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『言語生活』33
1954.6
pp.34-36


匿名(「U」とある)で、発表以後50年経過しているため、著作権ぎれであると考えられる。




文芸作品の関西弁
 京言葉の出てくる文芸作品となるとずいぶん多かろうと思うが、京都生れの作家がほとんどいないので、京都の地言葉はあまり見当らず、旅人の耳を捕えるのは何といっても祇園あたりの女言葉であるらしく、文芸作品でもそれが中心になっている。
 高浜虚子の『風流懺法』(岩波文庫)は明治末期の祇園ことばを写していて、この種のものでは一番古いかと思われる。現在でも祇園あたりは商略的に古い言葉を意識して使う傾向が強く、虚子の作品の言葉とさぼど変ってはいないが語彙や語法に古さが見える。
 これに続いて最も有名な長田幹彦の「祇園夜話」(明治大正文学全集)で代表される「祇園」ものがある。祇園夜話は明治四五年から大正四年までの作で、虚子のと年代の開きは一〇年そこそこである。この作の祇園言葉は実に生々としたしかも色彩の濃いもので、まず文芸作品の京言葉の代表といってよかろう。
 [[高浜虚子]]の『風流懺法』(岩波文庫)は明治末期の祇園ことばを写していて、この種のものでは一番古いかと思われる。現在でも祇園あたりは商略的に古い言葉を意識して使う傾向が強く、虚子の作品の言葉とさぼど変ってはいないが語彙や語法に古さが見える。
 これに続いて最も有名な[[長田幹彦]]の「祇園夜話」(明治大正文学全集)で代表される「祇園」ものがある。祇園夜話は明治四五年から大正四年までの作で、虚子のと年代の開きは一〇年そこそこである。この作の祇園言葉は実に生々としたしかも色彩の濃いもので、まず文芸作品の京言葉の代表といってよかろう。
 しかし戦後の作『祇園のお雪』(昭二三年、滝書店)などを見ると、幹彦の京言葉もそろそろ怪しくなって来た。同じ祇園あたりの言葉を写した作には、終戦直後に出た[[渡辺均]]の『鴨川夜話』『祇園』(共に昭二二年、三島書房)がある。執筆の年は分らないが、おそらく昭和になってからと思われるので、虚子・幹彦・均とならべると、作品としての価値はともかくとして、明治・大正・昭和三代にわたる祇園の京言葉がうかがわれるわけで、変化はそう激しくはないが、やはり多少の違いは見られる。谷崎潤一郎の『蓼喰ふ虫』(各文庫)その他の京言葉も大体この系統に入るが、助手を使って訳したといわれるだけあって、かなり正確である。
 正確といえば、昨年でた井上甚之助の「佐多女聞書」(創元社)がある。先代[[井上八千代]]の日露戦争以来の秘話を口述筆記したもので、内容、言葉ともに興深い。
 正確といえば、昨年でた[[井上甚之助]]の「佐多女聞書」(創元社)がある。先代[[井上八千代]]の日露戦争以来の秘話を口述筆記したもので、内容、言葉ともに興深い。
 京都の地言葉は、婦人の場合は祇園あたりとさほど変りはないが、男言葉は文芸作品にはあまり見当らず、高倉テルの「坂」などに出て来る。これは大正末期の作である。[[加賀耿二]]の清水焼工場を扱った小説その他に見えるのは勤勞階層の敬語抜きの男言葉で、生彩のある簡潔さが面白いが、京都近郊の農民の言葉と変りがない。この二人の作家がともに共産党から代議士に出たのも興味がある。
 [[九条武子]]に「八瀬の秋」とかいう戯曲があったが、いくら探し廻っても見当らないので、どんな言葉であったかを書けないのは殘念である(([[九条武子「洛北の秋」]]であろう。))。織田作之助の『それでも私は行く』は終戦直後の京都を扱った作だが、この京言葉には時々大阪弁がまじったり、とんでもないミスがあったりする。幹彦の『天皇』第二部(昭二四年、光文社)には幕末の京言葉が出て来るが、公家詞が二つ三つ現れる以外はだいたい京都の地言葉と見てよい。第一部には公家詞の流れをくむ宮廷語がかなり出ている。
 戯曲では、[[田口竹男]]がひとり気をはいていて『賢女気質』(世界文学社)の数篇に現れる言葉は信用できる現代京言葉である。新国劇で上演され映画にもなった北条秀司の『ぼんぼん』は、舞台は中《なか》京だが、多少大阪弁くさいところがある。
 戯曲では、[[田口竹男]]がひとり気をはいていて『賢女気質』(世界文学社)の数篇に現れる言葉は信用できる現代京言葉である。新国劇で上演され映画にもなった[[北条秀司]]の『ぼんぼん』は、舞台は中《なか》京だが、多少大阪弁くさいところがある。
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 大阪からは作家も多く出ているし、大阪弁を扱った作品は京言葉のものに比べてずっと多い。高浜虚子の「大内旅館」(明治四〇年)など古い方だろう。岩野泡鳴の「ぼんち」(明治四五年)も明治末期の大阪弁を出しているが、淡路生れだけに時々変てこな文句が出て来る。この時代の大阪弁では上司小剣の『鱧《はも》の皮』(岩波文庫)「妾《てかけ》垣」(大正三年頃)などが代表的で、大阪の島之内あたりを背景に、そこの庶民的大阪弁を写している((村上謙「明治大正期関西弁資料としての上司小剣作品群の紹介」))。大阪育ちの宇野浩二が「大阪の庶民のつかふ大阪の言葉を巧みにこなしてゐる」点では「小剣の右に出づるものはない」(岩波文庫の解説)といっている。しかし小剣も生れは奈良で、育ちは摂津だから、「父の婚礼」「天満宮」などには摂津あたりの言葉が出て来る。大阪弁と大差はないが、細かな点が少し違う。大正初年の大阪弁は、関東生れの水上滝太郎の『大阪』『大阪の宿』(新潮文庫)にもふんだんに現れる。だいたい一般的な大阪弁を手際よく写しているが(大阪弁についての助言者があった由)、どうしても類型的になるのはやむを得ないだろう。
 宇野浩二の『楽世家達』(昭一四年、小山書店)の大阪弁は、織田作之助が「大阪弁の魅力が溌剌と住かされた例」として感嘆している。(『可能性の文学』)。たしかに生々とした対話の妙が写されている。浩二は生れは大阪ではないが、大阪育ちで、大阪弁の作品も多い。中でも「長い恋中」は大阪生れの男が自分の恋物語を大阪弁で語る一人称小説で、これは大正初期の大阪の男言葉の代表と見てよかろう。それに対して、東京生れの谷崎潤一郎の『まんじ』(岩波文庫)に写されているのが同じ大正初期のインテリ若奥様の大阪弁で、これもまた一人称小説だが、長編である。この作は谷崎氏が口述する東京語を、大阪生れで府立女専卒業の助手がその場で大阪弁に訳し、それを谷崎氏が筆記されたものだという。その助手の一人から聞いた所、筆記の際の修正は全篇で二カ所に過ぎなかったという。しかも当時の学生の用語をそのままにとの注文だったそうで、よほど標準語化された大阪弁になっている。織田作之助が「実に念入りに大阪弁の特徴を生かさうとしてゐるし、ことに大阪の女の言葉の音楽的なリズムの美しさはかなり生かされてゐ」るが「隅から隅まで大阪弁的でありたいといふ努力が、かへって大阪弁のリアリティを失ってゐるやうに思はれる」と評したのは、訳した助手の気持の反映だと思われて実に適評だ。大正初年の大阪弁といえば、東京生れの里見弴の「母と子」その他大正初年の作にも、分量は少いが、正確な大阪弁が見られる。
 大阪生れの作家藤沢桓夫《たけお》にもやはり一人称小説「茶人」(昭一二年)がある。これは大きな商家の御隠居と思われる老婦人の大阪弁で書かれていて、船場言葉調ではあるが、その特徴はあまりよく現れてはいない。同じ作者の作品には大阪弁がよく出て来るが、例えば『大阪』(昭一二年、中央公論社)『大阪五人娘』『大阪千一夜』(昭二二年、明星社)などには現代大阪弁がよく写されている。同じく大阪生れの[[長沖一]]《まこと》の『大阪の女』(昭二二年、白鯨書房)にも、芸人・学生・会社員など色々の階層の現代大阪弁がふんだんに示されている。ただ、大阪生れの作家でも、多少読みやすく修正されている点、作中人物に応じて言葉が使い分けられている点など注意すべきだろう。
 織田作之助の『夫婦善哉』その他の大阪弁は、宇野浩二が「大阪の庶民のつかふ大阪の言葉をもつとも巧みにこなしてゐるのは、私のせまい読書の範囲で知るかぎり、では、織田作之助であったけれど、そこに織田の好みがはいってゐたのが疵であった」と述べている通りであるが、正確には北河内郡の生れであるから、市内出身の作家にいわせると河内弁臭が抜け切らぬ点があるという。現に『船場の娘』(昭二二年、コバルト社)では、その船場の娘に島之内言葉の、しかもかなり下品なのを使わせている。しかし宇野浩二と織田作之助とはいかにも大阪弁らしい大阪弁を使いこなした点で両大関といつてよかろう。
 大阪からは作家も多く出ているし、大阪弁を扱った作品は京言葉のものに比べてずっと多い。高浜虚子の「大内旅館」(明治四〇年)など古い方だろう。[[岩野泡鳴]]の「ぼんち」(明治四五年)も明治末期の大阪弁を出しているが、淡路生れだけに時々変てこな文句が出て来る。この時代の大阪弁では[[上司小剣]]の『鱧《はも》の皮』(岩波文庫)「妾《てかけ》垣」(大正三年頃)などが代表的で、大阪の島之内あたりを背景に、そこの庶民的大阪弁を写している(([[村上謙「明治大正期関西弁資料としての上司小剣作品群の紹介」]]))。大阪育ちの[[宇野浩二]]が「大阪の庶民のつかふ大阪の言葉を巧みにこなしてゐる」点では「小剣の右に出づるものはない」(岩波文庫の解説)といっている。しかし小剣も生れは奈良で、育ちは摂津だから、「父の婚礼」「天満宮」などには摂津あたりの言葉が出て来る。大阪弁と大差はないが、細かな点が少し違う。大正初年の大阪弁は、関東生れの[[水上滝太郎]]の『大阪』『大阪の宿』(新潮文庫)にもふんだんに現れる。だいたい一般的な大阪弁を手際よく写しているが(大阪弁についての助言者があった由)、どうしても類型的になるのはやむを得ないだろう。
 宇野浩二の『楽世家達』(昭一四年、小山書店)の大阪弁は、織田作之助が「大阪弁の魅力が溌剌と住かされた例」として感嘆している。(『可能性の文学』)。たしかに生々とした対話の妙が写されている。浩二は生れは大阪ではないが、大阪育ちで、大阪弁の作品も多い。中でも「長い恋中」は大阪生れの男が自分の恋物語を大阪弁で語る一人称小説で、これは大正初期の大阪の男言葉の代表と見てよかろう。それに対して、東京生れの[[谷崎潤一郎]]の[[『まんじ』>谷崎潤一郎「卍」]](岩波文庫)に写されているのが同じ大正初期のインテリ若奥様の大阪弁で、これもまた一人称小説だが、長編である。この作は谷崎氏が口述する東京語を、大阪生れで府立女専卒業の助手がその場で大阪弁に訳し、それを谷崎氏が筆記されたものだという。その助手の一人から聞いた所、筆記の際の修正は全篇で二カ所に過ぎなかったという。しかも当時の学生の用語をそのままにとの注文だったそうで、よほど標準語化された大阪弁になっている。織田作之助が「実に念入りに大阪弁の特徴を生かさうとしてゐるし、ことに大阪の女の言葉の音楽的なリズムの美しさはかなり生かされてゐ」るが「隅から隅まで大阪弁的でありたいといふ努力が、かへって大阪弁のリアリティを失ってゐるやうに思はれる」と評したのは、訳した助手の気持の反映だと思われて実に適評だ。大正初年の大阪弁といえば、東京生れの[[里見弴]]の「母と子」その他大正初年の作にも、分量は少いが、正確な大阪弁が見られる。
 大阪生れの作家[[藤沢桓夫]]《たけお》にもやはり一人称小説「茶人」(昭一二年)がある。これは大きな商家の御隠居と思われる老婦人の大阪弁で書かれていて、船場言葉調ではあるが、その特徴はあまりよく現れてはいない。同じ作者の作品には大阪弁がよく出て来るが、例えば『大阪』(昭一二年、中央公論社)『大阪五人娘』『大阪千一夜』(昭二二年、明星社)などには現代大阪弁がよく写されている。同じく大阪生れの[[長沖一]]《まこと》の『大阪の女』(昭二二年、白鯨書房)にも、芸人・学生・会社員など色々の階層の現代大阪弁がふんだんに示されている。ただ、大阪生れの作家でも、多少読みやすく修正されている点、作中人物に応じて言葉が使い分けられている点など注意すべきだろう。
 [[織田作之助]]の『夫婦善哉』その他の大阪弁は、宇野浩二が「大阪の庶民のつかふ大阪の言葉をもつとも巧みにこなしてゐるのは、私のせまい読書の範囲で知るかぎり、では、織田作之助であったけれど、そこに織田の好みがはいってゐたのが疵であった」と述べている通りであるが、正確には北河内郡の生れであるから、市内出身の作家にいわせると河内弁臭が抜け切らぬ点があるという。現に『船場の娘』(昭二二年、コバルト社)では、その船場の娘に島之内言葉の、しかもかなり下品なのを使わせている。しかし宇野浩二と織田作之助とはいかにも大阪弁らしい大阪弁を使いこなした点で両大関といつてよかろう。
 [[長谷川幸延]]の諸作に出て来るのもやはりこの種の大阪弁であるが、これは生え抜きの大阪弁である。谷崎潤一郎の『猫と庄造と二人のをんな』(新潮文庫)の大阪弁はよほど庶民的ではあるが、だいたい中流の言葉と見てよかろう。文芸とはいえないが五郎劇や松竹家庭劇の脚本が庶民的大阪弁の代表だろう。笑福亭松鶴の『大阪落語名作選』も同じく参考になる。
 船場言葉は『細雪』上巻、二二に出てくる「富永の叔母ちゃん」が使う。これは純粋の船場言葉の文芸作品に現れた唯一の例でもあり、船場言葉の唯一の文献かと思われる。前に述べた藤沢桓夫の「茶人」も多少船場的であるが、[[石丸梧平]]の『船場のぼんち』は、作者が大阪に十年住んだというだけだから、船場言葉の見本にはならない。『細雪』の大阪弁は、たしかに船場言葉の流れをくんだものではあるが、芦屋あたりの阪神別荘地帯の有閑婦人用語に変質している。これが大阪上流婦人の言葉の主流をなすもので、織田作之助は「大阪弁と神戸弁の合の子のやうな言葉」といっているが、相当な家庭の娘など雪子や幸子と似た言葉を使っているのが多い。神戸弁というのはおそらく宝塚歌劇発足当時の「ヅカ言葉」の影響を指すと考えられる。横光利一の『家族会議』(創元選書)の大阪弁などもこの系統かと思われる。
 川端康成の「十六才の日記」(創元選書)には茨木市附近の大阪弁が記録されているし、宇野浩二の「枯木の夢」((宇野浩二「枯野の夢」か。宇野浩二「枯木のある風景」もある。))には大和に近い大阪弁が、同じく「人間同志」には岸和田あたりの大阪弁が出ている。新しいところでは野間宏の『真空地帯』があるが、これもわずかに神戸の臭いがする。
 船場言葉は[[『細雪』>谷崎潤一郎「細雪」]]上巻、二二に出てくる「富永の叔母ちゃん」が使う。これは純粋の船場言葉の文芸作品に現れた唯一の例でもあり、船場言葉の唯一の文献かと思われる。前に述べた藤沢桓夫の「茶人」も多少船場的であるが、[[石丸梧平]]の『船場のぼんち』は、作者が大阪に十年住んだというだけだから、船場言葉の見本にはならない。『細雪』の大阪弁は、たしかに船場言葉の流れをくんだものではあるが、芦屋あたりの阪神別荘地帯の有閑婦人用語に変質している。これが大阪上流婦人の言葉の主流をなすもので、織田作之助は「大阪弁と神戸弁の合の子のやうな言葉」といっているが、相当な家庭の娘など雪子や幸子と似た言葉を使っているのが多い。神戸弁というのはおそらく宝塚歌劇発足当時の「ヅカ言葉」の影響を指すと考えられる。横光利一の『家族会議』(創元選書)の大阪弁などもこの系統かと思われる。
 [[川端康成]]の「十六才の日記」(創元選書)には茨木市附近の大阪弁が記録されているし、宇野浩二の「枯木の夢」(([[宇野浩二「枯野の夢」]]か。[[宇野浩二「枯木のある風景」]]もある。))には大和に近い大阪弁が、同じく「人間同志」には岸和田あたりの大阪弁が出ている。新しいところでは[[野間宏]]の『真空地帯』があるが、これもわずかに神戸の臭いがする。
 神戸言葉の作品はあまり聞かないし、近畿方言では[[阪中正夫]]の戯曲『馬』に和歌山県那賀郡安楽川《あらかわ》村の方言が使われているくらいだろうと思う。
 これらの作品が方言研究の資料になるかどうか、それを付記しておこう。だいたい、全く違った土地の作家(長田・谷崎・水上など)の関西弁は助手や助言者があって信用できるが、多少紋切り型になる傾向がある。生え抜きの作家でも、文芸作品である以上読者の理解を考慮して読みやすく修正したり、無意識に標準的に書いたりすることもあるから、現実の方言の方がよほどくずれた形になっている場合が多い。しかし時には音声学的表記に近く写されることもあって、その場合には他の土地の研究者には音韻論的解釈が困難となる。また表記法が作者によってまちまちであり、同じ作者でも語によつて違う場合もある。拗音や長音の表記には不備があって誤解のもととなる心配もある。更に誤植がある。特に東京で印刷されると誤植はどうもやむを得ないものらしい。最も困るのは郡部生れの作家が市内の言葉を写すといった場合で、差が微妙であるだけに、どうしても生れた土地の癖が無意識に出てくる。
 結局、方言資料として利用するためには、生え抜きの人の指導を受けねばならないということになるだろうし、更に厳密にいえば、研究者自身の生え抜きの土地の方言でなければ研究できないということになるだろう。(U)



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