朝山信彌

(「国語と国文学」第二十巻第五號、昭和十八年五月)

http://www.let.osaka-u.ac.jp/~okajima/PDF/toondaku.pdf

 国語の語頭音としての濁音音節の成立は、普通に、語のその本來的な形式における初頭音節の脱落によって、濁音を有する第二音節の自ら語頭に露出するに至った結果として説明され得る場合が多いと言はれて居る。事実「国語音韻論」(菊沢季生)(註一)に、その若干の典型的な新語形の發達が院政前後における一部の文献の上に夙くも指摘されて居る所を見れば、この傾向はすでに平安時代の末期において、口頭語の上には強力にその勢力を伸長しつつあったであらう。そしてこの傾向が国語における語頭の濁音音節の発達に重要な契機をなしたと言ふ事は勿論あらそふ事は出來ないし、更にそれによって、宛も本來的な濁音音節を語頭に有するが如き相貌を呈する若干の国語語彙が中世以降の文献の中に数多くあらはれ出した――勿論その数が精密にどれ程であったか等は確信し得べき性質の問題ではないが、唯その二三に止まらなかった事は確実であり、しかもそれらは比較的頻度の高い日常語彙の中に多くあらはれて居た。だす(出)、どこ(何処)、だく(抱)等――といふ事も亦何れ劣らぬ明白な事実なのであった。しかし、これらの輪廓について説く事は、後に再び機会を持つ筈である。此処により緊急な我々の問題とする事は、国語における語頭音としての濁音音節はすべてこの事情によって、しかも中世以降の時代において成立したか否かといふ問題に、何れかの明確な解答を与へる事である。
 さて、国語における語頭の濁音音節が、さうした事情で、即ち本來的な初頭音節の脱落によってすべて招來されたと考へる事が許されるとすれば、ベニ(紅)の、ブチ(斑)の、バク(化く)の第一音節に古くいかなる音韻が存在したであらうか。ダレ(誰)の、ガマ(蒲)の……はどうであったか。一つとして我々の古代文献はその確証を我々の前に呈示する事は出來ないではないか。とすれば、これらの濁音音節は、又恐らくそれとは異なった何らかの事由によって成立したと見なければならないのであらう。
 「それとは異なった何らかの事由」とは何であらう。実は、それは本稿の課題であり、又我々の謎である。中には、その語の感情効果を目ざす様な表現的な意図によって、語頭語の濁音化された例もあらう。類義語、対象語への類推から成立した濁音音節もあるかも知れない(誰などが通説の様に古く「タレ」とよまれたのなら、「ダレ」は「ドレ」「ドコ」等の発達から類推的に成立した語であるかも知れない)。又、たまたま我々の古い音韻体系の制約からはぐれ落ちた遠い外來語であるものもあらう(例えば、説の当否は後攷にまつとして、ベニ(紅)等さう考へる立場(註二)がある)。しかも、それよりも、更に根本的に言って、我々の知ってゐるすべての語頭濁音節を悉く文献時代以降の成立として解釈しようとする「先験的」な立場自身に、我々がそれに無条件の賛同を与へる事が出來る程、十分な真実性が予期されて居るとどうして断言する事が出來るであらう。
 一体古代日本語に「頭音としての濁音なし」といふ主張は、古代文献における精密な帰納を通して確認されたと言ふよりも、むしろ北方語との比較的研究に際して、フィノ・ウグリヤ話の一特性としてのこの一箇条がさして重大な例外なしに古代日本語の上にも演繹され得るといふ一発見を契機として、ついで積極的に学界に主張されるに至ったと言ふのが正しい様であり、しかも尚問題は先史時代に関する事である。何れにしても文献時代の中期以前において語頭音としての濁音節を日本語が有しなかったと断言し得る資料を何も我々は持って居ないのである。大言海が「べに」の他に「へに」を、「がま」の他に「かま」を別箇の項目としてあげる事を、唯一の確実な典拠とする事は出來ない。実はそれは我々の楼閣を打建てる為に、宛も礎石のない足場を利用する事になるからである。

 字音語の場合は余程別である。奈良時代における「餓鬼」や「波羅門」やの語頭音の音価は判然しないとしても、平安時代初期の借用語の中には明らかに語頭音としての濁音音節が存在した。和名類聚抄の二三の音註を引いて見よう。

 琵琶 【毘婆二音俗云微波二音】(第四十七)
 沈香 【沈俗音女林反】(第百五十四)
 彈弓 【徒丹反去聲彈弓俗音暖宮】(第百七十五)
 〓《炎の篇が見えず》   【吐敢反俗音奴含反】(第百七十八)

等、所謂俗音――借用語として口語化した字音――ではすべて初頭音節は濁音である。別稿(註三)においてすでにその一端は述べた所であるか、和名類聚抄の音註には、特に「俗音」と明記せぬいはば正音の音註に「――反」の如き二字の反切による形式と、「音―」の如き一字の同音字(と意識されてゐるもの)による形式とあり、前者は典拠ある支那の辞書類等を参照したらしいに対し、後者は専ら著者の字音意識による創作的な音註で、支那音からすれば少からざる誤註を含むものなのである(例へば第四十四の「舟船」を見ると、「船音旋」とある。本來的には「船」は食川切、「旋」は似宣切、而者は有声のアフリカータであり、後者は摩擦音である。日本字音には区別はない。かかる例は枚挙に遑がない)。更に所謂俗音に至っては、全く著者の音註であるから、当時の日本字音の状況をその中に直接に顕示するものと考へる事が出來よう。俗音には、「微波」はビハ、「暖」はダン、「[糸炎]」の「奴含反」もダンとよまれる。その音註をミハ、ナンとよんではならない。本書の音註は当時の所謂漢音による――別稿にもあげた「壇」【達丹反俗音本音之濁】の如き、「壇」字が著者の知識において清音であった事を物語る。ダンは俗音であり、正音は漢音たるべきタンであった事が知られる。かかる例は他にも多い――のであるから、「微」「暖」「奴」等は著者の知識では濁音を表示すべき唯一の文字である。「沈香」は又ヂンカウとよまれる。「沈」は漢音チンであるため、特に俗音として附せられた「女林反」の音註は、支那音としては誤註であるが、国語において、「女」漢音ヂョを利用して「ヂン」をあらはした、著者の創意的な濁音音註であったのである。
 さて、これらの俗音と註されるものは、多く借用語彙としてある時の、それらの漢語の形式であったと考へて良い様である。正式の漢語における「音」としてなら、当然それは正音によってのみ註さるべきであったであらうし、著者が正音以外の字音形式として特に俗音を註さなければならなかった事情は、さうした字音が俗用としてすでに民衆達の生活の中に必然的な意義を有するに至ってゐた事を証するのであらう。事実「びは」や「ぢん」等、これら俗音の多くの形式は当時の文芸作品の中にすでにかのレーン・ヴォルトらしい様相を以て現はれる事が数限りなくある(尤もその力の資料からは積極的に語頭の濁音音節の存在は論証する事が出來ないけれど)。
 ところで、これらの字音語に俗音として註記される濁音は、一見してわかる様に呉音の形式を伝へて居る。従ってその成立は少くとも呉音の勢力の国語内における滲透のいまだ消失しなかった平安時代の初期にまで溯る事が出來るかも知れない(一般にかうした漢語が漢音の形式で移入される様になったのが何時頃かは明確でない。しかし遣唐使の往來の頻繁になった平安時代の初期には、北方支那系の梵語の音註等から見て大体漢音の形は成立して居たらしく、又慈覺大師圓仁の在唐記等でも、梵字の有声音については一ケも唐音の音註を用ゐては居ない。唯かのVisarjaniyaでない有声気音のhに「以大唐賀字音勢呼之」とあるのは例外とならうが、これは尚、勢呼ともあるし、この他に特に有声気音を註すべき適当な方法もなかったであらう。他に当時の支那音に有声気音は存しなかったし、又日本語のハ行音は勿論両唇音であった為この音註には用ゐられなかったであらう)しかも特に注意すべきは、勿論の事ながらその成立は、すでに漢音時代に入りつつ尚呉音の勢力の抜きがたい伝統を民衆語の中に形成して居た時代といふに止らず、その語自身すでに呉音の形式を以って借用されたといふ事実である。それはあるいは奈良時代の末期にまで溯る事があるかも知れない。
 尤も、しかし一方において借用語における初頭音としての濁音音節の感覚が当時一般の音韻意識の中には尚完全な融化を示しては居なかったらうと考へる事情もある。例へば、「胡麻」が「ウゴマ」(和名抄第二百二十)として語頭に一種の所謂の発達音(sprosslaut)を成立させたのはその為であったらうし、「〓」を「ウダチ」(同書第百三十七)(註四)と註するも同例であるとする説がある。
 この詳細は、けれど、又節を改めて説く事としよう。

 考察を第一章の終に再びつづけよう。
 中世以前の日本語において、語頭音として立つ濁音音節の問題を徹底的に論及する事の許されない第一の理由は、それが所謂濁点の成立以前であり、仮名(万葉仮名を含む)にはその厳密な清濁の書分けが慣習的に存しなかったといふ点にある。尤もこの仮名に関する事実をそのまま古代音韻意識の問題に關連させようとする、更に正確に言へば「この時代(奈良時代を指す)に於ても、濁子音は清子音要素に摂せられて、未だ独立の音素を形づくるには至らなかったと認めるのが穏当であらう」(菊沢氏「国語音韻論」一七二頁)といふ様な立場は、たとへ傾向的にでもすでに古事記の万葉仮名に存在する清濁音仮名の性質から見て直ちに賛意を表する事は出來ないが―――この説の如くであれば、本稿のこの問題の取扱ひも自ら別個の観点に立たなければならないであらう――、ともかく古代の仮名は、結果的に見て、完全にはその清濁の意識をかきわける慣習を形成しなかったのである(その理由について考察する事も亦一個の注目すべき課題である。)其処で、この語頭濁音音節の問題についても、新しく考察を発展させようとする為には仮名の書分けによる以外の何らかの異なる觀点に立つ事が必要である。
 事実、さうする事によって、乏しいながらの収穫を得る事が出來る。和名抄に「鞭【音篇和名無知俗云無遲】」とあり――但しこの註には異説があり、狩谷エキ斎(註五)は「無遅」は「夫遅」の誤と言ふ。何れにしてもムチといふ語の在在は認証される――、新撰字鏡(註六)には「策」字に註して「夫知」とある。ムチとフチと明らかに同一物の称呼である。尤もこの資料から直接に「ムがフと通じる」との理由だけで、その「夫」が実質的には濁音の価値を有して居たと推定する事はいささか軽忽のそしりをまぬかれない。直接にはむしろムチとフチとは明瞭な語意識を異にする二重語であったと考へる方に、たしかに可能性は高いに相違ない。それらの二語が音韻論的に起源を同一とし、更に当時の言語社会に意義上の連鎖が明らかに意識されて居たと言ふだけで、それが同語の偶然的な動揺を示す二個の異なる表記法であったと断言する事は出來ない筈である。けれど、又この二語がともかくもある時代に、同一の音韻形式から分化した二語であり、その意味において、かつてこの語の頭音の、ある時期にブとムとの中間音とも言ふべき濁音性の価値を有する日があったであらうと想像する事は出來る様である。(それが古代の言語社会において、民衆における一種の音声的な理念にまで高められた、所謂フォネームとしての存在であったか否かには、恐らく否定的な見解を持する事の方が安全であらうけれど、ともかくその頭音が実質的にさうした濁音性の価値を以て実現せられる折々のあった事がかうした二重語の発生に重要な契機となった事は確実であらう。)又こんな例がある。柿本集に西海道の国名をよみこんだ物の名の歌に

    ぶぜ
 春の野にきのふ失せにし我が駒をいづれの方にさして求めむ

とあるのは「失せ」に「豊前(ぶぜ)」をよみこんだものである。一体「物名」は仮名遣についてはかなり精密に考慮されてあるのが普通であるが、此処では「失せ」の頭音が実質的にはブに近い印象を伴ふ折々のあった為であらうと解釈する事が妥当と思はれる。「打つ」が特に烈しい感情効果を表現しようとする場合「ぶつ」となるのは近世以來一般であるけれど、さうした音韻変化の成立を許容すべき基底的な性格が口語のウ音に存したと言ふ事は遥かな古代語からの伝統ででもあったかも知れない。事実国語におけるウの調音は、両唇の接近を強調すれば即ち不完全な一種の有声的な両唇摩擦音となり易く、又逆に古代国語の唇音性のブはその不完全な調音から容易に弛緩してウとなり易かったであらう。現に「うり」(瓜)の枕草子等に「ふり」とあるのもその傍証とすべく、更に「わつか」「はつか」の二重語における起原的な過程等もこの問題に關連するのであらう。「はつか」のハにおける、何らかの事由による有声的な印象が、それから「わつか」の頭音節を分化したと考へる事は、後平安時代において、インター・ヴォカリックな位置でハ行子音が悉くその不完全な有声化によってワ行・ア行の音韻に変化した事実と思ひ合はせて、決して不当な推量とのみ断言し去る事は出來ないであらう。
 勿論、ところで、これらは何れも語頭音としての濁音節の音韻論的な存在を実証するに足る事実なのではない。唯当時における音韻が、頭音の位置にして、折々にその濁音的な性格で印象される事のあったであらうといふ推定に止まるまでである。其処で、問題を最後の段階にうつさなければならない。即ち、古代語における語頭音としての濁音節は、それでは音韻としては全く存在しなかったのであらうかといふ問題へ、解答として蕪雑な私見を与へる前に、あの中世語の濁音音節によって明らかにされる発達母音(シユプロス・ヴォカール)の本質について暫く叙述を進めて見よう。

 sprossvokalとは何か。語源的には無関係な音韻が、語の発達史上において、調音の必要上挿入される事がある。それを言語学者は「發達音」と呼んで居る。日本語は特に外來語の閉音節的な音韻形式の借用に際して、発達音の挿入を以て開音節化する――カルルグレンの所謂prosite-vowelである――事が普通であるが、それらは多く後置的であり、前置的である場合は比較的少い。ところで前述のウゴマの如きは明瞭にその前置的な発達母音の一例と見られるが、この現象は実は当時において何も必ずしも借用語の上にのみ利用されたのではなかった。固有語の上でもあるのである。
 それについて簡単な解説を加へて置かう。例へば、ウマ、ウメとムマ、ムメの問題であるが、その語頭音節の前者は独立的な母音価値を有するに反し、後者は一種の前飾音的な鼻音音節であったらしいといふ事が近釆は殆ど定説となって居る。他のムバラ、ムベ等の語頭音節も亦それであらう。これらの鼻音音節は、中古の文献では多くムで表記された――といふよりも、これらの濁音に先行する前飾音的な鼻音音節はム(mu)の音韻の変態的な一個の実現形式と伝統的には印象されて居たのであらう。実質的には、しかもそれらが弱化された音節であった事は、院政時代の文献でその語頭音節の脱落がバフ(奪ふ)、マ(馬―悉曇要訣)等に生起して居る事から想像されるのである。又この一類のものにイダク、イバラ等がある。この語頭音は歴史的に前述の前飾音(平安中期には多くムダク、ムバラと書かれる。更に起原的な語形はムバラはウバ(マ)ラらしい。ムダクは奈良時代も同形であるが、平安時代には前飾音的に語頭音の価値を考へて差支なからう)から更に発達した「発達母音」であったらしい(ダク、バフ等の脱落形はこの発達母音の弱化を証すると考へるよりも、むしろ直接にその前飾音的な段階から変化した語形であったと考へる方が正しいであらう。尤もその成立期にその「い」が果して純粋な母音であったか否かは問題としても、後に完全な母音価値をそれが発達せしめたといふ事は事実であった)。又安藤氏(註七)によれば、「宇古呂毛知」(和名抄)、「無久呂毛知」(新撰字鏡)を比較して、その初頭音を共に実質的には同一鼻音の表示にすぎなからうと言はれたのは尤もであるが、更に同書の「無久女久」(蠢、第二百四十一)を他の源氏物語(大言海が二三の例をあげて居る)等の「おごめく」と比較する時、その初頭音節も亦同様に考へる事が出來るであらう。尚古くは、「宇武何志伎」(続紀、天平元年八月宣命)、「於牟迦斯」(日本紀竟宴和歌)、「牟賀思久」(万葉十八)の如きも、他の文献よりしても「おむがし」を最も後の形式と考へるべく、その語頭音節のオはウムガシ--この初頭音そのものがすでにムガシから見て一種の発達音であったと思はれる。実質的には一種の鼻音音節であったと考へられるかも知れない――からの發達母音と考へる事も出來るであらう。
 さてこれらの発達母音は多く濁音の前に現はれる。だからそれらが起原的には濁音の音節に現はれる一証のオン・グライドの表示に他ならないと考へる事が出來よう。そしてこれらの音韻は、普通には一証のフォルシュラーク風な鼻音であったと考へられて居るが、大体国語本來の濁音が一種の鼻音風なオン・グライドの在在を印象させる音韻であった事は、例へばかの中世末期の京都語における――今も方言的には処々に殘存して居ると言はれる―――濁音音節(もっと正確に言へば、殊に破音及びアフリカータ)の用で、母音が原則として「tilにいくらか近いsonsoneteの如く発音せられる」(註八)のであったといふ有名な事実と關連してほほ確実と思はれ、それがかの前飾音的な鼻音の添加を要求する事は恐らく古代日本語の典型的な発音の様式であったと推定する事が出來るのである。
 尤もそれらの前飾音がすべての場合に必ずある一個の音韻文字で表記されて居たとは限らないけれど、ともかく多くの場合にそれらの前飾音は表記され、殊にそれが発達母音の意識にまで高められると、その語の濁音節に先だつ初頭音節として一個の母音文字に表記されたと考へられる若干の語例は、精密に調査さへすれば発見する事が出來るのである。「いづこ」「いづれ」等の「たれ」に対する起原的な關係はどうか。恐らくその「い」は一種の前置的(プロテーティッシュ)発達音ではなかったか。「あざやか」「あざる」等、又その第二音節の他の濁音に準じて扱はるべき鼻音の「あまねし」等の接頭辞の「あ」はどうであらう(一般にこの種の発達母音はウ、イ等の狭母音であるけれど、この三語共に第二音節のア列である事から、その母音調和的な関係が想像される。一休発達母音ではガラス、オロシャの如く隣接音の影響が強い。事情はやや異なるけれど、後置的な所謂prosite-vowelの場合、スザカ(朱雀)コノヱ(近衛)ハカセ(博士)等の調和形は古代には多い)。「ともがら」「はらから」に対する「うから」の語頭音節は、更に新撰字鏡にいふ「鴻、宇加利」の如き、「おほかり」の約音といふよりもむしろその語頭音は一種の前飾音ではなからうか。
 ともかく国語の濁音音節に先行する前置的な鼻音要素の存在は何も外來語の借用に際して格別に用ゐられた音韻形式なのではなく、古來の日本語に存在した典型的な形式であったと思はれる。換言すれば古代の濁音節は原則として前飾音的な鼻音音節(又はそれから更に発達した母音音節)と共にあるのが一般の形式であったのである。その濁音節と前飾音とは実は二にして一であり、後者はいはば前者の存在の為の必然的な価値を有する音韻であった様である。唯さうした前飾音が単なる前飾音にすぎない時、殊に近代語に近づくにつれて、その独立的な表記の省略される場合のあった事は考へられる(現に音便表記等では著しい)し、又慣習的な形式に習熟しない借用語等では又例外的に語頭濁音の存在が可能であったでもあらう。そして、上述のウゴマの如き慣習的な民衆語の發達した一方に、他の多くの字音語は国語史の上にはじめて頭音的な濁音音節の存在を許容せしめたのであったであらう。

以上古代国語の語頭音としての濁音音節について、その特質の一端を明らかにしようとしたのである。何よりも忽卒のうちに筆を執った事とて、意をつくさない所が多いが、今はこれで一応拙稿の筆を擱く事としたいと思ふ。

(三月二十五日夜)

 (一) 一九二頁参照。
 (二) 日本外來語辞典(上田萬年等、大正四年)
 (三) 拙稿「[[古代漢音における四声の軽重について]]」(国語・国文、昭和十六年十一月)
 (四) 石黒魯平氏「語頭グライド臆説」(安藤教授還暦祝賀記念論文集所載)
 (五) 箋註倭名類聚抄所説
 (六) 新撰字鏡巻八ノ六ノウ(天治本)
 (七) 古代国語の研究、大言海引例等参照。
 (八) 近古の国語(国語科学講座・土井忠生氏・十頁)所引[[ロドリーゲス大文典]]の記載。

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Last-modified: 2022-08-08 (月) 08:45:53