岡田希雄「五十音分類体辞書の発達」
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 國語辭書の組織としては、意義分類體と假字分類體との二種があるが、更らに、國語には字苦語が多く、字書語なら
ざるものでも、殆んど杢部が漢字と結びつく事ができる爲めに、共の漢字を室とする揚合には、部首による分類體のもの
も作り得る筈である。又假字の字數により、一字の言葉、二字の言葉、三字の言葉と云ふ風な分類も、大ざつぱで不完全
極まるとは云へ存し得る.(此の組維のものが單獨に存する例は國語辭…書では知らぬが、他の組織と結合した例ならば珍しくない。)しかして是れらの分類が二種=一種併拿られ
たものも存在の理由はあり、夊事實存在して居る。だが是等の申で、國語辭書として最も適當なものは、無論假字によ
る分類體鄙ち假字引體であつて、是れは、國語聲晋を蒐集整理して何かの標準で配列したものがある揚合に、其の配列
順によつてあらゆる言語を配列するのであつて、實質は發音による分類體と云ふ可く、漢字辭書の韻書にも比すべきも
のである。さて假字引體が生れるためには、先づ國語聲音を何かの順序に蒐集整理配列したものが是非無ければならな
い。しかして古くは「あめつち」の詞四十八字があり、ついで四十七字の太爲爾歌や色葉歌が現はれ、(色葉歌の出現期に
關する從來の説や、北ハれに對する需は拙稿「色叢の年代に關する疑11」膕響幗筋黜を參照せられたい)又別に


O
卆高も作られ・これら四種のものは、國語聲青を蒐箋理配列したものとして、物を並べる時の爨.假字引壁p
の羃と成り得るものであつたのだが・腸よ芸へば、あめつち順、太靄順のものとては全く無く彎鏡雛
撫翻李安翻では色艦を嬬したと信する他響法三宮眞寂法親王(延喜白.王第)の梵漢相對鈔五+卷鑁謬もをはじ
めとして・三薦康蕪静性譴の隼緯4の拳集軅に軅色輩類抄三卷本三卷本が萎朝のものであるが
共の前身は色葉和名瀦本にて天蠢のものであつたらしい。二卷本や三楽の世俗霧抄も色葉和名の後身である
らしく荷れも萎槊のものである嵩野山の裳院心畳繍二の梵語糞多爨抄三卷(多羅要鈔とも書く、鈔は記ともあり)が存在
し・共の後鎌倉期建治元年の語原辭書名語記十帖を經て、窒町期の節用集以來、徳川期を通じて、色葉分類辭書が國語
辭書では最も普遍的なものとして讌するに至つたのであるが、芳五譱口分類の難口と、炎ば、妻朝期や鎌倉期に
は兄営らす・南北朝期室町期の物が最古のものとして現存するのみで、徳川期に於いても、五十菅分類は微々たるもの
であり、明治期に至りて色葉分類辭書の地位を奪ふに至つたに過ぎないのである。
 大矢博土によるに・五十菅岡は天台宗の圓仁又は共の弟子安然の作であるらしく、色葉歌は天祿前後より永觀前後の
ものだらうと云ふ。しかして此の設には方法論的な溺點もあるのだが、橋本愽士は音岡は「李安朝の前孕の中に出來たも
の」蘇歟學と云つて居られる.とにな、古築孔雀壟日義が、瓢か・萬醗までのものと信ぜら伽るのだから、
北ハの頃にはも早や五士菅圃奮來て居た事は充分に認められる。從つて、共の頃に於いては、色葉歌と五韭・岡とが(恐
らぐは太爲爾歌も)知られて居た譯だから、 五十乖ー-辭害の出現と云ふ事も、少くとも牛安期末頃には生じ得べ費である
が・越物は殘つて居ないし・北ハの頃に存したことを物語る記録も無いやうである。霄物の事だから、不安朝期の五十訟日
   五+喬分類懺謝書の發逹               三五


   五十凾日分」類體冖辭…電日の發逹                                   三六
辭書が、いつ名山石室から出現するかも知れす、遺物は存せないにしても、當時五十晋辭書の存在して居た事を示す記
録ぐらゐは發見せられないとも限らないから、斷言は禁物であるが、現在の知識では、五十晋辭書の出現は、色葉辭書
よりも後れたらしい事を考へる他は無い。しかして五十音辭書の出現が色葉辭書の出現よりも後れた事を事實と認めた
上で、其の出現の後れた理由を考へると、色葉歌は深遠な佛教々理を巧みに歌つた今樣歌として世人にもてはやされ易
いのに、一方五十晋圃は單なる音圃であり、字音反切用のものとして案出せられたのであり、學術的なものであり一般
的で無かつたと云ふ事が一往は考へられるが、實は此の解釋は正しくはあるまい。と云ふのは心覺のやうな梵語學者が
梵漢對譯辭書を作る揚合には、五十晋順にしても可ささうなものだのに、實際は色葉順を探用して居るからである。 そ
こで自分は、色葉歌は北ハれが意味のある今様歌として、四十七字の順序は固定して居るのに、五十晋岡では、元來聲音
學の根據あるものなるに拘らす、横列縱行に動搖があつて、從うて、これによりて物の順序を示すのは不適當であると
考へられたからだらうと云ふ事を重硯したい。
 とにかく辭書類に五十晋分類を探用する事は、李安朝・鎌倉期には見えすして、吉野朝期・室町期の遺物が現存して居
るに過ぎない。左に共れらを列舉し一し、次第に徳川期に及ぼして行かう。組織を書誌學的に論くのが主眼であり、内容
の價値批判は紙頁に餘裕も無い事だから全部省略するのである。

先づ舉ぐ可きは、國語辭書では無いが、



法華經音義二卷心察著貞治頃咸るか碩激禁界句
である。本書は蠶法華經八卷娠蒭い驚甥移鑵嬲譲笠貍刊や法華響訓一卷懸麟麓期臨緻㌍認
黜難麗の著耋して、法華經による教化に努力した京の岡崎の善塗寸の心室夫縢黔舗翻六が書いたもの
であり、法華經苦訓が經の本文順に單字を擧げ膏訓を註して稽るのと異-3、此の書義の方は「輩字一、千七百八十右餘」を
{擧げ、北ハの訟日により分類したものだが北ハの・分類が
  ア、アン、アツ、アイ、アウ、アク
  ィ、イク、イン、イフ、イチ
  ウ、 ウン
  エ、エウ、エン、エイ、エフ、エツ
  ヲ、ヲン、ヲウ、ヲフ、ヲク、ヲツ
  カ、カイ、カン、カウ、カフ、カク、カツ
  キ、キン、キヨ、キチ、キヤウ、キヤク、キフ、キク
  ク、クヱ、クヱン、クワ、クン、クヰ、クウ、クワン、クリウ、クヰヤウ、クワイ、クッ、クヱチ、クワッ、クワク.クヰヤク
  ケ、ケウ、ケン、ケイ、ケフ、ケツ
  コ、コン、コウ、コツ、コク、コフ
と云ふ具合にア・カ・ヤ・サ・タ・ラ・ナ・ハ・マ・ワの順で配列せられて居るのであるから、撰列の順は今のと一致せないと
は云へ、五十音分類である事に聞違ひは無い。そして横列が右のやうに成つて居るのは、アカヤ三行を喉音とし、サタ
    五十鉱旧△刀類體{辭書のW毀逹                                    三七


                                          三八
   五十軌日分類體一辭書の渦彼逹
ラナ四行を重日とし・ハマワ三行を讐とする顰の立揚から、然う鸚したのであり、よい加減な窶したのでは無
いのである・さて此の本は「婆二稔季春吉旦中野尖衞開板」本の他に、天斈葦八月の築、無董口寫小型本、
永正九年二月梨・永和四年正旱百の日附ある古寫本などがある轟谿携鉱飜麻鰭嚢照、其の鏖刊
本や委築覧て為る誉に・單峯骨の五士募類のきうが奎日の全部では讐て、他に、釜日に關する記事
があり・分量は梨では等量であるから、從うて、本書を五士募類鑿日義の塁臼として舉げるのは篝田では無いが、
字音を五+雰類して居るものとしては、自分の知つて居る簡夐、は口取初のものである事を轟しげ.、こ丶に舉げる
のは・當然の專ある恵ふ・しかして本設日が佛者的字箪に通じた心枩蕁ある事は注意すべ象}である.嵳日を韻
墨の立揚か募類するには・色莠類で濟む筥無い。何うしても韻を北口景とする五+ .の順による他は讐のであ
る・馨購難・鞭饕の三し奢について、「皇mの頃成るか」と自分瓶.いたのは、梨には上篥に「皇伯乙巳
埜春下躄候於元應寺記之」・下卷に「應安幾獎旨中河」とあり、天条にも嚢豪圓兩人撰也皇伯乙巳年定
也Lとあるが・永究年本には「貞治四年乙巳正月+八H於花洛朿山纖黥空」とあり、永梨には汞和四戊午正
月土幽糠飜Lなど夸ていぶかしい攀るからである.しかし、刊本により上卷の五+訟.分類の所は貞払佃
四年百下旬の脱稿・共れ以後の所は應安コ一年中援つたもの、永和四年は、童日寫又は、補正した時期と見てよいもの
かと想像する.淋嬲磯瀦饕難撥罐.
           三


 心察普義について擧ぐべきは本書より百二十年程後の
温故知新書天地人三巻寫誘+六年大作廣羨歇響
である。 五十晋分類と意義分類とを併用したものにて、此の點は色葉分類と意義分類とを併用して居る色葉字類抄や節
用集と性質高じ早るものだと云ぴ得る。言萎巷語鏨是よつて、先づ五よ嶺雰類し物鼾膿蘚語皆
曙饗飜鰈機蠶選響整雑蛎蜘鵞銘罫請茘羃慕稲薯に、共のアならばアの中を、乾坤門・時袴.
氣形門・支體門・態藝門・生植門・食服門・器財門・光彩門・數量門・虚押門・複用門の十二門に分類したもので、共の十二門
分類は、著者の知人尊通の加へた漢文序によると、虎關の海藏略韻に擬したものだと云ふが、橋本博士も「古本節用集
の研究]琵で云つて居られる通りに、.現存の海藏略韻は+四門であつ三致せないから、いぶかしい。こゐ海藏略
韻は同じ虎關の聚分韻略の事を云つて居るのだと見てよいのであらう。「文明甲辰林鐘中澣乙亥」(文明十六年六月廿冂)
の三輩通纛持藤詳飜謝黥甑爬欝鍵ての嬖によると、薪維獣大農公Lは薯鑑と親しい聞柄で
あるが、奪通は「方言俗語、以繋こ阿伊甌等訟酬二迷津之儔当志之所レ之、累月而成、終得二亘軸納名γ之日二温故知新書→專擬二
海藏略韻→分三一六之門「又準二源順古抄袖設こ和宇之訓→事類則易γ見、義親則易レ知  余與レ公久要不γ淺、宛如二友于こと
記して居る。廣公の公が後文の公と同じく、敬語である事は無論であるから、大件廣某と云ふ人であつたらう。新羅ゐ
砒は三井寺の中にあり、三井の祗圓珍智證大師勸講する所にて、三井寺に關係が深い。さて此の序には源順古抄即ち和
名抄の事と海藏略韻の事とを擧げて居るのみで、節用集の事は全≦言及して居ない。(文安元年の下學集の事も言及はし
て居ないが、間接の影響はある。)節用集の原本は、下學集から文明六年本節用集の著作に至る凡三十年間の述作である
   五十島日△乱類體一辭圭日の發逹                                   三九


   五十膏分類體鰰書の發逹                             四〇
から、文明十六年頃にはまだ節用集の流布が稀れであり、本書の著者は節用集の如き假字引辭書の存在を知らなかつた
かも知れないと見る可き所だが、無論事實は判らぬ。よしや節用集は見て居なくとも、假字引の辭書の或るもの位は知
つて居たのではあるまいか。然う云ふ假字引辭書としては色葉字類抄の如き色蘂分類のものを考へ得るのだが、しかし
五十音分類のものも既でに存して居たかも知れない。が、本書の假字分類體であり、かつ五士膏分類體である事が、本
書の獨創であるにせよ、既存辭害ー!必すしも色葉孛類抄式の國語を主としたもののみを意味するので無い。悉曇關係
の辭書にても、然う云ふもの曳あつた事を想像してよいのであるー・から晤示を得たのであるにせよ、とにかく本書が
五十」膏分類であり、此の類の辭書宀して現存最古のものである事は、興味ある事實である。 しかも、アイゥエヲ・カキ
クケコと云ふ風に五十晋五十部を標識するには、假字書きせすして、梵字を使用して居るのである。(共の梵字はヵ行は
普通の五類聲の迦㎞では無く、遍口聲の賀∴訓に對譯せられる文字・即ち㎞の晋價を有する文字を使用し、 サ行も遍ロ聲
の餓の普價を有する文字を使川して居るのは珍しい。 ハ行ラ行ワ行が脚・m・mに相當する文字を使用して居るのは云ふ
までも無い。)在俗の十と梵字と云ふと、取り合はせが不似合だが、尊通が三井の學匠である事を思へば不思議で無い。
そこで自分の如きは、本書の五十晋分類、は、悉曇辭書にすでに此の五士青分類の簡易なものがありて、共の組織を見た
り、又は尊通より歡へられた著者が、其れを國語辭書に應用したのでは無いかと想像するのである。そして、梵語の簡
易辭書として、李安朝末に色葉分類の多羅葉抄の如きが存するのだから、五十晋闘と關係の深い佛家の間に、五士膏分
類の梵語辭書を作つて居り、共れが影響して五士膏分類の國語辭書と成つたのでは無いかと想像する事も強ち根據が無
いとも云へまい恵ふ。前覆襞に麦明以後さまで後世の寫本とは見えないL蠡嘯覿誌寫本がある。今は其の古鈔


本の影寫轟楚谿鸚罧でにより解論して居るのだが、責六行、天卷は序と港四+三丁、地卷も人卷も四+三
丁のものである。北ハの京斎藏影寫本による鷺版本が、つい最蓄褓三ケ羅氏により公刊せられた。原本通りに
一頁を一頁に牧め、一行の字配も出來るだけ原本と同じやうにして居る。所々一字二字の室白めいたものが存するの
は、字配に忠實であるために生じた塞白であり、脱漏では無い。 從來殆んど流布せなかつた本書が三ケ尻氏の勞により
流布するやうに成つたのは喜ばしい事である。解題も添うて燐る。 氏は前田侯爵家の古鈔本は見て居られないから、共
の點を補ふと、該古鈔本は桐箱入にて、書物其のものは普通の袋綴本で、表紙は栗皮色澁表紙、縱八寸九分に横六寸七
分餘、白地雲流し模様の今の題箋は、改裝後に添へた極めて新しいものであるが、蟲損で痛められたもとの題箋の斷片
が三冊分とも、紙に包みて保存してある。地册のは大蟲摸ありとは、云へ比較的に保存が仕良であるが、共の大きさは四
寸六分に九分、文字は 、知新書地Lとあるのみ、これは他の天・人爾册も同様である。北ハの題箋とは別に、北ハの一册の内
宀谷を示す小紙片が二放存する。一一寸六分五厘に九分の紙片で、共れにアイウエヲ・ヵキクケコが二行に、他の}片には
サシスセソ・タチッテト・ナニヌネノが三行に書いてある。影冩本の扉は要するに、是れらの題箋と内容を寫したもの
なのだ。貼轢にさて妻羅は裏打してあるから紙質縞りかねるが薄いものらしい。本文と同じ紙は本の前後匹
枚づ丶三册共に奪る。今の表紙裏に添うて居羨は妻のとは異るものである。紙の誓霖報心にはヱ九」と
、广∵か風に册の順と丁附が存するが、上中の二册は通し丁附で、しかも「中」とは無くて「上 四十五」に始り「上 八十七」
で終り、下器は』、下 +八L式であるのは不慰議である。さて以上蓮べた題箋以下丁附までは、皆本文書寫と同時のもの
と認められるのである。本文には小蟲があるが、文字は濃い…墨で克…明に書いてあり、罫は淡墨である。蕨書印としては
   五+膏分鄰體讎書の發逹    ,                 四一


五十詑日分湖川…體辭港日の一發一達
四二
「妙覺寺常住鼠」と云ふ謄細長い楷行體朱印嬲禦「妙覺寺響典」とある縦の楷行體朱印漱.の二禦存する
が何れも外廓は無い印だから、うつかりすれば、朱書と誤られてしまふ。三ケ尻氏が此の二印を朱書であるとせられた
のは、影冩本では朱書と成つて居り、朱印であると斷つてないからの事であつて當然だが、事實はまさに朱印である。
さて砦鼻・量は京のH禦の妙覺出寸の藩であるが、二夫蔵で+八世と成つた量議際齢瓢驚年は、文
祿四年九月に秀吉が大佛妙法院で千僣供養した時に、不受不施の立揚を張く主張し、慶長四年にも宗義について家康の
命に抗して對馬に流され、寛永七年にも亦再度對馬に流されたと云ふ入で、日蓮宗不受不施派の開職である。斯う云ふ
豪僣の手に觸れた本であると思ふと興味が感ぜられる。さて此の古鈔本は、色葉字類抄や桂川地藏記らと同樣に、奪經
閣叢刊の中に收めて頂きたいものだと熱望して孱る。 はじめに斷つたやうに内客を詳しく詳解するは此の小篇の主眼で
無いから言及せないが、唯一つだけ變つた例を舉げると、鯤をキの條に擧げキ・ウヲの訓を施してゐる如きものがあ
る。此の字は大魚の義であるからオ・ウヲ(正しくはオホウヲ)であるが、オはキに誤られやすい形なのでキ・ウヲと化
けたのである。節用集にもキキと訓じ、現在の漢和字書にも此の訓のあるものがあるのは滑稽である。とにかく、五十
晋分類體國語辭書として現存最古のものであり、しかも、現存節用集の何れの本よりも年代が古い點で大いに注意すべ
きである。

さて五十晋分類辭書として温故知新書の次ぎに舉ぐ可きは


 初辭通韻 寫一卷 著者・年代共に不詳、徳川初期のものか
であらう。「この書、類字韻に合せて一册とす、全書を五+音の十行にわかち、一行のうちを、乾坤・人倫・時候・支體
氣候・草木・食服・名字・紳紙・器財・言辭と分類し、各類の中を更に五十晋の順にして語をあつめたり、漢字を本文にして
かなを添へたることなど、すべての樣、節用集に似たり、この書に川ゐたる五士膏は、ア行、ワ行ともにヲを用ゐたり
卷末に名乘頭字を添ふ、なほ類字韻の條とあはせ見るべし」と赤堀氏國語學書目解題に見えるもの、その類字韻二卷の
條には「寫本、この書は、和玉篇の類にして、篇旁によりて漢字を排列し、脅井に訓を添へたり、卷端に分毫字をも添
ふ、蓋し、三百年以上の寫本、初辭通韻と合せて一册とす」と見える。赤堀氏の見られた本は松井簡治博士御所藏本に
て、自分も二度見た事があるが、前の時は展覽愈に於ける瞥見であり、後の時は、親しく手にとる事を許されたとは云
へ、備忘録を失したので赤堀氏の言を引用したのである。阻書解題に「助辭通韻」とあるは誤りである。組織を異にする
初辭…通韻と頭字韻とが合册にしてあるのは、もし二書の著者が然うしたものとすれば、假字引辭垂日と部宵引辭書とを、
使用上の便を思うて合綴したものとして注意すべきである。又よしや著者とは異る入が、合綴としたのであつてもやは
り注意すべきである。斯う云ふ類のものには、意義分類體の部分と、色葉分類の部分とから成りたつ用心集(寫本、一
卷)や、吉利支丹辭書として世界にた穿の一本しか無く、書皮裏より出た斷片でさへも國寶に指定せられた程の落葉集
雛犇禦讒鵜鑪臀罍があり、又和鳶・節矍・聚分韻略の三本を小杢册に翕した轟辮弊などが
ある。因みに、此の類字韻は東京の帝大研究室影冩本で調査し、共の簡單な報告は別に物して居「り、校正も濟ませたの
である。近く發表できるであらう。私見によれば、類字韻は慶長版倭玉篇によつて作つたものであるやうだ。(駐)
   五十贏日分一類體一辭書の發一逑                                   四三


五十鼠日分類「體鯡童日の發逹 四四

 徳川期のものとして最初に、爰當では無いと知りつ丶擧げるのは、次ぎの書である。
 法華經文寧聲韻言訓篇集、上中下三卷 美濃版 快倫撲 慶長十三年稿 同十八年三月木活刊、後の整版もあり。
 播州書寫山の松壽院快倫が法華經中の單字一千七百四十九字、重字二十八字計一千七百七十七字を抄出して共れに普
訓舗灘縱寄軅名を施し奪義にて翻刻の整版本には法華鑾曩と云ふ爨のものもある。本書の組織は普通の
意味での五士菅分類とは云へないが、五十苦分類が加味せられて居る事に悶違ひは無い。甚だ複雜にてーー複雜である
事は著者にして見れば、分類が精緻である事に成る筈だが、精緻と云ふ事は、必すしも今日の字晋學の智識とは一致せ
す、誤りも存する。例へばンム兩川でハ行マ行のみムを使用する事の如きは、本書の重要な參考書と成つた心察晋義に
よるものらしいが、無根據である1説明しにくいが、大ざつぱに云へば字晋を一箇の假字で標記し得るものより、ウ
ヰヤウの如く四字假字で標記せねはならぬものに至るまでに別ち、アを韻とする歌韻の類の文字をばアカサタナハマヤ
ラワの順に舉げ、次ぎにイを韻とする支韻の類の文字をイキシチニヒ、、、イリヰの順に舉げ、インを韻とする眞韻の類は
イン・キン・シン・チンニン・ヒム・・、、ム・リンと云ふ風冢げるのであつて携枷漏瑚鷹讎しかも是れらと四聲の分類
とが交錆して居るのである。以て其の複雜なる事を察するに足らう。本書の組織は、心室晋義に暗示を得たものなる事
は云ふまでも無い。斯う云ふ書だから、五士背分類として温故知・新書など㌧一列に扱ふのは、不穩當極まるのは勿論だ
が、五十晋分類が加味せられて居るのは事實だから參考までに擧げるのである。さて本書には慶長十八年三月の木活三


卷本が存するが、後に整版として仲野道意により再刻せられた。共の蒋刻年月は不詳だが良恕法親王が識語を加へられ
た寛永十三年十一月八日頃、または共れ以後であらう。慶安四年八月の秋田屋李左衞門の刊行本は共の購版後摺本であ
 る。
          六
 徳川期に於ける五十音分類辭書を檢するに、先づ冠辭考・古言梯・和訓栞に至るまでに五種類存する。其の一つは
 因陀羅網+五像雑婁誓撰黷肥佃五
である。詳しくは「撕因陀羅網」響名目崖因陀羅網L勸と云ふ。書名は帝釋天宮を莊嚴する帝網即ち因陀羅網
・H§喜に因んで局る。屁天鸚の居る宮殿の羅網の一々の口に寶珠を暦、共數無、涯し三々の臻髭無、亙の
寶珠夢髭現す。仍て之を譬喩として要無盡の養は互轡在の鼕示すに川ぴらるLと云ふ鮴暾譱書名が然う
云ふものである事から直ぐ理解できるやうに本書は佛教辭典であり、名目出處と云ふ修飾語が示すやうに、佛教の名目
 を蒐集し、分類し、其の出典の卷數丁數を記したものにて、十五卷ある中の、第九卷までが五十普分類の部にて、第十
卷は「聲聞衆」・「薩衆」・誼嬲名輛嬲酩難嬲徹麓飛號てにつき崖を擧げ、又「璽、之名」の部では、内
外典皰侃桝典を簡略な名で無秩序に擧げ、卷數作者などを註して居る。本邦人の著逋も無論多く見える。一頁九行、二
段配列のものが十三丁の分量であるから、書物の數は大體想像できる。第十一卷より第十五卷までは法數の出處を論き
し部で法數辭書である。其の第九卷までの所について云へば、阿字・阿彌陀・阿彌陀因時・阿溽菩提.阿惟越致。阿眦蹟致.
   五十音分類體鰰書の發逹                             四五


    五+暑分類鶻辭書の發逹                           四六
阿眦曇・阿蘭若と云ふ風に名口をあげ出典を略名で舉げ、共の卷丁のみを記して居るのだからー文を引用するとか、
解釋するとか云ふ事は無いー佛教名口索引であり、辭書とは見なし得ないかも知れないが、索引も亦辭書の一分野で
あると見る立揚の自分は、本書の如きも五十晋辭書の中に數へるのである。索引を辭書と見なす立揚が誤つて居るにし
ても、五十昔分類體辭書の發達と云ふ題名の此の小篇申に本害を列舉する事は、本書が五十菅分類、のものが稀れな徳川
初期の事であるから、歴史的價値と云ふ意味で、排斥すべきではあるまいと信じる。 さて北ハの五十菅は、横列は常と異
            
りアカサクナハマヤワラであり、問題となるアヤワ三行を云へば、不要の文字は見えないから、阿以宇惠於・也・由・與・
和葛範誓駕聽餅継驟諮麗櫑膿詳而のだけが見えて居るに過窪い。アイウ嵐は注意すべきである。
各頁は標出名口は七行、出處の註文は十四行、各四段配列。第+五卷の最終丁帥ち三十六丁には表に本文ありて裏に刊
記が存するのだが、莠次ぎに二丁にわたりて、羃の自跋がある。聾鉾震巍懿蓼懿議覩鞴但し年月日
を記さぬ。さて薯者の室誓は西本願寺派の學匠で、江戸築地の妙延寺の住僣、元祿五壬中十一月三日、九十歳にて遷化
して願海院と諡した。博識洽聞、關以東}入の稱を得、寛文延寶頃の宗學勃興の時期に露り著述や講筵により宗義顯揚
に努めた人であるが、然う云ふ學匠の手には成るとは云へ、本書は、共の材料部ち出典が經律論の原典や有力な諸師の
製作に據らないで、末疏類に據つて居るため、折角の努力が、今日の目から見て山咼い評價、を受けられないものと成つて
しまつたのは倍しい事である。(末疏主義學風の弊害を示すものと云へる。)成立年時は不明であるが「寛文乙巳初秋吉旦
 五條橋通搦屋町丁字屋「西村九郎衞門開板」であるから、少くとも寛文五年、即ち室誓の六十三歳の時以前の述作で無ければならぬ。



 元祿期に「倭字」と云ふのが出來て居る。
 倭字 .寫一卷 鴨長蕁撰 元祿元年冬成る
 日本紀の本文の聞にま曳存する古訓註を舉げて五十晋順に、且つ卷順に配列したものである。美濃版型の袋綴本にて
用紙は罫引にて一頁五行、割註雙行である。自序二丁あり、本文は三十丁であるが裏打本であるから、丁數の割合にカ
サがある。北ハの自序は左の如くである。句讀訓點等は、爰當ならざるものもあるが、總べて原本のま」である。
  倭字序
        ハ ルト   ニ          ナルカナ      ケ  シチ           シモ  トシテサ  ロ   テ          テ    ヲ
 齋部正通日、辭假二嬰兒一心求二祕聖一信哉、倭語多錯綜而義和通、不下必節々推三其所二由出三焉、欲二強解レ之一則或泥滯
    ノヲ     ル  ニ モ     ル       ル  デ
 而誤二北ハ旨一或附愈而反二其義一然道之可二以談一者、義之可二以觀一者併存二今臼俗語之際一亦數々焉、可謂、自然之言也、按ニ
     ヲ    スル ヲ              ヲ     トリヲルヲ  ト
 日本書紀一有下以二倭語一解二漠字一者上尊命井訓二美擧等之類一是也、今悉拈二出其文字一名云二倭字一以爲下談γ道取レ義之一助上
 云
  元祿改元之冬
                                 從五位下  鴨  長  蕁  序
要するに序文に見えた本書の趣旨は、口本書紀に、尊命爾字について美舉等と訓むと云ふ類の詫文がかなりに存するの
で其れらの類を參考までに五士膏順に配列すると云ふのである。故に本文を檢するとアの部では
   五十猷日分一類體辭戴日の發逹                                    四七


   五十音分類體辭書の發逹                           四八
 ハツクウ ハ         トケンサイ  ハ      ニ ヱ ヤト    カツ  ハ       ヨ サ ツ ラトしモヤケヘン     ト ヘトコ フ ケン  バ    カ ナ セ
 沫蕩此云二阿和那伎一妍哉此云二阿那而惠夜一天吉葛此云二阿摩能與佐圃羅一脚鑁此云二阿度陛一吾夫君此云二阿我儺勢一…
と噌行十八字詰にてベタ書きして居るに過ぎないのである。五十.菅式の和訓指掌略とも云ふ可きものにて、學術的價値
としては、殆んど問題にする程も無いのだが、たじ五士青順であり、しかも其れが元祿元年のもので、かなり古いもの
であると云ふ點で注意すべきである。しかして其の五十晋と云ふのが要點だけを示すと
        
  アイウヱヲ
  マミムメモ
    
  ワイウヱヲ
  ラリレレロ
    ノ
          
  ヤヰユヱヨ
と云ふやうな文字と配列とであるから、一暦興味がある。書名は卷尾にも「倭字終」とあるが、倭字と云ふのは、倭國の
文字、日本製の文字など曳云ふものでは無論無い。序文に「按二日本書紀一有下以二倭語一解二漢字一者上」とあるのを見ると、
倭語の倭と漢字の字とを取りて倭字と云つたものかと考へられる。さて鴨長尋と云ふのは、何う云ふ人か知らぬが、名
から察すると、下鴨の肚家の人にて、長字があるから、長明の子孫と云ふ菊と云ふ家の人かと思ふ。本書は濱野知三郎
氏の御所藏本であるが、著者の自筆本であるやうだ。(序文の訓點は變であるけれど)



 
           八                  、
次ぎに時代は不詳だが、先づ元祿期のものとして扱ふべきものに華款蕩がある.
  華梵翻築四卷淨嚴齧梨撰酔・代不詳
                                           四九


    五士晋分類體辭書の發逹                             五〇
  封翻全四卷は、寶林梵書の最なるもの、吾國學界の珍寶なり。即ち上人一代六+四年、數千の群書に渉獵して、あらゆる梵語の字句
  を拾聚し、五+普次に類列せる誠に難得の梵漢字彙なり。後に智明和徇に伊呂波梵語集ありといへど、術課解字數其の比にあらず、
  .正に慈雲の梵學津梁と拮抗すべし。此書近時關東、西海に散逸せるを、余一昨臘之れを將致して、以て寶林に歸へり合はす。誠に余
  に於て大吉慶詳なり。
と見えるのである。これだけの解諡では物足らぬが、華は恐らく申華にて、漢語の義であらうから、梵語と漢譯語とを
對照せしめる梵漢對譯辭書であつたらうと想はれる。此の類のものは、梁の翻梵語十卷以來、支那にても本邦にても、
數々のものが出て居り、我が國のものでは、高野山の常喜院心覺の多羅要鈔三卷の如き色葉類聚梵漢對譯辭書が存する
ので(佚亡はしたけれど延喜呈弟法三宮眞寂法親王の梵漢相對鈔五十卷が色葉分類であつたと信ぜられる)淨嚴も亦、此
の種のものを爨し、五喜組彎したのであらう。さて砦華欝翻、高橿士の悉霪書目録鞋津に「→魯立
 む む
花行胤藏」とあるが、靈雲叢書解題では行武善胤師が靈雲寺に納められたやうに成つて居るもので、若し靈雲寺に藏せら
れて居るものならば調査させて頂かうと思ひ、去年昭和十年七月中旬に靈雲寺を訪れたが、藏書は大正の震火に全部燒
いたので見る事を得す、行武氏も立花家へ養子に行き鴕繍鯉簾鰤黥訳で昭和四年には歿せられた由にて、終に
華梵對翻の存否は知る事出來なかつたのである。行武師が得られた本が淨嚴の自筆であつたか何うかは知らぬが、自筆本
であつたと假定しても、轉寫本がありさへすれば、他臼眼輻を得られるかも知れないと、望みをかけて居る次第である。


 華梵對翻は佚亡したかも知れないが、享保に出來た梵漢對譯辭書で完全に揃うたものが殘つて居る。北ハれは
枳橘易土集寫三+卷灘黜計+五本婁晃撰纏醗
にて、肇に蕁せられて居る梵語を五士工日順に舉げて、婆の詳解を施したものだが、本編駝燭憲篠髏弸し
什六卷と、「附卷」四卷とよb成り、本編の方は右の如き五十音分類であるが、附卷の方は、意義分類の中を更らに五十
晋分類したものである。順序として本編より述べると「享保六年辛丑仲夏朔旦 圓通峯賜紫沙門伯映泰敬書」とある漢
                 ρ
文他序、「正徳丙申戯仲夏令且 大通桑門南谷槃譚書于東林幻華室」とある漢文他序がある、其の次ぎに「享保元年歳次
丙中偸自恣H沙門釋照山晃自序」とある慧晃の漢文自序があり「……予曾閲レ藏時、經律論及自レ梁至レ膚鈔疏記傳音義辨
註之中、有下梵語之所レ渉ご翻譯解釋一者顔則隨而探拾二録之座右一既登二十有餘蔵矣、務レ補二逸脱→然不レ能二悉盡一但比從前
所レ憾聊足以自慰、奈蒲柳弱質懼二殘喘難サ俣、於是卒萃爲二三十局四千四百五十三件→命日二枳橘易上集一・….・」と云つて層
る。四千四百丑十三件と云ふは牧載の名日數である。次ぎに「凡例」が七條あり、本書の編輯方針を示して居るが最も重
要なのは次ぎの三條であらう。
 一如二翻梵語・名義集等扁以レ類編集、今以二阿等五十字晋騨編二集之一者、爲レ令導初學易二尋覓一也、然今.W.尹入二i部「狸入ご
  e部一m入二〇部一等、梵書雖〆異且随二本韻一
 一五十字音申有二直晋→有二拗膏→有二相通唱如下迦盧拏入二h部薩婆訶入二〇〇部一囁怛囃僣入二u部一等上
 一於二巻尾一分=十五門一者、爲下以二漢言一尋中梵言上也
と云つて居る。(ローマ字で書いた所には共れー梵字が存するのだが、印刷上梵字を使川する事も困難だし、叉假字で
   胤十飢口分類…體…欝酬書一の發逹                                   -珮一


   五十畝日分溜川體鯡潅hの 發推~                                   五二
は梵膏を示すのに不便であるからローマ字で示したのである。.町鴇ooは北ハれ!丶、古くからヰヲソに宛てられて居る。)
次ぎに「引塁得」麟髏擁があり、引用書名、卷數響を記して居るが、引用書數は藏外のものは百+部程である。
北ハれらの書は、龍樹の繹摩訶衍論を除けば皆唐土撰述の章疏類忙て、辭書菅義類には義楚の釋氏六帖廿四卷、慧琳一切
鑾曩一百卷、希麟塗切經青義+卷、可洪新籖響義臨録三+卷、義淨翻梵語+卷鑽懿腱審の禮言梵語雜
名一卷、行逧切經韮吾許卷嬲轄講碗騒終継雛製軅鷺などがある。さて本文は肇晋譯の梵語を五
十晋分類で舉げ、共れに引用書口に舉げられたやうな諸書を引用抄記して詳密な漢文註を施して居るのである。音譯梵
語には、全部では無いが梵字が朱書してある。 五十晋に當てられた梵字を檢するに、ヵ行サ行ナ行は五類聲-の普通の
字であり、了ヤニフれ・鼠も普通であるが、タ行が普通のタ行で無くて昇破巌嫉潮である事、ハ行が「ハ壑」
「ホ部」には、昔からの例により脚字が書かれ乍ら「ハ部二」以下へ部までは㎏励㎞加に相當する文字が使用せられて居る
事とは變つて居る。さて斯う云ふ風に五十普で分類せられて居るのだが、磬青の性質の異る梵語を、しかも漢字普譯の
ものを五十膏で分類する事は、とてもうまく行く筈も無い事は判りきつた事であるから、薯者は自ら凡例で斷つて居る
通りに、極めて便宜的に、日本字晋の頭青により、又梵語の日本流讀方の頭膏により分類して居る。從つてユ部に維摩
羅・灘羅逹(梵字を・↓字で示すと≦ー・≦・一§琶が入り、ナ部に泥黎(課覊弉郵誰錯.鹿図御)が入り、
又落.喝の如きを頭字とする書譯語がア部に牧められ、ヵの中に討梨蹟摩・呵利帝・賀の如き㎞を頭晋とするもの、曷囃
闍の如きもの(母巴ρであらう)が入ると云ふ具合で、極めて便宜的なものであり、學術的なものであるとは云はれな
い。 しかし相手は漢字に晋譯せられた梵語、北ハれも時を異にして晋譯せられたやうな梵語である。又漢字晋共のものは


支那で變遷あるが上に臼本では又日本流の發書が生れたものなのだから、普譯梵語を五十音で分類するとなれば、斯う
云ふ便宜的な組織を探らなければならないのは云ふまでも無く、吾人は本書の組織を便宜的であるが爲めと云ふ點で非
難する理由は少しも無い。辭書と云ふものは元來が、引き出しやすいものであるべきなのだから、本書の如きものこそ
歡迎すべきであらう。斯う云ふ先.蹤はすでに心覺の多羅葉抄とし屮、夲安、朝末期にも存したのである。(因みに、本書が便
宜的なものであると云ふ事とは、分離せしめてよいと思ふが、著者慧晃の梵語青の智識が深いもので無かつた事は梵字
五+薦諾咽礒扁蘇膨漆器嫡喋の所に「五‡菅中、ヤ所生中、轟及・堺生中・毘器呈杢日・
同二本韻一也、畢竟能生十四字、所生三十字合四十四背、攝二盡一切梵漢菅一也」と云つて、梵字としてのヤ行のイエ、ワ行
のヰウヱヲがア行のイウエオと同じであるとし、能生アイウエオカサタナハマヤラワ十四字、所生キクケコ・シスセソ●チ
ツテト.ニヌネノ.ヒフヘホ.、、、ムメモ.ユヨ・リルレ・の三十字計四十四字で一切の梵漢菅を攝盡すと云つて居るのが、偏
狹な一部國學者連中の四十四鵡ー-説と全く同じである事から明言できるのである。)さて以上は本編とも云ふ可きもの丶事
であるが「附卷」四卷は罕四日五+九語を+五門雰類し藩紛罌鬻鱇妨噤さらに、例藁げて示すと、箜門
の佛陀菩薩僻支羅漢の中にては、佛陀↓膏薩・粹支・羅漢の各々の中を亦五十書順に分類し、各語の下には譯語を施して
居る翻鷲はと云ふ組織である。さて本書の書名は嬖には見えないが・江南の橘江北に移されて枳と攀と云耄一。
に基く事は明らかである。梵漢對譯辭書であるから此の名を撰んだのだらう。著者慧晃については密教大辭典に
  エコウ惠晃暈㌫
  皴州雙丘法金剛院の學僻。唐招提寺長老。字は照山、翳華と號す。京都の人、俗姓濱岡氏・出家して玉周に師事し・天贅頴脱識彙高
   五+音分類體辭書の發逹                五三


    五+脅分類體辭書の發逡                                五四
  逸なり。廣く南北の講席に列して顯密性相の學を修め、特に悉曇・因萌・倶舎・詩文に造詣す。後に泉涌寺第九+四代長老となり、又
  南都唐招提寺第六+七世大和爾の席に補せられ、律風を穴揚せり。元祿+年享保九年の兩度妙心寺衆徒の請に應じて楞嚴注經を講じ
  同+六年泉山法脅院に於て復之を講ず。……叉廣く諸經論に散見せる梵語を聚集解繹すること一一+年、享保元年に至リて枳橘易毛集
  (原名採揀枳橘集)二+六卷、附録四卷を完成せり。元交二年六月八日寂す、薄八+二(○希云、原名の事は非、後述す)
とあり、ついで茎暑を列記して居り、篠の寫眞も舉げて居る。しかして自分は大谷奩所藏の寫本驟離融罫叫
択居の易土集を見て解説したのだが、密教大辭典は著者の版下本が花園の法金剛院に存するのを記し、其の本につき
  キキッエキドシウ枳橘易土集
  背六卷。慧晃撰。凍名を探揀枳橘集と云ふ。諸經論中の梵語を摘出し、五+膂順に配列して解釋を加ふ。諸家の晋義を參酌し、經論
  鈔疏を援引して詳釋す。江南の橘を江北に移せば枳となるの語に據り、梵漢對翻の意を示して枳橘易上集と名く。著者向ら開版の志
  ありて版下清畿口肖筆本現存し、淨土宗門・王徹定・圓通寺伯映泰・大麺寺南谷等の序文を付す。又梵語の傍に悉曇夊字を朱書せり。しか
  も逾に開版に爺らず。明治十九年再度刊行を企て、泉涌寺旭雅・相國寺獨園の題字を付すと雖亦中絶せらる。朋治三+八年梵語辭典
  と題して哲學館よりこわを發刊し、弘く世に行はる㌧に至る。これより前、慈雲律者は本書を梵學津梁中に牧めたり。
と逋べて居る。其れで此の自筆本を一見したく思ひ、寺へ照會したのだが、昭和九年九月の近畿大風害により堂宇の破
損甚しく、寺寶の保管も困難と成つたので本山たる大和唐招提寺へ預けてしまつたと云ふので、まだ眼輻を得ないので
ある。さて籔大贊に言及して居る明治一二+八年の梨は、共の+二月の刊行と成つて居る「㈱覊購鑢梵語字典」と
云ふ名の洋裝菊版本一册で「哲學館大學發行」「明治卅八年十二月五日發行 發行兼編輯者藤井圓順」氏である。「梵語字
典目録」一頁、「梵語字典正誤表」一頁、本文五〇コ貝、「梵語辭典索引」八四頁より成り、愨晃の自序、他の二人の他序、


凡例共の他は全く無く、本文は
  梵語字典へ饗橘易土集)箜
        京兆雙丘沙門彗心晃集
と云ふ内題と署名とより始まり、分卷も易土集のま曳であるが、易土集に存する梵字は全く見えない。索引は易土集の
附卷四卷に相當するのだが、略註も何も全く無くて、語彙の下に梵語字典としての頁數が記入してあるに過ぎない。此
の梵語字典を易土集に比較しては見ないが、わざー順序を變へたり、墫補するやうな面倒は敢行して居ないだらうと
思ふ。因みに、此の刊本明治三+八年+二月の刊行と成つて居るがそれは表面上の事ではあるまいか。講義録を分解し
て三冊に製本した本を見瀧事があるが、製本させた所有者が「明治三十一年」と各册表紙に明記して居るからである。
 易土集の五士音分類が極めて便宜的のものであつて、梵語の聲普を無視した非學術的のものである事を先きに述べた
が、此の非學術的分類に滿足できない人も生するのは自然にて、果して、幕末の悉曇學者として最も注意すべき行智
鱗髭が本書に斐探揀枳橘鈔六卷を滋・いた。共の名の示す通りに、枳橘易葉を探揀したものにて、笙の ・磊
覗した爲め、大體は五十昔分類ではあるが、甚だ詳密に學術的に成つて居り、大いに易土集とは異つて居る。例へばイ
ウエオ部はまさしくiUeOを頭晋とする言葉のみであり、ヵ部はカ・カン、 キ部はキ・キンに別れ、サ行は㎝山・坦声甑
輿凱を分ち、タ行は㎏偽噸.ね血ね伽を分つと云ふ風である。從うて大體は五十晋式ではあるが、共は五十丘日鬪が悉曇丘日
圖に基いたからとも云ふべきにて、i音圃が悉曇に基いて作られたと云ふ諡も、否定説があるがー行智は悉曇の摩
多・雙の順恁實に從うて居るに過窪いのである・へ其の嘉は凡例覧える)採揀の方針は箜卷書の探揀例言嶺
五十輔晋分」類體一辭…書のW彼逹
五五


五十丘弓分類冖體臙駢盤団の發逹
嵋訂竕に詳しく、其の第一條は易土集の性質をも示すものだから引用すると
五六
  本圭臼梵語ノ㎜集成セル、古・來未・ダ此壼臼ノ如キ席ハ博ナル者アラズ、故二林川語ヲ索蕁スルノ}事二於テハ、雑只二此堂n無ンバ有ベカラズ、撰
  主ノ動(○勤ノ誤リカ)勞尤モ至レリト云ベシ、然レドモ只惜ムラクハ、其簒集ノ次第、此方二所謂五+字母蓮吋膏ノ序二依テ部ヲ分チ
  且其醗は録スル所ノ如キモ啻二本邦習音ノ訛唱ヲ以テ集收←セシ冖政二、字煙ノ次第ヲ以テ冖梵文二對スルニ…冨ラザル凱者多シ、所謂迦ハ㎏、
  伽ハ即、亦賀討ハ㎞字ナルヲ、共二混シテ㎞ノ部二列シ、或ハ迦怯ノ字ヲ此方二所謂漢音二呼デ、キヤ昔ト爲テ短部二入レ、車者モサ
  替ナルヲシヤト呼テd部二收メ   入ル、ガ如キ、此汎濫鈷雜殆ンド尠カラズ、予緋∵冩ノ次二、因テマヅ此ヲ改正シ、其對誂、其
  林儿夊二復品蹄セン事・ヲ要ス、殃…レドモ獪悉ク壷蹴ス事能ハザル者ハ、次々云フ所ノ如キ仔細…アルガ故ナリ
と云ふのであつて、次ぎに梵丈を分類するには、一律にうまくやり難い事を逋べて居るのである。凡例の最後は本書の
成立を物語つて居る。
  準野元良子字無學、世二醫ヲ以テ業トス、東都ノ人ナリ、性温裕篤恭ノ士ナリ、講授ノ餘暇佛典ヲモ好ミテ讃ム予ガ執友ナリ、去歳…
  戊子秋冬枳橘本集ヲ、屋代弘賢ヨリ請ヒ借テ書寫セシム、余ハ其ノ寫本ヲ以テ、曲潤テ手自コレヲ鈔録ス、對註本一音二依テ、…部ヲ悉曇
  ノ順次二改メ分ッ、因テ…探揀鈔ト名付ル者ナリ、今夜功畢ル、故二鈔録ノ匕口細ヲ記シテ後ノ檢索二便リス、余ヤ}牛雄多事繁冗、日夜
  寸暇アラズ、然レドモ漸ク問ヲ偸ンデ鈔寫スルガ故二、字鴛正饗スルニ遑アラズ、再訂ノ時ヲ以テ改補ヲ加フベキノ・・丶時轟丈化十
  二己丑二月+二日之夜、御倉前繭井町效梵書室二誌ス
                    諾學+般若室利行ロ磁蹤緲潔甥嬲嬬郭秘蓉智
是れで見ると、「,探揀」とは易圭集を探揀したのであるから、行智本の書名であるに過ぎない。密教大辭…典が易土集の原
名を探揀枳攀と云つたと云ふのは正しく無い慮ふ。さて此の本は易糞本編二+六卷を六卷略讐矼下+二奎し


たもの、各語の註は易土集では甚だ詳しいが、本書では漢譯語と、引用書とを示す程度である。第一卷上冊は目録、例
言、慧晃舊序、舊凡例、引書H録より成る。卷二、三、四、五、六の各上冊には
  採揀枳橘鈔卷某之上
        収簑   幽犠鷹雛5℃沙旧亅彗い鵡襄
        擇訂  東武淺草隱士行智鈔
と署名して居る籔喫礁翻自分の見るは京大研究柔にして箜卷下册の髭「弘化四薪冬+月加梵紊書畢行阿
□」(□の所は日貝の二字の聞へ臨の二字を横に並べた形の文字であるが、此の日忠臣貝の四字分が、斈であるか二字
であるか、何と讀むかを知らない)と云ふ朱書のある本だが、探揀枳橘鈔と云ふ題箋ある六卷十二冊の次ぎに、題箋に
は何とも書いて無い枳橘易葉附卷の四卷四册靴霊綿は及び瞿の悉曇要訣の一部分一世が添うて居る。全+七冊
同筆同裝釘鯊詔礫磐黯賄臼のものである。朱書梵字竺の下、二の上の二冊に存するのみ。
          鬮O
 枳橘易土集の次ぎに舉げたいのは
謡拿訣+卷伊藤束涯稿男善韶纂著嗷蝉蕣た惣腱糴
である。漢字の用法、漢文の作法を説いた書であるが、第一卷の篇法・助辭の所を除く後の九卷は
  卷之二、三    語辭上下(五十音順)
   五十鼠日分類∵體欝辭書の發逹                                   五七


    五十昆日分艸類體}辭…壼日の 發逹                                   五八
  卷乏四、五    虚字上下(同)
  卷之六、七、八  雜字上中下(同)
  卷之九、十    實字(天文・時運・地理・入品附親屬・宮室・器財・飮膳・服色・人事・身體・動植の十}門分類)
と云ふ風に漢字を語辭・虚字・雜字・實字に分ち、それを五十晋順又は意義分類體とした辭書組織のものであるから、川
字格辭書とも名つくべきものにて、殊に其の語辭(主として副詞)、虚字(動詞)、雜字(形容詞・副詞・動詞など)の部七卷
は其れー五士菅分類と成つて居るから、五十音分類體辭書の一つとして、舉げるのである。其の普圃はアイウヱヲ、
ワ○○○∴諺慰巌爾ヰ妄ふ讐のものである。墾遣の誤りもある。本書は東涯晩年の未定稿を共の子善詔
が校整して纂著したもので「費暦十三年癸未之冬十一月十三臼」の善詔の漢文序がある。朿涯の未定稿の組織が善韶整理
の本の如くであつた何うか判らぬが、もし未定稿すでに五十音分類であつたとすれば、東涯の歿した元文元年七月まで
二十七年を溯らせる事ができる。久しく寫本で傳はつたが、明治に至り、町田石谷が成齋重野安繹や大樸村山徳淳に校定
せしめた本が、判紙型木版十冊本として刊行せられた。成齋序は明治十二年九月のもの、徳淳の凡例は同年二月一日の
もので、刊記に「明治十一年十二月三日版權免許」とはあるが、刊年を記さない。しかして字訣+卷と全く同體裁の操觚
字訣補遺五卷三本が存するが、其れは、同じ十一年十二月三日の版權免許にて、十七年九月の徳淳凡例ありて「十八年
十月十五日出版」と成つて居る。補遺も亦五十晋順にて、アイウヱヲ、ワ……オ等である。此の本亦東涯著、善韶纂補
徳淳増訂である。正編の方では徳淳は「今唯誤字脱文ヲ訂正シテ、敢テ其缺タルヲ補ハザルモノハ先哲ノ著書ヲ重ズレ
バナリ」と斷つて忠實に刊行して居るのだが、補遺の方は檜補の手を加へて「増」の字を附して識別できるやうにして居


る。さて、京都大學圖書館に字訣の寫本ー-但し新寫本と云ふ可きものにて極めて新しいものーがある。十册までは
正編に當り、第十一冊より第十五概までは「遺編」であるが、共の遺編を見るに、室白が甚だ多い。斯う云ふ未定稿であ
るから徳淳も増補したのである。其の京大の寫本には遺編の第十四卷尾に「享和二年壬戍二月昔日校訂全業、善韶」、第
十五卷尾に、「壬戍四月十八日校正全 善詔」と朱記してある。さて此の字訣は正編と補溝とが共に活版小本として飜刻
糴解せられて居る。      .
{
 …操觚字訣と同じ時分に出來たものが、國語學に關係深い
冠辭考+卷賀茂眞淵撰驤譱備稿
である。尾に「實暦七のとしのみな月にかうがへ畢ぬ」とあつて、共の八月の橘枝直の和文跋があり、同年に刊行せられ
たもので、眞淵の著述として刊行せられたもの曳最初であり、眞淵學を世に公表するに大いに役立ち、本居宣長と云ふ
大人物を國學に引き入れる重大な役割を演じた書である(但し共の寶暦七年の刊本は稀本にて自分は未見である。寛政
七年九月の再刻本を捉へて、これが初刊本であるかの如くに書いて居る書物があるが、以ての外である。)さて此の書は
云ふまでも無く、冠辭即ち枕詞を五十.首分類して共の解釋を施した枕詞辭典であるが、共の昔厨は
           り
    阿伊宇惠袁
    也伊山延與
   、胤十醜田分類體競辭澄口の發逹                                    五九


   五十歔臼分山類「谿肌鰍酬蛮臼の発ハ逹                                    六〇
    和爲宇惠於
と云ふ錯置膏岡である。(序乍ら此の書の凡例にも見えて居る語意考が、「五十聯」帥ち「伊鬥良乃古惠」としてあげて居る
                                                 り
ものも、阿伊宇延袁・也伊由衣輿・和爲宇惠於と云ふ錯置書鬮である。)錯置はともかくとして、本書が五士青分類である
事は注意すべきである。そして此の五十普分類、について眞淵は凡例中にて
                      つh唱牀」      ド」'はへ  冫りhノ舷る
  部のついでを充十の膏してせリ、後に世にか乂る次第をば色は艷ど散去を云云の語もてすれど、そは童のために便りせんとてつく
  り出しならんを、便りばやなるわざは中々によしを失ふこと多かわぱ、もの學ぶ人はいむ事也、よりてわが友は何にも五+督もてし
     ふるごと
  つ」、古語を知たすけとすめり、はた語を解には專ら五十暑をいふ。
と云つて居り、イロハ順の方が「便りばや」である事を認めつ曳も五十訟日順としたのである。とにかく、眞淵門では五十
曽を重硯し、冠辭考で五十菅分類を採用した程だから、北ハの門人魚彦の
古言梯一卷叢魚薐嚠轟嶽朋黻る    .
の如き五十膏分類歴史的假字遣辭典も生れたのである。しかして本害に於いても曽圃は、「あいうゑを、やいゆえよ、わゐうゑお」と云ふ冠劈と同じ錯皚高であるが、後にア行のエだけは氣づ窒」本斈三吉に斷りを云ひ憲額驂
緲黻繍聽袈.卷頭の 薗はあ行のゑの所だけ入木して之に改刻した。砦入木改刻の明鰺指摘できる本と、然
らざるものとがあるが、此の入木改刻が何時誰れにより行はれたかを知らない。さて魚彦には記紀萬葉等の古言を類聚
し鑠した雅言喜の五士訟辭書とし三楢の嬬手三卷五雙四冊犠響礪永があるが、これがやはりアイゥ延遠・ワ
ヰウ惠於と誤られて居る。魚彦の死んだのは宣長が字骨假字用格でオヲ訂正を發表した安永五年より後る曳事六年であ


るが、同門の宣長の説に服するのを快しとせなかつた丶めに、古言梯にても、楢の嬬手にても、
かつたのであらう。狹量と云はれても致方あるまい。
古言梯が刊行せられ,
訂正する雅量を示さな
刊行年月のある本を未だ見
す、蕾次郎氏の如きも案七年刊行の脚結抄よりも前の刊行である患童云つて居られるに過窪いが畑簸學李
田篤胤は古果辭經で萌和四年八月板に彫たるかざし抄には…L畑脚二と明言して居るのである。コ.捷に彫たるL
など云つて居ると、序文の年月を以て刊行年月と誤解したのだらうとも云へない事ないが、八月と云つて居るのだから
然る可き據所があつたものと考へる他は無い。つまり八月の刊記ある本があつて、共れを篤胤は見た上で明言したのだ
と見るのが至當であらう。さて此の書はヵザシ・ナ・ヨソヒ・アユヒと云ふ成章獨特の品詞分類により、共のカザシ(今の
副詞・代名詞・感動詞など)を列舉して五十晋分類したものだから、まさしくカザシ辭典と云ひ得る、成章は五十骨圓を
國語學的によく認識した入であつたから、分類も五十晋圖を採用したのだらう、但し普圃は「あいうえを」「わ○○○お」
と成つて居り誤られて居る。しかも、これが安永七年刊行の脚結抄では正されて居るので、安永五年春刊行の宣長の字
書假字用格の説を盜んだのだとか、然うでは無い暗合であるとか云ふ論も出るのだが、何と云つても、脚結抄の刊行が
後れて居る事は、確かに成章にとりては不利である。
五十毓日分一類體…辭…畿日の發逹
/、


五十戯臼分類「…體辭蠹日の發逹
六二
=二
 明和九年に詞艸小苑}卷三本と云ふ枕詞辭典が出來て居る。枕詞をば、其れを受ける言葉にょりて五十晋順に配列し
註したので、片々たる小本であるが、孟ー-圃は誤られて居る。明和九年夏五月の建部綾足の序があるが綾足の著では無く
門人不湯鞍、藤原熊在の共著である。これを群書一覽、國書解題、大日本歌書綜覽らが皆、綾足の著として居るのは不
思議である。綾足は眞淵門人であるから、北ハの弟子が五十音順を探用しても不思議では無い。 この綾足には冶の詞草小
苑と相對的名稱を有する
詞草大苑二册建部綾足撰燬疥以
がある。新撲和訓部類の廣告文に「六國史を初じめ、舊古の紀記、覦詞宣命萬葉集廿一代集より物語もの丶類にいたる
迄、歌文に用あるべき詞をぬきいだし悉く注釋し五士青にわかちたる書」とあるものにて、未見だから撰述年時もわか
らないが恐ら蠡梨であらう。國書解題、國語黌冒畿にも見えない。綾足鞍橡薪歿の著だから喜梯・和訓栞
など丶時を同じうして居るもの、或ひは詞草小苑よりは早


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Last-modified: 2022-08-07 (日) 23:43:41