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韻學
 【名稱】 音韻學とも(支那では聲韻學とも)いふ。
 【解説】 支那に發達し,我が國に傳はつた支那語の音聲(漢字音)に關する學問。
 【支那に於ける韻學】 〔先秦時代〕に、語を聯ねるのに雙聲疊韻によるもの少からず、又律語の類は皆押韻した。雙聲は、聲即ち語の最初の子音の同じものをならべる事であり、疊韻は、韻即ち語の母音以下の部分の同じものを並べる事である。又押韻は句の末に韻の同じ語をおく事である。さすれば、當時既に語の音の部分的一致について意識してゐたことは確かである。しかし、言語の音聲について特に考察することはなかった。
 〔漢・魏・六朝時代〕 漢時代に古典の攷究が起るに及び、文字の發音を示す場合に、これと發音の同じ文字又は發音の近い文字を用ひて「音某」、又は「讀若v某」と記したが、漢末に至って、反語即ち反切を用ひる事が始まった(漢末の孫炎の爾雅音義が最初と傳はつてゐる)。これは一字の音を示すに二字を用ひ、上の字からは語頭の子音をとり、下の字からは韻をとり、兩者を合せてその字の音を示す方法であって、雙聲疊韻から發達し、一方佛教と共に輸入せられた梵語の音聲の知識の影響を受けて起つたものであらうといふ。この反切は魏の代かち大に行はれて、以後多く韻書が作られたが、李登の「聲類」が最も古く晉の呂静の「韻集」など次いで現はれた。これ等は同音の字をあつめたものと考へられるが、「聲類」は五聲を以て字に命じ、「韻集」は五卷に分れて宮商角微弱を各一篇となしたとあるのは、つまり四聲によって分類したものと考へられる(宮と商とは、平聲を二つに分つたものであらう)。四聲は齊・梁の代の沈約《しんやく》の「四聲譜」、周〓の「四聲切韻」に始まると傳へられるが、四聲の韻書はこの前からあった(晉の張諒に「四聲韻林」二十八卷の著がある)。沈約の「四聲譜」は、四聲を詩文の音律に關係させて平仄の法を論じたもので、この時代から四聲が一般に世の注意をひいたものであらう。四聲はあらゆる語の音調(アクセント)を平上去入の四種に分けたもので、かく四聲を區別するに至ったのは進歩であるといはなければならない。六朝時代に出來た韻書はなほ數種あるが、前述の諸書と共に悉く亡びて傳はらない。
 〔隋・唐時代〕 隋に至って陸法言が友人数名と謀り、古今南北の音を参酌して「切韻」五卷を作った。これは今存せぬが、これに文字を漸次に増加したばかりで、大體に於て原の體裁を失はないと認められてゐる「廣韻」(後出)によると、あらゆる文字を先づその韻の四聲によって平上去入の四つに大別し、次に韻の異同によって小分して総て二百六種に分つた。即ち一々の文字が、二百六韻の中の何れに屬するかを定めたのである。各韻の中では、同音の文字を一所に集めて、反切によってその發音を示してゐる。この反切の文字を仔細に調査すれば、語頭の子音は四十一類に分れ、二百六韻も、同韻中二類三類に分れるものがあって、すべて三百十一類に分れるが(陳澧の切韻考による)、これは反切の文字で區別せられてるるだけで、發音上の區別は明示せられてゐない。二百六韻の區別は、發音の古今と地方的の相違をも考慮に入れたもので、必ずしもその當時の或地方の發音に、これ等を悉く區別したのではないやうである。又これは詩の押韻に用ひるのであるから、同韻の文字のあまりに少ないのは不便である故、似たものを併合して一韻としたものもあるであらう。さうしてこの切韻の韻の分け方は、大體に於て齊・梁の頃、沈約等の詩賦に用ひたものと一致する。即ち以前からの習慣に基き、これに多少の整理を加へたものである。陸法言の「切韻」が出てから、これに多少の増補を加へたものが多く現れたが(郭知玄・關亮・薜絢・王仁昫・祝向丘・嚴寳文・裴務齊・険道固等の切韻がある)。孫愐がこれ等を合せて文字を増加し、「唐韻」五卷を作った。これ等の「切韻」も「唐韻」も今は逸書となったが、近年敦煌から「切韻」の殘缺三種が發見され、又唐寫本と稱する唐韻の殘卷や、切韻の殘缺本が刊行された。これ等によれば、韻の數は二百六よりも少かったやうである。宋の眞宗の時、陳彭年等が「唐韻」を増補して作った「廣韻」五卷に二百六韻となってゐるのは、或は後の改訂であらう。これ等の韻は、古今南北の音を包括するもので、實際に於ては同音のものがあったのである。そこで、唐の許敬宗が奏して、他と通用するものと獨用するものとを定めた。これは「廣韻」に見えてゐる。
 〔宋以後〕宋の眞宗の時、陳彭年等をして「廣韻」五卷を作らしめたが、又丁度等に勅して、「廣韻」の略本を作らしめ、「韻略」と名づけて頒行した。これは仁宗の時名を「禮部韻略」と改めた。又「集韻」十卷を勅撰して大に字數を増した。韻の種類は改めなかったが、「廣韻」に獨用としたものを、新に通用する事を許したもの十三箇處に及んだ。宋の理宗の時、平水の劉淵が、「廣韻」及び「集韻」の同用通用のものを一韻として、二百六韻を一百七韻とし、「壬子新刊禮部韻略」と名づけて刊行した。世にこれを平水韻といふ。後、元にいたり,陰時夫が「韻府群玉」を作ったが、この時、上聲の拯を迥に併せて、一百六韻とした。こゝに於て、隋・唐以來の韻の分類が大に改まった。明の「洪武正韻」は、更に韻の併合を行って七十六韻としたが、明・清以後の文人は、陰時夫の「韻府群玉」の百六韻を用ひた。かやうに韻の種類の少くなったのは、實際の發音上區別がなくなった爲めである。又、發音の時代的變化の爲め、隋・唐以来の反切に示された音が、實際の發音と合致しないやうになった爲め、宋以來、反切に種々の法則(門法)を設けて、これを説明することになった。(反切参照)
 〔等韻學の發逹〕 以上述べたのは、音聲の賞用的方面に關するものであるが、唐末から宋にかけて、音聲の観察や理論がよほど進歩を來した。まつ語の最初の子音(所謂「聲」に三十六種の別ある事を認めて三十六字母をたて、これを七音に総括した。これは悉曇に基くもので、悉曇では子音で始まる文字はこれを五種に分ち、五音と名づけたのであって、「正篇」巻末に載せた神〓の「四聲五音九弄反紐圖」の五音、東方喉聲、西方舌聲、南方齒聲、北方脣聲、中央牙聲の別の如きは、これから來たものである。これに半舌半齒を加へて七音としたのである。その上、脣音に軽重を分ち、舌音に舌頭舌上をわかち、齒音に齒頭と正齒を分つた。また同類の子音の中では、全清次清全濁不清不濁(清濁とも)に分つたのも、また悉曇に得來つたものと考へられる。後、明・清の學者は發聲・送氣・收聲と分つに至った。清末の勞乃宣の「等韻一得」には、戞透轢捺の四類となし、字母に四類ある事、韻に四等あるが如しと説いてゐるが、まだ音の性質を説明し盡さぬ憾みがある。併し、とにかく聲に於ても、段々とその性質が明かになって行ったのである。又、韻についてはこれまで二百六韻を立て、これを統ぶるに平上去入の四聲を以てしたが、これでは異なる韻相互の關係はわからない。又同じ字母で始まる同韻の語でも、實際の發音の同じくないものもある(反切の文字では區別せられてるる)。これ等を明かにする爲めに、開音合音を分ち、又四等を分つた。かやうにして韻書中のあらゆる異音の字を、聲の部分が同じものは同行に、語頭子音以外の部分が全く同じものは同段に収めて音聲表を製作するに至った。韻鏡及び「七音略」がこれであって、何れも四十三枚の圖から成って居る。かやうにして聲及び韻に關する考察が精しくなり、これまでは唯反切の文字で區別せられるばかりであった音の相異が、その音の性質から説明せられるやうになり、從來の主として反切によつたものに對して、自ら別家の學をなすに至った。これを等韻學と稱する。この派の研究は更に一歩を進めて、諸韻をその發音の大部分の類似によつて概括し、これを十六類に統括するに至った。これを十六通攝といふ。元の劉鑑の「切韻指南」に見えて、以後、踏襲せられたものである(「切韻指掌圖」にも見えるが、これは僞書といふ論がある)、宋元に於ては開合を分ち、これに各四等ありとしたのであるが、その四等は母音の高低の差で、一等より四等に至り、次第に高くなったもののやうである(高元氏國音學の説による)。然るに明・清等に至ると、四等の中に併合が行はれ、その標準がかはって母音を發する時の脣の運動によることゝなり、潘來の類音に至って、開口(脣を自然にひらく)、齊齒(脣を牛にする)、合口(脣を固くして前方で發音するu)、撮口(脣を圓くして後部で發するy)の別をするやうになった。
 〔口語の聲韻の研究〕 以上は隋唐以来の韻書の研究であるが、これ等の音は、時代と共に變じて口語と益々一致しなくなり、たぼ紙上に保存せらるゝのみとなった。口語では、唐・宋が北方に都した爲め、北方音が次第に勢ひを得、途に俗文學にも用ひられるに至ったが、これは詩韻とは違った點が多い。そこでこれに關する研究が起つた。宋・元の際に起つた北曲の韻書として作られた元の周徳清の「中原音韻」がその初めであって、これは平聲を陰陽二切に分ち(今の上平、下平にあたる)入聲は語尾音を失ったので、その實際の發音の儘に平上去に分ち収め、韻を総て十九部に分つた。明の樂韶鳳等の「洪武正韻」もまた北方音に依って、二百六韻を七十六韻とし、平上去の三聲を合せて二十二切とした。明の蘭廷秀の「韻略易通」も二十部とし、大體「中原音韻」の體である。以上の諸書も、なほ幾分か舊來の韻書の説に引かれて、當時存在しなかった語尾のmnの別を存したなどの事があったが、畢拱辰の「韻略匯通」に至ってはこれ等を除いて十六部とした。清の樊騰鳳の「五方元音」に至っては途に十二部とした。また語頭音も三十六字母が實際の發音に適しない故、蘭廷秀の「韻略易通」、及び清の樊騰鳳の「五方元音」に至っては、これを二十種とした。かやうにして近世口語の音聲の研究も追々進歩して行ったのである。
 〔清代の古韻研究〕 清以來、古韻の學が盛んに起つた。周・秦・漢の古書に於ける音が、隋・唐以來の韻書の音と同じくないことは、その押韻を見て知られるが、魏・晉以來、韻學が漸く起つた時代に、古代の韻の當時のものと一致しないものがあれば、協句・協韻・合韻などと論明した。下って宋代に顧亭林が古韻に注意し、又鄭庠が「古音辨」を作って古韻の分類を試みたが、陸法言の韻を併合したに過ぎなかった。その後は叶韻として解釋する説が有力であった。清代に入って、陳弟がまづ第一に叶韻というのは、實は古人の本音である事を論じたが、顧炎武に至って、秦・漢以上の押韻の實例と論文の諧聲字とから歸細して唐韻の分類に關係なく、古韻の通用するものと否とを分って、始めて古韻に十部及び入聲四部の區別ある事を論斷した。それより、江永(古韻標準)・段玉裁(六書音韻表)・戴震(聲類表)・孔廣森(詩聲類)・嚴可均(説文聲類)・江有浩(江氏音學十書)・王念孫(經義述聞)等の學者が、諸種の資料から討究し、顧氏の説を増損して種々の部類を立て、陽聲(韻の終りに子音あるもの)、陰聲(韻が母音で終るもの)との相對を考へるなど研究は次第に詳しくなった。併し古代語の聲、即ち語頭の子音に至っては、始めは古今の相違に注意するものがなかったが、錢大听に至って、魏・晉・南北朝の人の反切を「廣韻」と比較し、古は舌上音の知徹澄の三母は舌端音の端透定の三母と區別なく、輕唇音の非・敷・奉・微の四母は重唇音の幇・滂・並・明の四母と區別がない事を發見し、古は以上の七母がなかった事を明かにした。近く章炳麟は、舌上音の娘母、半舌半齒の日母は古く舌頭の泥母に入ってゐた事、牙音の喩母が古くは影母に入り、齒頭音の精清從心邪は、正齒音の照穿牀審禪に入ってゐた事を明かにした(小學略説組目表)。黄侃は「廣韻」を新しい見方で研究して以上錢・章二氏の説を證明した。但し、齒頭音と正齒音とでは、章氏と違って齒頭音があって正齒音がなかった事を明かにし、その上、喉聲に于なく、牙聲に聖母なく、齒聲に莊初牀山斜がない事を見出した。又、黄氏は韻に於ても、廿八部(陰聲八・陽聲十・入聲十)説に到達した(丘目路"。この聲母十九部、韻母廿八部が今日に於ては定説となった。又、研究は單に古韻のみでなく、「廣韻」にまでも及んだが、「廣韻」の反切の字から「廣韻」は聲に四十一類、韻に三百十一類ある事を明かにした陳澧の「切韻考」の如きは、最も出色の著である。
 〔現代〕 以上の如く,支那の韻學は次第に進歩して來たが、近年西洋の音聲學が輸入せられ、他方國語統一の爲めに、注音字母を制定し、民国七年教育部から頒布し、發音を示す文字として次第に廉く用ひられるやうになったので、音聲に就てはこの注音字母を用ひ、韻の如きも音素に分解して、音聲學の所論に從って論明しようとするに至り、各時代の音の性質もよほど科學的に明瞭にせられて來たのであって、今後この方面の研究はいよ/\進歩するであらう。

 【日本に於ける韻學】〔平安朝まで〕 支那と直接交通するやうになった推古朝以來、奈良朝・平安朝にかけて、漢學が甚だ盛であって、詩文を作るものも多く、字書や韻書の類も輸入し使用せられたのであって、從って當時は、韻や四聲や韻の分類や反切などについて、十分の知識をもつて居た事が推測せられる。その時代に日本人の作った音義の類や字書の類は,皆反切を以て音を示して居り、又「東宮切韻」三十卷(菅原是善作)の如き、韻で引く字書も作られた。又支那の影響を受けて作詩作文の上にも音聲の事に重きをおいたので、空海の「文鏡秘府論」や、某氏の「作文大體」等にも、その方面の事が論ぜられてるる。平安朝初期には入唐した僧侶が、密教と共に梵字梵語(所謂悉曇)の學を傳へたのであるが、梵語の發音を説明するに當っては、漢字を用ひ、漢字音を基礎とするのが常であったから、この方面の學者が支那の韻學にも精しく、悉曇學の中で韻學が講ぜられるやうになった。安然の「悉曇藏」の如きは,その著しい例である。さうして後には反切の作法の如きも、僧侶の手で攷究せられるに至った。五十音圖も反切の爲めに作られたものと考へられるのであって、明覺の「反音作法」の如きは、この假名による反切法を述べて居り、それが簡便である爲めに廣く行はれたのである。さうして一般には(恐らく漢學者の聞でさへ)漢字の正しい發音が失はれたと考へられる時代になっても、僧侶の問では四聲を正し、字音の語尾のン音に於いてmnの區別のみならす、ngの音までも正しく發音してるたらしい。
 〔鎌倉室町時代〕 唐末の僧禪哄が作った「四聲五音九弄反紐圖」は、反切の爲めに作ったもので、かなり古く我が國に傳はつたが、平安朝末期から鎌倉時代にかけて數種の註釋書が出來た(教導の「九弄圖私記」、信範の「九弄十紐圖私釋」、敏遍の「九弄十紐圖聞書」、及び「九弄圖見聞」など)。鎌倉時代に韻鏡(指微韻鑑)の刊本(張麟之刊)が傳はつたが、明了房信範が始めてこれに訓點を附けた。これは南北朝頃から用ひられ(呆寶の「悉曇創學鈔」に引用せられてるる)、その序例(張麟之の記したもの)の注釋が出來た(「韻鏡字相傳口授」、「指微韻鏡私抄略」、印融の「韻鏡抄」など)。韻鏡は元來支那の音聲表であるが、序例にはこれを反切に關係させて説明し、反切の種々の方法(門法)に就て説いて居るのであって、我が國の註釋書も、やはり反切を主として説いて居る。反切は我が國では五十音圖に關係させて誘いて居り、又韻鏡自身の組織が、五十音圖と同じく、初の子音の同じものは同じ段においてあるのであって、兩者相野應する所から、韻鏡も五十音と關係させて説明した。反切に就いては、鎌倉時代に承澄の「反音鈔」が出來、これが後には韻鏡研究と合同したのである。又支那の韻書類も出來るに從って傳はつたが、鎌倉時代には禪僧の往来が盛であって、新しい學問が傳はり、それから室町時代になると、「禮部韻略」「古今韻會擧要」「韻府群玉」などが用ひられ、我が國でも翻刻されるやうになった。さうして我が國では、虎關師錬が新に「聚分韻略」を作って、同韻の文字を更に意味によって分類して檢索に便にした爲め、世に行はれ、後、文明年中、平上去三聲の韻を三段に上下にかさね、同音異聲のものを同處にあつめたので、更に便利になり、益々弘く行はれて屡々版を重ねた。
 〔江戸時代〕 この時代に於てもまた韻鏡が盛に行はれたのであって、慶長頃に覆刻せられたのを初めとして、寛永五年には、初に五十音圖を添へたものが刊行せられ、その後も度々刊刻せられたが、註釋書の類も甚だ多く作られた。「韻鏡切要鈔」一卷(寛永三年刊)は恐らくその最初のものであらうが、これはまだ大體に於て前代のものを承けたのであるが、「切韻指掌圖」を以て韻鏡を訂正してゐる。宥朔の「韻鏡開奩」(寛永四年刊)は、韻鏡に関する種々の問題に觸れ、やゝ研究書としての體を具へてるるのであって、後の諸註書の根源となった。これは反切の正證に備へん爲め、「廣韻」及び「切韻指掌圖」によつて韻鏡を訂したもので、反切の具とする立場から韻鏡を批判したものである。更に反切の門法として十二種を立て、これを詳細に説明してゐる。又人名の文字を反切する事に就ても説いて居る。なほ引續いて澤山の謹書が出たが、多くはこれ等の説を敷衍したもので、研究として見るべきものは殆どない。偶々異なったものがあっても、益々邪路に迷ふばかりで、人名年號などを反切して吉凶をトふまでになったのである。偶々河野通清の「韻鑑古義標註」二卷「同補遺」一卷及び「改點韻鑑」一卷は、時流を脱した著であって、音聲には時代による差異があるので、從來の如く、韻鏡の一圖に於て新舊の音を同一ならしめようとするのは不合理であるとし、人名の反切を韻鏡について云ふのは無益であると斷じてるる。然るに僧文雄の「磨光韻鏡」が出るに及んで、韻鏡研究は一時期を劃するに至った。文雄は、唐音(當時の支那語の發音)に通じてゐたが、唐音の音の區別が、韻鏡に於ける音の區別と一致するのを見て、韻鏡は音韻の譜、即ち音圖であって、音韻を正す爲めのものである事を始めて明かにし、反切の爲めのものとする従来の説の誤を訂し、且つ圖中の文字に一々漢音呉音唐音を附し、「廣韻」「集韻」等によって反切を註した。その外、後篇、餘論、九弄辨等に於て、韻鏡上の名目や反切その他の問題を縦横に解説し論評した。さうして文雄は韻鏡によって日本の字音の正否をも論じ、漢呉音の性質を考へて唐音を古来の中原の正音とし、漢音呉音共に支那の或る一地方の音であらうとした。文雄の漢呉音の論に對して、本居宣長は、日本の漢字音が、支那の古代の正音を存することを主張した(漢字三音考)。宣長は、字音の假名遣を定める爲めに、萬葉假名として用ひた漢字と韻鏡とを爨照させて、ア行とワ行との別を音の軽重の別とし、これを韻鏡に於ける開合の違ひに宛てたものとし、これによって韻鏡の各圖の開合が諸本に異同あるものの正否を判定し、又漢音と呉音とで開合の攣るもののある事を擧げて、韻鏡は漢音によったものである事を明かにした。かやうに宣長は、韻鏡を以て日本の漢字音の假名遣を定める基礎としたと共に、日本の假名としての漢字の用法からして、韻鏡自身の研究にまで入ったのである。又宣長は、日本の假名遣の研究によって、後世の韻書の誤を訂し得るものある事を主張した。我が國に於ける韻鏡の研究は、太田全齋(方)の「漢呉音圖」(文化十二年刊)に至って、また一露機に臨んだ。全齋は韻鏡は音韻の原である故これに通すべきであるが、我が國では漢呉音を用ひてゐる故、韻圖によつて漢呉両音の國字譯(カナツケ)を檢する事に通曉すれば十分であるとし、それが爲めに、韻鏡の文字の漢呉音を考定して、これを附したものを作って「漢呉音圖」と名づけた。これによって反切法によらずして漢字音を知る事が出來るやうになったのである。韻鏡に假名を附したものは、「磨光韻鏡」があるが、同じ段の假名でも、音によって異なり統一しない所があったが、全齋は全部に亙り統一した組織を求めたのであって、爲めに漢呉音共に、原音・次音の二種を立てて、同字に種々の音のあるものを説明しようと企てた。又や行の假名で始まる字音の韻鏡中に於ける位置が不統一であったのを、影母と喩母との第四等にあるものは常にヤ行であると定めた。字音の終りのンは、日本字音では區別ないものと考へられ、宣長は總てこれをムであるとしたが、全齋はンとムと二種の別があって、韻によって定まるものである事を明かにした。日本でオの假名にあてられた「於」は、韻鏡によれば合音であってヲとなるべき筈である。これは宣長も説明に窮したが、これは「於」の屬する第十一轉を合としたのは誤で、正しくは開とすべきである事を明かにした。右の説の中、原音,次音を立てる事や、影母四等をヤ行と定める事などは甚だ疑はしいが、從來の誤りを訂した處も少くない。これは古今の漢籍に造詣深かった事、唐音や朝鮮に於ける字音にも通じた事と共に、我が國に於ける漢字の用法、殊に假名としての用法についての知識が基礎となって出來たものである。かやうに全齋の研究は、主として日本の漢呉音の爲めの研究で、純粋な支那字音の研究としては、多少傍系に入った感があるが、併し韻鏡自身の研究としても、從來より數歩を進めた事は疑ひない。全齋は日本の字音は日本化したものであるが、大體に於て古代支那音をそのまゝ傳へたものと考へてるるのであるから、漢呉音の標準としてこれを探ったのである。併し日本の字音とても決して單純なものでない。時代により地方によって差異あるべき字音を、總て韻鏡によって律しようとしたのは、當を得たものかどうか疑はしいと言ふべきである。「漢呉音圖」は長所もあるが缺點も少くないものである。その考證が該博であり、また融通がきくところがら、當時及び後の學者に尊信せられて、白井寛蔭・黒川春村・木村正辭などの韻學の基礎となり、これによって字音の候名遣を定め(白井寛蔭の「音韻假名用例」)、古今にわたる種々の異音を説明し(黒川春村の「音韻考證」)、萬葉假名に普通と異なる訓を下す(木村正辭の萬葉集字音辨證)など、その影響が甚大である。
 〔明治以後〕 支那現代語を學ぶに至ったが、その方面では、學問的研究はない。たゞ臺灣において、所謂臺灣語(支那の方言)に接し、その音聲を研究して假名を以てこれを現はすべき方式を総督府で工夫した事(日臺大辭典にこれを用ひた)は注目すべきである。支那古代音に就ては、大島正健氏が韻鏡の研究に力を用ひ、更に支那歴代の音聲の變遷を調査して「支那古韻考」を始め、「韻鏡音韻考」「支那古韻史」等を著はされ、大矢透氏は、日本の假名の研究から、推古時代の假名として用ひた漢字の音が、先秦の音に一致するものがある所から、先秦音を研究して「周代古音考」及び「周代古音徴」を著はし、又漢呉音の研究から、韻鏡を研究して「韻鏡考」を著はされ、滿田新造氏が、支那歴代の文献に於ける押韻・反切・梵語音譯・日本及び朝鮮の字音及びジャイルス氏の「漢英辞典」に載せられた支那諸方言の發音及び各時代の韻書等によって、支那語の音聲典を研究して「支那音韻斷」その他の論文を著はされたのと、石山福治氏が、「中原音韻」を元曲に於ける押韻の實例に比較し、元時代の發音について考證して、「考定中原音韻」を著はされたのが著しいものである。これ等のものは、各時代に於ける實際の發音についても論じてゐるが、概して一般音聲學及び現代支那諸方言の音聲に關する知識がまだ十分でなく、比較研究の效果を十分に収める事が出來ないのを遺憾とする。(韻・韻鏡・漢字音・四聲参照)
 【参考】 中国聲韻學概要 張世祿 
○中国古音學 同上 
○切韻考外篇 陳澧 
○韻鏡経緯 龍督慧雲 
○磨光韻鏡餘篇 文雄

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冨山房国史辞典 岡井慎吾
国史大辞典 藤堂明保・馬淵和夫

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Last-modified: 2022-08-08 (月) 10:03:58