司馬遼太郎
秋月は若年のころから江戸で学問修業したため、きれいな江戸弁がしゃべれた。かれが会津藩の京における外交官になったのは、ひとつはそのなまりのすくなさによるものでもあった。さらにいえば会津藩士は京で言葉が通ぜず、こののちこの藩が京における政治の舞台でことことに後手にまわった理由の最大のひとつは、この言葉にあったらしい。
高崎左太郎も、ずっと国詰だったために薩音しかできない。であるために、かれは会話においてはなるべく文章言語をつかうのである。
坂本は声が大きくしかも土佐弁丸出しでしゃべる男で、笑うときにはひっくりかえりそうになるほどに笑った。
大鳥は、上方なまりの江戸弁で、ゆっくり告げた。