桐生悠々
「言語と思想と」
『言語問題』2-1 1936.1


 言語は思想を表示する。この角度から眺めるとき,現在の我々の思想が如何に混沌たる状態にあるかを察知するに足る。「とても」という否定的,消極的の言語が,肯定的,積極的,しかも最大級の形容語として用ひられつつある,心あるものが聞けば,眉をひそめずにはゐられないほどの現在の状態を見れば,思半に過ぎる。
「とてもよい」「とても甘い」「とても美しい」などいふ形容語を聞くとき,私は身震ひする。従って,現在の我々の思想従って文化も,否定的,消極的であらねばならないところのものを,肯定的,積極的として取扱ひ,しかもこれに最高の賞讃辞を捧げてゐる。例へば,ファシズムの如き,本能的に,私たち自由を欲する人間が「とても」肯定し得ない思想や,観念を謳歌して,これをその儘,我国に用ひんとしてゐるものがある。これと同様,コムミュニズムも,人間の獲得本能から見て,「とても」肯定し能はない制度を,絶対的に肯定してゐる人たちもゐる。戦争は「必要悪」であるにも拘らず,これを「絶対善」として肯定し,戦争する人のみが,忠君愛国の徒として,絶対に賞讃されつゝある。
 又心ある人たちは,日本語の将来と進歩とを慮って,成りたけ漢語,漢字を避けるやうに,苦心惨憺しつゝあるにも拘らず,一般人は盛んにこれを使用しつゝある。「宿屋」で,何人にも通り,又ふさはしいものを,強いて「旅館」といひ,「ホテル」といはなければ承知しないのが,現代の人心である。「木賃宿」まがひのものすらも「何々ホテル」「何々旅館」と名づけられつゝあるのを見ると,浮薄にして虚栄的なる現代の人心を察知するに足る。「監獄」といふところが,「刑務所」と改名されてから,監獄行が何でもない気持になったやうな気がする。「監獄」といふだけで,實に厭な気持になるところが,「刑務所」となってから,何か知ら,人間が果さなければならないところの「義務」を,そこへ行けば果し得るといふ観念が流行しつゝあるやうに思はれる。彼等は數珠繋になって「刑務所」に行く。
 だと言って,私たちは言語の上だけでも,昔には返へられない。否,返ってはならない。言語も社会的の一現象であるから,社会が変化すると共に変化する。特に外国の思想,従って文化に接して,変化する,変化せずにはゐられない。だが,変化中には退化がある。この退化は成るべくこれを避けて,進化したもののみを取りたいものである。懷古的はよいが,還古的であってはならない。
「日本精神」もよいが,私たちが「にほん」といひ来ったところのものを,今更「にっぽん」といひかへる必要もあるまい。「にっぽん」といふならば,寧ろ「日の本」といった方がよい。さうも昔に返へりたかったら一層の事,「豊葦原瑞穂国」といった方がよい。だが,それでは今更始まるまい。外国語に「ジャパン」といはれて来たものを,この場合特に「にっぽん」といっては,外国人には通るまい。

桐生悠々「言語と思想と」参照

桐生悠々
「言語と思想と」


 言語は思想、従って文化を表示する。この角度から眺めるとき、現在の私たちの思想――従って私たちの文化が、如何に混沌たる状態にあるかを察知するに足る。「とても」という否定的、消極的の言語が、肯定的、積極的、しかも最大級の形容語として用いられつつある、心あるものが見れば眉をひそめずにはいられないほどの現在の状態を見れば、思半に過ぐるものがある。
「とてもよい」「とても甘い」「とても美しい」という流行語を聞くとき、私は身震いするほど、厭な気持になる。従って、現在の私たちの思想及び文化も、否定的、消極的であらねばならないところのものを、肯定的、積極的として取扱い、しかもこれに最高なる賞讃の辞を捧げている。例えば、ファシズムの如き、本能的に私たち自由を欲する人間が「とても」肯定し得ない思想や、観念を謳歌して、これをその壗、我国に応用せんとしているものがある。これと同様、コムミニズムも人間の獲得的本能から見て「とても」肯定し能わない制度を、絶対的に肯定している人たちもある。戦争は「必要悪」である。にもかかわらず、これを絶対善として肯定し、戦争する人のみが、忠君愛国の徒として、絶対に賞讃している人もある。
 また心ある人たちは、日本語の将来と進歩とを慮って、なりたけ漢語、漢字を用いないようにと、苦心惨憺しつつあるにもかかわらず、一般人は盛にこれを使用しつつある。少くともヨリ多くこれを使用しつつある。「宿屋」で、何人にも通り、またふさわしいものを強いて「旅館」といい「ホテル」といわなければ、承知しないのが、現代の我人心である。「木賃宿」まがいのものすらも「何々ホテル」と名づけられつつあるのを見ると、浮薄にして虚栄的なる現代の人心を察知するに足る。
「監獄」というところが「刑務所」と改名されてから、監獄行が何でもない気持になったような気がする。「監獄」というだけで、「とても」厭な気持になるところが、「刑務所」となってから、人間が何か知ら、果さねばならないところの「義務」を、そこへ行けば果し得るという観念が流行しつつあるように思われる。
 昔の「丁稚」「小僧」が「小店員」と改められた。これはたしかに一の進歩である。だが、それは言語上だけの進歩で、実質的の進歩ではない。彼等は「小店員」となっても、昔ながらの「丁稚」「小僧」である。否、彼等は「小店員」となったので、却って御主人と雇人とを結びつけた昔ながらの紐がゆるんで、二者共に、益利己主義となりつつある。店主は小店員の面倒を見てくれること昔の如く温からず、小店員が店主に奉仕すること昔の如く厚からぬようになった。
 だと言って、私たちは言語の上だけでも、昔には返えられない。否、返ってはならない。言語も社会的の一現象であるから、社会が変化すると共に、変化する。特に外国の思想、従って文化に接して変化する、変化せずにはいられない。だが、変化中には退化がある。この退化は、なるべくこれを避けて、進化したもののみを取りたいものである。
「日本精神」もよいが、私たちが「にほん」と言い来ったところのものを、今更「にっぽん」といいかえる必要もない。「にっぽん」というならば、寧ろ「日の本」といった方のよいことは、既に記者の言及したところ、そうも昔に返えりたかったら「豊葦原瑞穂国」といった方がよい。だがそれでは今更始まるまい。     (昭和十年十一月)


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Last-modified: 2022-08-08 (月) 01:18:55