山田孝雄
冨山房国史辞典


 こくご  國語 こくご (一)國語の歴史は文獻を基として觀察することを正當とする。文獻に基づいて觀察すれば、國語には多少の變遷はもとよりあるけれども、古來大なる變革は無い。これは國體が古今を通じて一つであるといふことに基礎がある。民族上に大變動が生じたり、國體の變革が屡起るやうな國にあつては、その國語の變革がそれに件つて起るものであらうが、我が日本民族はその内容に於ては古來幾多の變遷はあつたであらうが、本幹たる大和民族は古今を通じて一つであり、國語も亦本質的には古今を通じて一つである。それ故に國語の歴史とはいふものゝ、その變遷の行はれるのは外相上の現象又は枝葉の點に於てであるといふことを基底に置いて考へなければならぬ。
國語を記載して後世に傳へたものは文字であるが、我國の太古には社會一般に公認した文字が有つたかどうか。これには種々意見もあるやうであるが、太古には一般公認の文字が用ひられなかつたと思ふ。それ故に我國の文獻は漢字傳來以後のものである。漢字傳來の時代も明確にはわからぬが、應神天皇の御世には朝延にてもこれを採用せられたと思ふ。その漢字傳來の當初はそれを用ひて用を辨じたであらうが、漢字そのまゝでは國語を忠實に記し出すことができぬ。そこで漢字を音字として假借して用ひはじめた。これがいはゆる萬葉假名の生じた理由である。それから後、國語を寫し出すのは便利になつたが、漢字は概して字畫が多いから假名として用ひるのに甚だ手數がかゝる。そこで字畫の少い文字を用ひたり字畫を省いたり、草書を用ひたりして簡易な音標文字を按出した。これが片假名・平假名である。假名の萌芽は奈良時代以前から見えはじめてゐるが、假名の完成したのは平安時代の初期であらう。その後、國語を記載することがよほど自由になつて、平安時代の文藝の盛大な發展を見るやうになつた。元來、假名は當時の國語の音に併行したものであつたに相違ないから、これによつて當時の國語の音韻を考へることができなければならぬ筈である。片假名を以て作つた圖表が五十音圖である。これの生じた時代は明確では無いが、平安時代の中期には既に出來てゐたと思はれる。平假名を網羅したものが伊呂波歌であるが、これは五十音圖より稍後れて生じたものであらう。五十音圖は音韻の理法を説くために生じたものらしいが、それにはア行のイとヤ行のイ、ア行のエとヤ行のエ、ア行のウとワ行のウが同じ字で現はされてゐるから、實際は四十七字で伊呂波歌と字數は同じである。併し平安時代初期以前の萬葉假名にはア行のエ(衣)とヤ行のエ(延)の區別の有つた證據があるから、古代にあつては四十八音が國語の音の範疇であつたと思はれるが、奈良時代の末頃から混亂しはじめて、延喜の頃にはその區別が無くなつたやうである。平安時代の末頃からワ行のヰ・ヱ・ヲがア行の音と同じやうに發音されるやうになつた。かやうな混亂が生じたゝめに、假名を正しく使用して國語を正確に記載しようといふ要求から、鎌倉時代に假名遣の學問が生じたのである。併しそれが眞に正しくなつたのは江戸時代になつてからである。
國語の音韻組織について、古語には濁音またラ行音ではじまつたものが無いので、それらではじまる語は皆後世の訛語か、もしくは外國語の影響を受けた時代以後に生じた語だといはれてゐる。我が國語に古來無かつたこの二つの現象が生ずるやうになつたのは、恐らくは漢語の影響であらう。この外に漢語の影響として國語の音韻の上に生じた變動はいはゆる音便である。これは語の中間の音又は語尾の音をイ・ウ・ンとするのと、語の中間の音を促めて呼ぶものとであるが、このやうな現象は漢字の音にあるので、それを國語の上にも模倣するやうになつて生じたものと思ふ。これは平安時代に始まつたものらしいが、その初期の頃にイ・ウの音便があらはれ、次でンの音便があらはれ、促まる音便はその末期にあらはれた。漢語はまた國語の語彙の上に著しい影響を與へた。漢語が國語のうちに混用されるやうになつたのは頗る古い時代からであらうが、古代にはそれはさほど著しいものでは無かつた。奈良時代の文獻には多少この混用の證跡がある。平安時代になるとそれが著しくなり、鎌倉時代にいはゆる和漢混淆の文體が成立したときには漢語の混入が著しくなり、もはや體言の半程は漢語を用ひるやうな有樣になつた。それから後、時代によつて多少の消長はあつたらうが、漢語の勢力は漸次甚しくなり、明治年代に至つては日常公私に用ひる語は約四割も漢語が占めるやうになつた。漢語はいふまでも無く支那の語であつて、それが輸入された事物の名目、又、漢籍・佛書などから傳はつたものであつたが、その勢力が盛になるにつれて、本來の國語を漢字で書いたものを音讀して漢語のやうにした俗語が生じた。これは鎌倉時代頃からその例が見える。なほこの外に「湯桶《ユトウ》」「重箱《ヂユウバコ》」のやうに國語と漢語との混製になるものをも生じた。これは近世のことであらう。
漢語の外にも外來語の國語化したものが少く無い。それらのうち古いものは梵語である。旦那《ダンナ》・鉢《ハチ》・馬鹿《バカ》・般若《ハンニヤ》などがその一例である。梵語は印度から直接に輸入したので無く、主として佛教から傳はつたもので、その輸入の時代は漢語に次ぐものである。平安時代の末頃から普通の漢語と異なつた發音をした支那語が少からず傳はつた。それらは宋・元・明・清の各朝にわたり、引續いて傳へられたものであるが、それは行在《アンザイ》・杏子《アンズ》・普請《フシン》・蒲團《フトン》などの語である。又、室町時代の末期からいはゆる南蠻人が渡來して、それらの語も多少輸入されて國語に化したものがある。パン・カステラ・カッパ・ボタン・ラシヤ・メリヤスなどは、その源が皆葡萄牙語である。江戸時代にはまた和蘭語が多少輸入されて國語化した。ズツク・ブリキなどがその例である。江戸時代の末頃から獨逸語・佛蘭西語・英吉利語などが盛に入つて來たことは今更いふまでも無い。さてそれらの外來語が次第に國語に混入同化して四割以上の量を占めてゐる、又、國語がそれらから多少の影響を受けつゝ變化して行くことは、蓋し止むを得ないここであらう。といつても、國語が外國語に化したものでは無い。國語にはその生命線ともいふべきものが明確に劃せられてゐて、その内には一歩も外來語を入れぬ。國語は頗る寛大なもので、體言・副詞などの觀念部には外來語の混入又は歸化をゆるし、又、用言でもその觀念部たる語幹の地位には外來語のとり入れられることをゆるすけれども、用言の活用語尾と助詞とには斷じて外來語の侵入を許さぬ。これが國語の要塞地帶である。こゝに國語の嚴肅さがある。

國語の措辭法について見ると、これには殆ど變遷が無いといつてよい。但し平安時代の末頃から和漢混淆體の文の成立すると共に、漢文の口調が往々國文の上に應用されるやうになつて多少の變化が生じた。その主なものは、一種の反轉法によるいひ方である。又、明治年代以後英吉利文などの直譯の弊を受けて多少不都合ないひ方をするものも見えるやうであるが、これは一部に止まる。國語の變遷の上で最も著しいのは、古代は言文が一途であつたと思ふに、近世は言文が二途になつた點である。その古代と近世との境目は吉野時代と見るのが妥當である。もとより古代といつても、言文が嚴密に一致であつたとはいひ得ないものであるが、大體の形勢として口語と文語とを著しく區別しなかつたといふのである。それにもまた變遷があつて平安時代の末から言と文とが少しつつ分れるやうな勢を呈し、鑠倉時代にはその勢がやゝ進み、室町時代になると文語と口語とが明かに分れた。而して文語はいくらか學者や文藝家の手にかゝつて琢かれて來たが、口語の方は放任されて來た有樣であつた。これを語法の變遷の方面からいふと、先づ體言と副詞とには語法上の變遷は無い。助詞はその語には古と今と違ふといふやうに變遷はある。たとへば古へはイといふ主絡を示す助訶があつたか、平安時代中期からは見えす、デといふ格助詞は鎌倉時代からあらはれた等のことであるが、それらについてはこゝには述べぬ。かやうに用ひる語に變遷はあるが、助詞の性質には變遷は無い。用言では活用形の上に古代と近世との問に著しい變動がある。それは古代にては終止形と連體形とが別の活用形として取扱はれなければならなかつたのに、近世の口語では終止形といふものが亡びて、連體形を以て終止形にも用ひるやうになつたことである。箇々の活用についていへば、形容詞は上代には「く・し・き」の三の活用形をもつてゐた「如し」がその名殘である。平安時代にはそれへ「けれ」の活用形が加はつたのであるが、近世にては「く・い・けれ」の活用になつた。下一段活用といふものは奈良時代には無かつたが、平安時代の中期に下二段活用から變じて生じたものに「ける」の一語があるが、それをはじめとして近世には古代に下二段活用であつたものをすべて下一段活用とした。又、古代に上二段活用であつたものが、奈良時代からぼつ/\上一段活用に變じたものがあり、近世にはすべて上一段活用とした。近世の文語は用言の活用と助詞とは、大體平安時代のものに同じであるが、それは近世に至つて遽に摸倣したものでは無く、おのづから文語として一の流をなして今日に至つたものである。

總じて國語の變遷を觀察すると、その時代別けは上述の如く古代と近世とに分つのが當然と思ふが、それを更にこまかく分けると、上代(文獻の無い時代)・奈良時代(奈良時代及びその前の文獻に見えるものを總括して見る)・平安時代(延暦遷都から後三條天皇頃まで)・鎌倉時代(院政以來を含む)とし、吉野時代を古代の終、近世の始とし、近世を室町時代(信長・秀吉の頃までを含む)・江戸時代・現代とするのがよいやうである。以上に述べた諸種の事項が、自然それらの時代分けと並行してゐる。これらの區別は主として社會に權力を有するものゝ變遷と、その政權所在の土地の差とに基づくものである。         (山田孝雄)

阪倉篤義「国語史の時代区分」


トップ   編集 凍結 差分 履歴 添付 複製 名前変更 リロード   新規 一覧 検索 最終更新   ヘルプ   最終更新のRSS
Last-modified: 2022-08-08 (月) 10:07:23