大田才次郎
『風俗画報』100

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!--●講談 大田才次郎

世に軍書歴史等によりて合戦の有様、勝敗の模様など巧みに演して生活を為す者あり之を講談師又は軍談師講釈師などゝもいへり往昔は之を太平記読と称して専ら戦場の形勢をのみ演したりといふ太平記無礼講の条に其頃才覚無双の聞え有ける玄恵法印といふ文者を請じて昌黎文集の談義をぞ行はせ給ひける云々と是は徒弟を集めて学を講する会にあらず唯事を文談に寄せたるばかりにて今軍書読を呼で聞くとおなじと嬉遊笑覧にもいへれば則ち是等を以て軍談の起源とすべしされどもこは古来の戦争談をなし其得失等を論談したるものなれは後世の講談師とは大に異なる所あるべし
続々武家閑談に云抑々軍書講談の始りは赤松法印といへる者慶長の頃東照宮の御前に於て源平盛衰記、太平記の講釈を度々言上せり続て諸侯へも召されて軍書を講したれば世人太平記読といへり云々又嬉遊笑覧に云太平記を読む事むかし流行て太平記よみといふものあり其始めは歌林雑話集に道春初めて論語の新註をよみ宗務、太平記をよみ丸(貞徳みづから云ふなり)にも歌書をよめと下京の友達ともにすゝめしに云々同書末のかたに道春永喜と両人云々其座に一華堂宗務法橋五十川了庵などゐられしとあり一華堂は貞徳道春などの友なり云々是れ太平記読の始めなるらむ
元禄頃に至りては太平記読を以て営業となす者出で来れり人倫訓蒙図彙に云太平記読近世より始まれり太平記よみての物もらひあはれむかしは畳のうへにもくらしたればこそつゝりよみにもすれなまなかかくてあれよかし祇園の涼み糺の森の下などにてはむしろを敷て座をしめ講釈こそおこならめそれをまたこくびかたふけて聞ゐる者もありとかく生るほど品々あるはなかるべしといへり又嬉遊笑覧に拠れは一代女長けれど唯なら聞もの道久が太平記また義理物語に八坂道頓堀芝居みせものゝ事をいふ処竹田からくりの見物甫水が太平記をよめる処また伽羅女八坂生玉社頭の図に太平記よみ葭簾はりたる小屋に見台ひかへ手に扇もちたる者おりその前に床几ならべたるに聞人尻かけたる処あり小屋の軒に看ばん懸て太平記信長記四十七人評判と書たりこれ今とかはりたる事なし此等に拠りて視れは当時の太平記読てふものは今日の辻講釈の如き体裁なりしと覚ふ
又近代世事談に云江戸にては見附の清左衛門と云もの始なり年来浅草御門旁に出て太平記を講す此ものは理尽抄といふ太平記の評判の書を以て講釈せり又其頃赤松青龍軒といふもの堺町に芝居をかまへ原昌元と名のりて軍談をなす京都にては原永●といふもの世に鳴る理尽抄は寛永頃北国に法華法印日勝と云僧名和伯耆守長年が遠孫より伝へたりと作せり又我衣に云清左衛門は浅草御門の側に高き処ありしが其上にて人を集めたりこゝは今の御舟蔵前にある稲荷の旧地なりとぞ清左衛門は京師の人なり願の義ありて江戸に来り三四年経たれども願不叶京に帰る事を恥て爰に講釈をはじむ其頃めづらしき事なれば日々群集したり又諸芸目利咄に云いくさの講釈に名を轟かせしは浪花に梅龍、江戸の青龍軒はまさり劣らぬ能弁にして聞く人を感せしむといひ元禄曾我物語にもやつす模様の旅姿先づ大津屋弥六は太平記読になりて塩谷判官龍馬進奏の巻一冊懐中すれば初右衛門は国分延命散を以て定斎を名乗るなどあるに拠れは江戸にて太平記読の始まりしも古き事なるべし
関根只誠翁の只誠埃録に享保の頃神田白龍子といへる者専ら大名旗本衆へ招かれ軍書講釈をして大に行はれたり此人見識ありて町講釈はせず同時に霊全と云僧あり浅草寺の奥山銀杏の大樹の下に葭簣張の小屋をしつらひ一人に十六銅づゝを受け辻講釈に戯言を交へて講ぜしが後には太閤記などをも読て大に世人にもてはやされぬ深井志道軒も此霊全を真似たるなりとぞされど志道軒の評判は又格段にて霊全は後世知られずなりぬ云々とあり又此頃滋野瑞龍軒といふ舌耕師あり山の手の手習師匠の家に於て席料二十四銅を受けて軍書を講談せしが寛延元年の秋慰草といふ書を著はし宝暦の初め諸家の広間などを借りて講談の節此書を衆客に鬮取にして与へしとぞ又此頃成田寿仙といへる者ありて上手の聞ゑありし由寿仙は初め太閤記の外読まざりしを後には伊達、黒田などの家政を講じ官より止められて更に日蓮記を講じ大に世に行はれしといふ宝暦の頃には馬場文耕といへるもの釆女ケ原に於て時事を講じ大に世人の喝采を博せり文耕釆女ケ原に講席を開きし時は所謂葭簣張の小屋掛なりしが入口に看板を掲けて大日本治乱記と大書せりされどこれは官府より差止められて更に心学表裏咄と改めたり講釈の看板は是が始めなるべしといふそれより天明寛政の頃には森川馬谷笹川燕尉などいへる上手ありき馬谷は文耕の門に入り後独立して一派をなせり燕尉は常に三河後風土記徳川御一代記などを専ら講じたり文化頃には伊東燕晋といふ者湯島天神境内に講釈場を設け講釈に従事すること五十余年にして聴衆日夜群を為せりといふ講談を以て一の技芸となし之を大成したるは此燕晋なりといふさて又已上に挙げたる講談師の事につき諸書に見えたるものを挙くれば左の如し
  関根只誠翁の只誠埃録に云「享保の頃神田白龍といへる者専ら大名旗本衆へ招かれ軍書講釈をして大に行はれたり此人見識ありて町講釈はせず同時に霊全と云僧あり浅草寺の奥山銀杏の大樹の下に葭簣張の小屋をしつらひ一人に十六銅づゝを受け辻談義に戯言を交へて講ぜしが後には太閤記なども読て大に世人にもてはやされぬ深井志道軒も此霊全を真似たるなりとぞされど志道軒の評判は又格段にて霊全は後世知られずなりぬ(志道軒の事は此他賤の小手巻、塵塚談等にも見えたれども略す)
  瀬田問答に云今の講釈師をむかしは太平記読と申て太平記古戦物語をのみ講釈いたし候処享保の頃瑞龍軒志道軒など願ひて今の三河後風土記などよみ候事始候由承伝へ候左様に候哉
  答 被仰下候趣に可有御座候瑞龍軒は相願候儀と被存候志道軒願候儀には有之間敷候子細は浅草馬道大長屋と申に住宅申候其頃あの辺に拙は懇意の者御座候て承り候処店主より書上には志道軒と申気違坊一人と書上有之由拙承り候右之趣は講釈致し候内にも種々雑言なと申候事右咎めなと有之節いかゞと存じ気違と書出候由物語承り申候右志道軒墓は浅草勢至堂金剛院に有之墓之写も致置候と覚申候(墓之写は略す)
  只誠埃録に「文耕始て釆女が原に講席を開きし時は所謂葭簣張小屋掛なりしが入口に看板を掲げて大日本治乱記と大書せりされどこれは官府より差止められて更に心学表裏咄と改めたり(是は当時手島「堵庵」社中の心学行はれしが軍談の間に彼学説の浅薄なるを罵りし也といふ)講釈の看板は是が始なるべし古今見聞集に講釈師馬場文耕は文学も有て殊に能弁なれば戦場などの講釈は面白くて聞居る内に何か一くさりづゝ悪まれ口をたゝき甚しきは其場にも居にくき事度々あり後には発狂せしにや政談事を批点せしかば被召捕て死罪となりたり云々又云「馬谷は森川昌玄と云ふ町医師の次男にして俗称を鎌吉といへり性来活達なれども懶惰にして酒色にふけり遂に落魄して講釈師となり下り初め馬場文耕の門に入り後独立して一派をなせり寛政の初年より始めて読物を初め中後の三段に分け世話物、御家騒動軍書合戦と区別し亦前席(即ち前座なり)一人をも据る事とせり又講席の看板配りビラの書き方なども此馬谷の考案より創まれりとぞ其書き方の一例は
大岡仁政談
伊達大評定 附ケ紙
理世安民記 づるけなし
   森川馬谷
何月何日より
  毎年正月の初席には必ずかく認むるを例とせり是は外題の頭字三字を合せて大伊理(大入)となるを視せし也近来まで余人も此例を襲ひたり元来馬谷は相応に学問もありて正史雑録にも渉りければにや講談終りて後偖かく俗談に文飾を加へて講ぜざれば各位方退屈して不興に覚さん因てわざと戯言を交へ存じながら潤色の事を申述候実は正史には此事なしとか又何の記録にはしか  ありなど一々本拠を引証して弁せりといふ川柳点の狂句に「講釈師見て来たやうなうそをいひといふがあるも実は馬谷のいたづらなりとぞ」云々とあり
  理斎筆記に云笹井燕尉は講釈の中にても人品よく且つ上手の聞え高く諸侯へ出入して繁昌せり或時奉行永田備後守の許にて盛衰記を講じたるに高倉の宮宇治にて流矢に中り玉ひて御落馬ありし所を講ぜり聴衆の面々落涙す講じ終りて御酒出饗せられし折予(志賀理斎自ら云ふ)申しけるは太平記にもせよ大塔宮護良親王を淵部伊賀守が御首を打奉りし事抔偖々乱世の時程かなしきはなし云々此時燕尉も末座に居て此一段を落涙して聞居たりしが進み出て予に申すは只今の仰難有聴聞仕候夫に付愚案に候へども都て天子の御事を私風情の軽き者にて御噂奉申上は恐多き次第是迄心付かず賤家にても憚らざる罪尤も大に御座候古言にも天は見ずして民に視せしむ天言はずして民に言はしむ、と只今思当り候以後は天子の御事ははぶきて申さざるに如かしと申ければ備州の云よくぞ心付たり君子を陥るべからず官を恐れよと申されける燕尉之を慎て講じたり並人にあらず
已上は予か講談の古書に見ゑたるものに拠りて沿革の大意を記せるものなるか此頃講談師伊東燕尾が政府へ差出したる講談由来調記を得たるを以て之を左に掲くそは伝聞を記せるものなるへけれども其道の沿革を知るに於て余りあらむ
本朝軍書講談師濫觴由来
 人皇七十四代 鳥羽天皇之御宇保安年間に洛陽一条堀川之辺りに立て天下の治乱世の中の浮沈興廃を論し和漢三古戦記を講ずる者あり往く者足を止て是を聴んと人の山をなす、宇治左大臣頼長公其者の素性を推問し玉ふ答て曰大職冠藤原鎌足後胤実方中将の弟伊予国吉岡の住伊予の●仗実光の子孫吉岡鬼一丸といふ者なり幼少にて父母世を去り家衰へ拠所なく京師に上り聊か知音あるを以て陰陽博士主税頭阿部泰長卿の門に入て専ら勤学す然るに泰長逝去し給ひ学術未熟依て今世を渉るべき方法を不知故に是迄学ひ得たる事と和漢の軍書を講し治国平天下の利を説き
 聖主賢王の徳沢を忝して庶民安住するの本元を諭し且名将良士の言行を演述し国恩の難有を衆人に知らしむ聴者其労を察して多少の謝儀を報ふ鬼一是を受て生養の助とす頼長公深く哀愍し玉ひ邸に召して諸々の書を読ましむ天然自然の奇才也頗る弁才有りて世の利を早く衆人に説諭す事甚妙なり頼長公宇治拾遺今昔物語等を撰み是を鬼一に説かしむ又奇なり延保の頃専ら世に鳴る雲上堂上に召すと雖其身無位凡俗にして高貴の殿に昇ん事憚有るを恥ぢず頼長公の吹挙に依りて法眼に任せらる吉岡鬼一法眼憲海と号す夫より雲上堂上に召して天下の治乱世の浮沈興廃古戦の記録を講すること幾度か知らす鬼一常に曰く我和漢の戦記を見て戦争の得失を論すと雖軍学兵法の書を未だ見ること能はさるを深く歎く其頃未だ書籍乏しく見る者稀なり抑軍学兵法書と云は
 人皇九代開化天皇之御時兵書伝来すと雖世に知る者鮮し
 人皇十六代応仁天皇之御宇聊か世に頗ると雖又隠れ其後唯兵学と云名而已其書を識る事能はす
 人皇六十代醍醐天皇延長元年蒙 敕命左大弁大江惟時入唐して彼地に在留する事十有余年儒書兵書五経三史文選六韜三略四十二箇の秘法陣制八十一変順逆百二十八変千変万化の奇法悉く学ひ得て承平四年正月五日帰朝し奉備 献覧従夫以来其書大江家代々預り奉る惟時より七代の孫式部大輔維順の時故ありて洛北松尾山鞍馬寺宝庫に収め勅封し玉ひ多門天と祭り給ひしかは其後絶て兵書を見る事を許し玉はす然るを鬼一頼長公へ此事を歎き懇望する事頻りなり其切なるに堪へす頼長公より軍学兵法の書を世に流布し玉ふへき利を奏上し玉ふ
 人皇七十六代近衛院天皇久安年中鞍馬寺宝庫勅封を解かせられ再び兵書世に顕る鬼一法眼謹て其書を頼長公に学訓閲集を始め兵学の深理を探り極め治国平天下の利を諭り本朝万代の備をなすの基を説く其門に入る者日々数量不知
 人皇七十七代後白河天皇依勅命大日本兵法所賜 勅願一条右大臣家の御筆なり兵道神の額は宇治左大臣頼長公の御筆にて今出川に居地を賜り二丁四面に堀を深くし塀を構へ四ツ楼門大廈高楼を経営し専ら軍学兵法を世に弘博す是則本朝軍書講談中興開祖と号す
 人皇九十五代後醍醐天皇の御時執権北条高時之暴慢日に募る勤王第一なる日野資朝右大弁俊基等廟議を起し洛東の隠師玄恵法師を招集の席に請して 王権の忝きを弁論し是を傾聴す亦叛者有て元弘建武の兵革を来す云々其後玄恵の説く所を本理とし名和長年、赤松則心、新田義貞等王命に随ひ以て暴悪の一類を征伐す其後延元々年八月廿九日玄恵法師を吉野の内裏へ参内を許可して是迄の戦争得失を論し専ら 王権の主重なる深理を講ず是又中興軍談の祖と云々楠正成兵を集るの際杉本佐兵衛なる者天下の興廃世の浮沈を常に説き奇弁妙舌を以て兵士を論す正成の傍を不放偶是を用て敵を破り亦兵士を集る事を能くす
  慶長の末黒田家の浪士後藤又兵衛基次摂津大坂天満天神の境内にて自ら戦地に着用したる甲冑兵器を飾り立己か出役したる時合戦勝敗得失の利を講す聞者群集して山をなす其説労を謝す亦好んて何々地の戦を問基次出たる時の事は講す何々地の戦は某不出依て其実を不知迚不語聴衆基次の有名なると其講ずる所の明瞭なるを感じ多少の謝儀をなす基次又謝して是を受け夫より以来諸浪人是に習て軍書を講して聴者より多少の謝儀を受くると浪士の経済に備ふ事となりぬ徳川家八代将軍吉宗公は紀伊従二位大納言光貞卿三男にて貞享元甲子年十月廿一日紀州和歌山にて御誕生御母は於由利の方と号す巨勢六左衛門利清の女なり吉宗公御幼名源六君亦改て新之助君と号す母儀於由利方の弟に巨勢六之丞なる者和漢の古事又は諸所の古戦記を君前に於て講す其後吉宗公江戸赤坂邸に御引移の後弥々召して
 御命重大施与の論をなさしめ風土記三河誌三河後風土記等を講せしめ従臣に聞かしむ六之丞には本所の地にて家居を賜る其後吉宗公本丸に入り玉ふ時六之丞を召して吹上山里の茶亭に於て講する事幾度なり其子放逸にして本所の居宅を散潰し父の講説を覚へて街上に立て諸軍記を講読し雅名翁山と号す此末三代にして滅す
  元禄年中浅草御門傍に立て治乱興廃の事を講するもの有り聴者山をなし通路を妨く町御奉行能勢出雲守頼相侯召して其事を尋問し玉ふ答て天下泰平に帰し万民安堵に住するは偏へに
  朝廷の御沢を蒙り奉るの忝き事を説き勧善懲悪の利を示し童蒙婦女子に至る迄忠信孝悌の道を教諭し聊か御国恩を奉報か為め理尽抄を講す此書は寛永年中北国の法華法印日勝と云者名和伯耆守長年の遠孫元弘建武の事跡南朝北朝と分れたる事悉く記伝し太平記の評判を撰て理尽抄と号す又大全綱目を撰し亦参考太平記を著す能勢公其者の素性を尋問し玉へとも黙して不言強て其元因を推問せらる赤面して伏す暫くして後曰く伯耆国名和の住人名和伯耆守長年の末裔名和清左衛門と云者なり然れとも先祖の名を顕さん事を深く恥つ只見附の清左衛門可被召 雪(ママ)州侯是を許す雖然其講するを聞に忝くも
 朝廷の御事より将軍家又は名君良将の御噂而已ならす仮りにも治国平天下の利を道路に於て講するは憚り有事なり自今日除雨覆等を設け且往来通行の妨相ならざる所にて可講旨被仰渡夫より浅草御門内日除地を拝借して寄席を設置し太平記講談場と号す清左衛門日夜出席明治五六年迄現存す
  同年間に堺町の芝地に寄場を構へ古戦記録を講談する者あり聴衆殊に群集す町御奉行松前伊豆守嘉広侯召して其原由を尋ね玉ふ伏して暫くして後曰く播州三木の地士赤松青龍軒と云者にて是則赤松円心の末裔なり然れ共先祖の名性を顕す事甚恥る処なり今より母方の姓を仮りて原昌元と可被召豆州侯是を許す同時に京都に原永●と云者此業を以て世に鳴る
  寛政元己酉年十一月十九日大雪徳川十一代将軍家家斉公辰の口より御乗船墨田川御成洲崎村御膳所牛頭山弘福寺へ笹井燕尉子を召て三方原軍記を講せしむ
  文化三丙寅年正月十九日 将軍家斉公弘福寺に御成の節伊東燕晋を召して川中島合戦伊達評定を講す
  上野東叡山宮様え燕晋被召諸軍記を講する事積年なり夫より以来四方の諸侯に召るゝ事幾度か知らす燕晋常に湯島天神境内自宅に於て古戦記録を講する事五十余年日夜聴衆群集せり
  天保十己亥年十二月十日八十歳にて卒す前日迄自宅に於て講談す其席安政の頃迄現在す
  文政四年の春下谷山崎町合棟浪人頭山本仁太夫と云者より軍談師業体の事に付伊東燕晋へ係り事を公にす町御奉行小田切土佐守侯より軍談業体の原由を尋問し玉ふ燕晋答曰元来軍学兵法修行の為浪々の身となり其道を学ふ然りと雖も未だ不熟修行中の用費を聊か助んかため是迄学ひ得たる事を好事の者に講し古戦の記録勧善懲悪忠孝之道を説諭し聊か御政道の御助にも備へ奉り度の素志なり亦聴衆其志を助けて多少の謝儀をなす是を受て軍学修行中の費用に備ふ依て諺に軍談を浪人職と号す土州侯其者の素性を問玉ふ答て云前条の如く軍学修行の為主家の暇を乞ひ且故有て今浪々の身なり然るを主名を顕し其身先祖の名を辱がしむは常に浪士の深く恥とする所なり然とも御政道に係る事有て御尋問なし玉はゝ是非なし主家及ひ原性も速に申上ん乍併今軍談師業体而已の御尋に候はゝ往昔より此業をなす者の通り雅名を以て召され度しと
  土州侯暫くして曰尤の事なり此後伊東燕晋と聞置是より以来伊東某と名乗り候也然る上は自今軍談営業なす者尊重高貴の御噂而已ならず仮初にも治国平天下の利勧善懲悪忠孝悌の道を講し且古戦の記録を講談し御政道の難有事を諸人に教諭し且は浪々の経済にも備度の素志難黙止儀にも相聞ゆる間今迄通不苦但日除雨覆等無之所にては遠慮可致沽券地自宅何屋某方総て竃附是ある家にて渡世可致旨被仰渡候
  天保十三壬寅年二月閣老水野越前守忠邦侯御改革の砌江戸町中寄席と唱ふるもの十五軒御免許寺社御奉行より九軒通計二十四軒御免其他は不相成旨被仰渡候其後町御奉行跡部能登守侯より江戸市中人寄家業之儀自今神道心学軍書講談昔語等四業の者差許す者也
但茶汲人たり共女は不相成事
  右は今般軍談師濫觴由来御尋問に付記載奉上申候
   明治十五年第八月 神田区旭町二十四番地
   軍談頭取   伊東燕晋
さて講談の沿革は略ぼ記し終りたれば是より講談師の句調、身振等を掲けて読者の清覧に供せむと欲せしかども文字の冗長に渉らむことを恐れ左に繁昌記中の一節を摘記して予か文に代ふと云ふ(返り点省略=菊池)
 寺門静軒繁昌記云、麁服蕭散頭冒一幅布巾手操一把竹籃此外身辺所有一棒一扇耳其皷口以糊口与吾輩貧儒亦不甚異者誰滑稽師浜藏是也然至其所説亦以与我仁義大異也人楽聴而不睡蒭蕘者往焉炙●天口、奇談鋒出、和以天倪三百六十日所説三百六十化日出月新令聴者忿且笑其言洸洋自恣所謂終日言而不言者非筆墨可状也噫使斯人生于古其脱幅解褐駕四馬佩六印令庸人愚婦驚而嘆乎何有焉非如吾曹局促于文字間以老死于草奔也聞先是有志道軒者常手一茎木陽物弄之掉舌其流相継至今先生云
  服部誠一繁昌記云、面対小机手弄扇子而麁服垢染三百六十四日●光頭於白日皷口以糊口者誰乃街頭演史家螺吹先生是也其所説雖不異唾壷大蛇之説非説法家之拙法所企及使手使目叩膝●腰勇声写英雄弱形様臆病莫戦態不尽莫武風不極概以太閤記徳川史為常講頃者寿永四年三月二十四日本多平八郎与関羽張飛等大戦於矢島壇浦平八郎執五間三尺長槍一回能刺勁敵数人恰似貫団子名其槍曰団子丸一勇将又現出大喝一声呼間柄十郎左衛門揮一尺貳寸大刀為百人斬聴者評道一尺二寸不可謂大刀先生忽飾過曰但其幅処々有空隙凡触刀者雖鉄石無不斬一刀斬十人二刀斃十馬漢高祖降其軍門仏拿破倫屈其脚下一人忽発怒声曰歇々々何虚誕之甚一戦而自日本飛支那又跨仏蘭西者何乎先生笑曰何時井蛙輩何能容嘴余説則開明之軍談何時管見徒固非聴而可解曰有何確論以為然曰此是戦争之洋行 又現今講談師の世に名あるものを挙ぐれば左の如し
  松林伯円  伊東燕尾  邑井一  桃川如燕  神田伯山
  放牛舎桃林  小金井蘆洲  桃川燕林  松林右円  伊東凌潮
  松林伯知  一立斎貞山  邑井貞吉  双木舎痴遊  松林伯鶴
  邑井吉瓶  真龍斎貞水  神田伯龍 -->


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Last-modified: 2022-08-08 (月) 08:46:24