橋本進吉
「西大寺本金光明最勝王経古点の国語学的研究」の刊行に当って
斯道文庫報第十九・二十合併号


 春日博土の多年の苦心に成る「西大寺本金光明最勝王経古点の国語学的研究」が遂に完成して斯道文庫紀要として印行せられたのは誠に悦にたへない。私は同書の印刷成ると共に文庫から一本を寄せられ、且つ同書に関して一文を草すべき依嘱を受ける光栄に浴したが、元来この方面の素養に乏しいに加へて、近来公私多端の為、忽々に一読したに過ぎないので、まだ本格的な批判をなすまでに至らず、唯、一閲した際の所感を述べて責をふさぐに止めたい。
 本書は乾坤二巻より成り、乾巻には、原本を縮写した写真版と、原本に加へられた仮名と乎古止点の白点に基づいて本文を解説し仮名交り文に書き改めたものとが、上下二段に対照して収めてある。原本の写真は縮写であり、且つ、コロタイプとはいへ、写真印刷である為、処によつては鮮明を欠く憾が無いでもないが、親しく原本に当つてさへ往々看難い白点を、この程度にまで撮影して示された用意と苦心の程は十分推察する事が出来る。勿論、もうすこし大きくしたならば、猶幾分わかり易くならうとも思はれるけれども、それは、用紙も不足勝であり、印刷も非常に窮屈な現下の時局では、望む方が無理であらう。我々は、むしろ、縮写しても原本全部を採録して、原拠を明かにし、万一著者の解読に誤があつた場合にも之を補訂し得る道を残された、著者の学術的良心と、読者に対する親切とに感謝すべきであらう。
 下段の本文の訓読は、平仮名と片仮名とによって原本の乎古止点と仮名とを区別し、本文に有つても読まない漢字や、仮名に改めた漢字をも掲げて、本文に無くして補読した仮名と共に括弧に包んで之を挙げたなど、著者の細密なる注意と篤実なる態度とがよくあらはれてゐる。
 坤巻は、この経の古点に関する論述であつて、訓点に用ゐられた仮名及び乎古止点、井に訓点語にあらはれた音韻、語彙、語法などの主要なる点に関する国語学的研究の結果を開陳したものであるが、又、本文の解読が、かやうな厳密な学問的考察の下に成され、決定されたものであるが故に、一方、解読の根拠を示されたものといふ事も出来る。
 漢文の古点本、殊に平安朝初期の点本が、奈良時代から平安時代に遷る、国語史上重要であつて、しかも従来之を知るべき資料の極めて乏しかつた時期の国語の状態を窺ふべき資料であり、上古中古の国文の古典が転写を重ねたものであるに対して、当時の実物として最信憑すべく、且つ、その量に於ても在来の古典に比して勝るとも劣らず、豊富な内容をもつてゐるものである事は、著者の指摘せられた通りである。その上、訓読に用ゐられた言語即ち訓読語は、我国最初の文語であつた筈であり、それが今日までも存続し、他の各種の文語に種々の影響を及ぼしたのであつて、我国文語の歴史上重要な位置を占めるものであるが、平安初期の点本は、今日までに見出された訓点語の最古の資料であり、又古事記、日本書記等も亦訓読語を基礎として書かれたものである故に、その読解に当つてもこの種の資料は決して観過する事の出来ないものである。猶又当時の点本は、仮名及び乎古止点の創始の時期に加点せられたものである為に、その仮名の字体や乎古止点の様式に変異が多く、その発生及び発達の跡を詳かにするには欠く事の出来ない資料であり、又、漢字に訓を附して、おのづから和漢対訳の形となつてゐる為に、古代語の意義を明かにし、古典の文意を解釈するにも憑拠となすべきものである。かやうに国語史並に古典研究上多大の価置ある古点本ではあるが、稀覯であつて容易にその存在を知り難く、知つても容易に見難い上に、古体の走筆で書かれてをり、世に在る点図にも一致せぬ乎古止点を用ゐてゐるなどの故に、これが解読に多大の時日と労力とを要する為、まだ之を十分に解明し利用し得たものあるを聞かないのであつて、今回の春日博士の研究は、実にこの困難な事業に最初の路を開かれたものである。博士がいかに之に多大の苦労を積まれたかは、着手以来二十年の歳月を費し、数回稿を改められたと聞くだけでも推察せられるが、僅ながらも同様な仕事を体験した私には、身に冴みて感ぜられ、この重要なる資料の一つを最利用し易い形にして学界に提供せられた博士に対して心からなる感謝の意を表するものである。
 この西大寺本の古点は正確な年代は知る事が出来ないが、既に大矢透博士によって平安初期天安以前と推定されてをり、春日博士も、仮名字体、仮名遣、乎古止点等の諸点から考察して、成実論天長五年点前後と論断せられたもので平安初期の点本中では、寧ろ古い方に属するものであり、且つその点は全部十巻に亙って一人の手で詳細に加へられてをり、当時の訓読語資料として相当に豊富な内容を有する。
 之に対する博士の研究は、精緻堅実であつて、本書のあらゆる諸例を蒐集した上に、或は同時期の諸点本に於ける実例を捜り、或は前後の時代の文献に照して語形意義用法等を考察し、その由来推移をも説き、又、漢文訳読語としての訓読語の特徴を明かにし、その一般国語に及ぼせる影響をも勘へてゐる。
 かやうな周到なる用意と確実なる方法の下に成された博士の研究が、よく未知の事象を明かにし、不確であった事実を確めた事は、書中随所にその例を挙げる事が出来るが、又、新に問題として提出されたもの、或はなほ未解決の問題としてその解決を今後に残されたものも少くない。しかしその場合にも、之に関する資料をあまねく蒐集して示してあるのであつて、今後の研究に資する所多大である事は疑ない。
 要するに本書は平安初期の点本中の唯一つについての研究ではあるが、従来殆ど顧みられなかった訓読語の本格的な研究であつて、将来のこの種の研究に基礎を置いたものとして国語学の進展に寄与する所多き力作であるといふべきである。
 猶別冊として添へられた索引も、極めて詳細であり親切であつて、之によつて本書を十分に利用し得べく、学者を益する所多大である。
 以上私は本書の刊行に当つて国語学研究者の一人として感謝と慶祝の意を表したのであるが、私には猶之に加へて私一個人としての悦がある事を述べたいと思ふ。それは大矢博士と私との間の特別な関係に基づくものである。
 春日博士が明記せらるる如く、同博士がこの点本の研究に従事せらるるに至ったのは、大矢博士の依嘱によつてであるが、この点本の国語資料としての価値を認め、之を研究に利用せられたのは、実に大矢博士を以て嗜矢とする。同博士は仮名調査の旅行に於て奈良帝室博物館にこの点本を見出されて之を調査し、その白点の仮名を「仮名遣及仮名字体沿革資料」に収めて、その字体を示した外に、仮名遣語法訓法等の注意すべき諸例を摘出して掲載してゐられる。私は明治四十一年国語調査委員会勤務中、始めて同博士の知を辱うし、翌年東京帝国大学国語研究室に転じてからも、屡々博士を訪うて高教を仰ぎ学問上種々の稗益を蒙つたのであるが、博士は特にこの西大寺の古点本に関心をもち、之を精査する希望を有せられる旨を語られたのを記憶してゐる。然るに博士は仮名の沿革よりもむしろ古代漢字音の研究に主力を注がれるやうになり、ことに大正二年国語調査委員会が廃止されて以後は、調査の為の出張といふやうな研究上の便宜を得る事も困難になり、その上老齢に及んで、従来の仮名研究を完成する目途を失はれたと見えて、或時、私に若しこの研究を継承する意志があるならば、自分が蒐集した仮名研究資料を挙げて付嘱しようとの意向を漏されれた事があつた。私は之を聞いて博士の懇情に感激しつつも、博士の研究を継ぐ為には大学の研究室を去つて京都奈良地方に移住する必要があり、それは当時私が志してゐた部面の研究に多大の不便を与へるもので到底不可能であり、実際成就する見込無しに附託を受けるのは却つて博士に背くものであると考へた為に、博士の失望を心苦しく思ひながらも、遂に之を謝辞したのである。その後博士は正倉院聖語蔵の経巻中から幾多の古点本を見出され、遂に意を決して大正八年奈良に転居し、これらの点本の調査に従事せられ、その成果をつぎつぎに公にせられたが、大正十二年再び帰京せられ、後五年にして遂に遠逝せられた。さうして博士の蒐集せられた仮名研究資料は、その生前すべて之を春日博士に付せられた。私がこの事を知つたのはかなり後の事であるが、私は上述の如き縁故から、大矢博士の希望してゐられた仮名研究の継承の事については内心多少の責任があるやうにも感じ、気にかかってゐたので、之を聞いて誠にその人を得た事を大矢博士の為に悦び、自分もひそかに心を安じたのであつた。
 想ふに博士は夙にこの西大寺本の古点に興味を有してをられたが、後に聖語蔵の古点本の出現によつて、まづその調査に従事せられたのであるが、もし事情が許すならば、之についでこの西大寺本の古点の研究に着手せられたであらう。しかるに、既に高齢に及んで、気力も衰へ、自ら成し難い事を知るや、之を春日博士に委嘱せられたものと思はれる。さうして春日博士は不撓不屈、労苦を凌ぎ二十年の歳月を費してこの研究を大成せられ、大矢博士自身が成された場合よりも或は一層勝れたものであらうと思はれる程の立派な成果を挙げられ、負荷の任を全うされたのであつて、大矢博士の霊も定めて喜悦にたへない事であらう。嚢に私が大矢博士の委嘱を辞退したのは、偏にその附託に背かんことを懼れたからであつて、同博士の志の遂げられん事は私の衷心希ふ所であつた。今春日博士の手によつて同博士の希望が見事に実現せられたのを見て、人事ならぬ悦を感ずる。敢へて蕪辞を列ねて慶賀の意を表する所以である。(昭和十八年十二月三十一日)


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Last-modified: 2022-08-08 (月) 01:17:58