大矢透以前の 史的五十音図研究
岡島昭浩(2004)
『語文』82

 五十音図を研究する、ということについては、さまざまな方法や視点がある。そのうち、歴史的にこれを研究したもの、ということで言えば、まず我々が思いつくのは、馬淵和夫(一九九三)・山田孝雄(一九三八)・大矢透(一九一八)であろう。大矢透以前について、山田孝雄(一九三八 六~七頁)には、次のようにある。


この大矢氏のその著の先縦を爲したものは文學博士佐藤誠實で、氏は之を明治二十五年八月の大八洲雑誌に發表したのである。その前には榊原芳野が明治十一年の文藝類纂の字志上に五十音圖諸體として少しく述ぶる所あるを見る。更に遡れば、平田篤胤の古史本辭経に於いて之を論ずるを見る。

大矢透(一九一八)には、

此の篇の編述を了れるまでには、故谷森善臣翁よりは、貴重なる材料を附與せられ、文學博士大槻文彦、田中勘兵衛、山田孝雄、橋本進吉、高野辰之、福井久藏等の諸氏より、材料を供給せらるるのみならず、種々懇篤なる注意を辱くせることは、編者の感謝に堪へざるところなり。(凡例)
先づ兼て故文學博士佐藤誠實翁、之を集めて、雜誌大八洲に載せたりしを基礎として、其の圖の蒐集を企てたりき。然るに幸ひに、多年、此の図の事に心を用ゐられし故谷森善臣翁、其の他の諸先輩によりて、研究上最も重要なる數圖を加ふるを得、又假名沿革史料蒐集の際、圖らず得たるもあり、(三~四頁)

とあるが、本文にあたっても、どの部分が先学によるものであるのかが分明でない。現在の学術論文のように、明瞭にそれを示す習慣のなかった時代によるものであろうが、岡島(二〇〇三)で見たように、大矢透(一九一八)の「第二章 阿女都千詞」で引用した文献を、「第三章 大為爾歌」でも引用すべきものと思われるのに引用しないために、大矢透(一九一八)以前には大為爾歌に言及した文献がないかに見える、というようなことがあるのである。

 大矢透が、五十音図の史的研究史上において、どう位置づけられるのかは、大矢透以前にどこまで研究が進んでいたのかを見ることなくして語ることは出来ず、本稿の目的は、その一端を探ることにある。

 堀秀成等、いわゆる音義派のものを見ていると、五十音図の史的研究には殆ど関心がないかに見える。たとえば、橘守部は、『五十音小説』冒頭で、「此五十連音は誰が作など云べき物にあらず」と書いている。神授説をとるのも同様であるが、江戸期の学者が皆そうであるわけではない。

 音義派に影響を与えていると思われる平田篤胤は、『古史本辞経』(文政二年序)で五十音図の太古の姿を考えるために、当時残っていた五十音図をいくつか挙げている(五位十行が完備しているものでなくとも、「五十音図」の中に含めて挙げる。本稿で主に述べる谷森善臣は、「カケコクキ、ハヘホフヒ、ラレロルリ等と見えたるは、当時斯在る音図の世に行はれしに依て、然説出されたる者なるべき」(『五十音図纂』第九寿永音図の条)という考え方である)。

荷田家に伝わるもの・『下総本和名類聚抄』の巻首にあるもの・『管絃音義』・『倭片仮名反切義解』

などであるが、「誤図」の発生についても考察するなど、史的研究と呼びうるものである。韻鏡の「五音五位之次第」についても、寛永五年版・同十八年版・明暦二年版・寛文二年版・元禄六年版(『校正韻鏡』)・同九年版を比較している。『和字正濫抄』『和字大観鈔』『あゆひ抄』『日本書紀通證』も参照しており、多数の五十音図を集めていたことが分かる。
 篤胤と違って神代文字を否定したことで知られる伴信友は、『仮字本末』で、片仮名を説く際に五十音図をいくつか示している。「倭片仮名反切義解』『天文本和名類聚抄』『古今集註』『古今袖中抄』『釋日本紀』「越後国伊夜比子神の社司の家に文明九年に写せる神代文字なりと云へる五十連音図」を挙げている。
 明治に入り、榊原芳野『文芸類纂』(明治十一年)の「字志」上にも、五十音図を挙げてある。

『袖中抄』・『管絃音義』【文治元年著】所載自序・『天文本和名抄』・『釈日本紀』・『倭片仮字反切義解』・越後国蒲原郡伊夜比子神社に伝ふる所【仮字本末に援くところ】

 佐藤誠実(一八九二)では、

『倭片仮字反切義解』『管絃音義』『二中歴』『天文本和名抄』『韻鏡開奩』『和字正濫鈔』『和字大観鈔』『釈日本紀』『金光明最勝王経音義』『悦目抄』

を挙げる。近世期のもののほかに、『金光明最勝王経音義』が加わっているのが目を引く。この『金光明最勝王経音義』は山川真清(源真清)の蔵書であったものを、横山由清が写し、さらに黒河春村・木村正辞・森立之といった人が考証したことによって国学者たちの目に触れることになったものである。安政七年三月十日の黒河春村識語によれば(九州大学文学部蔵の昭和八年写本による。浜野知三郎氏蔵本を写したもの)、その時点ですでに山川真清は亡くなっており、新宮藩の蔵書となったとのことである。佐藤誠実は、

此五十音の古く見えたるは、我が是まで見し書の中にては、承暦三年に写せる、金光明最勝王経音義に、五十音の濁音を挙げて、婆毘父(夫)倍菩 駄(堕)地(時)頭(徒)弟【中欠】我(向)義(疑)具(求)下(夏)吾(五) 坐自(事)受是増とあれど、偽書なるべし。

と記し、これを偽書と考えていたようである。なお、横山由清の写本は、最終丁を写しておらず「五音又様」「五音」などは見えない。

 さて、後に『音図及手習詞歌考』を書く大矢透は、明治三十一年、『学窓余談』(第一巻第二号)に「五十音」と題した文を発表している。これは、五十音図を集めることが目的ではなく、その配列等を考証するものであり、「佐藤誠実翁の列挙せるものに就きて、行列の異同を比較」している。袖中抄・管絃音義・二中歴・倭片仮字反切義解・天文本和名抄・韻鏡開奩をまず挙げるわけだが、アヤワ行を論じる部分では、

『天文本和名抄』『管絃音義』『二中歴』『倭片仮字反切義解』『韻鏡開奩』『和字正濫抄』『和字大観抄』『字音仮字用格』

を挙げている。またほかに、「賀茂真淵語音考(ママ)」「漢字三音考」「あゆひ抄」「谷川士清日本通證(ママ)及和訓栞」「奥義鈔」「袖中抄」を引用している。「詳細は佐藤氏五十音考、榊原芳野の文芸類纂、伴信友の仮字本末など合考して知るべし」ということであり、この時点ではさほど多くの五十音図を集めてはいなかったように思われる。

 さて、これより早く、大矢透や佐藤誠実より多くの五十音図を集めていた人がいた。上に引いた『音図及手習詞歌考』の文章中にも「多年、此の図の事に心を用ゐられし故谷森善臣翁」とされる、谷森善臣である。
 谷森善臣の書き残したものは、さほど多く刊行されてはいない。稿本が多く宮内庁書陵部に蔵されているのみである。そのうち『谷森靖斎翁雑稿』という名で整理されている随筆は、天保十四年から明治四十年まで書き続けられたもので、その時々の谷森善臣の関心を追って行くことが出来る。
 『靖斎翁雑稿』の第十三冊「十郎」は、表紙に「明治十一年七月」と記してあり、ここにある程度纏まった五十音図に関する記述がある。上記『文藝類纂』は「明治十一年一月」と見返しにあり、その頃出版されたと考えられるが、この『文藝類纂』字志を見たのが、善臣の抄記の契機かもしれない。しかしその抄記は、『文藝類纂』を引き写したものではなく、それを足がかりに文献を渉猟しているようである。『文藝類纂』も引く『管絃音義』に始まり、「神字日文伝に載する処 阿比留伝ふる神字」「和名類聚抄古本巻首に載せたる五十音図」『倭片仮名反切義解』「寛永五年刻また寛永十八年刻の韻鏡の巻首に載たる五音五位次第と標せる五十音図」『語意考』『日本書紀通證』『あゆひ抄』、さらに『金光明最勝王経音義』に触れて別の記事が入ったあと『金光明最勝王経音義』を詳しく記し、さらに『和字正濫抄』「大槻茂〓の記せる皇国五十音辨に見えたる処」(『西音発微』の一部)を挙げる。つまり、明治二十五年の佐藤誠実よりも早く、『金光明最勝王経音義』を、明治十一年の時点で挙げているのである。
 谷森善臣は、その後も五十音図についての考証をたびたび行っている。明治十三年に書き始めたと思われる『声韻図攷』もそれであるし、「明治十二年起草」とある『五音借名』もそれに通じるものである。他にも何度か書いているが、その最終稿と思われるものが、『五十音図纂』(整理番号:谷一〇七)である。明治二十五年に序を書き、最後に「明治廿八年十月十七日校訂訖」とあり、さらに明治四十年頃の付記がある(後述)。同名の『五十音図纂』(谷三五)もあるが、これは、その一段階前の稿本であり、途中がとんでいるところから、一部はそのまま「谷一〇七」へ綴じ替えられたものであろう。それ故、この「谷三五」が、何時の時点でのものであり、またその時点で、どれほどの音図を見いだしていたのかを見極めることは難しい。
 明治四十年の付記がこの書に付けられていることもあり、五十音図を集めたものとしては最終的な姿と思われる『五十音図纂』(谷一〇七)を中心に見て行くこととする(『真名五十字稿』は五十音図を集めたものではない。)。なお、五十音図を集める、と言っても、その音図は、文献などに載せられたそのままの姿ではなく、文献に見られる断片などから善臣が再構築した音図を集めた、と見るべきである。その音図の種類は、文献によってではなく、配列のしかたと使われている文字によって決まる。これは大矢透も似た考えであったように思える(「五十音図證本」の第九図参照)。
 さて、岡島(二〇〇三)で、善臣の研究を「平田篤胤とは違って歴史的に」と書いたのは、二重の意味で訂正しなければならない。一つは、篤胤も歴史的であったことであり、もう一つは善臣も理念的な部分を多く持つことである。
 まず、谷森善臣は、平田篤胤同様、神代文字の存在を肯定していたことを押さえて置かねばならない。このことが、後に研究史上無視されてしまうことと関係するのかもしれないが、五十音図を収集した事実を以下に見て行きたいのである。
 さて、善臣は、五十音図の第一図として、篤胤『神字日文伝』に掲げる「ウオイエア・アマヤカナラタハサワ」順(以下五十音図の配列を述べるときには、このように、「母音の順序・子音の順序」で記す)の図を挙げ、「吾日本の大八洲国に上古神聖の創製《はじめつく》らしし声字の宝典」としている。また、篤胤が『古史本辞経』で説を変えて、この図を「応神天皇の御代に編製れる者ならむと云れたりしは前説に違ひて甚じき謬論なり」と難じる。これについては、「平田翁は此僻弁(伴信友『神代字弁』)に驚かされて……翁の持論に違ひたる僻論をも捏出されたりけり」と書いている。谷森善臣は伴信友の弟子とされるが(『国学者伝記集成続編』など)、文字や音図については篤胤からの影響が強いようである。善臣は、信友と篤胤を比較して次のように書いている。「伴翁は退思に専にして進取に乏しく、平田翁は進取に急にして退思に乏し。是二家の交義を全く為〓在りし原由ならんと窃に攷へらるるなり」。
 なお、善臣は後にこの「アマヤカナラタハサワ」を「アサハタカナラヤマワ」と訂すべきであると考えたようで、その旨、付箋がしてある。このように、「古図」を訂する態度があったことも、善臣の学のありかたとして押さえて置かねばなるまい。

 第二図は、岡部春平『茶記贅言』(嘉永六年刊)に載せる「出雲国出雲郡日御埼社神庫に伝はれる真名走書の五十音譜」である(善臣の言う「真名」は神代文字「比布美」のこと)。これは、「アイウエオ・アカハサタナラマヤワ」で、ア行の次に清濁の区別を有する行を次第したところを「音声の本末清濁を剖析《わかち》たる者なるが如し」としている。アイウエオの順ではあるが、行の順によって第三図よりも古いものであると考えたのである。

 第三図は「天平音図」。『倭片仮名反切義解』の「アイウエオ・アワヤタナラハマカサ」は、吉備真備がそのように並べたものが伝わったということで、「天平音図」と呼んでいる。これは平田篤胤も引用しているものであり目新しくはないが、この第三図の参考資料として「承暦三年四月に録《しる》せりし金光明経略音義に載在る濁音借字」が出てくる。前述のように、佐藤誠実(一八九二)も取り上げるものではあるが、善臣は早く明治十一年の時点で抄記していた。これはバダガザの順序であるということで、「天平音図」から濁音行のみを抜き出した「ダバガザ」の「ダバ」が前後したものと考えて、この「天平音図」の参考図としたのである。当時、『金光明最勝王経音義』は最終丁が写されていない形で知られていたので、「五音又様」(アイウエオ・ラワヤアマナ/ハタカサ)「五音」(アエオウイ・ハタカサ/ラナマアワヤ)は資料に入っていない。これを知っていれば、バダガザの順序の捉え方も違っていたのではないか、とも思える。「五音又様」「五音」は、清濁の区別を有する行か否かで配列しているので、善臣がこれを見ていれば第二図の中に入れたのではなかろうかと思うが、「アエオウイ」の順序については第九図との関係を考えたであろう。
 なお、この条下では、吉備真備の時代には悉曇学はないので「天平音図」には悉曇学の影響はない、ということを力説している。

 第四図は「承平音図」で、「和名類聚鈔古本の巻首に載て伝はりたる図」である。「アイウエオ・ラマアカサタナハワヤ」。平田篤胤が見た下総の平山満晴蔵の天文本は、狩谷掖斎も見た本でその写本は残るが、下総本そのものは所在未詳のようである。

 第五図は「長和音図」で、『五韻次第』に載せられた図で、後に大矢透が最古の五十音図と認定したものである。大矢透も「此の書は、谷森翁の所蔵」としているが、五十音図研究史において谷森善臣が登場するのは、この『五韻次第』の所蔵者としてのみであったと言ってよい。これは、芝家蔵本(寛文五年写本)を写したもので、後に山田孝雄(一九三八)では、その寛文写本により、善臣の誤写等が訂正されることになる。
 この第五図の条下には、林崎文庫蔵の『仮名遣近道』に載せる音図についても言及している。これは『五韻次第』の音図と配列も万葉仮名もほぼ同じだからである。大矢透はこの図についても「谷森善臣氏の手写せるものによる」としているが、林崎文庫本は他本と比べてオヲの所属が正しいことなどに着目している。神宮文庫蔵の『仮名遣近道』は、『国語学大系』の『仮名遣近道』に対校本として使われていて、オヲ所属は、橋本進吉蔵写本に同じく、「所属の正しい」位置にある。(『国書総目録』や『神宮文庫図書目録』(一九二二)に載せるのは元文四年書写のもののみであるが、中山綾子(一九六五)によれば、神宮文庫蔵『仮名遣近道』には二本がある。また、木枝増一(一九三三)をも参照)

 第六図は「寛治音図」で、明覚の『反音作法』に載せる音図である。「アイウエオ・アカサタナラハマヤワ」。嘉暦三(一三二八)年の古写本に依ったという。大矢の第四図「異本反音作法に記したるもの」に近いが、それと比較すると、ワの仮名を「禾」とするのは「京都市田中勘兵衛氏所蔵四半粘葉装本」に近い。マの仮名を「丁」に近くしないのは神尾文次郎氏蔵本に近いようであるが、本文中では「丁」に近く書いていることもあるので、善臣が田中勘兵衛の蔵本によっている可能性は高かろう。大矢透の第二十図も田中本『反音作法』の巻末に載せるものであり、第二十図の説明中にその図の直後にある書写識語をのせるが、これは善臣の引くものとほぼ同じ嘉暦三年の識語である。善臣もこの図(「アイウエオ・タナカマサハラワヤア」)を見たのではないかと思われるが、言及していない(田中勘兵衛は善臣の教えを受けた人物である。川瀬一馬(一九八二:一五三頁)参照。川瀬一馬(一九八二:二一九頁)によれば、田中勘兵衛の考証随筆は、「太郎」「次郎」「三郎」と題されたものであったといい、これは善臣のものと同様の命名である。残念なことに所在不詳とのことである)。
 なお、田中本の『反音作法』は、川瀬(一九八二)の七三頁、国立歴史民俗博物館(二〇〇〇)の二二七頁にあり、国立歴史民俗博物館に所蔵されているが、未見である。

 第七図は「承徳音図」で、第六図と同じ明覚の『梵字形音義』に載せるものである。宝永二年の写本によるものという。「アイウエオ・アカサタナハワヤラマ」で、第八図「仁平音図」と配列・万葉仮名ともに同じであるので、一つに纏めるべきであるが、天台の悉曇家である明覚がこれを用いていることに着目し別立てしたとのことである。

 その第八図「仁平音図」は、『密宗肝要抄』で、醍醐寺三宝院のものを「京都友人の贈りおこせたる者」であるという。大矢透の第十三図では、田中勘兵衛氏が醍醐寺三宝院のものを抄出したものによる、ということなので、善臣のいう「京都友人」は、第六図のことを考えても田中勘兵衛の周辺人物ではあるまいかと思われる。なお田中勘兵衛は、安政四年、十九歳の時に四十一歳の善臣に入門していて、「友人」は田中勘兵衛本人ではないように思われる。中田祝夫(一九六九)が指摘するように遠藤嘉基(一九五二:六~八頁)同(一九四九)が原本を調査したものによると、大矢透(それを引用する山田孝雄も)の「阿伊烏衣於(アイウエヲ)・和為于恵遠(ワヰウヱオ)」としているものが、「アイウエヲ・ワヰウエヲ」であるという。善臣も大矢透と同じ「アイウエヲ・ワヰウヱオ」であり、同じ抄出本によっている可能性を感じる。ただし、『靖斎翁雑稿』の第二十二冊「餘六」には、模写と思われるものが挟み込んであり、これでは「アイウエヲ・ワヰウエヲ」となっている。

 第九図「寿永音図」と名付けられたのは、現存しない音図である。すなわち、顕昭の『古今集注』『袖中抄』に引かれる教長『古今集注釈』に見える「カケコクキ・ハヘホフヒ・ラレロルリ」の背後にあったと考える、五十音そろった音図がそれである。大矢透も同様にこれらを纏めて第九図「古写本教長古今集註、顕昭古今集註、袖中抄、仮名日本紀に散見せるもの」としている。全貌はつかめないが、部分的に「アエオウイ・アカサハタラ」と掲げている。

 第十図「文治音図」は、『管絃音義』に見えるもので「アウイオエ・アカワサヤハマラタナ」。

 第十一図は、書写年などが未詳のため、名前にも元号は入っておらず、「文字反音図」という名である。「アイウエオ・アカタサハナヤワラマ」。『文字反』は、赤堀又次郎『語学叢書』明治三十四年に模刻されている(解題に「五十音圖の事等につきて論ぜんとする輩、此書に於いて棄ること能はざるものあるべし」とある)から、大矢透も目にしていると思われるのであるが、大矢透はこれを取り上げていない。善臣も赤堀又次郎も、高山寺の朱印があると書いているし、表裏二面という点も共通するので、同じものを見ていると思われる。馬淵和夫(一九九三)は筑波大学に入った原本をカラー写真で掲げている。

 第十二図も年月未詳で「醍醐音図」。醍醐寺三宝院所蔵の『梵字伊呂波』所載の音図である。「アイウエヲ・アカサタハタラマナワ」。これは、大矢透・山田孝雄・馬淵和夫の取り上げない音図である。

 第十三図「弘安図」は、『阿娑〓抄』百九十一巻『反音鈔』の音図である。「アイウエオ・アカサタナハマヤラワ」という現在と同じ配列の音図で、例えば「カ」のところに「キア・クア」を書いてある、近世期の韻鏡でよく見るものである。大矢透の第十七図「古写本反音抄に挙げたるもの」にあたる。

 第十四図・第十五図・第十六図は「元弘音図」「元弘音図の二」「元弘音図の三」で、これは、『二中歴』に、

  反音五音 手以アタナカマサラハマヤ 為次
       心以アカタラサハナワマヤ 為次
  アイウエヲカキクケコサシスセソタチツテトラリ□レロ
  ナニヌネノヤイユヱヨワヰウヱオハヒフヘホマミムメ□

とあるうちの、後二行「アイウエヲカキクケコ……」とあるのが、第十四図(大矢透の第二十二図。佐藤誠実もとりあげる)であり、「アタナカマ……」から想定される「アイウエヲ・アカサタラナヤワハマ」の図が第十五図、「アカタラサ……」から想定される音図が第十六図である。

 第十七図「永和音図」は『法華経音義』の音図である。「アイウエヲ・アカヤサタラナハマワ」。大矢透第廿三図と同じく、田中勘兵衛氏の蔵書によるものであろう。この『法華経音義』は『醍醐経音義』の名で、川瀬(一九八二)の八九頁、国立歴史民俗博物館(二〇〇〇)の二五〇頁にあり、国立歴史民俗博物館に所蔵されている。

 このあと時代が大きくとぶ。「アイウエヲ・アカサタナハマヤラワ」の音図が多くなったことにより、異なる図が少なくなったためであろう。上記、『靖斎翁雑稿』の第十三冊「十郎」には引く「寛永版韻鏡」『語意考』『日本書紀通證』『あゆひ抄』等は載せないのである。

 第十八図は「文化音図」。藤原彦麻呂(斎藤彦麿)の『音声餘論』に載せるものである。「アエイオウ・アワカヤハマサナタラ」。彦麻呂が古い音図を知らずに原理だけでこの配列にしたことを、善臣は「賛歎するに餘あり」としている。

 第十九図は「文政音図」。木村豊平『五十連音麻曽鏡』に載るものである。配列はオヲの訂された一般的なものであるが、アヤ行のイエ、アワ行のウが区別されている。

 第二十図「天保音図」は、野之口隆正『神字小考』の「古字」で書かれたもの。「アイウエオ・アカサタワハマナラヤ」

 そして、これまでの命名法からすると「嘉永音図」とでも呼ぶことになるものと思われる『古史本辞経』の訂正図(大矢透は第卅五図として引く)は、「仏家音図の次第に全く同くして」、ラ行とワ行とを入れ替えただけなのでここには引用しない、とのことである。

 第廿一図は「明治音図」と名付けているが、これは「東京の書肆に購得たりし韻鏡古抄の古写本中に載在りし仮名音図」である。しかし、善臣はこの図をそのまま載せることはなく、「明治音図補正」という改訂図(「真名」を付す)を挙げるのみである。宮内庁書陵部の谷村本のうち、「韻鏡古抄」といいそうなものは『韻鏡造〓抄』であろうか。

 この第廿一図のあとに総論・附論のようなものが来る。五十音図と動詞活用の関連について、『御国詞活用抄』『八衢疑義』などを引用して述べている。『八衢疑義』は「漢呉音図を著されし」太田全斎の弘化四年のものであるというが、太田全斎は文政十二年に没しており、この弘化四年が何の年期なのかは不明である。『八衢疑義』も所在が不明である。さらに、善臣の訂正音図ともいうべきものをあげたり、常用文字が「真名」(神代文字)から仮名へ替わった経緯を考証したりしている。(古田東朔(一九七八)をも参照)

 この書は「明治廿八年十月十七日校訂訖」として終わるが、その後に、追加された第廿二図「孔雀音図」がある。これは醍醐寺三宝院の『孔雀経音義』の五十音図であるが、「前年大矢透の彼宝蔵に就て数多の古経を披閲して希に見得たる音図にて、明治卅九年十二月、大矢氏の模写して贈られたる」とある。大矢透の第二図であり、山田孝雄以降、第一図よりも古い最古の五十音図とされているものである。大矢透は明治四十年八月に発見したと記し、「大矢透翁自伝」でも、明治四十年の夏休みに京阪地方の社寺を巡ったとある。善臣は『靖斎翁雑稿』の第二十二冊「餘六」に、

此図は大矢透の醍醐三宝院の経蔵に就て写し来たれるを見せたれば写留めて後攷に備ふるなり (中略) 明治二十五年九月廿三日善臣が著述せる声之五十名に載在たる古哲の音図は廿一図あれども此孔雀明王経音義冊尾に見えたる一奇図はいまだ見得ざりし 前年【十五年】の事にして此一図を載漏れたりしは遺憾少なからず 今明治の四十年一月此一奇図を見て声之五十名に追録して疎漏を補修せむとして先此図様を訂正し試みたるなり

と記している。

 ここまで、谷森善臣の五十音図研究を、歴史的研究の面から見てきた。善臣自身のねらいは歴史的研究と言うよりも、五十音図の本質を探るための資料集めであろうが、ここでは、大矢透に繋がる部分を探ろうと見てきた。ここで、大矢透の挙げた図について、それ以前に誰かが指摘した物であるのかを見ておくと、大矢透の三十五図三十八点(第九図に四点ある)のうち、善臣は、一、三、五、九のうち三点、十、十三、十七、二十一、二十二、二十三、二十五、二十七と三十五の『古史本辞経』に見える二十八、二十九、三十一-から三十四、さらに善臣の第六図と同じ資料に見える二十を合わせれば、計二十二点知っていたものと思われる。知らなかったと思われるのは、二、四、六、七、八、九のうち「仮名日本紀」、十一、十二、十四、十五、十六、十八、十九、二十四、二十六、三十の十六点ということである。
 中田祝夫(一九六九)は、大矢透の取り上げていない五十音図についての資料として、『九条家本法華経音』『承暦三年本金光明最勝王経音義付載』『文字反』を挙げるが、後の二つについては、善臣が既に取り上げていたものである。また、善臣の第十二図は、その後取り上げられなかったものであるし、近世期の第十八図から第二十一図(また第二図)についても、大矢透は指摘していない。

 善臣は『靖斎翁雑稿』の第二十二冊「餘六」に、次のように書いている。


予曩に声韻図攷の稿草を起したるも未だ其功を終へず 僅かに音図説略を著はして端緒を発したれども亦能く業を遂ぐるに至らず

「業を遂ぐる」ところまで行かなくても、その一部でも公にしてくれていたら、大矢透やそれ以降の研究も若干かわったものになったのではなかったろうかと惜しまれるものである。

引用に際して、漢字字体の変更、また片仮名を平仮名に改めるなどしている。

東京大学史料編纂所に大矢透の原稿・旧蔵書などが収められていると言う(『近代文学研究叢書二十八』一九六七)が、未調査である。

参考文献

遠藤嘉基『訓点資料と訓点語の研究』京都大学国文学会(一九五二)
遠藤嘉基「醍醐寺本「密宗肝要抄」「管絃音義」「孔雀経音義」について--「五十音図」の歴史に関して(『ビブリア』二 四一~五〇頁)(一九四九)
大矢透『音図及手習詞歌考』大日本図書(一九一八)
岡島昭浩「大矢透以前の「太為尓」」(『国語文字史の研究 七』和泉書院、一六一~一六九頁)(二〇〇三)
川瀬一馬『田中教忠蔵書目録』田中穣(自家版)(一九八二)
木枝増一『仮名遣研究史』賛精社(一九三三)
国立歴史民俗博物館『田中穣氏旧蔵典籍古文書目録』(二〇〇〇)
佐藤誠実「五十音考」明治二十五年(『大八洲雑誌』『大日本教育会雑誌』、いま『国文論纂』明治三十六年、三四九~三五八頁による。また『日本語の起源と歴史を探る』新人物往来社一九九四に再録)(一八九二)
中田祝夫「解題」(『音図及手習詞歌考』勉誠社)(一九六九)
中山綾子「仮名遣近道」(『女子大国文』三八 一~一三頁)(一九六五)
橋本進吉「五十音図」『新潮日本文学大辞典』新潮社(橋本進吉『国語音韻史』岩波書店にも再録)(一九三二)
林恵一「谷森善臣著作年譜抄」(『書陵部紀要』第二十三号 六八~八四頁)(一九七一)
古田東朔「音義派『五十音図』『かなづかい』の採用と廃止」(『小學讀本便覧 第一巻』武蔵野書院 三七三~三九六頁)(一九七八)
馬淵和夫『日本韻学史の研究』日本学術振興会(一九六二)
馬淵和夫「大矢博士の写された『梵字口伝』について」(馬淵和夫(一九九六、二九四~三一五頁)による)(一九八六)
馬淵和夫『五十音図の話』大修館書店(一九九三)
馬淵和夫『国語史叢考』笠間書院(一九九六)
山田孝雄(一九三八)『五十音図の歴史』宝文館


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Last-modified: 2022-08-08 (月) 10:05:03