柴田宵曲
青蛙選書
昭和四十年五月廿五日


解題 柴田宵曲
 本書は昨年十月に出版された青蛙選書第三冊「旧事諮問録」の姉妹篇とも見れば見らるるものである。旧を談ずることは同じでありながら、少しく趣を異にするのは、一は書名の示す如く諮問の形を取り、一は問を俟たずして自ら語る点にほかならぬ。
「旧事諮問録」のはじめて世に出た明治廿年代から卅年代にかけて「江戸会誌」「同方会誌」「旧幕府」等の雑誌が次々に行なわれた。いずれも旧幕人の手に成ったもので、幕末資料として貴重な文献に乏しくないが、ここには「旧事諮問録」のひそみに倣う意味において、談話もしくはそれに近いものを択んだ。その記事と雑誌名とを併記すれば左の通りである。
  高家の話、御船手の話、幕末の話、明治以前の支那貿易、目撃した薩英戦争、日蘭交渉の一片、和蘭留学の話(以上「旧幕府」)
  時の御太皷、御朱印道中・御目付、御徒士物語、外国使臣の謁見、徳川民部公子の渡仏、幕府軍艦開陽丸の終始(以上「同方会誌」)
 当時、旧幕府史談会なるものがあり、上野東照宮社務所を会場として連月催された。 「旧幕府」所載の談話はその筆記なので、一々の演題はなかったのを、便宜のため仮りにみだしを付けて置いた。「幕末の話」として一括したものの中には「同方会誌」所載の記事もまじっている。六(竹斎)、七(六十匁道人)、八(相陽道人)、九(松本蘭躊)、十(流行歌)等がそれである。これらはおおむね筆者不明の断片であるが、資料として本書に収載すべきものと思われるので、ここに附け加えることにした。
「同方会誌」と「旧幕府」とは主宰者を異にするに拘らず、併行して刊行された時代があり、時に記事の共通するものさえないではなかった。「御徒士物語」「幕府軍艦開陽丸の終始」の二篇は先ず「同方会誌」に掲げられ、次いで「旧幕府」に転載されたものである。「御徒士物語」の筆者鈍我羅漢は何人の匿名であるか明かでない。この一篇は「嘗て御徒士の職司に在りし先輩数氏に就き聴取せし所の記憶に存するものを、覚束なくも補綴して御徒士物語と名づけぬ」とあり、筆者自身の体験談でなしに、聞書の集成であることがわかる。
 同様の事は「時の御太皷」「御朱印道中」「御目付」等の諸篇に就いても言い得るので、「時の御太皷」の最後に「開き噛りの講釈も、あらあらこれで尽きたので擱筆する」とある。「御朱印道中」の終りに近く「自分の紋を染めた幕を張り、私なら江連加賀守御泊などと、筆太に認めた木札を立てた」というのと、「御目付」の話の初めに「君の昵懇な江連老人」というのとを併せ読めば、おのずから別人の口より出たことが明かになる。筆者の署名は同一であっても、話し手はいろいろあるのである。
「徳川民部公子の渡仏」は単なる聞書であるか、随行者の記すところであるか、この文章から俄かに判断することはむずかしい。後年、林若樹氏は扈従の一人であった井坂泉太郎氏の日記により、「攘夷家の洋行」なる一文を草されたことがあった。そこへ往くと「和蘭留学の話」は、留学者の一人の筆に成ること明かである。あられのや主人は赤松則良氏ではないかと推せられるふしがあるが、臆断を下すことは見合わせる。
 以上のほかに次の諸雑誌から採録したものがある。この種の材料は捜せばいくらも出て来る筈であるが、本書の紙幅に限りがあり、広範囲に亙ることが不可能だったのである。
  勤番者(「ホトトギス」)
  明治元年(「文芸倶楽部」)
  雲助、廻り方の話、御伽役の話(「彗星」)
 鳴雪翁の「勤番者」は先ず「ホトトギス」に載り、次いで「寒玉集」第二編(明治卅四年四月刊)に採録された。渋柿園氏の「明治元年」は寧ろ一般的な事柄であるが、最初の薩摩邸焼討から、終りの無禄移住者の佗住居に至るまで、悉く自身の体験談で、当時の感情がそのまま滲み出ている点を珍とすべきであろう。この人の小説以外の文章は全く閑却されている形なので、特にここに収めた。明治卅六年一月の「文芸倶楽部」に出た時は「卅五年前」という標題であったが、近く明治百年を迎えようとする現在では、いささか距離があり過ぎるので「明治元年」と改めた。庶政一新の明治元年ではない、幕府瓦解に直結する明治元年である。三昧氏の
「雲助」は「国民雑誌」に出る筈のものが、何かの都合で発表されず、三田村翁の手に保存せられたのを、「彗星」(昭和二年七月、八月)に分載したと記憶する。従って実際この稿の成ったのは、それより大分遡らなければなるまい。他の二篇はいずれも昭和年代の談話筆記である。
「大名の日常生活」は昭和三年十月、広嶋市郊外の浅野侯爵別邸に於て、老侯より親しく承り得た筆記である。三田村翁が「江戸百話」(昭和十四年五月刊)に収めた「浅野老侯のお話」には、その時以外の分も併録されているが、それには翁自身の説なども加えられたところがあるので、ここには「先年広嶋に老侯を候問し、連日お話を承り、その筆記を呈覧せしに、清閑を頒ちて具に加筆され」云々とある最後の分だけを採録した。この筆記を読み返すと、已に四十年近い過去になった当時の事が髣髴として浮かんで来る。畳の上には円いテーブルが置かれ、老侯は椅子に凭って話される。これに対する椅子に腰掛けた者は三田村翁だけであった。筆記者は次の間の襖の陰に机を控えて小さく畏っていると、いよいよ老侯の御話がはじまる段になって、邸内に在った人々は悉く次の間に列坐し拝聴する。何となく引緊った空気であった。広嶋は連日好晴で、別邸に到る途中、到るところ柿が赤々となっていたことを思い出す。
「大奥秘記」は「新燕石十種」第五所収のもので、著者[旧旗下の一老人」は即ち村山摂津守(鎮)である。この書及び「村摂記」(未刊随筆百種)解題に自筆稿本とあるけれど、本来村山翁の口述に係るものであろう。「新燕石十種」のどん尻に据えられたこの一篇は、その内容から言っても、談話体の記述から言っても、頗る異彩を放っている。「大奥秘記」などと称するよりは、「幕制一斑」とでもした方が内容にふさわしいかも知れぬが、子細に読んで行くと、さすがに慶喜公に仕えて中奥小姓であった斯の人でなければ語り得ぬ消息が窺われる。但し村山翁その人に就いては「御殿女中」の解題に書いてしまったから、新たに加うべき材料は何もない。僅かに「大奥秘記」の中にペルリ来航当時を回顧して、四十九年前云々とあることにより、明治卅五年頃の口述であろうと推し得だくらいのものに過ぎぬ。
「幕府軍艦開陽丸の終始」は本書中の最長篇であって、然も完結していない。完結しなかったのは沢太郎左衛門氏が中途において遠逝されたためである。「同方会誌」の編者は最初からこの巓末の細大漏らさず演述されんことを希望し、年三回と定められた同方会小会の席上では到底尽くし得ぬことが明かなので、後には同会幹事が代る代る沢氏の邸に赴いて筆記する方法を取ったに拘らず、遂に終始を完了し得なかった。その最後の口述は明治卅一年三月十三日、遠逝は五月九日であった。この未完結の談話が「旧幕府」のほか「商船学校校友会雑誌」にも転載されたのを見れば、いかに当時に注目されたかを知るべきである。
 沢氏は和蘭より帰朝の後、五稜郭の戦に加わり、明治二年下獄、同五年出獄、海軍省出仕となった。この話の最後に出て来る「テウェー、イヤッバネース、エネ、バスパスバス、エーネソ、ストレーキストック、ダール、へーン、ハーソ」という童謡には更に後日譚があって、明治卅四年、沢氏の嫡男鑑之丞氏(後備海軍中将)が和蘭に遊んだ時、ハーゲ市の公園近くにおいて、あとから附いて来た学校帰りの子供等が突然この謡をうたい出した。出発前、和蘭留学仲間であった榎本武揚子から、その話を開いていた中将は、感慨無量で耳を傾けていると、突然公園の木立ちの中より風采賤しからざる一老紳士が現われ、一喝して子供等を走らせた後、英語で彼等の無礼を陳謝して去ったというのである。この後日譚は林若樹氏によって大正末年の「新小説」に発表された。和蘭留学の一人である林研海は若樹氏の厳君であるから、往年の童謡が後々まで伝わっている点に、特に興味を感ぜられたものであろう。
 本書の内容は大体以上の如きもので、諸家の談話も個々独立する場合が多いから、一定の方針のもとに会を企て、幾多の質疑を重ねて真相を知ろうとした「旧事諮問録」と同様に視ることは出来ない。編者は出来るだけ話題の変化を求め、且つ散漫に陥らぬよう注意したつもりであるが、果してどの程度に実現し得たか、もとより疑問である。もし多少なりとも「旧事諮問録」の闕を補うところがあったとしたら、望外の幸いと言わなければならぬ。
 書名は「旧事諮問録」の姉妹篇たることを期する意味に於て、「江戸旧事談叢」「故老回顧談」その他種々案にのぼったが、結局、平易明快な「幕末の武家」と決した。本書の内容はかなり多岐に亙っているにせよ、
「雲助」一篇を除けぽ武家の範囲を出でず、時代もまた略≧幕末に終始するわけだから、却って内容を端的に示すことになるかも知れぬ。スペルウエル号難破始末誌は、一つだけ飛び離れて元禄以前に遡るけれど、これはもともと附録的文字であり、比較的世に知られぬ文献として掲げたものなので、時代的には例外と見られんことを希望する。
 編者は平生幕末なり武家なりに就いて、特別の注意を払っているわけではない。もし本書に研究とか、批判とかいうものが加わらなければならぬとしたら、最初から着手する勇気が出なかったろうと思う。武家自身その立場において語るところを集録するまでだから、安心して書物に纒めることが出来たのである。
 本書を編むに当り、森銑三氏は種々雑誌借覧の便宜を与えられた。本書が短日月の間に成ったのは、一にその好意と援助とによるものである。最後に附記して感謝の意を表する。 (昭和四十年四月)


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Last-modified: 2022-08-08 (月) 10:01:36