菊池寛
小説
http://www.aozora.gr.jp/cards/000083/card43270.html


「洗面所《トイレット》やバスは、後でご案内いたします。」と、外人別荘にいたことのあるらしい女中は、英語を使った。


 よく見ていると、仕度という字を、一度平仮名でしたくと書いてから、消して、仕度と直してあった。
 この字は、四、五日前に、新子が支度の方が正しいと、教えたばかりであったので、彼女は、微笑を浮べながら、しかしややきびしい調子で、
「たいへん、お上手だけれども、一字小太郎さんらしくもない間違いをしていらっしゃるわ。ね、仕度は、支度の方が正しいと、この間云ったでしょう。」と、新子は鉛筆で、白い紙の端に支度とかいてみせた。
 いつも、素直な小太郎であるが、嫌いな綴方を、やっと自分で作ったのに対し、とやかく云われたことが、すぐかんに触ったらしく妙に意固地になり、てれくさくなったらしく、
「僕、それよく分らなかったから、平仮名で書いておいたの、そしたら、ママが本字を教えてくれたんだもの。それでも、いいんだよ。」と、子供らしく、喰ってかかって来た。
「ええ、普通によく仕度とかいてありますけれど、それは間違いなんですよ。やっぱり支度と書かなけりゃ。」
「だって、僕が間違ったんじゃないや、僕は平仮名で書いておいたんだもの。ママが悪いんだ、ママに怒って来る!」と、云うと小太郎は早くも立ち上って、(アッ!)と云う間もなく、飛鳥のように部屋を飛び出した。
[…]

「後でもいいんですけれど、私いいたいことをためておくの、いやな性分ですから、すぐ来ていただいたんですの。私が教えた仕度という字、違っておりますの?」と、単刀直入であった。
「………」
 新子は、夫人の勢いを避けて、だまっていると、
「ああ書きますと、誰にも通じませんかしら……」
「いいえ、通じますわ。」
「そうでしょう。通じれば、それでいいじゃありませんか。」
「はあ。」
「言葉というものは、通用するということが、第一じゃありませんの。貴女は、英語の方は、お精くわしいそうだからご存じでしょうが、保護者パトロンという字だって、本当に発音すれば、ペイトロンか、ペトロンでしょう。」いかにも、外国に行ったことのあるらしい、しゃれた発音であった。
「はあ。」
「でも、パトロンはパトロンでいいじゃありませんか。もう、それは日本語なんですもの。それを知ったかぶりで直すのこそ、おかしいと思いになりません。それから、大統領のリンコルンだって、本当はリンカーンでしょう。でも、リンコルンというのも、それで何だか、昔風でなつかしくっていいじゃありませんか。」
「はあ!」
「日本の言葉にだって、間違ってそのまま通用している言葉が、沢山あるでしょう。殊に仕度という字なんか、十人の中で七、八人まで、仕度とかいていやしませんかしら。」
「はあ。」
「十二、三の子供の綴方に、仕度と書いてあったからといって、それを一々直すには及ばないと思いますが。」

「ミヒヒという山羊の声」
「気持が悪くなったらしく、水のようなものを、ゲラゲラ吐き出した。」

文春文庫

p.136
「圭子でございます。」
「ケイ、どんなケイです。」
「土を二つ重ねた。」


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Last-modified: 2022-08-08 (月) 08:43:28