「土佐日記 燈」冨士谷御杖

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新潮日本文学大辞典 池田亀鑑

!--土佐日記燈計弔"註釋書八卷{著者】富士谷御杖【成立】首巻の初め、大旨の條に、「文化+三年丙子三月廿一日、御杖識」とあり、巻尾に、「文化+四年丁丑五月二十日」とある。前者は起稿の年月であり、一後者は晩稿の年月であらう。【諸本】自筆本所在不明。帝國国書館に寫本を議す。東京國光吐出版の印本の奥に、御杖の男富士谷元廣の践がある。それによれば、御杖の自筆本は、,粟田の宮に奉り、弘化年間、宮の御本を舞倍して書寫したれど.安政年間に失ひ、再び宮に乞ひ奉りしに.原本なしOやうやく城南の離宮に、旧記のともしびを寫し持てる鳥羽なにがしと云へる人上り借り受けて白川勝文の寫せる本ふ借りて書寫し、これを活字に印して發行したる由來を明かにしてある。【内容】巻頭に大旨を載せて「紀貫之家集」及び「袋草紙」り記事を引き.貫之が延長八年土佐國に下り、承平五年臨京せしことを論じ、旧記制作の動機を、謙遜にあらずして憤りに在りとなし、「まことにはづとならば、かかざらむにます事あらじかしOかれ思ふにこれ必ずふかきいきどほりありて、か、れたる物なりとは明かなるなり」と云ひ、「積日本紀」「三代賢録」「日本後紀」等を引いて、土佐國が配流の地なること、「積日本紀」を引いて、土佐が伊豫國守管内の國なること、「拾芥抄」を引いて土佐が巾還の地なることを考讃し、貫之ともあらん者が.かかる下級の國に任ぜられたることを深く恥ぢ、よりて、「この記女の所爲とし、年紀も記せられず、土佐といふことをもあらはに、いはず、すべて女のしどけなきに書まぎらはし(中路)しかれどもいさ、かもあらはなるかくて.秋成が、著作の動機を、亡児に對する愛惜の情にありとなし、女々しき外聞を恥ぢて女子に假託せりと云ふ説を駁し、内憤激の情の燃ゆるあれども、外に憚りて女性に假託せりと断じ、季吟が謙遜して女に託したりと云へる説をも極力反對した。そして例の直言・倒言の持論を引用し凍り、この日記が倒冒即ち比喩的暗示的表現によれることを総揚し、しかくてこそ公り御とがめもなかりしなりと云.ひ、同じ作者の大井川行幸り歌の序も「古今集」中の文もごり日記に比しては雲泥死活り蓮ひありと云ひ、 上代の研詞出日一命は文章の模範とすべきものなるに、この日記はこれ等κ比して劣らずとて「おぽかた言すくなにて.いさ、かかざりたるけなく、すくよかにて.句々語々つふつふとはなれたらむやうにて、一言一句も詞を直につけられざりける」と云って、倒語の妙にかなへることを稱讃してみる。次に梗合せし諸本(定家卿手書傳寫本・片假名古寫本・中院也足軒手書本・古寫本・爲相卿手書本・長谷川菅置所蔵本)の解説を附してみる。そしてこれ等の諸本の校合にあたりては、然るべきを取り、.私に然るべしと定むることをせず、諸本の異同を註記した。而して日記を覆するにあたっては,表と裏とを国別し、「裏とは、詞となりてのうへのくさぐさの理をとき"表とは、そり詞のなりいでたる所以の義を説けるなりOおぽかた歌も文もかく表裏をわきて釋せざれば、真義をつくすことあたはざるものなればなり」と云った。これは彼が後年に著はした「萬葉集燈」に「言」と【籔」との二部り註を立てたりと同じ見解に基くo本文は先づ日記の小節を前に示し、次に表裏に分ちて,詳密なる解釋を加へてゐる。併し時に表裏の観念の混同から、牽強附曾の見方をした所も少くない。廣く諸家の説を集成批判し、よきをとり、悪しきを捨て、別に一家言を加へるなど、用意周到である。諸家の説とは、季吟・眞淵・宣長・秋成◆宇萬伎・菅緒・俘嵩贋・橘洲等の説で、父戌章の志をついで、「挿頭抄」「脚結抄」等を引いて家學を紹述した。【價値】この書は、「土佐日記」研究書中最も大部のもりで、詳密を極め、諸説をあまねく渉凝し、批判し、表面上の語義、裏面の含蓄を麗し.言外の意義、餘韻文は語感を直視せんと努めたるが如き、最近の文學研究法に近似したものがある。併し餘りに詮索にすぎ、獨断に陥り、附.會の見解多く、奇説も亦少ぐない。 〔他色


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Last-modified: 2022-08-07 (日) 23:43:19