訓(文字)漢字の意義に基いて訳した国語。音の対。わが国に用いている漢字をよむ時には、あるいは音を用い、あるいは訓を用い、その二字以上での語をよむには、時として、音と訓とを混じえて用いることがある。例えば地名で富士をフジとよむのは音、浅間をアサマとよむのは訓であり、安中をアン(音)ナカ(訓)とよむのは二者を混用したのである。それゆえに漢字を日本文に用いてある場合には音と訓との二様のよみ方がある。「国」は音がコクで訓がクニ、「山」は音はサン又はセンで訓はヤマ、「神」はシン又はジンで訓はカミ、「人」は音がジン又はニンで訓がヒトであるというような次第である。しかしながら、漢語の本義から見れば、ただ訓だというのは不十分で、昔から言うように和訓と言うべきであろう。訓という語は本来漢語としてかの国に古くから用いている語で、その根本の意義は『説文』(別項)に「教説也」とあって、教訓・訓導の熟字がよくこれを表わしている。それから一転して「告ぐ」の意を表わし、再転して「順ふ」の意となり、「理《ヲサ》むる」の意となり、それからさらに転じて書典の注解の意を表わし、また転じて、文字の意義を釈《ト》くにも用いた。『爾雅《ジガ》』という古字書に「釈訓」の項を立てたゆえんが、ここに存する。かくして漢字の意義を釈くことを訓ということになった。すなわち中国では、ある漢字の意味を、似た意味を有する他の漢字で示すのを訓というので、それは今日でも行われている。例えば民国三年(一九一四)に出版した『文字源流参考書』に「麁」の字の説明に「仮借して則ち大と訓す」とあるが如きである。それゆえに本邦でも古くは「訓」を字義の意として用いた。例えば、『古事記』の序(上表)に「已に訓に因りて述ぶれは詞心に逮《オヨ》ばず」とあるごときがそれである。これは、漢字をその字の意義に従って用いると、その漢字の意義が国語と必ず一致するものでもないから、その心を十分に写し表わすことができぬということである。それで『古事記』には「高天原」の下に「高の下の天を訓じて阿麻《アマ》と云ふ」「天常立神」の下に「常を訓じて登許《トコ》と云ひ、立を訓して多知《タチ》と云ふ」と注を加えているが、これらがすなわち国語としての訓というベきものであろう。この記載ぶりを見ると、序にも言うとおり、「日下」をクサカ、「帯」をタラシというのは、よほど古くから慣用してきたよみ方で、それをそのまま用いている。『万葉集』の用字を見ると、一定の訓によって漢字をすこぶる自在に用いこなしていることが著しい。これで見ると、そのころにすでに一定の漢字に一定の和訓が慣用せられていたのであろう。しかしながら、元来漢字は多くは一字多義のものだから、『類聚名義抄《ルイジユ...》』(別項)はじめ多くの字書に注するように一字にいろいろの訓が加えられていたであろう。しかし、後になるにつれて一定の漢字に一定の国語が固着せられた姿になり、ある字は必ずこうよむという慣例を生じて、それがその字の固有の訓であるというように認められていることが多い。例えば「一」はヒトツ、「人」はヒト、「山」をヤマというごときがそれである。これはその漢字の根本義の訓であるが、また「端」をハシ、「祝」をイハフという如く慣用の多いことによったものもある。かようなことも古くから起つていたらしい。『倭名類聚鈔』(別項)を見ると、例えば「癩狂《テンキヨー》」(俗に毛乃久流比《ものくるひ》と云ふ)の注の中「狂は太布流《たふる》と訓ず」とあるのは「狂」の字に一定の訓が固着していたことを示すのであり、このような注が少なくない。これら訓というものは吉備真備《キビノマキビ》の作ったものだという説が古くからあるが、それはみだりな説で、漢字の渡来してから、しだいに馴致せられたもので、一人や二人の創作でないことは論ずるまでもない。現代では漢字に対して訓に関する考えがすこぶる薄弱で、また訓だか音だかを弁えようともしないようである。鎌(カマ)は音レン、「咲」(サク)は「笑」の俗字、音はセウ、関(セキ)は音クワン、咳(セキ)は音ガイであるが、たいていは訓だけで、音が別にあるとも考えていないようである。また日本製の字、例えば辻《ツジ》・杣《ソマ》・凩《コガラシ》・笹《ササ》・躾《シツケ》・鴫《シギ》・峠《トーゲ》等は(↓国字)、それぞれ国語そのものを表わしたもので、音訓の問題外のものである。     〔山田孝雄〕

国語学辞典

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Last-modified: 2022-08-07 (日) 23:44:40