石垣謙二
「文學」昭和二十年十一月號


 日本語が元來情意的主觀的な言語であり、藝術的方面には纖細な表現力をもちながら、理論的客觀的な學的概念を盛る器として不向きであるといふ事は屡〃指摘される處である。儒佛の過去に遡るまでもなく今日に於ても學術語は殆んど漢語によつて辨じてゐる實情であるが、漢語の問題は既にそれが日本語の血肉になり了つてゐると認め得る點に於て、決して望ましい事ではないとしても、全く忽び難い事態とまでいふ必要はないかも知れないし、且是は畢竟語彙の問題に止り語彙の借用は如何なる國語にも多かれ少かれ不可避の現象である。問題は日本語の言語構成そのものの特質が果して根本的に學問的表現と背馳するものか否かといふ點に在る。この點にして萬一にも悲觀的であるならば、それこそ日本語の前途に對して吾々の絶對に忍び得ない處であらう。
 かやうな反省は近來頓に識者の間で盛になりつつあると認められるが、嘗て和辻哲郎博士の扱はれた「日本語と哲學の問題」も亦、その代表的な且最も興味あるものの一つたるを失はない。日本語は哲學的思索を荷ふ力に缺けてゐるのではなく、缺けてゐるのは寧ろさういふ力を活用しようとする日本人自身の意慾であるといふ意味の結論は、周到精緻な論旨と相俟つて讀者の國語愛に明るい希望と大なる勇猛心とを掻き立てずには置かぬであらう。
 「日本語と哲學の問題」は和辻博士の好著『續日本精神史研究』(昭和十年、岩波書店刊)に收められてをり、今更紹介するまでもなく餘りにも有名であるが、博士は先づ哲學の根本問題を「あるといふことはどういふことであるか」といふ極めて日常的な日本語によつて表現し、次いで此の卒易な日本語から引出される處の意味が、普通、哲學者によつて取扱はれてゐる問題に比して決して低い水準のものでない事を次の諸項を追うて説き示してをられる。即ち、
  一 「こと」の意義
  二 「いふこと」の意義
  三 云ふ者は誰であるか
  四 「ある」の意義
以上の四項はいづれも奪敬すべき示唆に富み、吾々後進を啓發する處の多いものばかりであるが、唯右の中第三項昌云ふ者は誰であるか」に對してのみ、私は專ら國語の觀察からして博士とは些か異る見解に到逹してゐるので、菲才自ら揣らず茲に大方の御教示を乞はうと思ふのである。


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Last-modified: 2024-01-16 (火) 23:21:32