枕草子

岩波文庫 池田亀鑑校訂による


〔一九五〕 ふと心おとりとかするものは、男《をとこ》も女《をんな》もことばの文字《もじ》いやしう遣《つか》ひたるこそ、よろづのことよりまさりてわろけれ。ただ文字《もじ》一つにあやしう、あてにもいやしうもなるは、いかなるにかあらん。さるは、かう思《おも》ふ人、ことにすぐれてもあらじかし。いづれをよしあしと知《し》るにかは。されど、人をば知《し》らじ、ただ心地《  ち》にさおぼゆるなり。
 いやしきこともわろきことも、さと知《し》りながらことさらにいひたるは、あしうもあらず。我がもてつけたるをつつみなくいひたるは、あさましきわざなり。また、さもあるまじき老《お》いたる人、男《をとこ》などの、わざとつくろひひなびたるはにくし。まさなきこともあやしきことも、大人《おとな》なるはまのもなくいひたるを、わかき人はいみじうかたはらいたきことに聞《*き》き入《い》りたるこそ、さるべきことなれ。
 なに事をいひても、「そのことさせんとす」「いはんとす」「なにとせんとす《*》」といふと文字《もじ》をうしなひて、ただ「いはむずる」「里《さと》へいでんずる」などいへば、やがていとわろし。まいて文《ふみ》にかいてはいふべきにもあらず。物語《  がたり》などこそ、あしう書《か》きなしつれば、いふかひなく、作《つく》り人さへいとほしけれ。「ひてつ車《くるま》に」といひし人もありき。「もとむ」といふことを「みとむ」なんどは、みないふめり。
○聞き──きえ(底・勧・陽・弥・静・岸)。きゝ(宮・明・高・富・内)。聞(中)。きこえ(田・古)
○とす──ナシ(底・勧・弥・静)。陽系ニヨリ補ウ。

国文大観


     わろきものは
詞の文字怪しくつかひたるこそあれ、唯文字一つに怪しくも、あてにもいやしくもなるはいかなるにかあらむ。さるはかう思ふ人萬の事に勝れてもえあらじかし。いづれを善き悪しきその事させむとすといはむといふを、と文字をうしなひて「唯言はむずる、里へ出でむずる」などいへば、やがていとわろし。まして文を書きてはいふべきにもあらず。物語こそあしう書きなどすれば、いひがひなくつくり人さへいとほしけれ。「なほす、定本のまゝ」など書きつけたるいとロをし。「ひでつくるまに」などいふ人もありき。もとむといふ事を見むと皆いふめり。いと怪しき事を男などはわざとつくろはで殊更にいふはあしからず。我が詞にもてつけていふが心おとりすることなり。

春曙抄(岩波文庫)池田亀鑑校訂 二四八


悪き物は。詞の文字あやしく使ひたるこそあれ。只文字一つに怪しくも、あてにも、いやしくもなるは、いかなるにかあらん。さるはかう思ふ人、萬の事に勝れてもえあらじかし。いづれを善きあしきとは知るにかあらん。さりとも人を知らじ。たださうち覺ゆるもいふめり。難義の事をいひて、「其事させんとす」「といはん」といふを、と文字をうしなひて、ただ「いはんずる」「里へ出んずる」などいへば、やがていと悪し。まして文を書きてはいふべきにもあらず。物語こそ悪しう書きなどすれば、いひ甲斐なく、作り人さへいとほしけれ。「なほす」「定本のまゝ」など書付たるいと口をし。「ひてつくるまに」などいふ人もありき。もとむといふ事を「見ん」とみないふめり。いとあやしき事を、男などはわざとつくろはで、殊更にいふは悪しからず。我が詞にもてつけていふが、心劣りする事也。
○さるはかう思ふ人よろづの事にすぐれてもえあらじ──詞の文字一つのせんさくもする清少なれども、人の上のみ沙汰して、自らは萬事にすぐれも得せずとの心也。
〇さりとも人をしらじ。たださうちおぼゆるもいふめり──人の上はいふとも、我すぐれずしては、人の上をよくはしらじ。只ふとさやうに打思ふ故、口にまかせていふならんと也。
○其事させんとす、といはんといふを──大事の難義の事をいふとて、其事をさやうにせんとすとも、又は兎いはんなどいふべき事を、と文字をいひ落して、只いはんずるといひ、又は里へいでんずるなどいへば、頓てあらぬ事に成て悪きとなるべし
○まして文を書てはいふべきにもあらず──只詞をいひたがへでも悪きに、まして文を書たがへては、あしとも何ともいふべきにもあらずと也。
○なをす。定本のまゝ──物語の悪く書し所を、直すも口をしく、定本のまゝなど書付たるもいと口をしと也。


トップ   新規 一覧 検索 最終更新   ヘルプ   最終更新のRSS