『国書総目録 著者別索引』では「こうたんゆうかん」と読まれているが、「廣湍幽閑」と書かれることもあり、「ひろせ」と読む 。
「弘湍幽閑改正」とある『五百字増補韻鏡』 の元禄十一年における源鞠山(割書で「酒井飛彈守」。越前敦賀藩主の酒井忠稠)による序に、「粤越之前人弘湍幽閑者潜心于韻学」と見える。
『声音正僞発明韻鏡備考大成』 には、「崎陽 三餘斎弘湍幽閑」と見えるが、「弱冠住崎陽三十餘年」で韻学を学び、江戸に出て、鎌倉で没したという。
『韻鏡十二反切』(九州大学附屬図書館音無文庫本。外題は「韻鏡」522イ5*1 )には、「幽閑は黄檗南源禅師の伝を得て韻鏡を以て世に鳴りたる人なり」とある 。南源性派が隠元とともに来日して長崎にいた頃に、という謂であろうか。
『韻鏡和漢二流指南目録』(静嘉堂文庫所蔵国語学資料集成・東京大学文学部図書室蔵・写本)、『韻鏡秘伝諸例』(東京大学文学部図書室蔵写本)も、幽閑の韻学を伝えるものである。
元禄十四年に、『経史正音切韻指南』を校訂刊行もしている。