枕草子
岩波文庫 池田亀鑑校訂による


【二六二】 文《ふみ》ことばなめき人こそいとにくけれ。世《よ》をなのめに書《か》き流《なが》したることばのにくきこそ。さるまじき人のもとに、あまりかしこまりたるも、げにわろきことなり。されど、わが得《え》たらんはことわり、人のもとなるさへにくくこそあれ。
 おほかたさし向《むか》ひてもなめきは、などかくいふらんとかたはらいたし。まいて、よき人などをさ申す者《もの》は、いみじうねたうさへあり。田舍《ゐなか》びたる者《もの》などのさあるは、をこにていとよし。
 をとこ・主《しゆう》などなめくいふ、いとわるし。わが使《つか》ふものなどの「なにとおはする」「のたまふ」などいふ、いとにくし。ここもとに、「侍り」などいふ文字《もじ》をあらせばやと聞《き》くこそ多《おほ》かれ。さもいひつべき者《もの》には、「あな《*》、にげな、愛敬《あいぎやう》な。などかう、このことばはなめき」といへば、聞《き》く人もいはるる人もわらふ。かうおぼゆればにや、「あまり見《み》そす」などいふも、人わろきなるべし。
 殿上人・宰相などを、ただ名《な》のる名をいささかつつましげならずいふは、いとかたはなるを、きようさいはず、女房《  ばう》の局《つぼね》なる人をさへ、「あのおもと」「君」などいへば、めづらかにうれしと思ひて、ほむることぞいみじき。
 殿上人・君たち、御前《おまへ》よりほかにては、官《つかさ》をのみいふ。また、御前《おまへ》にては、おのがどちものをいふとも、きこしめすには、などてか、「まろが」などはいはん。さいはんにかしこく、いはざらんにわろかるべきことかは。
○あなにげな──人けんの(底・三本ミナ)。ナシ(能本)。あなにけな(前本)。

国文大観

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991361/98>
 文ことばなめき人こそいとゞにくけれ。世をなのめに書きなしたる詞のにくきこそ。さるまじき人のもとにあまりかしこまりたるも、げにわろきことぞ。されど我がえたらむはことわり、人のもとなるさへにくゝこそあれ。大かたさし向ひてもなめきはなどかくいふらむとかたはらいたし。ましてよき人などをさ申すものは、さるはをこにていとにくし。男すうなどわろくいふいとわろし。我がつかふものなど、おはする、のたまふなどいひたるいとにくし。こゝもとに、侍るといふもじをあらせばやと聞くことこそ多かめれ。あいぎやうなくと詞しなめきなどいへば、いはるゝ人も聞く人も笑ふ。かく覺ゆればにや、あまり嘲弄するなどいはるゝまで、ある人もわろきなるべし。殿上人宰相などを唯なのる名をいさゝかつゝましげならずいふは、いとかたはなるを、げによくさいはず。女房の局なる人をさへ、あのおもと君などいへば、めづらかに嬉しと思ひてほむる事ぞいみじき。殿上人きんだちを御まへよりはかにてはつかさをいふ。又御前にて物をいふとも、きこしめさむにはなどてかは、まろがなどいはむ。さいはざらむにくし。かくいはむにわろかるべき事かは。

新大系243
旧全集27
新全集244


トップ   新規 一覧 検索 最終更新   ヘルプ   最終更新のRSS