http://ci.nii.ac.jp/naid/120000980142/
岡島昭浩


 唐音語存疑 岡島昭浩 『文献探究』 第25号 1990年3月

  はじめに

 「唐音語」と呼ばれる語群がある。『言海』の「採収語類別表」に96語が数えられる。その表では「唐音語」は漢語とは別に外来語の中に入れられる。『国語学大辞典』「漢語」の項(森岡健二氏)でも「唐音語の多くは物の名として入り、その点でいわゆる外来語に近い」と指摘されるなど、唐音語は〈漢語のうち唐音で読まれるべき語〉と割り切るわけには行かない。
 漢語を「字音語」と呼び替えることがあるが、これは〈字音で読まれるべき語〉ということで、中国に由来するかどうかの詮索をしない呼び方である。つまり「和製漢語」という語のおさまりの悪さを逃れるための呼び方と言ってよく、「漢音語」「呉音語」という言い方は普通はしない(注1)。「唐音語」とのみ言われるのは、「(唐音が)特定の語と結びついて入り、一字一字の漢字の読み方として定着しているわけではない」(前掲森岡氏)ことによるのであろう。
 さて、「和製唐音語」という言い方はないが、「唐音語」であるかいなかの判断基準は、〈その語が禅宗によって中国から渡来した語であるか〉よりも、〈その語が我が国で既存の漢音呉音と異なった読みをされているか〉にあるようである。禅宗によって初めて中国から渡来した語であっても、それが既存の漢音呉音と同じ音形であれば「唐音語」と呼ばれることはまずない(注2)。既存の漢音呉音と音形が違い、その違いのよるところが、中国語の中世近世音への変化によるものであることを確認した上で「唐音語」であると認定できるのである。勿論のこと、その「唐音語」が輸入された時代の日本語の音韻の状態をも考慮にいれねばならない。ところが従来の「唐音語」認定に際してはこういった手続きが充分でなかったと思われる。その字の別の音(又音)の漢音や呉音を、漢音や呉音の転訛を、訓を、それぞれ唐音とみなすことがあったわけである。古くは文献Yで「漢音呉音および古音の外になほ一種別なる音」と唐音を位置付けたが、中国語中世近世音との比較はなされなかったと思しい。
 漢音呉音と違う音形をとるものには唐音の他に慣用音がある。本来なら、中国の中世から近世の音に由来するものを唐音とし、漢音呉音でなく、唐音でもないものを慣用音とすべきであろう。字音研究の分野では確かにそうなっており、従来慣用音とされたものが漢音や呉音であり、唐音であることが明らかになったものも多い(注3)。
 しかし語彙研究においては「唐音語」と認定するに際してそのような作業が行われていないと見える。慣用音は多用され多くの熟語でその音で読まれるのに対し、唐音「語」という呼び方に明らかなように、ある字が他の熟語での読みとは異なる読みをされる場合に、「唐音語」とされることが多いようである。
 以下、「唐音語」である、と言われることのあるものについて、その疑うべきもの、「唐音語」と認定するにはまだ証拠が十分でないものについて考証することとする。かつて「唐音語」であると指摘されたものは多数ある。近世の語源研究の中では多くの語を唐音起源と見為した人もあるが(注4)、これは「唐音」というのが当時の現代中国語であったことを考えると、「唐音語」というよりも、近代の語源研究家の一部にも見られた〈日本語の中国語起源論〉(注5)にも近いといえようか。こうした〈中国語起源論〉ではなくとも通俗的な書物に於ては「唐音語」を説明した中に一見して唐音ではないものが混入していることがある。はなはだしいものをあげると、茄子ナス、図画ズガ、などである。
 このような極端なものは除いても、国語学の概説書などにあげられている唐音語、国語辞典に唐音語と記されているものの中にも、字音研究の立場からは唐音とは見為しがたいものが見える。それを指摘してゆくのが本稿である。
 「唐音語」という場合、さすがに現代中国語によるマージャン用語や中華料理の名や現行の地名などは含めないが、鎌倉時代輸入のもの・江戸時代輸入のものなど多彩である。いわゆる「中世唐音」によるものと「近世唐音」によるものとがあるわけだが、「唐音語」認定に際してもこれを忘れてはならない。これを踏まえた上で、以下の考察は、
 (1)音の上から中世唐音とも近世唐音とも考えられないもの
 (2)中世(以前)から見える語であるのに中世唐音では説明のつかないもの
 (3)呉音漢音であるのに唐音とされたもの
 (4)その他
の四章に分けて考察することとする。
 まず、考証すべき語を挙げ、その語を唐音語と認定している文献を掲げる。洋大文字のものは最後にまとめて文献名が挙げてある。

  [一]

○「お侠」のキャン(NW)
 『日本国語大辞典』では語源説の欄ではなく、項目の下に唐音と記されている。『倭訓栞』中編で「きやん 侠の唐音成へし」とあるのが、唐音説の古いところであろうか。『俚言集覧』に「きやん 江戸の俗語少女のはすはなるをいふ多くは声妓(げいしや)のものにあり(増)きやんは侠の唐音成へし」。井上頼圀・近藤瓶城の増補は『倭訓栞』によるものであろう。他に『新潮国語辞典』、『新明解国語辞典』、山田美妙『日本大辞書』、平凡社『大辞典』、『角川古語大辞典』、『岩波国語辞典』、林大『言泉』(小学館)、三省堂『大辞林』、学研『国語大辞典』、『広辞苑』、堀井令以知『日本語語源辞典』、同『語源大辞典』、『小学館新選古語辞典』、荒川惣兵衛『角川外来語辞典』、『角川新版古語辞典』、楳垣実『外来語辞典』(?付き)、『小学館古語大辞典』は『喪志編』「唐音にて不埒という詞にかなふなり。当世の人男女ともに少し気負ひ、取りしまりなきをきやんなりといふ」を引く。松村明『江戸ことば・東京ことば』教育出版 昭和55年)上34頁(『ことば紳士録』朝日新聞社 昭和46年初版 同年2刷による。52頁同じ)「『倭訓栞』にしたがうべきであろう」、池上明彦『講座日本語の語彙9語誌III』(明治書院 昭和58年)「ほぼ今日の定説となっている」。
 ところが「侠」は入声帖韻(三十九転四等、協と同音、胡頬切、匣母)、漢音ケフ呉音ゲフであって、中世でも近世でも唐音がキャンというンの韻尾を持つ音形になるはずがない。たとえば『聚分韻略』ではケ、『磨光韻鏡』ではヱ、『唐話纂要』ではヤ(巻六遊侠ユウヤ)である。
 唐音説以外の説を掲げるものをあげると、
 『大言海』(『言海』不立項)「きャん(名)■侠■[きんぴら娘ノ略転シタル語カ、倭訓栞、きやん「侠ノ唐音ナルベシ」] キンピラムスメ。ハスハムスメ。オキャン。オテンバ。」
 日置昌一『ものしり事典 言語篇』(河出書房 昭和27年初版、28年7版による)では(同著者『話の大辞典』万里閣、昭和25年もほぼ同)、
 元禄時代の末から用いられたキホヒという言葉(それは採鉱の用語から来たものである)が、宝暦時代からキヤンとなり、ついでイサミという言葉を生じ、さらに寛政時代からイナセというようになった。
 林甕臣・棚橋一郎『日本新辞林』(明治30年初版 33年9版による)「侠の字より転じたる語」。
 前田勇『江戸語の辞典』(昭和49年 講談社。講談社学術文庫、54年初刷、55年3刷による)で「字の国音」と記すのは、唐音ではないと気付いてそう記したのか。「慣用音」というような意味か。もしそうなら、慣用のできた経緯を説明せねばならない。
 これは人工唐音である可能性もある。「引くは跳ね」や「一は五に」などから(注6)、また「両」をリャンなどと言っていたことからの類推である。近世では「侠」と同音、キョーの「強」は唐音キャンとなる。人工唐音によって造られた語が唐音語と認められるならば、この語も「和製唐音語」として唐音語である可能性は残されるが、「中国近世音に基づく」という、一般的な唐音とは異なることは言うまでもない。近世に「からこと」などと言って外国語めかした日本語を操ることがあったが、これをも唐音語と呼ぶわけには行くまい。
○榻トン(YN、金沢庄三郎『辞林』、平凡社『大辞典』、山田美妙『日本大辞書』、『言海』、『大日本国語辞典』、『言泉』(『ことはのいつみ補遺』)、『広辞苑』、林大『言泉』、三省堂『大辞林』、『新潮国語辞典』。
 榻は入声盍韻(四十転一等、吐盍切、透母。漢音呉音ともにタフ。中世でも近世でも唐音がトンというンの韻尾を持つ音形になるはずがない。たとえば『聚分韻略』では「タ」、『磨光韻鏡』でも「タ」である。
 〓[土敦]の字音か。平声魂韻、都昆切。Nは項目にこの字を出すが語源は榻の唐音とする。平凡社『大辞典』は榻の唐音と記して〓[土敦]の(3)に同じとする。
○甲板カンパン(YKIN、林史典「日本における漢字」『岩波講座日本語(8)文字』、大町桂月・佐伯常麿『誤用便覧』明治44年、山田美妙『日本大辞書』、『言海』、『大日本国語辞典』、落合『言泉』、林大『言泉』、『広辞苑』、『新潮国語辞典』、D、D2、Q2、Q3)
 甲所(Y)、甲高い、甲乙 甲バシル(O)
 甲は入声狎韻、古狎切。『聚分韻略』の唐音カ、『磨光韻鏡』の唐音カ、『唐話纂要』の唐音キヤ(巻五甲冑キヤチウなど)である。
 『大言海』では、
 甲かふノ音便ナリ…かうノかんトナレルナリ庚申(カウシン)ヲかんしん、強盗(ガウダウ)ヲがんだうト云フ例ニテ、甲乙(カフオツ)ヲモかんおつト云ヒシナリ(甲ノ今ノ支那音ハ、ちゃいナリ)とあり、浜田敦氏は「入声音の撥音化する現象」として挙げている(注7)。『大言海』は「庚」「強」のng韻尾と、「甲」のp入声を同時に説いたが、ng韻尾が撥音と同様鼻音性を持つのに対して、p入声は鼻音性を持たないので、別に考えねばなるまい。浜田氏は〈入声音と鼻音の相通性〉と〈促音と撥音の相通性〉で説明するのである。
○納戸ナンド(YKI『国語学大辞典』「漢語」(森岡健二氏))
 納は入声合韻(三十九転一等、奴答切。漢音ダフ呉音ナフ。『聚分韻略』の唐音ナ、『磨光韻鏡』の唐音ナ。浜田敦氏は「入声音の撥音化する現象」として挙げている。
○橘飩キントン(IT、Qでは「京飩、金団、金段、経飩、橘飩」と列挙する。)
 これも入声字で、この字に唐音キンがあるとは考えられない。
 『大言海』橘飩きっとんの転とし、浜田敦氏は「入声音の撥音化する現象」として挙げている。
 『守貞漫稿』二十八編食類「金団 きんとんと字音に云也」。新村出『国語学概説』(金田一京助筆録・金田一春彦校訂、教育出版、昭和49年)も「金団」とする。「団」の唐音がトンであるのは認められるが、これが語源であるかは不明である。
○四百八十寺シン(Y)
 以上の項まではこの字は入声なのでン韻尾を持つはずがない、と簡単に言い切ったが、この項の場合、話は単純ではない。小川環樹氏によると(注8)、中国元代の『詩林広記』に引く南宋の『蔡寛夫詩話』に「淮南間以十為忱音」、南宋の陸游『老学庵筆記』に「八文十二、謂十為〓[言甚]」とある。さらに敦煌写本のチベット文字の転写でも十をsimで写しているものもあり、唐代から十をシムと読むことのあったことが知れる。つまりこの条は前条のような〈中国にあり得ない音だから唐音ではない〉のではなく、〈中国中世近世音(中古音にない特徴を持った)に基づく音ではないから唐音とは言えない〉のである。
 また、小川氏によれば、敦煌資料で「十」をシムと読むのは後続音が鼻音の場合に限られる。すなわち逆行同化である。「十二」の場合も鼻音化していることから、「二」の子音である日母が非鼻音化する以前に「十」をシムと読むことがあったことがわかる(注9)。すなわち漢音よりも古い音であることになる。これを唐音というのは問題があろう。
 「南朝四百八十寺」の「十」をシンと読むのは同化ではないが、いわゆる唐音では決してない。
○黄絹ホッケン(Y)『言海』「字ノ唐音。或云福建(ホクケン)ヨリ出ヅル名ナリト、或ハ、北絹トモ記ス」、『広辞苑』。
 黄は、もちろん入声ではなく、唐音でも促音に読まれる根拠はない。これは北絹の音であろうか。『下学集』もこの字で記している。
○踐〓[心乍]・天〓[心乍]・重〓[心乍]センソ・テンソ・チョウソ(F)
 「〓[心乍]」は入声鐸韻、在各切だが、意味上、「祚」(去声暮韻、昨誤切、福也禄也位也)もしくは「〓[阜乍]」(「祚」と同音)に作るべきである。「〓[心乍]」は恥じる意味で、合わない。誤字とすべきか。
 『黒本本節用集』の「踐〓[心乍]」を除いて他は正しく作る。『伊京集』「重祚」、『饅頭屋本節用集』「重祚」、『黒本本節用集』「天祚」。

 [二]

 例えば「湯婆」をタンポと読むのは近世唐音の特徴である。つまり宕摂の字をンで読むのは中世唐音では有り得ないことである(注10)。タンポという音形は日葡辞書が古いところのようだが、それ以前の「湯婆」という漢字は『温故知新書』「湯婆タウハ」のように読むのが無難であろう。しかし中世唐音といっても全体像がほぼつかめるのは鎌倉時代の唐音であり、中世唐音と江戸時代の近世唐音と区切るべき時代は室町時代のどのへんなのか不明である。タンポという語によって切支丹資料の頃は近世唐音の時期であろうと推定できるわけだが、このような語をもっと丁寧に捜してゆけば、近世唐音の時期がどこまでさかのぼれるかがわかり、国語音韻史にも貢献できるはずである。

○強盗ガンドウ(NQ)他に『新明解古語辞典』、『小学館古語大辞典』(語誌、坂梨隆三氏)『岩波古語辞典』、『小学館新選古語辞典』、『旺文社古語辞典』、『新潮国語辞典』、林甕臣・棚橋一郎『日本新辞林』、『言海』「字ノ唐音ぎやんだうノ転カト云」、落合直文『ことばのいづみ』も『言海』に同じ、『言泉』は「字の宋音」、『大日本国語辞典』、『広辞苑』、『三省堂大辞林』、林大『言泉』。
 初出は『色葉字類抄』、前田本は「強」に去声、「盗」に上声のそれぞれ濁声点が付される。前田本は「カムタウ」、黒川本は「カントウ」と書いてンの横にムと記す。
 「強」は平声陽韻、中世唐音ならばヤウ型を取る(『聚分韻略』で(キヤウ))。よって唐音とは考えられない。
 『角川古語大辞典』は「転音」と記す。
 『大言海』がうだうノ転、五調(ガンデウ)に、強盛(ガンジヤウ)ト書キタルアリ(其条ヲ見ヨ)庚申(カウシン)かんしん。甲乙(カフオツ)かんおつ次項とともに考察する。
○龍膽リンダウ(YO、『言海』、Uの第三部第三章でも唐音と認定か)
 龍の属する通摂は中世唐音でもンをとることがあるのだが、リンという形ではなくルンの形が普通であろう。
 『大言海』では「強盗がんだう庚申かんしんノ類」とするが、奥村三雄氏は「ウとンとの音韻転倒」(注11)、吉沢義則氏は「ウとムと音感が似てゐるので通用したのであろう」(注12)など、一般にはリウタムの転音と記されることが多い。「転音」と言っても、どのような「転音」であるのかを考える必要があろう。細かい考証は改めて行わねばならないが、今、鼻音が本来予想される形とは別の形で現れるものを並べてみる(注13)。

 強盗ガンダウ 龍膽リンダウ
 強盛ガンジョウ 誦ズンず 冷泉レンゼイ 従者ズンザ
  濫僧ラウソウ 困コウず 柑子カウシ 御覧ゴラウず
   臨時リウジ 喧噪ケウサウ 勘事カウジ
  判官ハウグワン 林檎リウコウ 輪鼓リウコ 乱ラウがはし
   半靴ハウクワ 讒言サウケン 反故ハウグ 郡家クウケ
   天気テイケ
  紺屋コウヤ 宣耀殿セイエウデン 仁和ニイワ
  昆明池コウメイチ 椀飯ワウバン 潅仏クワウブツ
   勘文カウモン 面目メイボク
  見参ゲンザウ 無慙ムザウ

以上のように、ダ行の前ではンになり、ザ行の前では揺れ、ガ行ヤ行マバ行の前ではイウに転じることがあるように思える。後続音の調音位置に合わせるように転じるわけである。マバ行の前がウになるのはバ四マ四の音便を考えるとうなずける。
 いずれにせよ龍膽リンダウは唐音によるものではなく、リウタムからの転化とみなすべきものである。
○鴨脚(SDQ3)・銀杏(YMW、U第三部第三章)イチヤウ
 イチョウは鴨脚の中国音ヤーチャオの訛ったものであると説かれたことがある(『新村出全集』四巻「鴨脚樹の和漢名」参照)が、漢字音研究の進んだ現在もそれを認めてよいものだろうか。イチヤウという語形は節用集などに既に見られるが、牙音である「脚」字がチャオと日本語のチに近く聞かれるようになるのはずっと時代が下ると考えられる。藤堂明保氏は清代の『円音正考』によって「ki-とtsi-の混同は18世紀に始まる」という結論を示した(注14)。勿論これは〈混同〉の時期を示すものであって、見渓群母の口蓋化はもっと遡り、tsi-よりも先にtci-になったと言われている。尾崎雄二郎氏によれば元代の『蒙古字韻』のころに始まっていたという(注15)。一方、明末の『西儒耳目資』ではまだkiで写されており、日本の資料でも近世に至っても見渓群母はキで写される。新村氏は南音がki-で北音がtci-であって、イチヤウ以外のものはみな南音であったろう、としている。
 ところが、日本に渡ってきた音を見るに、中世唐音では精母・清母・知母・徹母などの破擦音はチではなくシで写される(注16)日本語のチは1492年の朝鮮版『伊路波』でもtiにあたるハングルで記され(注17)、その時代には牙音がたとえ口蓋化してtci-のようになっていたとしても日本語ではチではなく、シで写されたであろう。『大言海』では「脚(キヤク)ヲちャト云フハ、我ガ国ノ明応年中ニ成レル林逸節用集(饅頭屋本)ノ雑用部ニ「行脚」「アンヂャ」ト傍訓セリ」とあるが(注18)、複製本で見るとこの個所は刷りが薄く判然としない。高羽五郎氏刻『改編節用集』では「アンギヤ」としている。また『温故知新書』「鴨丁ヰチヤウ」は、「鴨」字を「ヰ」と読み、「丁」字を、さらには「脚」字を「チヤウ」と読むという意識がうかがえるが、「鴨脚」がイチャウの語源である証拠にはなるまい。
 なお銀杏の唐音の訛という説も、新村氏が黒川春村『碩鼠漫筆』の説(『疑問仮名遣』参照)を批評してるようにやはり困難であろう。
 ギンナンと比較して、ギンより新しい形と思えるインと、アンより古い形と思えるキャウが一語化したと考えねばならぬことへの疑問は、『塵芥』「銀杏インカウ」の存在で解消できようが、インキャウからイキャウへの変化、キを濁音化させることもなく、ンが脱落するとは考えがたい。『温故知新書』「銀杏キアン」というンが脱落した例は気になるが、この例は音の脱落ではなく文字の脱落である可能性もあり、「銀杏イキャウ」という生きた語があったという定かな証拠とはなるまい。
 また、新村氏も言うようにキャウからチャウへの変化が考えがたい。新村氏は、この変化はこの時代にはない、というが、それはキが口蓋化してもチにはならないことと関連しよう。
 もちろん、一葉が語源でないことは、開合混乱以前の資料にイチヤウとあることから明らかである。イチヤウの語源が「鴨脚」「銀杏」の唐音には求めがたいことを示したまでである。

 [三]

○洗衣セイエ(Y)
 「洗」は、広韻、上声薺韻、先礼切。漢音セイ、呉音サイと『磨光韻鏡』では記されている。『聚分韻略』の唐音では「洗シ」「衣(イ)」であり、エは呉音と考えられるが、『埃嚢鈔』巻二に、禅家名目皆以テ常ナラズ…洗濯ヲハ洗衣(セイヱ)ト云」とあるところから唐音と見なされて来たのであろう。
○居諸キシヨ(F)
 広韻、平声之韻、居之切。姫と同音。韻鏡八転三等。助字。詩経「日居月諸」(「諸」も助字)より、「居諸」で日月の意味。広韻、平声魚韻、九魚切、韻鏡十一転三等の字も唐音でキとなる(『聚分韻略』でもキ)が、この場合のキは唐音ではない、と見なすべきだろう。
○向秀シヤウジウ(F)
 広韻 去声漾韻、式亮切。餉と同音。中国近世語になってからの口蓋化ではなく、河野六郎氏のいう「第一口蓋音化」であり(注19)、呉音漢音ともにシヤウである。近世語の口蓋化が日本の唐音資料(中世・近世ともに)に表れない事はイチヤウの項でも示した。
○捺落ナラク(F)
 仏教語。音訳語の場合、入声韻尾がない形で読まれるのは常にあることで、これは唐音語には当らない。
○杜撰(O)
 大修館『新漢和辞典』、岩垂憲徳『漢字声音談』昭和18年、『大言海』、渡辺紳一郎『東洋語源物語』(昭和48年 旺文社文庫版)。
 撰には広韻で上声〓[犬爾]韻、士免切、述也定也持也、の他に、上声潸韻、雛〓[魚完]切、撰述、あり。韻鏡上の位置はともに二十四転合二等(『磨光韻鏡』では〓[犬爾]韻の字を二十三転三等に置く)。文雄『三音正譌』二十四転呉音に「撰エラフノ時ザンセン二音アリ」、など杜ヅとともに呉音で説明できる。鈴木修次氏『漢語と日本人』もこの「杜撰」を中国近世の俗語であることを記した上で、「呉音読みの「ずざん」、あるいは「ずさん」で国語の中に定着した」と記した。このように、語としては近世のものであっても、音が近世的でなければ「唐音語」とは呼べまい。
○荼毘(H)
 呉音。なぜこれを唐音語にあげたのか不明である。

  [四]

○急焼キビショウ(Y)
 N「急焼」の唐宋音「きゅうしゃ」の変化した語。林大『言泉』
 『広辞苑』、『三省堂大辞林』、『講談社日本語大辞典』。
 Y支那語キプショウ(急焼)を訛ったもの。
 村瀬栲亭『藝苑日渉』今人呼小茶瓶云急備焼。即急須也。須音蘇。国音呼急蘇。猶云急備焼。蓋唐音之転訛耳。
 橘守部『俗語考』かゝる字音は南京をナンキンと云類の唐音より、其音の異風に転ぜしなり。
 松井羅州『它山石』キフシユの音が転じてキビシヨとなりたるなり。
 大槻文彦「若干語の語原」国学院雑誌大正4年「福建の音キビシヨ」。
 唇内入声がまだ-pとして残っている段階の音から転訛したと考えるべきで、P入声がいまだハ行音で残っているのは唐音とは呼び難いのではないか。
○祥瑞ションズイ(YO)『大言海』『大日本国語辞典』
 「祥」は平声陽韻、似羊切。中世唐音ならシヤウ(『聚分韻略』(シヤウ))、近世唐音ならシヤン。しかし、これは多種多様な音が伝わった近世期のものであり、このような方音が伝わったことも考えられはする。今後の考証が必要である。
○法被ハッピ(YKI)
 唐音において時折「石灰シックイ」「竹篦シッペイ」「直歳シッスイ」「剔金ヂッキン」などのように、入声が三内のいずれであるかに関わらず促音の形で表れることがあるのは、「わが国での訛りであろう」(注20)ではなく、中国語に於て三内入声が合流して声門閉鎖になっていたためであろう(注21)。
 一方、小松英雄氏によると(注22)、「新来の宋音とは一応無関係に起こった、国語自体の音韻変化」として〈唇内入声韻尾の促音化〉がある。
 この「法被」などのように舌内入声以外の入声が促音になっている場合、それが中国近世音によるものなのか、〈国語自体の音韻変化〉なのかを見極めねばなるまい(注23)。
 「法被」の場合は『禅林象器箋』に見えることから、〈唐音によるもの〉と言ってよさそうだが、「洗衣」「杜撰」の項でも触れたように、禅宗の言葉でも中国近世音によらないものもあるし、また「唐音語」における「唐音」を「漢音呉音および古音の外になほ一種別なる音」と位置付ける場合には、漢音呉音で説明が可能であるゆえに、唐音語からははずさねばならない。
 さらに今で言う意味のこの「ハッピ」という語は新村出「法被を着て」全集十一巻によれば、半臂の転とするが、その他、浜田敦「促音と撥音」など、そうする説は多い。『禅林象器箋』に見える法被の語は、意味が別である。すると、今言うハッピを唐音語と認めるのはますます難しかろう。

  [五]

 以上、いくつかの「唐音語」について、その唐音ならざること(あるいは漢音呉音読みで説明可能なこと)を考証してきた。最初にも述べたように、「(唐音が)特定の語と結びついて入り、一字一字の漢字の読み方として定着しているわけではない」ので、転訛したものとの区別がつきにくい。しかし中国語と照らし合わせれば、ある種のものは〈唐音によるものではない〉と判断できるわけで、本稿の立場はそこにある。一方、呉音漢音で説明が可能なものは、本稿では唐音語からは除いた。これに対しては反対意見も予想されるが、中世に輸入した漢語をすべて唐音語と捉えるわけにもいかない。唐音の読みで説明できるものを唐音語と認定すればよいとなると、かつて挙げられてきた唐音語だけでは考察の対象として少なすぎるし、一般にいう唐音語とは大きく意味がずれることになろう。あくまでも「漢音呉音および古音の外になほ一種別なる音」という立場を守った所以である。

(注1)鈴木修次『漢語と日本人』(昭和53年みすず書房)には見える。
(注2)「唐音」自体は漢音呉音と同型であっても「唐音」であるが、「唐音語」と呼ばれるものは漢音呉音とは異なる音形を必要とするのが通念のようである。参考文献Fでは「呉音と同型の唐音が幾つかあるが、用例の年代の新しいものは唐音と認め」とする。
(注3)漢音呉音唐音である、というのは〈中国原音に基づく〉ということであり、慣用音である、というのは〈中国原音には基づかない〉ということである。高松政雄『日本漢字音の研究』(昭和57年風間書房)第六章(1)慣用音参照。
(注4)例えば、新井白蛾『闇のあけぼの』「世俗の悪き事は何にかぎらずヒヨンなことゝいふ。是は凶の字の唐音ヒヨンなるを和語に用ゐ来れり」など。
(注5)ハイを「灰」の字音と見たり、火を「輝」などの字音と関連づけたりする立場。
(注6)有坂秀世「唐音を弁ずる詞と韻目を暗誦する詞」『国語音韻史の研究』(昭和32年増補新版三省堂)もと「国語研究」昭和15年。湯沢質幸「唐音名目系統考」『馬淵和夫博士退官記念国語学論集』(昭和56年)。
(注7)浜田敦「促音と撥音」『国語史の諸問題』(昭和61年和泉書院)もと「人文研究」1-1・2昭和24年。
(注8)小川環樹「南朝四百八十寺の読み方-音韻同化assimilationの一例-」『中国語学研究』(昭和52年創文社)もと「中国語学」100号昭和35年。
(注9)高田時雄『敦煌資料による中国語史の研究-九・十世紀の河西方言-』(昭和63年創文社)149頁をも参照。
(注10)有坂秀世「諷経の唐音に反映した鎌倉時代の音韻状態」『国語音韻史の研究』もと「言語研究」2昭和14年。浜田敦「音便-撥音便とウ音便との交錯-」『国語史の諸問題』(昭和61年和泉書院)もと「国語国文」23-3昭和29年。奥村三雄「喉内韻尾の国語化」「国語国文」19-3昭和25年。同「撥音ンの性格-表記と音価の問題-」国語学23昭和30年。同『聚分韻略の研究』(昭和48年風間書房)。文献U第二部第三章、もと「山形大学紀要(人文科学)」8-2昭和50年。迫野虔徳「中世的撥音」「国語国文」56-7昭和62年。など。
(注11)(注10)の奥村三雄「喉内韻尾の国語化」
(注12)吉沢義則『国語史概説』(昭和6年初版同年再版本では65頁、昭和21年初版22年2版本では184頁。
(注13)用例は、奥村三雄「韻尾国語化について」「説林」3-1昭和25年などによる。
(注14)藤堂明保「ki-とtsi-の混同は18世紀に始まる」『中国語学論集』(昭和62年汲古書院)もと「中国語学」94号昭和35年。他に、日下恒夫「中国近世北方音韻史の一問題-北京方言声類体系の成立-」「東京都立大学人文学報」91昭和48年。太田斎「尖団小論」「東京都立大学人文学報」140昭和55年など参照。
(注15)尾崎雄二郎「大英博物館本蒙古字韻札記」『中国音韻史研究』(昭和55年創文社)もと「人文」8集昭和37年。
(注16)有坂秀世「諷経の唐音に反映した鎌倉時代の音韻状態」、「唐音に反映したチ・ツの音価」『国語音韻史の研究』。後者は「音声学協会会報」47昭和12年。
(注17)奥村三雄「古代の音韻」『講座国語史2音韻史・文字史』(昭和47年大修館)参照。
(注18)大槻文彦「国語語原考第五回」国学院雑誌26巻3号も同じ。
(注19)河野六郎「中国音韻史研究の一方向-第一口蓋音化に関連して-」『河野六郎著作集2』(昭和54年平凡社)もと「中国文化研究会会報」1-1昭和25年。
(注20)佐藤武義「中世文化と唐音」『漢字講座6中世の漢字とことば』(文献F参照)。
(注21)-p,-t,-kという閉鎖が古くのようにフ、ツ・チ、ク・キとは聞き得なく(日本語・中国語いずれに理由があるのかはともかく)なっていたため、という可能性もある。
(注22)小松英雄「日本字音における唇内入声韻尾の促音化と舌内入声音への合流過程-中世博士家訓点資料からの跡付け-国語学25号昭和31年。『日本の言語学』7などに再録。
(注23)いわゆる「慣用音」研究においてもこのことは考えにいれるべきかと思われる。日本での「百姓読み」と中国本土での〈諧声符による読み〉が、たまたま同じになることもあり得るからである。

参考文献
D藤堂明保『漢字の知恵-その生立ちと日本語-』昭和40年初版41年6刷による。
D2藤堂明保『漢語と日本語』昭和44年初版48年5版による。
F藤原浩史「唐音一覧」『漢字講座6中世の漢字とことば』昭和63年古本節用集中の唐音語を抜き出す。
H外間守善・佐川誠義『日本言語学要説』朝倉書店昭和59年のうち中本正智「語彙」。
I岩淵悦太郎『国語概説』学芸図書昭和23年初版31年9版による。
K『国語史辞典』「唐音(唐宋音)」の項(京極興一)昭和54年初版による。
M『時代別国語大辞典室町時代編』
N『日本国語大辞典』小学館縮刷初版による。
O大槻文彦「外来語原考」「学芸志林」14巻
Q中山久四郎「唐音考続編」「史学雑誌」29-11
Q2中山久四郎「唐音十八考」「東京文理科大学文科紀要」第三
Q3中山久四郎「唐音語の研究と其実例五則」『支那史籍上の日本史』雄山閣昭和4年初版11年再版本による。
S鈴木真喜男・長尾勇『新編国語要説』学芸図書昭和54年初版55年修正2刷による。
T東条操『国語学新講』筑摩書房昭和40年初版44年6刷による。
U湯沢質幸『唐音の研究』勉誠社昭和62年初版による。
W『岩波古語辞典』
Y山田孝雄『国語の中に於ける漢語の研究』昭和15年初版同年再版本による。

『聚分韻略』の唐音は奥村三雄『聚分韻略の研究』の慶長壬子版による。また、括弧内の唐音は、漢字の左側に付音がなく、右側の音が唐音と同じ音形であろうと判断されるものである。

-京都府立大学女子短期大学部講師-


トップ   編集 凍結 差分 履歴 添付 複製 名前変更 リロード   新規 一覧 検索 最終更新   ヘルプ   最終更新のRSS
Last-modified: 2022-08-08 (月) 08:44:10