時枝誠記
昭和三四年一〇月『国語と国文学』三六の一〇
時枝誠記『言語生活論』所収

松村明
上田万年「洒落本と山東京伝」

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 東京大學國文學科は、昭和三十四年四月の新學年開始に際して、松村明氏を專任助教授に選任して、特に近世國語に關する講義を依囑することとした。このことは、いふまでもなく東京大學内部の一人事であり、いはば私事に類することではあるが、私としては多少とも國語學界の將來に對する期待の實現を願つて、講座充實の立案に参書した一人として、その責任を明かにするために、その経緯を明かにし、近世語研究の將來に若干の希望を述べることは許されてよいことであらうと思ふ。
 東京大學では、今日まで專任者による近世語研究の講義といふものは、開設される機會に恵まれなかつた。しかし、それは近世語研究といふことの研究的意義が輕視され、無視されて來たことでは、決してなかつた。それどころか、國學體系における國語研究から、百八十度の転回をした明治以降の國語學においては、むしろ國語學の中心課題の一つとなるべきものとしての位置が約束されてゐたと見るのが至當でさへあつたのである。
 事新しくいふまでもないことであるが、明治以降の國語學の課題と方法とは、國學におけるそれとの間に大きな断層を作つて、殆ど全面的に近代ヨーロッパ言語學のそれに從つたもので、その一つは、國語の起源系統に關する研究であり、その二つは、音聲言語の史的研究である。國語の起源系統に關する研究は、印欧比較言語學の傳統を踏んだものであるが、それは國語學独自の課題であるといふよりは、言語學の一領域として、一般言語學の廣い視野に立つて研究さるべき課題であるので、暫く問題外にして置くこととする。音聲言語の史的研究は、グリム、パウル以後の史的言語學を継承したものであると同時に、正に明治以後の國語學の中心課題として今日に至つたものである。明治以後の口語法研究も、室町期の抄物、キリシタン文献を資料とする一連の研究も、この系譜に属するものであり、近世語研究も、また明治期の口語への発達変遷を含めてこの研究系譜の一環を荷ふものとして位置づけされるのである。近世語研究の意義と限界とを明かにしようとするものは、この研究史的系譜に目を覆ふことは許されない。と同時に、多くの遺産を継承し発展させつつある近世國學體系における國語研究の理念との対比において、これを正當に位置づけることをも忘れてならないことである。
 明治の新國語學の創建者として、それ以後の國語研究の諸分野に、開拓の端緒を開いた上田萬年は、近世における批判的學風の先驅者である契沖の研究から、古代文學古代國語に対する、國學におけるとは異なつた新研究を唱道した。同時に他方、近世文學近世言語の研究の重要性について力説してゐる。帝國文學會における講演を基にした論考「洒落本と山東京傳」(大正二年江戸研究会編「大江戸」所収)にその一端をうかがふことが出來る。上田博士の洒落本研究は、その專攻とする國語學の立場から、洒落本が、國語假名遣の沿革を明かにするために、江戸言語史・東京言語史、更に標準語制定のために、重要な資料であることをいふと同時に、文學史上における洒落本の位置或は意義について、また洒落本が江戸社會史の究明に、或は當時の正統的学問の裏面史を明かにする上に、重要な参考資料となるべきものであることを指摘して、それぞれについて一家言を述べてゐる。これらのことは、近世文學近世言語の研究の進んだ今日においては、別に珍らしいことではないのかも知れないが、私はそれらの事柄の内容よりも、國語資料を当代の政治社會文學といふ廣い視野に立つてこれを批判し、特に現代國語との關連において、その研究的意義を強調した態度を問題にし、そこから何ものかを學びとるべきではないかと考へるのである。
 一体に、明治以後において、日本が西洋の學問を摂取した態度を見ると、學間の結論的な課題や方法だけを学びとつて、それらの學問の根底をなし、その発展の原動力となつてゐる廣大なスコープを見失ひがちであつたやうに思はれる。學問を、その純粋の体系において摂取しようとするためであらう。その結果は、その學問の限界を批判することが出來ず、これを絶対、普遍的なものと誤認する観念を植付け、更に悪いことは、その學問を痩せさせてしまふといふ結果を招いたことである。印欧比較言語學についていへば、この學問は、決して印欧比較言語學それ自身に限定され隔離されて発展して來たものと見ることは出來ない。その根底にある廣大なスコープは、人類思想の発達と言語の発達との相關を究めようとしたもので、そのことは、ドイッ文献學から派生し、またそれに寄與しようとしたグリム以下のゲルマン語の史的研究にも、また言語社會學や意味論(ダルメストウテルやブレアルにおける)の基礎としても、一貫して流れてゐると見ることが出來る。種々な新しい研究課題も、この廣大なスコープがあつて、始めて可能とされたのであつて、その事情は、國學において、史學文學語學その他の諸々の分野を派生したのに似通つてゐる。西洋言語學の摂取において、これらの基盤的な思想は、殆ど払拭されて、出來上つた理論の、國語における実演に終つたのが明治以後の國語學の現状であつて、近世語研究も、必ずしもその例外とはいへない實情にあると見るのは僻目であらうか。
 近世語とその研究について門外漢である私が、その内容の點について啄をさしはさむことは愼むべきことだとは思ふけれども、素人目にも氣付くことは、近世語研究者が、「音聲言語の史的研究」といふ近代言語學の至上命令に囚はれて、対象を專ら音聲語學の資料に限定して來た結果、近世文學の研究に對する近世語研究の寄與といふことを、殆ど放擲してゐる現状は、換言すれば、近世文語の研究を不問に付してゐることは、近世語研究の豊かな實のりを妨げてゐる理由の一つに数へてもよいであらう。これは、たとへ近世語研究者が自己の責任の埒外として拒まうとも、近世文學研究者の側からの切なる要請であることには間違ひないことである。まして、近世語研究が研究対象を音聲言語に限定することにどれだけの理論的根據があるかも疑はしいとすれば、實のり多い結實のために、近世文學研究のための近世語研究の体系を樹立するといふことは、近世語研究を痩せ細らせないための必要な手段であるといつてよいであらう。國語研究を文献學の手段とすることは、國學的國語研究であり、學問の純粋性を害するものであるとして、明治の國語學の潔癖に拒否して來たことであるが、これは更に再吟味を要する悶題であらう。
 近世語研究は國語の史的研究の一環として発足したのであるが、今までのところ、音韻語彙語法の体系的記述以上に、何ほどの成果を挙げて來たかは、疑はしい現状であつて、個個の事実の丹念な積み重ねによつて、いづれは史的叙述が成就するであらうといふ期待が持たれるかも知れないが、その期待が、どのやうな形で實現するかの見通しは、近世より明治への流れを含めて、一応立てて置く必要があるであらう。例へば、言文一致運動を契機とする文語文の交替の歴史的事実は、これを、ただ語法的事実の変遷といふ形に還元したところで、何の説明にもならないし、無意味なことであらう。所詮は、國語史の概念の再吟味から出発しなければどうにもなならいことのやうに思はれる。
 近世語研究の将来については、門外漢の立場から、注文すべき、また期待すべき数々のことがあるやうである。私も岡目八目で勝手なことを云はして貰つたのであるが、最後に再び繰返していふが、近代言語學の廣大なスコープに倣つて、巨視的観点から、幅の廣い研究体系を打立てて行くことを期待したいのである。
付記
本稿は、東大國語研究会の談話に基づき、更に東條操先生のご教示によることが多かつた。


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Last-modified: 2022-08-08 (月) 10:04:23