岩倉市郎
喜界島 方言集』
中央公論社
1941


喜界島方言集
 全国方言記録を出したくなつた動機の有力な一つは、この集の原稿がいつまでも原稿のままで私の身近くに転がつて居ることであつた。前年我々の畏敬する伊波普猷君が、沖縄語の古い姿と、それが推移して現在の形態にまで変遷した事情とを詳かにする為に、久しく外境視せられて居た宮古八重山の列島、殊に三世紀以上も手を別ち、交通を遮断せられて居た大島郡の島々を廻つて、島毎に持伝へて居た言葉とその改まり方を調べて見ようとせられた際に、最も大きな影響を最初に受けて、奮起した青年がこの集の採録者、岩倉市郎君であつた。それが又幸ひなことには良い耳良い手、且つ非常にはつきりとした理解力をもつて居たので
ある。岩倉君は先づ自分の生れた土地とその四周の言葉を集め整理して、当然に之を伊波氏に見せた。同氏は其頃すでに東京に寄寓し、遥かに故国の文物歴史に向つて、無限の感懐を寄せて居た際でもあつたので、この大きな方言集に対して一つ/\、沖縄本島の単語の是と相同じく、又は根原は同じと思はれるものを書き込むといふやうなえらい仕事を、寧ろ楽みの心を以て為し途げられたのである。前後数十年に亘つた伊波君の学究生活にも、斯ういふ意義の深い遭遇は、なほ希有な事であらうと私は思つて居る。
 その大きな原稿がまはりまはつて、今私の手元に保管せらて居る。是を容易に世の中に送り出すことのできなかつた理由を、私は色々の側面から改めて大いに考へて見た。文書は前代の言語事実を確実に存録するが故に、近世の国語学者は悉く之に依拠して、所謂国語学を打立て得べしと信じたのであるが、筆に文字に伝はり得たものは、実はその一小部分に過ぎなかつたと思はれる。第一に文学は都府のしかも上流のみに行はれ、語辞の上品下品を選別することは、昔は殊に峻酷であつた。単に内容の文学生活と交渉なきが為に、其選別の外に置かれたものも亦多い。南の島には既に記録が乏しく、しかも久しく交通を制限せられて居た。社会の構成にも互ひに異なる条件が来り加はつて居る。それが三百有余年の隔離を乗り越えて、今も過半の共通点を保持して居たといふことは、何よりも顕著な又重要な現象であると共に、是と他の一方の、考証に由つて始めて根原の同一なることを認め得る親近語とは、資料としては本来二つに分けなければならぬものだつたのである。伊波君が「おもろ草紙」以外殆と中世の記録を伝へぬやうな島々の言葉の有り形を、或時は老人の忘れ残した古風な知識から、又或時は変り果てたる当世風の言葉使ひの中から、見つけ拾ひ上げようとせられた労力は尊といが、それはもう研究であつて事実より一つ奥のものである。もしも我々の方言集が、眼前現存の何人にも争へない資料を提供する役目を持つとすれば、この研究に属する部分は別にするのが、たとへ出版頒布の容易である場合にも、やはり至当なのでは無いかと私は考へた。雑誌「方言」の古い号には、壱岐島方言集と沖縄喜界の言葉と、三つを比較した研究も既に公表せられて居る。日本方言学会の研究報告書なども、たゞの方言集までは出して居られぬだらうが、斯ういふ比較の考証は悦んで載せることゝ思ふ。だから今回はまづ此中から、喜界島の現在の事実だけを、抜き出して本にすることにし、次には沖縄中央の今日の方言集を出し、それから追々と両方の地方語のどれだけ近く、どれだけ三百年の間にちがつて来て居るかを、端から段々と明かにして行きませうと、強ひて私は御両人の共同事業を、引分けるやうな方針を決したのである。伊波君がその折角の仕事を後まはしにしても、いやな顔もせずにこの案に同心せられた雅量ある態度には感謝する。その代りには将来同君の比較研究を、少しでも早く又精確に、世上に紹介しなければならぬ義務も私が負うたのである。一人で集録した今までの方言集にも、語源の穿鑿や正訛の弁、少しばかりの文献比照、乃至は他の地方との類似変化などを、物の序を以て書き添へたものがあるが、さういふ権能をもつた人は実は少ない筈である。伊波氏の研究を別置した以上は、是からの我々の方言集には、当然にそんな断片的な解説は、他の方法を以て発表してもらふやうにしなければならぬと思つて居る。
 方言を五十音別に並べて置くことは、多くの場合には必要の無いことであった。単にどういふ言葉があるかを知る為には、寧ろ同種のものを近い所に置く方がよいので、聴いて如何なる意味かを探るべく、之を辞典として索引する者などは有らうとも思はれない。それ故に将来は原則として類別法を採り、なほ利用者の注文に応じて、追々にその並べ方を改良して行くつもりである。しかしこの南の島々の方言だけは、今まで余りにも互ひに相知らす、しかも一たび知り得たならば、古い因縁の久しく続くものであることに心付き、新たに啓発する所がきつと多いと思つたので、私はわざと奮式の五十音排列法を、其まゝ採用することにしたのである。今一つの理由は島々の知識人が、採集の為にさして多くの労苦を費さずとも、心閑かにこの岩倉君の方言集を見て行くことによつて、自然に自分たちの母の語のどんなものであったかを思ひ出し、もし又興味があつて此語彙の頭の上にでも、ぽつ/\と異同を書き込んで行つたならは、いつと無く我土地我島の方言集になつてしまふやうに、言はゞ一つの台帳の役目に、この最初の辛苦の結晶を、利用して見ようと企てゝ居るのである。この沢山に人の住む離れ島をもった日本のやうな国は、世界を捜しても恐らくは他には無い。国語が永い歳月の隔離によつて、どれだけの独立した変化を受け、又どれだけの固有の発育を続けるかといふ活きた実験も我々ならば出来る。それが当代の学問に在つて、今もまだ空想とこぢつけとの遊歩場になつて居るのは、全くこの実着なる観察法の考案せられなかつた為かと考へると、是は誠に心の勇む鹿島立ちである。私は自分の力の続く限り、先づこの一冊を遠い島々の、方言の悩みをもつ人たちに頒つて見るつもりである。一部の指導者が思つて居るやうに、方言はそんなに改めにくいものでは無い。現に沖縄などの若い男女の言葉は、もうよほどまぜこぜになつて居る。唯之を普通にする為には若干の歳月を要するだけである。英語仏語といふやうな二つの国語で無いから、今日より甲を止めて乙にするといふことが出来ないだけである。又さうしようと思つた所で、まだ代りのものが与へてないのである。青森でも鹿児島でも、言葉は話す者自身が段々に覚えて片端から取替へて行き、何の強制は無くとももうよほど判りやすく、又不自由をしなくなつて居る。島々の人が持つ昔からの感覚と考へ方、智能術芸にはそれ/\の言葉があつた。それを顕はす新しい言葉を授けなければ、いくら移りたくも移ることは出来す、口で使はすとも腹の中では、依然として古い言棄で考へたり感じたりすることを罷めないであらう。古い言葉の有るだけを一応は出させて見て、それに標準語の正しい言ぴ改めが可能であるかどうかを、誰かゞ考へて遣ることが、国語統一政策の実は大切な準備作業であつたのである。順序は逆になつたが今からでも、それを試みた方が効果は挙げ易いと思ふ。私はこの喜界島方言集が縁となつて、島々の言葉の良い対訳が見つけられ、大きな労苦と圧迫感と無しに、互ひの交通のもつと容易になつて行くことを期待して居る。伊波岩倉二君のやうなまじめな調査もせすに、その方言の滅び消えて行くことをこそ、多くの人々は惜み悲んで居るのである。それが残りなく新らしい世代の、全国一致の言葉に引継がれて行くことを、拒み妨げんとする者などは有らう筈が無い。だから統一の必要を感する土地では、特にこの新旧の繋がりを蕁ね究めなければならぬので、それを全然怠つて居た者が、強ひて昔の言葉を使はせまいとしたことは、島々の大きな不幸でありたと私などは信じて居る。この方言集が世に弘まつた暁、先づ現れて来るものは反省であらう。其次には同情の泉の水上となつて、過ぎ行く老人たちの心持を理解しつゝ、之を若い世代に紹介するやうになるならば、国の協同を愈々奥深いものとすることが出来るであらう。
その将来を考へただけでも、もう世の中は少し明るくなる。方言集をただ誤つた物言ぴの目録のやうに思つて居た人々は、ともかくも一通りこの本に目を通して、静かにもう一ぺん考へて見るべきだと思ふ。                   (昭和十六年一月、同書序文)
柳田国男『方言覚書』による


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Last-modified: 2024-03-10 (日) 12:07:47