田島利三郎
「琉球語研究資料」

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伊波普猷「田島先生の旧稿琉球語研究資料を出版するにあたつて」
http://www.webmtabi.jp/200709/theses/okinawa_ifafuyiu_tajimasensei.html

!--田島先生の旧稿琉球語研究資料を出版するにあたつて
伊波普猷
 A そんな所にくすぶつて何をしてゐる。
 B 田島先生の「琉球語研究資料」を出版せうと思つて、そのイントロダクションを書かうとしてゐるが、いい考へが出ないで、困つてゐる。君は都合の悪い時にやつて来たね。
 A 「琉球語研究資料」といふのは、明治三十一年頃『国光』といふ雑誌の新年号に出てゐたあの論文か。どうして君は今頃それを出版する気になつた。多分中央で琉球研究熱がさかんになつたから、流行の心理を利用しょうとするのだらう。
 B うるさいね、君は。マア折角訪ねて来たから、十五分位はゐてもいい。君も知つてる通り、二三年この方学者や芸術家の琉球を訪問するのが頻繁になつたね。ことに柳田国男氏が琉球諸島を探験して帰つて、南島を研究しなければ日本の古い事が解けないと吹聴されて以来、琉球研究熱は一層高まつたやうな気がするよ。ロシアの若い言語学者のネフスキー君も宮古島へ渡つて日本の古語を沢山さがして来た。音楽研究家の田辺理学士も遥々八重山まで出かけて、日本古楽の疑義を其処で解いたといはれてゐる。昨今中央の新聞、雑誌は競うて琉球に関する記事を掲載するといふ有様だ。先達琉球情調を味つて帰つた詩人佐藤惣之助氏は真境名君と私と二人で編纂した「琉歌大観」の出版を引受けようといつた位だ。そして此頃私に手紙をおくつて、琉球のおもろに就いて其の機関雑誌の『嵐』に書いてくれと頼んでよこした。それから茅原華山氏からも『古琉球』を読んで面白く感じたから、其の機関雑誌の『内観』に何か書いてくれ、書くひまがなかつたら、絵はがきでもいいから、おくつてくれといつて来た。さういふ気運に刺激されてか、近来沖縄でも郷土研究が俄にさかんになつた。それは昨今図書館で琉球史料をひもとく人が増加したのでもわかる。私が十数年間宣伝しても反響がなかつたのに、私がその宣伝を中止すると、皆がそろそろ手を出し初める。妙だね。
 A それは恰度彼のフランス人達が馬鈴薯をパルマンチエがただでやらうと言つた時には貰ひに来ないで、パルマンチエが之を提供することを中止して、其の畑に厳重な囲ひをしたら、夜ひそかに盗みにやつて来たやうなものだ。
 B そいつは面白い比喩だ。私は兎に角目的を達した。琉球研究熱は一年やそこらは続くだらう。
 A この熱のさめないうちに君も君の研究を発表するがいい。ぐづぐづしてこの好機会を失してはいけないよ。
 B 私もこの冬中に『続古琉球』を出さうと思つてゐる。そしてそのあとで問答体の通俗琉球史でも書かう。併し私にはそれよりも、もつと大きな事業がひかへてゐる、『おもろさうし』の出版だ。それは柳田氏が引受けて下さるとのことで原稿用紙もとうに用意してあるが、まだ手を着けないでゐる。それを出した後で、私はオモロの注釈を書かう。そして出来ることならそれに関する論文を書かう。
 A そんなことをするうちに流行は去つて了ふ。熱のさめないうちに、一気呵成にやり給へ。
 B オモロの研究は流行とは何等の関係もない。人が読まうが、読むまいが、私の関するところではない。田島先生に対する義理ででもこれだけはどうにかして完成したいと思つてゐる。『古琉球』の自序にも書いてある通り、私が郷土研究者になつたのは、全く田島先生のお蔭だよ。して見ると、今日琉球研究熱がさかんになつた動機は田島先生に求めなければなるまい。先生は琉球研究の先駆者だ。
 A 田島先生が蒔いた種子が三十年後の今日漸く芽を出した訳だね。この際「琉球語研究資料」を出版するのは頗る有意義だ。あの論文は僕も一度読んだことがあるが、今は殆んど記憶に残つてゐない。どんなことが書いてあつたか。
 B 緒言に琉球史の梗概をのべて(一)おもろ、(二)おたかべの詞、(三)御拝つつ、(四)碑文、(五)おもいこわいにや、(六)歌、(七)組踊、(八)先島の歌、(九)文字と発音とについて、といふ順序で、至つて丁寧に説明してある。菊半截版にしたら、百頁位の本になるだらう。これは先生が琉球語を研究しはじめてから四年後に書いたもので、「琉球語研究材料」の解題ともいふべきものだが、見やうによつては、琉球文学研究資料にもなる。
 A 君に注意するが、「琉球語研究資料」といふ名をつけるのは、考へものだよ。さういふ名を付けては特種の購読者しか得られない。「琉球文学研究」とし給へ。是非さうし給へ。さうすると、きつと能く売れる。
 B なるほどそれはいい思ひつきだ。先生に対してはいささかすまないやうな気もするが、兎に角さうしよう。先生もことわつて居られる通り、琉球語の気分を味はせる為に、歌謡などは特に直訳されたが、琉球文学を紹介する積りだつたら、先生はもつと美しい言葉で訳されたに相違ない。そしてオモロの見本なども、もつといいのを出されたに相違ない。しかしこれでも琉球文学の一般が窺はれないことはない。
 A 琉球語の研究者にも琉球文学の研究者にも、どちらにも読まれるから、一挙両得だよ。先生もきつと喜ぶに相違ない。君先生が沖縄に居たのはいつからいつまでだつた。
 B 明治二十六年の四月から同二十八年の十月までだ。先生は明治二十四年の七月に、今の国学院大学の前身の皇典講究所を優等で卒業された。新潟県の人で、身の丈け六尺以上の大男だつた。先生がはじめて学校に見えた日、ある頭の古い先生は、彼が東京の書生の見本だといつて顔をしかめた。その時私は三年生だつたが、『土佐日記』の講義を聴いて、すつかり感服して了つた。先生は忽ちにして全校生徒の気に入つた。先生の宅には各級の生徒が絶えず出入してゐた。先生が外出する時には、いつでも二三人の生徒がついて歩いた。当時の教頭下国先生は或時、私達に君等の書風が近来著しく田島風になつたと言はれたことがあつた。私は真境名君外二三の同級生と一緒に先生の宅にいつて『枕草紙』の講義を聴いた。先生は尺八の名人だつた。その上旧劇には造詣が深かつた。直接先生からきいた話だが、或時先生が歌舞伎を見にいつてゐると、団十郎の芸にまづいところを発見して、何とかいつて、やじつてやつたら、団十郎も早速気がついて、あとであの書生に是非会ひたいといつてよこしたことがあるさうだ。先生は『歌舞伎』を初号から揃へて、愛読して居られた。その頃沖縄では役者は非常に軽蔑されてゐたが、先生はいつも芝居小屋へ出入して、役者を教育して居られた。先生は沖縄に於ける新派劇の勃興にも関係がある。役者にきいて見給へ、彼等は今でも時々先生の噂さをしてゐるよ。
 A どうしてそんな有為の人が沖縄みたいな所にやつて来たのだらう。
 B この論文の緒言を見給へ。先生は明治廿四年に先生の学友で暫らく沖縄の師範学校に教鞭を執つてゐた人-多分清水といふ人だらう-から沖縄には五十巻ばかりの琉球語で書かれた文書があるが、今日どんなことが書いてあるかさへ、知つてる者がないといふことを聞いた。爾後その事が念頭を去らなかつたが、廿六年にはいよいよ沖縄に居住すべき身となつた。到着するとすぐ、五十巻ばかりの文書のことをきいて見たが、固よりその名も知らず、有無さへ実は確でない程の極めて空漠なる問だつたから、一年余過ぎた後も、まだ聞き出すことが出来なかつた。廿七年になつて、偶小橋川朝昇といふ人が編纂した『琉球大歌集』の凡例を見て、初めてオモロのあることがわかつた。後沖縄県庁で編纂した琉球史料を閲して、『オモロ御双紙』二十二冊を得た。五十巻ばかりの文書とは即ち之を言つたものだとわかつて、是からその『オモロ御双紙』の研究に着手した。といふやうなことがある。
 A それでよくわかつた。それは兎に角、今から三十年も前に、沖縄県庁でよくも琉球史料といつたやうなものを編纂したものだ。一体誰が主となつて、それをやつたのだらう。
 B 奈良原知事の前に丸岡といふ知事の居られたのは覚えてゐるだらう。その爺さんがやつたのさ。沖縄県庁には旧藩庁から引続いた記録が沢山あつたが、それをこの爺さんが一々目を通して、必要なのを書写させ、それで足りない所は首里那覇の旧家から、古記録をかりて来て書写させ、たうとう六十何冊といふ琉球史料を編纂した。先達尚家の園遊会のあつた時、斎藤用之助にあつて、この話をしたら、氏はこの事業にたづさはつた人の一人で、能く当時の事情を知つて居られるので、いろいろ懐旧談をされた後で、世間では丸岡知事を無能呼ばはりしてゐるが、あれだけでも大きな事業さといつて居られた。あの頃の『琉球教育』を見ると、丸岡知事が本県を去るに臨んで、沖縄の教育家に寄せられた文があるが、日琉同祖を高調して、沖縄人を継子扱ひしないやうにといふ様なことが書いてある。
 A さうすると、次の時代には多少逆転したやうな感があるね。植民地教育をやらうとして、たうとう廿八年の中学のストライキまで勃発させたぢやないか。
 B マアそんなことはどうでもいい。其の琉球史料は大方私の方の図書館に来てゐる。が惜しいことには田島先生が最初にひもとかれたといふ記念の『おもろさうし』廿二冊が見えない。能く聞いて見ると、あの頃師範学校の漢文の先生に新田聖山といふ人がゐて、この人が借りていつて、今に返してくれないといふことだ。
 A あの人はかなりの道徳家だつたから、借りたとしたら、きつと返してくれるよ。多分忘れてゐるのだらう。
 B もう君、借りてから三十年近くもなる。こちらから一度も催促なぞしたことがないから、返さないのだらうか。しかしマアいい。何処かで琉球研究者が読んでゐるだらうから。今思ひ出したが、いつだつたか、この新田先生が、「沖縄は沖縄なり琉球に非ざる也」といふ愛国的論文を『琉球新報』に出したら、名称の如きは誰がつけようがかまひやしない、支那人がつけた琉球がお嫌ひなら、等しく支那人がつけた日本の名称はどうする、といつて、田島先生に散々冷やかされたことがあつたね。ところがこの時は日清戦争の真最中で、沖縄の教育家の愛国心も絶頂に達してゐたと見えて、新田先生の提言でその機関雑誌の『琉球教育』といふ名称まで『沖縄教育』にかへて了つた。新田先生のことはそれ位にして、再び田島先生の琉球語研究の話に戻らう。先生が『おもろさうし』を見出したのは、沖縄に赴任してから、一年後だつたが、もうその頃先生にはオモロを解釈する準備が十分に出来てゐた。先生はその土地を研究するには何よりも先にその言語に精通しなければならないと云ふことに気がついて居られたので、到着早々から琉球語の研究に没頭された。そして一年も経たないうちに、沖縄人と同じ様にその方言をあやつることが出来た。それと同時に歌謡や組踊(脚本)の研究などもやられたから、沖縄人以上にその古語に通じてゐた。そればかりではない、先生は琉球音楽の研究にも指を染めてゐた。驚いたことには、琉歌まで作つた。先生は沖縄人と同じ様に話し、沖縄人と同じ様に感ずることが出来たから、琉球研究者としては十二分に成功すべき資格を備へてゐた。
 A 日本人のわるいくせとして周囲の小民族の間に這入ると、徒らに優越感を感じて、彼等と彼等が作つた文化を軽蔑するものだが、さういふことは先生にはなかつたかね。
 B 少しも無かつた。それで先生は生徒になづかれたのだ。生徒にばかりではない、民間の人々にもかはいがられた。時としては、品位を落しはしないかと思はれる位いかがはしい連中ともつきあつてゐた。先生はひまさへあれば、田舎や離島に旅行ばかりしてゐた。かういふやうにして沖縄人の内部生活に這入ることが出来たから、チャムバレン氏が一種不可解の韻文として匙を投げたオモロを容易く解釈することが出来たのだ。私のところに先生の『配流余材』といふのがあるが、明治二十七年の十月十五日から着手したもので、『万葉集』の中の古語と琉語とを比較したものだ。四巻までのは出来上つてゐるが、学者の参考になるものが多い。これには別にくわいにやややらしなども集めてあるが、余白のところに、(一)緒言、(二)琉球、(三)文学、(四)おもろ、(五)主取、(六)琉球語と日本語との比較、(七)上古の言語、(八)(九)解釈(八王府、九地方)、(十)結論といふ目次が書きつけてある。これでオモロを研究しはじめた頃に、先生が将来かういふやうにして発表して見たいと計画されたことがわかる。それから今一つ『随感随録』といふのもあるが、これは明治三十年の七月三十日に着手したもので、オモロの語彙だ。これを見ると、先生が他日オモロの辞書を編纂しようとしてゐたこともわかる。巻末の余白に、(一)琉球略史、(二)信仰、(三)おもろに対する観念、おもろ主取、(四)おもろの文法、(五)修辞上の評論、(六)おもろの本文、(七)おもろの語釈及び出所、(八)おもろの語と現時の琉球語との比較、(九)日本語と琉球語との比較、(十)琉球開闢説及び創世紀論、といふ目次が書いてある。これは『配流余材』にある目次より三年も後に出来たものだが、この頃先生の研究は大分進んでゐたので、かなり具体的になつてゐる。
 A 先生にさういふ計画があつたとは少しも知らなかつた。君以外には恐らく誰も知つてゐまい。さういふ先生をもつと引留めて置いて、その事業を完成させるとよかつたのに。この論文以外に先生が発表したのは何ものこつてゐないか。
 B 外の余白のところに、琉球の神歌、琉球に対する一般の憶断、徳川時代の碩儒の著書の誤謬其理由、特殊の歴史といふやうなのがあるが、これらは多分あの頃の『琉球新報』に載つてゐるだらう。それから『随感随録』の表紙の裏に、琉球文学、琉球史、清少納言、源実朝、よしや思鶴、琉球の三傑、五十音図、琉球内裏言葉、島津氏の琉球入、琉球廃藩始末などと書いてあるが、その中で、私が原稿で読んだのもあり、新聞に載つたのを読んだのもある。今度さういふのを一々集めることが出来ないのは残念だ。
 A 先生は純然たる学究だつたね。
 B 単なる学究ではなかつた。政治にも大分趣味を有つてゐた。私の五年生の時だつた。先生は校長の気に入らないで、諭示免職になつて、『琉球新報』に入られたが、その後は盛に政治論を書かれたもんだ。今思ひ出したが、この時の先生の辞表は中々振つてゐた。辞表差出すべしとのことにより辞表を提出するといつたやうな風に書いて出したら、それではいけないから、病気に付きとか何とか書いて出せと突つかへされたが、自分は病気でも何でもない、また辞職する気もない、とただ辞表を出せといはれたので、正直に書いて出したまでだといつて、当局者を手古摺らした。当時の『琉球新報』を見ると、先生の「待令日記」といふのが載つてゐるが、これを読むと、その辺の消息がよくわかる。その頃例のストライキは勃発したが、先生は紙上で盛に私達の応援をされた。ストライキの真最中に先生は「所謂慶長の乱の琉球に与へたる利害」といふ論文を書かれたが、尚家に対して不利益な記事といふので、三回出たきりであと掲載中止になつた。私は二十九年の夏東京に遊学したが、其後先生は新報社と意見があはないで、放浪生活をおくられた。たしか一年間位は私の家に厄介になられた筈だ。三十年には上京して、一時『国光』の投書家になつて居られたが、三十一年の新年号に、この「琉球研究資料」を書かれたと覚えてゐる。それから同年の五月に、「阿摩和利加那といへる名義」といふ論文を書いて、『沖縄青年会報』に投ぜられたが、その論文も亦物議を醸して、先生は一部の沖縄県人から蛇蝎視されるやうになつた。尚泰侯は会報の愛読者であられたが、この会報は御覧に入れなかつたと聞いてゐる。
 A それは私も聞いたことがある。一体どんなことが書いてあつたか。
 B 「天下は天下の天下なり一人の天下に非ざる也」と断じた『世鑑』を有する琉球は、なるほど謀反人に乏しくなかつた。若し夫れ春秋の筆法を以て琉球の事を書いたら、察度・尚巴志・尚円等皆その君を弑すとせられる。阿摩和利一人を逆賊呼ばはりするのは気の毒だといふ風に書きはじめて、オモロを楯にして、阿摩和利を弁護したものだ。
 A 『琉球新報』を追出された復讐をやつたんだね。
 B 兎に角、この論文は『琉球文学の研究』の附録として出す事にしよう。私の『古琉球』にある「阿摩和利考」は畢竟先生の史論を敷衍したものに過ぎない。一昨日電話で田島先生の「阿摩和利加那といへる名義」といふ論文にはどういふことが書いてあつたか、その内容を極簡単に話してくれときいた人があつた位だから、今出しても読み手はかなりあるだらうよ。
 A それから其の頃先生が公同会の運動を妨害したといふ話があるが、そんなことがあつたのか。
 B ウム、それは阿摩和利事件よりも前にあつた事件だ。日清戦争が片着いて、沖縄人は大方その行く可き方向を知つた訳だが、その上にも人心を統一する必要があるといふので、『琉球新報』の連中が中心となつて、公同会を組織したことがある。その趣意とする所は、特殊の歴史を有する沖縄に、アイルランドみたいな、一種の特別制度を設置し、精神の統率者たり、社交の中心点たる尚泰を其の司長に任じ、先づ分離しかけた人心を統一せしめ、相率ゐて皇化に浴せしむるにあつた。この運動が一たび起るや、県内議論ゴウゴウとして起り、支那党は猛然として之に反対した。所謂開化党中にも陽に賛成して、陰に反対する者が多かつた。東京の青年会でも、高等師範在学中の学生や郡部出身の者は大方之に反対した。この時『国民新聞』『大阪毎日新聞』及び『鹿児島新聞』の通信員として沖縄に来てゐた佐々木笑受郎氏は、之を旧時の夢を繰返して、時勢に伴はない封建復活の運動だといつて、右の各新聞に通信した。私が上京した年だつたと思ふが、二区三郡の人民七万三千三百余人の代表者九人が上京したことがある。彼等は請願書を当局に提出し、更に各大臣を訪問して、其の趣旨のある所を陳述したが、きかれなかつた。けれども中央の政治家の中にも之に賛成した者のあつたことを忘れてはならぬ。青年会では新に渡久地政勗氏が中心となつて、之に反対するやうになつた。私は今アメリカにゐる西銘五郎君と二人で神保町の辺に下宿してゐたが、ある朝田島先生が何処からか俥に乗つてやつて来られた。そして昨日太田と一緒に某楼に遊びにいつて、面白い材料を得て来たといつて、懐中から志賀重昂氏が手を入れたといふ公同会の請願書を出された。これは誰にも見せないといふ約束で太田から借りて来たのだが、国家の為には友人を裏切つてもかまはないから、今日中に一論文を草し、それにこの請願書を添へて、明日の『やまと新聞』に素破抜くことにしようといつて、私達の賛成を求められた。そして先生は一気呵成にそれを書き上げ、大急ぎで新聞社に持つて行かれた。翌朝の『やまと新聞』を見ると、それが三面一杯に掲載されてゐた。あとで聞くと、この事について太田氏と先生との間に激論があつたといふことだ。兎に角この問題は中央の政界でも一問題となつて、たうとう不成功に終つたが、この問題があつたお蔭で、尚家を中心として県下の有識者階級が一大覚醒をなした。これから沖縄の進歩には見る可きものがあつた。
 A それから先生はどうなつた。
 B 一部の県人からは蛇蝎視された上に、間もなく職を失つたので、非常に困つて居られた。けれども三十三年に私が京都の高等学校に入学した後で、先生はどこかに奉職して、奥さんまで迎へられたといふことだ。翌年の夏京都にコレラが流行して、私は一ケ月ばかり東京に逃難したことがある。その頃奥さんは病気をして居られたが、間もなく亡くなつたといふことだ。三十六年の秋私が文科大学に入つた頃には、先生は日本女学校で教鞭を執つて居られた。至つて寂しい生活をして居られて、頻りにバイブルをひもといて居られた。先生は私が言語学を修めると聞いて大そう喜ばれた。そして私の家に暫らく厄介になつてゐた返礼として、数年間苦心して集めた「琉球語学材料」をすつかり私に譲り他日その研究を大成してくれといふことになつた。私は当時医科大学在学中の金城紀光君と先生と三人で本郷の西片町に一軒の家を借りて自炊をしてゐたが、琉球研究の手始めとして、毎日少しづつオモロの講釈を聴いた。二三枚位も進んだかと思ふ頃、先生は突然東都を去つて、台湾へ行かれたので、私は非常に失望した。そこで已むを得ずオモロの独立研究を企てたが、突然外国の文学を研究するやうで、一時は研究を中止しようと思つた位だつた。この辺の苦心談は『古琉球』の自序に書いて置いたから、君は多分読んでくれたらう。それから此頃先生は頻りに片山潜氏の宅に出入して居られたが、片山氏の熱誠に動かされて、ちよいちよい社会問題の本をひもといて居られた。或時先生は片山氏から英文で書いた何とかいふ人の社会主義小史を貰つて来て、私に講義させて聴かれたこともあつた。
 A 台湾にいつた後の先生の消息がききたいね。
 B 台湾では総督府に奉職して居られたやうだ。其の頃あそこで幅をきかしてゐた長尾半平氏は先生の郷里の先輩なので、先生はこの人をたよつて渡台されたらしいが、殆ど賓客扱ひにされてゐたといふことだ。そして台湾古美術の調査を嘱託されて、いつも旅行ばかりして居られたさうだ。ところが間もなくそれにも飽きが来て、暫らくすると、どこかへ姿を隠して了つた。
 A どこへいつたのだらう。
 B サア、それから後が面白いんだ。その頃の台湾の新聞の福州通信で、行方不明になつた先生の消息が漸くわかつたが、先生は坊主に扮して南支那を行脚して居られたのだ。
 A 坊主に扮して! マアお経一つも読めない先生にどうしてそんなことが出来よう。
 B そこが面白いところだ。支那では頭の頂上に大きなお灸をすると、それがお寺に這入るパスになるとかで、先生もさういふ突飛なまねをして、高僧になりすまし、得意な尺八を吹いて、南支那を漫遊してゐるといふことがあの通信に見えてゐた。
 A ほんとに奇人だね。今でもやはりさういふ放浪生活をつづけてゐるのかしら。
 B その後暫らくの間は消息が知れなかつたが、此頃照屋宏君から来た手紙で、最近に於ける先生の消息がまたまたわかり出した。照屋君はその手紙の中に先生からの手紙まで封じてよこした位だから、先生がまだ生きて居られるのは疑ふべからざる事実だ。私は久しぶりで先生の筆跡を見て、再び先生に遇つたやうな気がした。先生は只今漢口で発行する雑誌『鶴唳』の記者として活動して居られる。先生の手紙には沖縄が恋しいといふことまで書いてある。そして急に老母が恋しくなつたので、先達帰省したといふことも書いてある。
 A 大ぶ真面目になつたね。
 B 照屋君が帰省してゐた時の話だが、先生は台湾に居られた頃、私が新聞に出すオモロの評釈を特に面白く見て居られたさうだが、「僕がわからなかつた所を伊波君が解釈してゐる」といつて、喜ばれたさうだ。
 A オモロも君のやうなナマケモノの手に渡つては、おしまひだね。しつかりやり給へ。先生に対して申訳がないぢやないか。何をグズグズしてゐるんだ。今に葬られて了ふよ。
 B 私は横道に這入つてゐるかも知れない。けれども今に研究熱が再燃するだらう。私がもとの学究にかへつたら、伊波君は気が狂つてゐるではないかなぞいつてはいけないよ。さういふ人がゐたら、弁解してくれるんだよ。
 A それは僕がひきうける。時に君、いつだつたかある新聞の福州通信に田島先生が何か琉球のことを書いて、時代や人物をはきちがへたといふので、非常に笑はれてゐたね。そしてさういふ人をかつぐ人の気が知れないなんていふやうなことが書いてあつたね。
 B それは私も読んだ。しかし君、考へても見給へ。先生は研究資料をすつかり私にやつて了つたんだらう。そしてあれから殆ど三十年近くもさういふことを考へたことがないだらう。年代や人物などはつきり覚えて居よう筈がない。あの通信を書いた人も先生の「琉球語研究資料」を一読したら、思半ばに過ぐるものがあらう。
 A 今日は君が折角隠れてゐる所に闖入して、失敬した。しかし大ぶ有益な話をきいた。僕はこれで失敬する。
 B さよなら! またやつて来給へ。
大正十一年十月冊一日、天長節の祝日、図書館の書庫の一隅にて、
伊波普猷

「琉球文学研究」より
田島利三郎著 伊波普猷編 大正13年 青山書店


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Last-modified: 2022-08-08 (月) 09:59:50