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和文 わぶん 國語學
【名稱】雅文とも。
【解説】文章語體の文語(文語文)の一種。平安朝に行はれた和歌の語や假名文の系統に属するもので、平假名ばかリで、又は平假名に間々漢字をまじへて書くのが常である。用語は主として古来の純粋の日本語を用ひて、漢語その他の外來語はなるべくこれを避け、文法は平安朝の歌文の文法を標準とする。なほ漢文に對して、漢文又は漢文系統以外の文章語體の文語を和文といふ事がある。それは、廣義の和文である。
【沿革】和文は、漢文の如き外國語系統の文語に對して純粋の日本語による文語に属する。これと同系統のものとしては、古く漢字専用時代から、「古事記」「祝詞」「萬葉集」の如き傳誦の言語や歌謡の類を漢字に寫したものがあり、その書き方も様々であったが(文語多照)、そのうち、一字一音節の萬葉假名で書いたものから、平安朝の初期に平假名の文が發生し主として婦人の間に行はれて歌や消息を書くために用ひられ、それから純粋の日本語による假名文の文學が發達して平安朝中期には隆盛を極むるにいたった。この假名文は、その用語は大體平安朝の上流社會の口語に基づくものであるが、しかし平安朝に於ては雅語と俗語との區別が意識せられて、和歌の詞は、歌集の詞書や日記物語草子など散文の語との間に多少の差異があって幾分古い形が用ひられ、また修辭的の表現が多かったやうであり、歌集の序文の如きは、對句を用ひるなど漢文の影響を受けたと見られる所もあるが、しかしこれ等は、大體に於ては同種のものといふべきであった。この種の文語が後世までも襲用せられて、その特徴を保ち、他の種の文語に對して自ら一系統をなすにいたったのである。これが即ち後に和文といはるゝものである。かやうに、この種の文語は平安朝の口語に基づくもので、その後、時代が下るに随って口語が變化したにも拘はらず、和歌や連歌や物語や随筆の如き平安朝以来の傳統を追ふ文學の語として用ひられたが、しかし時代の下ると共に、當時の口語や漢文その他の文語の影響を受けて、古に違ふところが生ずる事を免れなかった。然るに江戸時代に至って國學が盛んになるに及んで、歌文に於ても、後世の風を排して、直ちに古代の歌文を模範とする事となり、殊に宣長以後、古代語の研究が頓に進歩し、その文法や語義が闡明せられ、古代の和歌と散文との用語上の差異までも攻究せられて、これを基準として歌文用語の誤謬を指摘しその匡正を目的とする書も多くあらはれ、正式の歌文のみならず、消息や戯文の類までも、古代の語彙と平安朝の語法によるものが國學者によって作られるやうになった。當時これを雅文と云ひ、後には擬古文とも稱へた。その作者としては、賀茂眞淵・本居宣長・橘千蔭・村田春海・清水濱臣・藤井高尚・石川雅望・黒澤翁満などが名高い。この種の文は明治以後にも行はれ、殊に明治二十年代に入って古代の國文學が講究せらるゝに及んで又盛んになり、教科書にも採用せられ、その文法も學校で講ぜられ、明治の普通文の成立にも影響を與へたのであるが、純粋な形ではその後次第に用ひられる事が少くなった。但し歌語としては、現今にいたるまで、多くは、この系統のものが用ひられてゐる(文語・平假名・雅言参照)。
【参考】國語史概説 吉澤義則
○日本文章論 物集高見
○日本の文章 佐藤寛
○文藝類纂 卷三・巻四 榊原芳野
○古事類苑文學部 神宮司廳
○日本文章史 大町芳衛
○雅俗語識別の時期 吉澤義則(国語國文の研究)
語脈より見たる日本文學 吉澤義則(新潮社版日本文學講座總説篇所収)
○假名發達史序説 春日政治(岩波講座日本文學)
○玉霰 本居宣長
さき草 藤井高尚
○小夜時雨 萩原廣道
○玉霰窓の小篠 中島廣足
○雅言用文章 黒澤翁満      〔橋本〕

新潮日本文学大辞典 橋本進吉

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Last-modified: 2022-08-08 (月) 09:38:19