橋本進吉「信瑞の浄土三部経音義集に就いて」
『橋本進吉博士著作集12傳記・典籍研究』


 釋信瑞の浄土三部経音義集は、三部経中の文字を摘出して其の音と意義とを注したるものにして、全部四巻、第一第二の兩巻には無量壽経を、第三巻には観無量壽経を、第四巻には阿彌陀経を收む。著者の自序自跋ありて、序には最後に嘉禎二之暦柔兆〓灘之期春王正月序云爾と記せり。以て其の著作の年代を知るべし。
 信瑞は浄土宗の僧にして、敬西房と稱し、初隆寛律師に從ひ、後法蓮房信空を師とせり。隆寛信空共に法然上人の弟子なれば、信瑞は上人の法孫にあたる。其の詳細なる傳記は之を知る事能はずと雖、文筆の才に秀でたりしものゝ如く、寛元二年、泉涌寺俊〓の弟子等の囑を受けて俊〓の傳を草し(續類従二百十七巻所収、泉涌寺不可棄法師傳是なり)、又弘長二年関東に下向せし時、法然上人傳を北條時頼に献じ、且、時頼の問に應じて往生の故實勤行の文などを書きて奉りたる事あり(法然上人行状畫圖第二十六に見ゆ。この上人傳は、良榮の決疑鈔見聞に「黒谷上人傳敬西作也」とあるものにして、世に信瑞の一巻傳と稱す)。信瑞に浄土三部経音義の著ありし事はものに見えたれども、其の書は未だ印行せられたる事なく、寫本の流布するもの亦稀にして世の學者の之に就いて説けるもの甚少く、吾人の見聞の及ぶ所にては、唯僅に楊守敬が古逸叢書所收の原本玉篇の跋中に之を引用せるあるのみ。
 抑音義の書は、経論を読誦し其の意義を解するに必要なるものにして、既に唐土に於て其の撰あり。諸種の経論と共に夙に我が國に傳はり、一切経音義の如きは、天平年間に之を書寫せしこと正倉院文書に明徴あり。而して我が國に於ても、既に奈良朝より始めて此の種の著作少からず。試に諸宗章疏録によつて、其の鎌倉時代中葉までに成れるものを擧ぐれば、法隆寺行信(天平勝寳二年寂)の最勝音義一巻、元興寺信行の涅槃音義六巻、大般若音義三巻、喩伽音義(文相應論音義ともいふ)四巻、弘法大師の金剛頂一字頂輪王儀軌音義一巻、一字頂輪王秘音義一巻、慈覺大師の涅槃音義七巻、法三宮眞寂(宇多天皇の皇子齊世親王、延長五年九月十日薨)の孔雀経音義三巻、興福寺眞興(寛弘元年寂)の大般若音訓四巻、正智院道範(建長四年寂)の法華音義あり。猶此外吾人の耳目に觸れたるものゝみにても、著者未詳の新翻華厳経音義二巻、孔雀経音義三巻(天暦十年成)、興福寺中算(貞元々年寂)の法華音釋三巻(貞元々年成)、著者未詳の金光明最勝王経音義一巻(承暦三年成)、常喜院心覺(養和元年寂)の法華音義等あり。此等の諸書は、何れも信瑞の三部経音義集以前に成れるものにして、信瑞の書は其の著作年代に於ては必しも古きを誇る事能はずと雖、而も我が國撰述の三部経音義としては恐らく最古のものなるべく、又以て當時淨土門流通の趨勢を察すべきなり。
 此の三部経音義集は、序に「披2衆経音義1抽2相應之註釋1目2諸典篇章1取2潤色之本文1」とある如く、諸書より抜萃して編纂したるものにして、信瑞の説を述べたる所は甚稀なり。されど、此の書の價値は却って此の點にありて、其の引用せる書は甚だ多種に渉り、以て著者の博覧を観るべきと共に、今は既に散逸して世に傳はらざるもの亦其の中に存す。此の書は一々其の出典を注したれば、若し精密に調査せば、著者自ら「萃2内外一百餘部之瓊篇1解2大小二千餘巻之花紐1」と云へる多数の参考書の名は、大概之を明にする事を得べしと雖、吾人は今其の遑を有せず。故に唯大體を通覧するに、佛典に属するもの、殊に音義の類の多きは勿論なれども、外典に屬するもの亦少しとせず、其の佛典以外のものに於て、書中に最多く引用せられたるは廣韻にして、倭名抄、東宮切韻の如き字書類之に次ぐ。其の他、集韻、飜譯名義集、梵唐千字文、梵語勘文、名醫別録、五行大全など其の名散見す。此等の中、倭名抄は、此の書に引用せられたる個所すべて六十四、之を現存の十巻本に比すれば殆皆一致すれども、間々字句に小異ありて、また倭名抄校勘の一資料となすに足れり。東宮切韻は、菅原道眞の父是善卿(元慶四年薨)の著にして、古來儒家に用ゐられたるものなれど、何時しか散佚して傳はらず。其の逸文は諸書に散見すれども、何れも零砕にして、原書の面目を髣髴せしむるに足らず。然るに、此の書に引用せられたるものは、百五十一個所の多きに及び、之によつて大に其の書の内容體裁を詳にする事を得、江談抄(第五、詩事)に「集2十三家切韻1爲2一家之作1者」と云へるの妄ならざるを知る事を得たり。梵語勘文は諸種の書目にも所見なく、又全本の世に存するを聞かず。此の書に引ける所によって始めて其の名を知り、且逸文を見るを得たるものなり。而して此勘文は更に世に存せざる眞寂法親王の梵漢語論集(一百巻)其他必用の梵語字書をも引用せるものにして、我が國梵語學史に一新資料を加へたるものと謂ふべきなり。凡、音義の書は、経論の読誦と字句の解釋の爲に作れるものなれば、其の主とする所は深遠なる教義にあらずして、寧ろ字音字形語義にあり。されば此等は、啻に佛教家に必要あるのみならず、又音韻文字言語等の學者にも貴重なる資料を供するものなり。然るに我が國古代の音義書の類は、既に湮滅に歸したるもの多く、現に存するものも流布甚少くして、多くは一二の寫本を存するに過ぎず。されば此等を刊行して、一は以て湮滅を防ぎ一は以て學者を益せん事は、誠に切望に堪へざる所なり。
(佛書研究第十二號、大正四年八月十日)


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Last-modified: 2022-08-08 (月) 09:39:54