http://uwazura.seesaa.net/category/214052-1.html
https://dl.ndl.go.jp/pid/1535120/1/2 音声学協会会報
https://dl.ndl.go.jp/pid/2482672/1/289 『国語音韻史の研究 増補』

 國語のチ・ツ及びヂ・ヅが奈良朝時代に於て各ti, tu, di, duの音であつたこと、又それらが室町末期の頃既にtʃi, tsu, dʒi, dzuの音になつてゐたことは、今日既に定説になつてゐる。私がここで考へて見ようとするのは、その變遷時期が大體何時頃であつたか、といふことである。
 考證の材料としては主に支那關係の資料を用ゐなければならないので、まづ支那語に於ける舌音齒音の變遷を略述しておきたい。(但し、舌音の中でも、鼻音のことは今問題外とする。)まづ、舌頭音は古來t, d(dental)の音であつて、殆ど變遷が無かつた。舌上音は、隋唐時代には未だ純粹の破裂音であつて、その調音位置は恐らく現代英語のtʃɔis(choice)dʒɔi(joy)のtʃ, dʒに近いものであつたらう。併し、中原音韻では既に正齒音と同じアフリカータに轉じてゐる。正齒音は古來、tʃ , d 類のアフリカータであつた。詳しく言へば、隋唐時代には二等cerebral三等palatalであつたが、中原音韻では既に皆cerebralになつてゐる。齒頭音は古來ts, dz類のアフリカータであったが、現代北京官話ではi, yの前では口蓋化されてゐる。
 さて、我が國の天台宗及び眞言宗に傳へられた漢音は、平安朝初期(第九世紀)の頃北支那から借入されたものであるが、普通の漢呉音に於けると同様、支那語のts,dz(齒頭音)tʃ,dʒ(正齒音)類のアフリカータをすべてサ行ザ行の形で傳へてゐる。蓋し、當時は日本語のチ・ツ・ヂ・ヅの頭音がなほt,dに近い形であり、未だアフリカータ化してゐなかつたからである。舌上音はタ行ダ行の形で現れてゐる、これは當時の支那原音では未だ純粹の破裂音であつた。
 次に、院政初期(第十一二世紀の交)の人明覺は、悉曇要訣に於て、「杭州」の宋音をアンシウ、「行者」の宋音をアンシヤと記してゐる。ここでも、正齒音(tʃ)字たる州・者の音は未だサ行の假名で表されてゐるのである。
 鎌倉時代に入ると、この期に輸入(一一九一年以降)された臨濟曹洞系の唐音は、今もなほ禪寺で経文・回向文等を誦するのに用ゐられてゐるが、それに於ては、漢呉音の場合と同様、支那語のts,dz(齒頭音)tʃ, dʒ(正齒音)類のアフリカータをすべてサ行ザ行の形で傳へてゐる。日本語のチ・ツ・ヂ・ヅの頭音が此の頃までも未だ單純な破裂音であつたことを知るべきである。但し、支那語舌上音は當時既にアフリカータ(tʃ,dʒ)化してゐたので、臨濟曹洞系の唐音ではそれをもすべてサ行ザ行の形で傳へてゐる。知客(シカ)直歳(シツスイ)竹箆(シツペイ)火箸(コジ)のやうな古い唐音語に於て、漢呉音でタ行ダ行の音を持つ字がサ行ザ行の音で讀まれてゐるのも、此の故である。知客(シカ)の唐音讀みは、仙覺萬葉集註釋卷一(文永六年、一二六九)に既にその證を見出し得るものである。又、大體蒙古襲來(一二七四、一二八一)頃の作と推定される塵袋には、「畜生」の宋音をシクサンと記してゐるので、第十三世紀末にはチは未だtiに近い音であつたことが證明される。
 以上は鎌倉時代に輸入された臨濟曹洞系の唐音の特色であるが、江戸時代になつて、承應三年(一六五四)以降に輸入された黄檗音、延寶五年(一六七七)に傳來した心越派曹洞音、その他長崎や薩摩の唐通事が學習した新しい唐音に於ては、支那語のts, dz, tʃ, dʒ(齒頭音・正齒音・舌上音)類のアフリカータはすべてツ・ツア・ツイ・ツヲ・チ・チヤ・チユ・チエ・チヨ(濁音も之に准ずる)のやうな形で表されてゐる。tsa, tsie(tʃe), tsoが時にザ・ゼ・ゾのやうに寫されることはあるが、その場合には、普通のsa, ʃe, soと區別するため、假名の右肩に小圈を附するのを常とする。而して、支那語のti, tuの音を表すためには特にチ゜(又はテ゜)ト゜のやうな表記法を設けてゐる。これらは、禪僧系統の文獻にも譯官系統の文獻にも共通な表記法である。以上の事實は、チ・ツ・ヂ・ヅが當時既にtʃi, tsu, ʒi(dʒi), zu(dzu)の状態にまで發逹してゐた事情を、よく反映してゐる。日本標準語に於けるチ・ツ・ヂ・ヅの頭音は、Jesuit流の羅馬字綴(chi, tçu, gi, zzu)によつて知られる通り、第十六七世紀の交には既にアフリカータになつてゐたのである。
 そこで、チ・ツ・ヂ・ヅの頭音のアフリカータ化は、大體鎌倉末期から室町中期までの間の何時かに起つたものと考へられるのであるが、その年代を更に一層詳しく限定する工夫は無いものであらうか。室町時代の辭書類に見える唐音語の中で「子」の字は椅子(イス)帽子(モウス)拂子(ホツス)段子(ドンス)桶子(ツス)などのやうに一般にはスと讀まれてゐるのであるが、唯二つの例外がある。即ち、楪子(チヤツ)と脚踏子(キヤタツ)とがこれである。前者は、橋本先生が吉野時代又は室町初期の撰と論定しておいでになる頓要集の中に存するものであり、後者は文安元年(一四四四)の序ある下學集に既に見えるものである。慶長八年(一六〇三)出版の日葡辭典を譯したLeon Pagesの日佛辭典(一八六八)には、前者をTchatsouと記し、後者をKiatat, ou kiatatsouと記してゐる。一体「子」の支那原音はtsʅなのであるから、日本語のツがtsuの音を持つてゐる時代ならば、「子」の支那音は當然ツで模倣せらるべき筈である。故に、江戸時代に借入された毯子の如きはダンツウの音になつてゐる。然るに、椅子(イス)帽子(モウス)等の如く、古人がかつて之をスの形で傳へたといふことは、即ちその當時日本語のツが未だtuに近い状態に在つたことを示すものでなければならない。併し、さらば楪子(チヤツ)脚踏子(キヤタツ)の借入された時代には日本語のツは既にtsuになつてゐたものと考へなければならないか、といふと、必ずしもさうではない。何故なら、ッが未だtuの状態に在つた時代には、日本人の耳には、支那音節tsʅは、言はばス(su)とツ(tsu)との中間音のやうに聞えた筈であるから、それはスで模倣されることもあつたらうが、時にはツで模倣されることが無かつたとも斷言は出來ないわけである。殊に、楪子や脚踏子の場合には、「楪」や「踏」が入聲(恐らくは韻尾に聲門閉鎖音を有するもの)である關係から、その直後に續くtsʅ(子)のtが常よりもいくらか硬く響いたといふ風なことは、有り得ないことではない(音聲學協會會報41号,本書607頁參照)。
 チの頭音のアフリカータ化の年代を考へるために、多少參考になりさうに思はれるのは、饅頭屋本節用集に見えるシンス(正使)である。これは同書シの部に「正使副使《シンスフス》」フの部に「副使正使《フスシンス》」と續けて出され、唐船使と註せられてゐるもので、即ち室町幕府から明廷へ派遣された使節の首班を指す禪宗語である。なほ、諸回向清規式(永祿年間比丘楓隱編纂、明暦三年刊行)所收の唐船所薦にも、「大日本國大明國《ミンク》差來使者正使《サライスシヤシンス》比丘某等」と見える。
  (Leon Pagesの日佛辭典に
と見えるのは此の語の意義の訛傳か。但し、複數になつてゐるので、或は何か別語であるかも知れない。)此の語の使用された始まりは、當然、明との國交の開始(一四〇一)された應永以後のことでなければならない。然るに、此の語に於ては、正齒音たる「正」の音がチンではなくてシンとなつてゐるので、この點から見ると、應永頃にはチは未だtiに近い状態に在つたかのやうに見える。併し、これ亦確實な證據とはなり得ない。何故なら、當時は禪宗渡來以後年既に久しく、各寺院で經文・回向文等を誦するのに用ゐる唐音も既に傳統的に固定してしまつてゐたことと思はれ、從って、その固定した唐音を以て新しい語をも讀むといふことは、有り得べきことだからである。例へば、紹明(ゼウミン)拔隊(バツスイ)のやうな日本人名を唐音で讀む場合、古人は果してその當時の活きた支那音を用ゐたものであらうか。否、恐らくはただ傳統的な唐音を用ゐて禪宗趣味を滿足させたものに過ぎないであらう。又、後金の太宗が國號を清と定めたのは我が寛永十三年(一六三六)のことで、その頃日本語のチが既にtʃiの音であつたことは疑ふ餘地も無い。然らばts‘iŋ(清)は當然チンと模倣せらるべき筈であつたのに、日本人は之をシンと呼んでゐる。蓋し、臨濟曹洞系の傳統的唐音では「清」の字を常にシンと讀み慣れてゐたので、その習慣に據つたものであらう。江戸時代初期に於て古臨濟曹洞系唐音がなほ相當に活用されてゐたことは、慶長十七年(一六一二)以降の聚分韻略の刊本に此の系統の唐音を附し、索引に便ならしめてゐることによつても知られるのである。(但し、後には天和三年版増益三重韻・元祿十一年版三重韻等の如く、江戸時代の新しい唐音を多量に混じたものも現れて來た。又、全く唐音の記載の無い刊本も有ることは勿論である。)
 次に、支那人の側から日本語を觀察した史料を求めて見ると、まづ、鎌倉最初期の日本僣安覺(備中の人)の發音を南宋人羅大經(江西省廬陵の人)が漢字で音譯した例が、鶴林玉露人集卷四に出てゐる。その中に日本語のクチ(ロ)を「窟底」と記してゐるのであるが、「底」は端母(t)の字である。この安覺が、果して充分標準音に熟達してゐたものであるか、それとも備中の方音を以て語つたものであるかは、明かでないが、たとひこれが備中の方音であつたとしても、兎に角、第十二世紀末頃京都に比較的近い地方になほti音の存したことを知らしめる材料として注意すべきものである。
 次に、元末明初(第十四世紀)の人陶宗儀(浙江省黄巖の人)は、書史會要卷八の中に、日本僭克全大用から教はつた「いろは」の讀み方を記してゐる。その中に、「ち」を「啼夂近低」と註し、「つ」を「土平聲又近屠」と註してゐる。この中「低」は清音のチに、「啼」は濁音のヂに、「土」は清音のツに、「屠」は濁音のヅに充てられたものと思ふが、詳しい考證は他日に譲りたい。ここでは、ただ、これらの文字がすべて舌頭音(t, d)に屬するものであり、從つ
て克全大用のチ・ツ・ヂ・ヅは寧ろti, tu, di, duに近い音であつたらしい、といふことを明かにしておけば足る。
 明代の支那人の著書の中で、日本語を音譯した例は甚だ多い。その中、比較的古い史料として、定州の薛俊の著した日本寄語を見ると、日本語のツ・ヅに對して達子(立)埋祖(等待)番助架水(愧)胡子(打)卒〓(爪)埋止(松)〓多子(一)扶達子(二)密子(三)學子(四)意子子(五)乃乃子(七)个个乃子(九)等の如くアフリカータを頭に持つ原音を有する漢字を充てた場合と禿計(月)禿智(土)明東(水)明東楷泥(水銀)一故都(年紀)何面凸辣水(久不見)晒加藤計(酒盞)骨都(靴)等の如く單純な破裂音を頭に持つ原音を有する漢字を充てた場合とが相混じてゐる。チ・ヂの例は多からず、その確實なものは禿智(地)翁知(公)何治(叔)亜姉吉乃乃水(無情)打祭(大刀)等の如く概ねアフリカータを頭に持つ原音を有する漢字で表されてゐるが、不確實な例をも加へるならば、倭逹的援(起身)高高的姚鎖廬(好)的个(近)のやうに、單純な破裂音を頭に持つ原音を有する漢字がチに充ててあるかと疑はれる場合も無いではない。この日本寄語は、陶班の説郛續篇に牧められ、更に

に飜刻されてゐる。これによつて、當時日本語のツ・ヅ(或はチ・ヂ・ツ・ヅ)の頭音が單純破裂音からアフリカータへと漸次移行しつゝあつた状態を見ることが出來る。但し、この書史會要や日本寄語に寫された日本音が何處の方音であるかは、未だ明かでない。
 次に、日本一鑑の著者鄭舜功は、嘉靖三十四年(一五五五)から同三十六年(一五五七)までの間豐後に滯在した人であるが、その記載する所の日本語彙表に於ては、

等の如く、日本語のツ・ヅに對してはすべて一律に「茲」を充て、又、茲致(土)阿致(舅)阿致(叔)致佳世(近)等の如く、日本語のチ・ヂに對してはすべて一律に「致」を充ててゐる。而して、これらは共にアフリカータを頭に持つ原音を有する漢字である。故に、第十六世紀の中葉に於ては、チ・ツ・ヂ・ヅ殊にツの頭音のアフリカータ化に於て近畿地方等より概して遲れたやうに見える九州地方に居てさへも、チ・ツの標準的な音として舜功が認めたものはtʃi, tsuだつたのである。
 その後、萬暦(第十六七世紀の交)頃の人侯繼高の著した全浙兵制の附録日本風土記に見える日本語彙表は、直接又は間接に日本寄語の影響を受けた點が認められるに拘らず、日本語のチ・ツ・ヂ・ヅに封しては、逹子(立)埋祖(待)番助山水水(羞愧)胡子(打)卒迷(指甲)埋止(松)許多子(一)勿逹子(二)密子(三)欲子(四)意子子(五)乃子(七)箇匕那子(九)紫氣(月)紫七(土)密辭(水)骨子(靴)、又、紫七(土)翁之(公)谷和治許(叔)亜姉吉乃乃水(無情)等の如く、すべてアフリカータを頭に持つ原音を有する漢字を充て、日本寄語で破裂音字を充ててゐるツキ(月)ツチ(土)ミヅ(水)クツ(靴)に就てはわざわざその譯字を改めてゐる。但しかの倭逹的援(起身)高高的姚鎖盧(好)的个(近)だけは原形のまゝ踏襲されてゐる。思ふに、ツキ(月)ツチ(土)等のやうな有りふれた語形とは異り、これらは本來誤記せられたもの、或は特殊の訛言であつたため、その後の人の新しい見聞によつて譯字を訂正することが出來ず、止むを得ずそのまゝ傳へられて來たものであらう。
 なほ、天啓元年(一六一二)に成つた茅元儀の武備志にも日本語彙表を載せてゐるが、これは(恐らく籌海圖編を媒介として)日本寄語の内容をそのまゝ收録したものに過ぎないから、武備志撰述當時の日本語の状態を示す史料とはなり得ない。
 之を要するに、チ・ツ・ヂ・ヅの頭音は標準語に於ては、第十三世紀末頃までは未だ單純な破裂音であつたらう。それが第十六世紀末には既にアフリカータに變化してゐた。その變遷の年代は未だ之を明かにすることは出來ないが、恐らく徐々に變つて行つたものであらう。而して、現代諸方言の状態から推すに、チ・ヂの頭音のアフリカータ化は、ツ・ヅの頭音のアフリカータ化よりも、一足先に起つたもののやうに思はれる。又、アフリカータ化の年代は、地方によつて種々さまざまである。例へば、關東地方には奈良朝時代に於て既にチの頭音としてアフリカータ化を持つ方言が有つた(方言第五卷第三號所載拙稿「奈良時代東國方言のチ・ツについて」、本書所收參照)。之に反して、土佐・九州等には、現代もなほツ・ヅをtu, duの形で保存してゐる方言が有るのである(音聲學協會會報四六號所載吉町義雄氏「九州方言に於けるti, tu, tu, duの殘存」等參照)。 なほ、チ・ツ・ヂ・ヅの頭音のアフリカータ化は、琉球諸方言に於ても、本土の諸方言と相並行して起り、首里方言(?)に於ては、キ・ギ音のアフリカータ化に先立ち、既に海東諸國紀附録語音飜譯(一五〇一)の時代には完成してゐたのである。現代首里方言に於てuti:ŋ(落つ)のtがアフリカータ化されてゐない理由については、かつて「母音交替の法則について」(音聲學協會會報三四號、本書所收)の中で卑見を述べたことがある。


トップ   編集 凍結 差分 履歴 添付 複製 名前変更 リロード   新規 一覧 検索 最終更新   ヘルプ   最終更新のRSS
Last-modified: 2025-12-20 (土) 14:55:08