能田太郎
「球磨山村語彙 熊本縣球磨郡五木村方言」
『方言』5-8


はしがき
 五月下旬、漸く小閑を得て南肥後球磨の奥五木(いつき)村を訪ひ、年來の宿望を果し得た。球磨川の支流に沿うて上ること八里餘、北は六里の山路によつて五箇ノ莊村に接し、東は重疊たる連峰によつて日向の山村椎葉及び米良の村々と連り、方十六里餘、延長五里餘の深い谿谷の底に既に人は溢れてゐた。而も前代のまゝのコバ作即ち燒畑作業が第一の農事であつて、水田僅かに廿一町歩餘、それが大正六年の頃までは僅々三分の一の七町歩餘に過ぎなかつた。蓋し常の日には米を食はぬ村の一つである。コバの稗と粟と麥と、それから今一つカライモ(さつまいも)とが常の日の食物であつて、學校の兒童の三分の一以上は其のカライモさへも中食に持つて來てはゐなかつた。然るに驚嘆すべきことは、徴兵檢査甲種合格者七十五パーセントにして縣下第一であつた。
 仰ぎ見る山腹のコバには、丁度麥が黄ばみかけてゐた。もう追々カボテ(蚊遣り)を腰にさげて、刈に行かねばならぬのである。それを仰ぎ見ながらコバ作の辛苦な話を聞いてゐると、深い感激の念を禁ずることが出來なかつた。今日はもう廢れた狩獵の壯快な話は、又、柳田先生の「後狩詞記」が思ひ出されて限りなく興味深かつた。謂はゞ私にとつて最初の山村らしい村であり、山村らしい話でもあつた。然し此の谿谷の奥にも、近年はもう乘合自動車が通ずるやうになり、大きな發電所が三つまでも建てられた。而して平野の生活を見て來た人々や、新聞を見てゐる程の人々は、米を食はぬ自分の村を一樣に嘆き、更に村の人々が常の日に米を食はぬことを一向に氣にせぬ生活振りを大いに悲しんでもゐた。何とかして米の飯位は食はせるやうにしたい、と其の人逹は誰も彼もいつてゐる。一夜、話を聞かせに來て呉れた五十許りの小柄な農夫は、今丁度旦那の畑五畝許りを水田に開いてゐた。三年前にも三畝許りを開いたさうで、事の際の米だけにはもう困らぬともいつてゐた。が常の日に米を食はう等とは些とも考へては居らぬらしかつた。何程熱心に開きして見ても、此の谿谷の石地では、現在の廿一町歩餘の倍の擴張は恐らく不可能であつた。
 滯在僅かに三日、それでも私は豆手帳の半分以上を汚してしまつた。私は幾人かの人々に會つて、出來るだけ慾張つて話を聞いた。其の話の間に聞き又實物を以て教示された語彙が即ち此の小集である。秋には又是非出かけて見たいと思つてゐるから、尚増補訂正することが出來ようと思ふ。          (昭和十年六月稿)

(以下略)


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Last-modified: 2022-08-08 (月) 10:06:15