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新潮日本文学大辞典 池田亀鑑
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原中最秘妙″熾霖註祥書【著者」源親行の原著に、その孫行阿に至るまで代々加筆したもの。従来、行阿または素寂の作と言はれてゐたが、完本の「原中放屁抄」の奥書によつて、その然らざる事が明かになった。【名稱】この名将の意味は、(」)「源氏物語」中の秘説を録せる抄の意と、(二)「水原抄」中の放屁の脱を記せる抄の意と、(三)古抄中の最も屁すべき抄の意との、三厭に解せらμるが、多くの人の手によつて、永い時代に亙つて成立したものであるから、結果としては、(一)の意に解するのが程富であらう。然し、「水原抄」と密接な闘怖があり、そ2里要な部分を摘出して、】屏詳細県官に聊哺訂正を加へたものと考へられるから、動機としては、(二)の意味に考ふべきであらう。【成立」前記完本の「原中敢闘抄」が登見せられ、その奥にある衆愚(義行)の浅語によつて、光行の歿後、親行が「水原抄」を完成した後、溥く有浅み門を訪ね、苓く歌仙の家に談じ、諸家の脱を集めて作つたものであることが分り、又同じ書に行阿の奥書があつて、これによつて「水原」「最銘」の雨抄は、行阿に至るまで、代々加筆されたものであることが分つた。しかし賓際は、行阿が主として加筆したので、翠蔓はあまり手を入れなかつたらしい。成立年代は未詳であるが、鈍行が文永大八年まで在世したことは「隣女和歌集」泰三の歌によって知られるから、それ以前に原本が成立してゐたことは躍かである。この原本に、義行最愛)を総て知行い行阿)に陣へられた。この間、附随加筆されたことは前地心通りであるが、現存の完本の成立したのは、行阿の奥書によって、貞治三年九月二十九日である。行阿は、その「原中殺銘抄」をぱ、仰せによって同年十二月一日、二條関白良基に陣歿した。
【請本】「原中最純抄」には、成立事情を異にする二極の異本の存する筈である。即ち行阿の加軍旅疋しない以前の本、即ち親行の本の系統と、行阿の修正本の系統とである。しかし前者は発見されない。現存の傅本には二種の系統がある。第一は完本で、第二は抄略本である。前者け最近の発見に係るもので、前田侯爵家に一本、阿波文庫に一本存する。この系統の本には、恪禾に親行の践がある。父光行が八本を以て源氏を校合したこと、その校本を定家が借りて校合したこと、光行の本と定家の本とは大概同一であったこと、その時の定家の消息を記念として、こゝに輛ぎ加ヘておくこと邨を記し、定家の消息の文をかxげてゐる。これは、親有がもとから「原中最銘抄」の奥に書いたものではなく、光行から親行に傅へられた第一次の河肖本の奥に、親行が書いておいた鬼管であったのを、翠受かこの書に奥書を加ふる際、こkに寫し加へたものと想像される。次に、翠蔓の長い識語があつて、戮父光行が源氏研究に力をつくし、諸家の助力を得て「水原抄」を著し、業平ぱにして歿し、父続行が後をうけて大成し、更に「原中敢闘抄」や作つたこと、後嵯峨院が光行・親行等の源氏校本(河内本)を召して叡覧あらせられたこと、持明院坊の御時、源氏論談のみぎり、続行の説を反設とせられたこと、後京極揖政良紺の秘説を光行が授けられたこと、続行が、芦寅貧弱・頼総・及び宗諒親王の三代に亙リ、和歌所の奉行であり、将軍の「源氏物語」の師範であった事、二條乖有が親好の門弟となり、揚名介に關する闘説を授けられるやう懇望し、一首の和歌を贈つたこと、後徳大寺入賞太政大臣は、続行の門弟となつて、その溶息ぬ表に、「光源式部大夫」の名を記されたこと、衣笠内大臣家からの溶息に「続行恰雷逍之棟梁一向可存門弟之敗云々」の言葉のあつたこと、その他都鄙遠近、続行を師と仰ぐもの名数に及んだこと等を記し、終リにこれ等の闘説口傅を毫光一人が、悉く相傅したことを辿べてゐる。以上の毫光の識語は、正和二年八月十元日に記されたものである。次に毫光の予行阿の長文の識語があり、曾祗先行以来[源氏」五十四帖ス水原抄」五十四巻、邦に「原中飛闘抄」上下二恟その他日傅・故賓、雷賞の庭訓悉く惇授する出を記し、後醍醐院の仰せによつて、「源氏」の校本を宵宮し奉リて叡感に預つたこと、朝家貴紳の諸に庶じて「源氏」を傅授したこと等を書き、貞治三年九月二十九日の日附がある。次にこの宵を二條揖政良基に傅授した時の奥書があるが、これには貞治三年十二月一日の日附がある。最後にこの宮本の原本となつた宮本の奥宵があつて、これには、領月宗高(この入は「仙源抄」も寝し傅へた)が「原中飛闘抄‘が、常家兎建の著であるところから、将軍義恟から、江州鈎の御陣に於てこれを書寫して畝ヒすべき出の命を受けたが、未だ書寫の功を絲らないうちに将軍が頚じたので、出家人逍してから全部の書寫を溌げた由を記してゐる。これには延徳第二仲春下旬とある。宗高時に六十歳である。阿波文庫不は、前田家本と全く同」であるが、書寫の年代は廻かに下るやうである。次に抄略本は、群書類従巻三一六に吹められた本である。條項には著しい差異はないが、その語句及び勘註は甚だ簡単である。稀に完本に見えない脱も交つてゐるが、これは抄出前、所謂完本に何人かが書き入れたものか、或は又、抄出後、書き人れられた々のか、類従本に「河海抄」「源氏闘抄」(「仙源抄」の事ならんか)等の名も見えるから、或は第二の事情があつたかも知れぬ。抄者は耕雲明魏である。践に、「原中競闘抄者、光源氏物語兎畳行阿法師所‘一揖逍‘也、SE,1韮紫明水原之線漏瓦‘一械和漢典策之有事HE\謂\勁矣、今依X口命「晋一夷其繁ikl撮‘一班其典要1以無一後學之親一M㈹砂一和歌二章「以獅一践語一云、」とある。多くの鴨官本咳大抵この系統の本である。なほこの系統には、耕雲自筆と将する本も傳はってゐるが、その信仰は考接を要する。
【内容】前田宗本は片假名宵、阿泣女ホはず仮名宵、共に「源氏物語」の各巻中より毀條づつの要語を摘出し、これに勘註を加へ諸家の況もあげて、私云(願行自身をさて、頼降郷誕云、亡父脱云大行を1すい、伊行祥云、行阿云、涜賢僣正云、定家郷溌(又は憚)云、基長況云、総長郷脱云、隆親郷誕一F数隆郷誕云、作成卿女脱云ノ作成卿脱云、`総家郷誕云、孝行誕云、永範卿説云、成説云等、」々列皐してゐる。伊行・伎成の時代から、行阿の時代に至る諸家の考説を集成したかの我がある。これ等の中に義行の説の見えないのは、被が自説を加へなかつた認めであらう。行阿の説は最も多く、恐らく被け節米の本を修正加除し、百日を改めたものと思はれる。本1:中には素寂の名も見えず、『紫明抄」の名も見えないが、「銅壷」の「太液の芙蓉云々」の條、「夕紙」の「ふくいとくろくして」の條の記逍を始めとして、若菜の下に「こかの調」とある條に、孝行説として擧げた説が、紫明抄の素寂の説と同原である黙から考へると、素寂と親行一派とは、弔問上には多少の交渉があつたと思はれる。しかし「水原抄」「紫明抄」「敢闘抄」が各雨派に成立するに及んで、家學の節統的観念から自ら対立的傾向を生ずるに至つたものと考へられる。「穀闘抄」の奥書の書き方によつてさう思はれK*Sである。さて本書の註祥そのものは「黎明抄」の態度と殆ど同原で、一際考誼的である。本書と「水原抄」とは、著者が同一であるから、内容的に「花鳥翰情」に於ける「源語部訣」の関係位の交渉のあつたらしい事は、想像が出来る。【價値』「原中最純抄」は、「紫明抄」と共に、河内方の源氏註として重要なる著逍である。光行・親行・知行等」統の源氏學説は、言ふまでもなく、當時行はれた諸家の説を察知する根本資料として貴重カるものである。又完本の奥書は、史料として従来未知の有益なる授多の新事慌を節へるものであり、引川吻られたる「源氏」の本文は、河内本の本文を節へるものとして、弔者に參考せらるべきである。
【參考】國文學研究史野村八良○源氏物語研究
史の新資料模本浬吉(国語と國文囁ニノーoい○原中殼闘抄の作者山岸債平國語と同文らニノー○) 一 〔池田〕-->
岩波日本古典文学大辞典 寺本直彦
本文
群書類従
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