.云々.又云.凡テ合音ハヰヱヲノ假字.開音ハイエオノ假字ナレトモ.假令バ第五轉合音ニテ. 字ノ假字ヰニ非ズシテ.イニナルハ.喩母ノ第一.第二.三等ハ.合口ワヰウヱヲノ格ニテ.為ノ原音ウヰ故に.次音ヰノ假字ニ反ルナリ.第四等ハヤヰユエヨノ格ニテ原音ユヰ.故ニ次音イノ假字ニ反ル也.影喩ノ第四等ハ.四十三轉ヲ貫テ.ヤイユエヨノ格ナル故ニ.開合ニ拘ハラズ以ノ假字ナリト知ベシ.又云.位字ノヰノ假字ナルハ誰モ知コト.是即ウヰノ次音ナリ.遺ノ原音ハユヰ.遺物.遺言.ナド如今モユヰト呼ベリ.ユヰノ反ハイノ假字也.云々.【上にいへる.拾遺のシフイなる事を知べし.又影喩とは.三十六字母の内.喉音四行の中.第一行を影母とし.第四行を喩母の字子とするなり.】といへり.太田氏又云.唯漢音由為.次音以.愚按.古書ノ傍假字ニ唯ニヰノ假字ヲツケタルアリ訛ナリ.唯ハ惟遺同格ニテ.昔ヨリユヰトヨミ来レル音ナリ.
由為ノ反ハ以ニ帰リテ.為ニ帰ラズ. 位ハ于為ノ反ニテ為ニ帰ル也.
マガハシキ故ニ.古キ假字ニモ誤レル多シ.云々といへり.今韻鏡を閲るに.唯字は第七轉脂韻.喩母第四等なり.例に随ひてイの開音とすべし.是に因ば.假字用格に為の假字に出されたるは違へり.【又按に.漢書礼楽志に.馮 .切和疏寫平といへる.註に.馮馮夷河伯也.   亀属也.云々.馮夷
命靈 使切属諧和 音弋隨反と見えたり.今弋随反ハユヰなり.ユヰハ是イとなる.故に夷と同音通用にて.馮 は即ち馮夷と同じことにて.やがて河伯
をいへるなり.命靈 .などいへる註は誤りなるべし.】かゝれば.神樂の於々を證とし.開口
声なること明らけし.されど此。オゝといふ言は.御國言なれば字音の開合に關めきことにはあらじ.といはむずれども舊この唯字は.謙應の聲なりといふ意を得て.オゝに傭へる字なり.字義は固より音の開合によりて.かはるものなれば.いかでか開合に関らずといはむ.又應字なども.音オウはやがてオゝにて其聲なり.太田氏云.應漢音衣以正韻音英.次音伊.漢音阿弥陀経.應當發願傍假字イタウハツグヱン.云々といへり.【應字は韻鏡四十二轉に出.この轉の蒸字は正韻に音征とみえたり.太田氏云.蒸籠を今セイロウと呼も此故なり.
といへり.又玉篇に.應於陵切とあり.正韻に陵音令と見えたり.】この應字のイ音.やがて唯とおなしく.開音のいらへの聲なるべし.又エイといふ聲も.今御國にても.いらへにエイといふ處あり.是たま〳〵古音の殘りて.彼も此も等しきなり.これのみならず此類猶有べし.意を着て見る
べし.そも〳〵.天の下の國とある國の人の聲音言語は.こと〴〵に産靈神のみむすひになれるものなれば.五十音を離たる國やは有べき.イといふ聲は支那にても.天竺にても.開口音.ウといふ聲は.いづくにても合口音なること.いはずとも知ぬべし.然れども.千萬歳を歴るまゝに.土風習俗の乖違ありて.さま〴〵にかはり行ども.アイエオの声言には.漢字の開口音を傭ひ.ワヰウヲには.合口音の字を傭ひ用る事.又悉曇を學びて.支那字の古音をしるたぐひ.皆五十の聲音ば離れざるなり.
かゝれば.御國の古言の假字の知がたきは.又漢字の古音.悉曇學ををさめて.識得ることもあらむものぞ.
  礼記ニモ父命呼唯不諾トモ見エタリ

萬葉集十六巻に.否藻諾藻隨欲可赦貌所見哉我藻将依.また何せむとたがひはをらむ否も諾も友のなみ〳〵我もよりなむ.など見えたり.諾は韻鏡三十一轉鐸韻の字にて.漢音ダ


トップ   編集 凍結 差分 履歴 添付 複製 名前変更 リロード   新規 一覧 検索 最終更新   ヘルプ   最終更新のRSS
Last-modified: 2022-08-08 (月) 08:45:58