安藤正次『国語学通考』

安藤正次

東京語


 東京語の源流と申す題目について、今日の東京語が國語においてどういう地位を占めておりますかを申し上げようと思います。世には、今日の東京語が一國の首府の言葉であるが故に、これがそのまゝわが國の標準語となり得るかのようにも考えられております。しかしながら、今日の東京語は、うたがいもなくすでにわが國の共通語となつておりまして、将来標準語の制定が實現されます場合には、その基礎となるべき有力な言葉ではございますが、これがそのままわが國の標準語となり得るとは申し上げかねるのでございます。
 標準語と申しますものは、一國の國語の標準となるべき言葉、軌範的の性質をもつ言葉でございます。しだかつて、最密にこれを解しますれば、音韻・語法・語彙・表現様式その他一切の言語事象にわたりまして、その國の言語の正誤を判定するに足る基準となる體系が標準語なのでございます。このような標準語は、人鴛的の取捨洗錬を經て制定されるのを原則と致しますから、これは一つの抽象的存在であるとも中されます。しかし、その制定は、言語が社會的のものである點から申しましても、どこまでも現實に見出される言語事實に基礎をもとめるべきものであり、その目標は、これが具象化にあるべきのでございます。この點から申しますれば、標準語の制定は、國語の「かくある」現實に立脚して、「かくあるべし」という様相を範示し、未来においてこれを現實化しようとするものと申されます。かくのごとき文化的一意義を有する標準語の制定は、理想ではございますが、實現は容易でございません。わが國におきましても、このことはかねてから問題とはなつておりますものの、なお未解決のままでございます。しかしながら、明治の御代以来の教育の普及、交通の發達、文化の弘通は、自然の勢として、政治・文化の中心である首府東京の言葉を、全國的の共通語たる地位に推し進めるようになつてまいりました。これは標準語制定への素地をなすものと申せましよう。共通語と申しますものは、その本来の性格においては軌範的ではございません。どこにも通じる、だれにもわかると申すのがその本来のたてまえでございます。しかし、そのような融通性を認めさせるだけの資力をそなえているものがはじめて共通語たり得るのでございますから、その點において、共通語は地方語に對しておのずから優位を占めることに相成ります。現に各地方の人々の間には、それぞれの地方語によつて日常生活を營んでおりながらも、他のあらたまつた場合には東京語を語ることに、むしろ誇りの念をいだくものが少くございません。國語の教育、ラヂオの放送も、東京語を背景といたしております。このような現下の社會情勢から申しますれば、東京語は、事實において、すでに将来における標準語の基礎たるべき地位を與えられているのでございます。しかもなお東京語の源流にさかのぼり、その由来をたずねますれば、これには一國の標準語として展開すべき因緑の淺からざるものがあるように存ぜられます。
 今日の東京語は、直接には江戸言葉の系統を引いております。その江戸言葉は、普通には東國語の上に發達した一方言に過ぎないもののように考えられて居りますが、實はもつと複雑な要素を含んだ混成的のものでございます。


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Last-modified: 2022-08-08 (月) 10:07:14