『回想の芦田恵之助』
芦田恵之助


芦田先生の思ひ出 和辻哲郎
 芦田先生の「恵雨自伝」を読んでつくづくと感じたことは、三年の間教を受けたわたくしどもの眼に、先生の真の姿が一向映っていなかったといふことである。
 その三年の間といふのは、わたくしが姫路中学へ入った年の秋から、四年の一学期を終った時までで、数え年でいふと十三才から十六才の間であった。さういふ年頃の子供には、大人の苦労はよくは解らない。だから先生が、妻子を郷里に残して東京へ出られた事情や、東京で国学院の選科に一年学んだだけで、それを中断して姫路へ二十九才で赴任して来られた事情などを、打ちあけて語られたとしても、どうしてさういふことをされるかといふ先生の気持は、十分理解し得なかったであらう。まして先生は生徒の前にさういふ苦労の色を見せず、いかにも快活に振舞っていられたのであるから、わたくしなどは先生が何か重荷を背負ってゐられるといふような印象を全然受けなかった。
 それのみではない。当時わたくしは先生の地位が助教諭で、月給が三十円であるといふことも知らなかった。校長の永井道明先生の月給が百円だといふことは、級友が噂しているのを聞いたことがある。しかしそれは高給に対する驚きを現わしてゐたのであったやうに思ふ。そのほかに教師の月給のことなどはあまり聞かなかった。教師は皆相当の手当を受け、その点で不平や不安などを持ってはゐないものと思ひ込んでゐた。だから先生の月給が校長の月給の三分の一以下であるとか、三年の間に一度も昇給がなかったとか、それが原因になって先生に再度の上京の決心をさせたのであるとか、といふ風なことは、全然思っても見ないことであった。
 中学一年の秋に初めて先生を国語漢文の教師として迎へた時には、何か非常に活気のある、新鮮な、爽かな空気にふれるやうな気持がした。それは先生が非常に熱心に教へられたことにもよると思ふが、その上に先生独特の教へ方が、すでに先生のうちに働いてゐたのだらうと思ふ。文章の味特に俳句とか和歌とかの味を伝へることは非常に上手であった。皆に作文をのびのびと書かせることも、赴任して来られてから間もなくすでに成功していられたと思ふ。先生の赴任されたのが九月で、それから二箇月ほど経って十一月に書写山への遠足があったが、その遠足の作文を先生に大層ほめられた覚えがある。書写山への途中、村々を通りぬけて行く時に、柿の実の美しく熟してゐるのが眼についた。それをそのままに書いたのがよかったのである。多分先生がそれを教場で読み上げられたのであらう。その結果わたくしはパーシモンという仇名をつけられ、頻りにからかはれた。さういふことをしたのは、今新橋の近所に医院を持ってゐる富岡有象博士である。同君は三年の頃に東京へ移転し、一高でまた同級になったのであるが、姫路中学へ入った頃は、二人とも数え年の十三才で、体は眼に見えて他の人たちよりも小さく、背の順に並ぶと末尾から四五番のところにゐた。遠足の時にも並んで歩いてゐたのである。
 先生の赴任当時のことはさういふ風に幾分記憶が残ってゐるが、それに比してその後三年の間のことは殆んど覚えてゐない。しかしわたくしは先生に対して好い感じを持ってゐたし、級の者も皆同様に感じてゐることと思ってゐた。先生の下宿へ遊びに行く級友も少くながったや5に思ふ。わたくしは中学まで一里半ほどの道程をわたくしの村から歩いて通ってゐたので、姫路の町にゐる級友たちのやうに、夕方などふらりと先生を訪ねて行くといふやうな便宜がなかったので、自然さういふ仲間には加わらなかったが、三年の間に二度だけ先生を訪ねたことがある。
 最初の時は、先生が来られてから一二年経ってゐたやうに思ふ。先生が聞かれるままにわたくしの家庭のことなどを話した。内容は殆んど覚えてゐないが、多分ありのままに話したのであらう。その内、ただ一つ覚えてゐることがある。わたくしは祖父のことを「家庭平和の破壊者」だと言ったのである。その時先生はいかにも不審さうな顔をされた。それでわたくしば思はず自分の言葉を反省して見て、妙に生硬な言葉を使ったことをひどく恥かしく感じた。それがこの言葉を覚えてゐる所以なのであらうが、その時先生は別にその言葉の意味を迫及して見やうともされなかった。わたくしにとっては祖父の頑固なことや癇癪持ちであることが当時准一の不幸だったのであるが、先生の眼にはさうは映らなかったのであらう。がそれだからと言って先生は、自分の堪へてゐる不幸について語らうとはされなかった。或は少し位は示唆されたのであったかも知れぬが、わたくしには全然通じなかった。
 二度目は先生が東京へ引越されるときまってから、お別れ.に行ったのであみ。四年の一学期の終りであった。ちゃうど先生の長男の公平さんが来てゐられた。小学の四年生といふことであったが柄はわりに大きかった。迂濶な話であるが、わたくしはこの時に初めて先生に妻子のあることを知って、非常に案外に感じたのである。先生の苦労について漠然と何かを感じたのも、この時が最初であったかも知れない。しかしその時にはもう教場で先生に見えることがなくなってゐたのである。

 その後二年を経てわたくしは第一高等学校の寮の生活を始めてから間もなく、黒坂達三君と一緒に、先生を富士見町の家に訪ねたことがある。
 それは先生が東京に出てから二年の後に二度目に借りられた家で、どういふわけかわたくしは先生が二階の縁側から外を眺めていられた姿を覚えている。しかしその二年の間に先生が生活のためにどれほど奮闘されたかといふことはわたくしは少七も知らなかった。「恵雨自伝」によって初めてわたくしは、その前年の春に家賃五円五十銭三間十二畳の家を借りて、郷里から妻子を迎へられたこと、その夏の終りに「一生の浮沈を定めた一大事件」として、高師の訓導の地位を得られたことなどを知ったのである。だから富士見町の家で久しぶりにお眼にかかった時には、先生がその僅か半年前に、訓導として初めて新入生の学級を担任させられ、「いよいよこの道によって人にならなければならぬ」と決心されたといふやうなこと、またその僅か一二箇月前に、夏期講習で初めて随意選題による綴方を論じ、その結果「綴方の芦田」という評判を得られた、ちやうどその当座であったといふやうなことは、わたくしは少しも知らなかったのである。
 その時わたくしを案内してくれた黒坂達三君は、わたくしと違って、学資が十分でないという事情からいろいろと苦労を甞めていた。中学の五年を端折って四年から外国語学校へ入ってしまふといふやうな、せっかちなことをしたのも、そのせいであった。そのやり方は、四年の三学期の初めに東京へ出て、郁文館中学の五年の三学期へ編入試験を受け、三月には中学卒業の資格で入学試験を受けたのである。さういふ風に在学期間を自分で短縮しても、成績は済輩を抜いてゐた。郁文館の同級には杉田直樹といふ俊才がゐたが、黒坂君はその杉田君についで二番で卒業したのであった。外国語学校へ入ってからも、学資は自分で稼いだり、他の補助を受けたりしてゐたやうに思ふ。さういふ関係で生活の苦労のことには眼が届いてゐたであらうし、芦田先生が最初の借家から富士見町の借家へ引越される原因になったシナ留学生のことなども、どうやら黒坂君の世話であったらしいのであるが、しかしさういふことをわたくしには何も教えてくれなかった。
 だからわたくしは、当時先生の意識を最も強く占領してゐた事柄は何も知らずに、一高に入学して浮き浮きしてゐる十七才の少年として、先生の前に坐ったのであった。その際どんなことを話題としてゐたかは殆んど覚えていないが、ただ一つ、先生が、いろいろな概念について、「これは一言で言ひ現はすにはどう言ったらいいか」といふ質問を出されたことだけを覚えている。「恵雨自伝」を読んだ後の立場で考へると、その夏初めて講習会で講義をされた経験かち、いろいろ解り易い言ひ現はし方を求めてゐられたのであらうといふ推測が出来るが、その当時にはそんなことに気のつく筈もなく、何となく異様な印象を受けた。一高の新入生などといふものば、さういふ概念が問題として出てくると、その意味内容を理解するために何時間でも議論をし合ふといふやうな、極めてのんきな気分のもので、それを端的に、一語でどう言ひ現はすかといふやうな問題は、まるで念頭になかった。だから同じ雰囲気の中に融け合って語るといふやうな気分は、遂に出て来なかった。
 多分さういふことの結果であらう。わたくしはその後先生の家を訪ねたことがない。一高在学中には姫路中学の校友会の集まりで、一度お眼にかかった位のものである。また大学に在学中でも、黒坂君の葬式の時にお眼にかかった位ではないかと思ふ。この葬式のことは「恵雨自伝」の中に先生も書いて居られるが、それによると、生活の苦労をしてゐた黒坂君は、その苦労のことを先生と語り合ふといふ機会を持たなかったらしい。先生はその自伝の中に「私が明治三十七年三十二の秋再び東京にはいってからの足掛八年は、姫路中学に於ける告別の辞をそのままに、死んでも紅い血は出まいといふ程の生活戦でした」と書いて居られる。それと同じやうに黒坂君もまた、明治三十八年十八の正月に東京にはいってから足掛八年の間、相当に苦しい生活戦を続けてゐたのである。勿論先生のは妻子を背負っての文字通りの生活戦であり、黒坂君のは自分の学資のための苦労に過ぎないのであるから、比較にはならないかも知れぬが、しかし結果からいふと、黒坂君の方が苦しい戦を戦ってゐたことになる。といふのは、先生はそれを見事に戦いぬき、明治四十五年を見送ると共に、その秋には安全な新境地に入られたのであるが、黒坂君は絶えざる焦りに段々疲れが出て来て、遂に持ち切れなくなったらしく、明治四十五年がまだ過ぎ去らなかった五月の頃に、散髪をしたり、湯に入って来たりなどして身奇麗になった上で、静かに毒を飲んでしまったのである。この相違は先生と黒坂君との性格の相違や世代の相違にもよるであらうが、またその住んでゐた生活圏の雰囲気の相違にもよるであらう。
 先生に最も近づき得る境遇にあった黒坂君が、先生に近づき、苦しみを訴え、先生の同情を求めるといふような態度を取らなかったのは、主としてこの雰囲気の相違によると考へられる。わたくしは黒坂君ほどに生活の苦労を知らず、従って先生に近づき易い条件を持たず、しかも黒坂君と同じ雰囲気の中にゐたのであるから、当時先生にあまり近づかなかったのは、多分自然の勢であったのだらうと思はれる。
 さういふ関係でわたくしは、先生の後半生における目ざましい活動のことは、あまりよくは知らないのである。勿論その間にも時々お眼にかかったことはある。京都に住んでゐた頃にも、若王子の寓居で、一夕ゆっくりと語り合った。昭和の初め頃で、先生が講演旅行の途次に立寄られたのであったと思ふ。しかし先生が主として努力してゐられた仕事を一通りでも理解しているかといふとさうではないのである。                      (文博・学士院会員)


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Last-modified: 2022-08-08 (月) 10:03:56