春日政治

『春日政治著作集1仮名発達史の研究』

朝日国語文化講座


 仮名は表音文字である以上、国語の有する音数だけの字数は必要であるが、亦それだけあれば十分なのである。それ故若し真仮名の当初から或一音には或一字を定めて用ゐるのであつたならば、極めて簡易でありかつ便宜であつたらう。しかるに元来漢字は数の多い文字であり、而も同音類音のものの数多い文字であるから、国語の一音に対して種々の文字が借り得たわけである。かくて我が仮名は早くから一音に対して幾個もの字母をもつたものであつて、一音に一字母を限るといふ整理など長く行はれなかつた。抑≧漢字の多数に馴らされゐたことが、自然選字を自由緩舒にした、個人的にも一音一字を限定するといふ意識を欠いてゐたし、又初めは文字使用の学者階級に限られてゐたことが、之を社会的に統一するといふ必要などには想到させなかつたのである。真仮名を使用し始めた時代の或個人のものを限れば、一音】字母限定の跡の見えるものもあるが、仮名使用の発達に伴つて、愈≧字母を増して行つたのであつて、殊に真仮名隆盛期の奈良朝に於ては、文字の使用上に趣味的・翫弄的の風をさへ馴致して、仮名字母が益ζ多数となり而も好んで複雑な点画の文字をさへ使用するやうになつた。しかし、文字使用が漸次普遍化して行くにつれて、それが学者階級のみの事でなくなると共に、一面通俗の社会には真に実用的のものを要求して来て、従つて仮名字母も普通平易なものが採られ、而もそれが一音に対して異体を多く用ゐないやうになるのは自然である。かかる傾向が奈良朝の終に萠して来たやうに見えるし、亦平安朝の初頭に於ての真仮名字母が著しく平易化してゐた事実を見る。平仮名や片仮名はかかる傾向の中に、その真仮名を本として発生したのである。
 さて略体仮名になつても、亦同音異体の字母、所謂変体仮名を多く生じたのであるが、それは真仮名の場合と同じく一音に異なる母字(母字といふのは略体仮名の出て来る真仮名をいふので字母と別義である)を用ゐることから起るのはもとより、殊に略体仮名に於ては、同母ながらも之を草化し又は省文する仕方の差異によつても異体を生ずることに注意しなくてはならない。平仮名は当時の学問たる漢文学に与ることの出来ない社会の人々が、国語文をものする為に作り出したものであるから、その初はむしろ簡易普通な母字により、異母字を多く複用しないものであつたことが考へられるが間もなく学者による書道の趣味が入つて来て、各字母の変化美を要求し、かつ上下連続の調和美を欲することが盛になつて、為に、再び真仮名に於ける奈良朝の復活とも称すべき時代を現じ、ここに多くの異体仮名を作つて了つた。平安朝に残る仮名の古筆切は多く和歌であるが、散文はそれに比べると変体の使用もやや少いながら、やはり同音異体の字母を多用することから長く免れ得なかつたのである。一方片仮名は漢文訓読の為に記入することから発生したものであつて、細書・速記の要求から起つてゐるので、平易な母字を採り多く異体を複用しないのが自然であつたが、それでも当初は個人によつて多少は母字の相違があり、かつ同母字でも省文の仕方の異なるものがあつた為に、古い時代ほど種々の異体が行はれて統一がなかつた。しかし元来が実用的のものであるし、自然、社会的統一の方向に向ひ、殊にそれが訓点の使用のみでなく一般の文に使用されるやうになつた時、著しく統一されて来たことは平仮名よりも遙かに早かつた。
 以上述べた所の如きは、今日に在つては仮名文字に於ける常識となつてゐるのであるが、さて我等が「仮名の沿革」といふものを考へる時、常に我等を悩ますものは、この字体の多過ぎる複雑さである。この復雑さを時代別に取扱つて、而も手際よく要領を得させることは、今の私にはとても望のない難事であつて、殊に又かうした短小な叙述のよく堪へる所ではない。よつて私は今体(今日の標準体)の仮名を中心として、それらが時代と共に如何に発生し、如何なる位置を取つて、今日に至つたかといふ概略を述べることにしようと思ふ。


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Last-modified: 2022-08-08 (月) 10:06:23