#author("2021-03-12T23:50:26+09:00","default:kuzan","kuzan")
#author("2022-07-30T12:22:01+09:00","default:kuzan","kuzan")
>>
大日本國語辭典 五冊
 [[上田萬年]]・[[松井簡治]]共著である。刊行は大正四年に初まり八年末完了。昭和二十四年修正版刊行。所收の語彙は[[固有名詞]]は除き一般日本語・[[學術語]]・[[外來語]]・東京附近の[[方言]]・[[熟語]]・[[俚諺]]・[[格言]]等二十餘萬、その編纂組織は略「[[言海]]」と同じである。しかしその「[[出典]]」及び「[[圖解]]」を加へたことは「[[言海]]」の缺を補ふもので、その「[[語源]]」の缺けたるは[[辭書]]として一大缺點であるが、本書の價値はその組織の點でなくて[[語彙]]の豊富なると[[解釋]]の詳細な點とにある。その語彙は[[奈良平安朝]]期のものは殆んど網羅して餘さない。只[[鎌倉期]]以後のものが間々漏れてゐることは「[[語源]]」の除かれたる事と共に現在[[國語辭典]]の最高權威たる本書として惜しむべき缺点であり將來の[[辭典]]編纂者に遺された問題である。
(亀田次郎「国語学書目解題」)
<<

http://www.let.osaka-u.ac.jp/~okajima/PDF/dainihonkokugojiten/
http://opac.ndl.go.jp/recordid/000000761685/jpn
http://opac.ndl.go.jp/recordid/000000700861/jpn

>>
修訂版及び増補巻の刊行に就いて
 大日本國語辞典の稿本の完成したのは、明治の末年であった。それを愈々印刷に附し、第一巻を公刊したのは大正四年で、以下第二・第三・第四と逐次刊行を終つた。其の當時、自分の考へでは、此の後、何人が同様の編纂を思ひ立たれても、自分の経験から推せば、尠くとも十年以上の歳月を要するであらう。従って其間多少なりとも、斯界の参考になれば、本辞典刊行の使命は達せられたと。
 爾來、今日まで二十餘年、我が國、學術界の進展は著しく、各種の百科辞典の刊行があり、専門に渉る特種の辞典が多數、世に提供された。然しながら一般國語辞書は、僅かに数種の刊行を見たに過ぎない。固より其の中には相當見るべきものもないではないが、多くは本辞典に採録した語彙を基礎として、多少の加除修正を施したに過ぎないと言っても、誣言ではないと思ふ。根本的に多數の典籍から語彙を蒐集し、整理するといふ基礎的作業に努力されたと見るべきものは、殆ど見當らない。
 大槻文彦博士は斯界の権威であり、一先覺者であることは言を俟たない。博士が大正の始めより古稀に近き高齢にも拘らず、言海を増訂して大言海の編纂を企圖された事を聞き、自分は大いにそれに期待したのであったが、令兄大槻如電翁の序文にも記された如く、不幸にして「ア・カ・サ」の三行を完成しただけで、中途、長逝された事は惜しみても餘りある事である。
 自分は七八年前、老齢の故を以て致仕したが、幸に健康であるから、老骨を捧げて國家のため何事か寄與しようと決意した。それには多年、手馴れた仕事でもあり、前述の如く本辞典出版後の國語辞書界の現状に鑑みて、本辞典を修訂増補して完成を期する事が、最適の事業であると考へた。本辞典刊行後、各方面より過褒の辞を寄せられると共に、缺陥に就いて示教を受けた事も一二に止まらない。又其後の國語學界の研究進歩により、訂正を要する箇所も相當發見したので、彼此参照して修訂を行ふ事にした。
 又、本辞典の凡例に述べた通り、編纂當時、豫備事業として、上古・中古・近世に渉り、主要な典籍中から語彙を拾集して、五十音索引を作ったが、江戸時代は餘り多數な書であるから、已むを得ず十數種を選擇するに止めた。これは自分として最も遺憾に思ってゐた點である。それで今回は主として、この方面の語彙集録を目標とし、別冊の増補を行ふ事にした。
 如上の修訂及び増補の事業は、獨力で短日月の間に完成する事は容易なことではない。然るに幸にも實弟吉見謹三郎が、自分を助けて編纂に校正に終始努力し、事業の遂行に當ってくれたので、印刷技術上、煩瑣な整理を要する修訂版の完成、及び七八萬の新語彙の蒐集、原據の掲出、並に解説を施した増補巻を、ほゞ脱稿する事を得た。猶この増補の卷中には、最近、日支事變以來、新聞に雑誌に簇出した幾多の新語中、永久性ありと認めたものをも收録する事にした。固より是等の語は何分にも多數であるから、遺漏は免れまいと思ふ。
 本辞典に寄せられた芳賀博士の序文に、進歩して行く世間には、國語そのものの中にも絶えず變遷が行はれて居るとあるが、特に法律語、又は官制の如きは、之の二十餘年間に甚しい變化が認められる。それを本編中で一々訂正するのは、却つて混雑を來たす恐れもあるから、修訂版は大體、舊版のまゝにし、其後、著しく變遷したものだけを増補卷中に掲出し、猶ほ追加の語彙も、悉く其れに収録することにした。
 本辞典は上田博士との合著ではあるが、同博士は當時、頗る多忙の身であられたから殆ど一回の閲覧をも請ふことが出來なかつた。故に本辞典に誤謬・缺陷があれば、全く自分一人の疎漏で、博士の責任ではない。然し書肆との交渉、其の他に就いて、博士は絶えず斡旋の勞を執られたのであるから、博士なかりせば、或ひは本辞典の刊行其ものも出來なかつたかも知れない。博士が本修訂版、並に別卷増補の刊行を見るに及ばずして、一昨年、逝去せられたことは、自分として最も遺憾に思ふのである。
 芳賀博士は本辞典の編纂に就き、終始、同情を寄せられた事は、同博士の序文に見える通りである。今や博士は墓木已に拱なりといふべき、歿後十三年になつた。
 又、本辞典新刊の當時、特に厚意を寄せ、序文を認められた三上参次・服部宇之吉両博士、並に刊行に發賣に心を砕かれた富山房社長坂本嘉治馬君、何れももはや此の世の人ではない。自分も既に喜字の老齢に達した。指折り數へれば、本辞典編纂着手當初から、四十餘年になる。往時を追懐し、刊行新に成った机上の修訂本を撫して、無量の感に堪へない。
    昭和十四年九月
                        松井簡治識

<<

>>
凡例
一 本書に收めたる語彙
一 本書には上古語・中古語・近古語・近代語.現代語其の他普通の學術専門語、及び外來語の通用語となれるものは悉く之を收めたり。漢語の國文學の上に表はれたるものも廣く之を収拾して讀書の便に供せり。方言は古書の上に表はれたるもの、及び現在東京京都地方に行はれたるもののみを取り、諸國のは、他日別に方言辞書編纂の時を期し、今は之を省きたり。
一 地名・人名・書名等の固有名詞は一切之を取らず。但し傳説に基きたる神佛の名稱のみ之を收めたり。
一 熟語は熟して一義をなせるものを主とし、又はるかぜ(春風)・あきやま(秋山)の如き、秋・山、又春・風と別別にいふ時と、熟していふとは自然の音調も異なれば、其等をも熟語として收めたり。
一 句は首部の語下に收めたり。あめのあし(雨脚)は雨の下に、かんばのらう(汗馬勞)は、かんば(汗馬)の 下に收めたるが如し。但し以心傳心・神出鬼没の如く、實際は句なれども熟して一語をなしたるものは首部に掲げ、句として之を出せり。又一粒萬倍・一唱三嘆の如く、一粒又は一唱等、首部に掲出すべき語なきものも亦然り。
一 古今の書に見えたる成句及び俚諺・格言等は最も多く収拾し、之を首部の語下に收めて解釋及び出典を擧げたり。


二 語彙の蒐集につきて本書の取りたる方法
一 本書編纂の初めに當り、重なる國書數百部を撰びて語句の五十音索引を作り、古來用ひ來りたる國語の大数を知りて語彙の遺漏なきを期せり。又其れに據りて語釋の確にして誤謬なからんことを圖り、且つ其れに基きて出典を掲げ、所謂孫引なるものを避けたり。
一 現代語は新聞・雑誌につきて蒐集し、相場表の特殊語に至るまで悉く之を收めたり。然れども、近來新語は日に月に續出して底止するところを知らず、悉く之を網羅して一の脱漏なきを期せんこと、固より人力の能くすべきにあらず。看者之を諒せよ。


三 假名の用法及び其の排列
一 國語・外來語の別なく、すべて平假名を用ひ、五十音の順序によりて排列し、撥音の「ん」は最終に置けり。
一 假字遣は歴史的假名遣を用ひ、別に検索者の便をはかりての發音索引及び漢字畫引索引は、今回の新装版には之を省略せり。
一 首部の語句に於ける促音の「つ」は七號活字、拗音の「や」又は「よ」の類は六號活字として他と區別し、排列の順序は普通のつ又はや・よと同位置とせり。かーきー・がーぜの如き長音符ある語は、一括して「か」の如き單音の語の次位に列ね、次にかあ・かあいと次第せり。又清音・濁音の場合には清音を先とし、所謂半濁音のぱ行を其の次とし、濁音を又其の次に置けり。
一 外來語のああち・かあきいの如きは、「あーち」「かーきー」の如く長音符を以て之を記せり。
一假字遣の古來決定せざるものは、雙方を掲げて其の由を記し置けり。


四 文法上の注意及び其の排列
一動詞・形容詞・助動詞は悉く終止法にて之を擧げ、動詞は其の下に自動・他動の別及び活用の種類、即ち四段・上下二段・上下一段及び變格等、形容詞は第一形容詞・第二形容詞を示せり。助動詞も亦之に準ず。
一 あきらか・おだやか・しづかの如き副詞の語根は、其のまま副詞として之を擧げ、特に「に」又は「なり」を加へず。
一 漢語の多くは用方によりて、名詞となり動詞となり副詞となりて、品詞の限定し難きものあり。其等は特に品詞の名を省きたり。
一 漢語に、す(爲)の動詞を添へて動詞とせるものは、善く熟して一語の如くなりたるものに限りて、之を擧げたり。
一 形式の同一にして文法上異なりたる官能を有する語ある時は、別項に示したる文法略符號の順序によりて排列し、猶動詞にて同形の語ある時は、自動を先とし他動を後にし、更に四段・上二段・下二段・上一段・下一段・變格の順序に之を排列せり。
一 名詞其の他の語にて同形のものあるときは、古語を先とし、新語・方言・漢語・外來語の順に之を列ね、更に其の中に就きて動物・植物等の特殊語を後に擧げたり。


五 語釋に就きての注意
一 語釋は平易簡明を主として冗漫に流れざらんことを務めたり。書き方は文語によりたれども、場合によりては口語を用ひたり。要するに看者をして一目其の意義を了解せしむるにあり。
一 語釋の下には成るべく同意語を列記し、語彙を應用せんとするものの便に供せり。
一 語釋の古來諸家の説異同ありて決し難きものは、先づ編者の適當と認めたるものを擧げ、次に異説を掲げて参照に供せり。
一 説明の便宜上、一語の下に他の語を并せ説きたるときは、各條の下に何何を見よと記せり。又或語より轉訛したるものは本語の條下に説明し、一方には何何を見よと記して、其の由來する所を知らしめたり。
一 説明の文中に著れたる語は、遺漏なく各條の下に掲出せんことを務めたり。例へば植物などにて禾本科若しくは葉尖・葉縁等の術語を用ひたる場合には、必ず其の語を各條に掲げて説明したる類なり。
一 語源は古人の説採るべきもの少く、將來猶研究の上ならでは不明のもの多く、妄に不確實の説を擧ぐるは却って人を惑はす基なるべければ、本書には成るべく確實にして且つ語釋に必要なるもののみを記せり。他日別に語源辭書を編纂して之を補はんとす。


六 漢字・漢語共の他外來語に就きての注意
一 毎語の下に漢字・漢語を標出せるは、一は同語の並列したる場合に一目して差別を知らしめ、一は語源を知らしむる便としたるものなしれは、専ら一般通用の漢字・漢語を採りて、必しも其の雅俗を問はず。
一 漢字音の一般に行はれて慣用音となりたるものは、原音によらずして慣用音に従へり。例へばけきえん(喫咽)をきつえん、きくしやう(畜生)をちくしゃう、しゅにふ(輸入)をゆにふとせるが如し。
一 漢語には漢書・呉音の別あれば、本書を務めて普通一般に行はれたるものに從ひ、両樣に用ひられたるものは各條に擧げたり。
一 漢字・漢語の字音より來りたる語には標出せる漢字の頭に{なる符號を施せり。例へば「かいぐわい{海外」・「けんさ<{検索」の如し。
一 植物等に充てたる漢字は普通植物學に用ひたるものを採れり。例へば「れんげさう」を蓮花草とせずじて紫雲英とし、「うまごやし」を馬肥とせずして、苜蓿とせる類なり。編者は寧ろ蓮花草・馬肥と通俗にするを至當とすれど、現今の教科書に前者を採用したれば看者の便を圖りて暫く之に從へり。
一 外來語には原語を插記して其の由來する所を知らしめ、漢語は國書に表はれたる出典を掲げ、次に最も古く漢籍に見えたる出處を擧げて基く所を知らしめたり。


七 出典につきての性意
一 出典に擧げたる書名は、單に萬葉・源氏・枕草紙若しくは左傳・史記など擧げたるのみにては、浩瀚なる書冊中、看者は検索するに由なく、殆ど無用の長物たるに過ぎざれば・本書は最も力を之に用ひ、古事記・日本紀・萬葉集等は巻数、其の他の歌集は巻数又は部立の名、東鑑其の他日記の類は巻数及び年月日、軍記は巻数及び其の條項、漢籍にては論語・孟子の類は篇名、左傳は何公何年、史記・漢書の類は何何傳と細記し、看者をして容易に原書に就きて捜索する便に供せり。
一法律語の出典は、必ず何法第何條第何項一一條項を掲げたり。
一出典は原書のままにて、妄に之を改竄せず。但し古事記・六國史等に見えたる歌、及び萬葉集のみは、本語に關する部分のみ原書のままにし、他は讀み易からしめんがため假名交りに書き改めたり。
一出典に引きたる文の除り長きに渉りたるものは、中略として必要の部分のみを掲げたり。但し和名抄の如きは、和訓に關するもののみ取ること多ければ、一一に中略と記さんは煩しければ省けり。
一出典を擧げたる文中に古書の異同・あるものは、異本の符號即ち(イ)として之を擧げ、妄に之を取捨せずして看者の参照に便にせり。
一萬葉集の如き、諸家の説によりて訓讀に異同あるものは、萬葉略解を本とし、萬葉古義其の他諸家の訓には、一一古義或は誰某の訓など記し、略解のみは特に之を記さず、両説の決し難きは各條に之を擧げ、妄に之を改削せず。


八 句讀及び送假名等の注意
一 散文には、句讀を施したり。但し法律文の出典には慣例に從ひて句讀及び假名の濁點を省き、歌の短歌のみは、誤解を生じ易き場合の外、上句と下句との間に施せり。
一 送假名は誤讀を防がんがため成るべく多<之を施したり。
一 發音の振假名は、音のままならずして轉呼して發音するものにのみ之を附す。例へば「おもふ(思)」・「がふけい(合計)」「かヘす(返)」
の如し。

九挿畫に付きての注意
九 挿畫に付きての注意
一 挿畫は普通の所謂飾畫を省き、説明上言辞を以て其の意を盡し難きもののみを擧げたり。

<<


あいう<a href="http://kindai.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1136271/253">え</a>お
<a href="http://kindai.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1136271/347">か</a>き<a href="http://kindai.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1136306/4">く</a>けこ
さし<a href="http://kindai.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1136343/3">す</a>せそ
たちつてと
な<a href="http://kindai.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1136397/4">に</a>ぬねの
はひふへほ
まみむめも
やゆよ
らりるれろ
わゐゑを
あ https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/954645/13
 い
 う
 え https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/954645/252
 お
か https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/954645/345
 き
 く https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/954646/3
 け https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/954646/115
 こ https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/954646/183

 し https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/954646/412
 す https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/954647/4
 せ
 そ

 ち
 つ
 て
 と

 に https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/954648/3
 ぬ
 ね
 の
は https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/954648/79
 ひ
 ふ
 へ
 ほ
ま https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/954648/383
 み
 む
 め
 も
や https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/954648/542
 ゆ
 よ
ら https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/954648/617
 り https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/954648/631
 る https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/954648/659
 れ https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/954648/662
 ろ https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/954648/674

 ゐ
 ゑ
 を


>>
 昨年末冨山房から編輯部の方が来られて、本辭典新装版刊行の申出があつた。勿論否やをいふべき筋ではないからその厚意を謝して、直に承諾の旨をお答ヘし、かねて心附いてゐた誤植の箇所を示してこれが訂正をお願ひした。
 本辭典の初版は大正四年から八年の間に完成したもので、四卷に分册されてゐたが、昭和十四年修訂版刊行の時、五卷に分けた。分册されてゐゐ辭書が、使用上幾多の不便があることは、辭書を引く者の等しく痛感するところであるから、今回の縮刷に當り、これを一册に纒める計畫であると聞いたとき、双手を擧げて賛成したのである。比較的大部な辭書で一册にまとめられたものは、恐らく本書が先頭を切つたことになるから、需要者諸賢と共に私の喜びとするところであり、地下の父も滿足してゐることと思ふ。
 思へば父の一生は、本辭典の編纂に終始したといつても過言でない。その編纂を思ひ立つたのは、明治三十年頃であらうか。その第一着手は主として參考資料の蒐集であつて講入し得るものは、乏しい月給の中から努めて買入れを行ひ、入手困難のものは、自分自ら又は寫字生を雇つて謄寫を行つた。父の蔵書(今日は國立圖書舘静嘉堂文庫内に松井文庫として、一括收蔵されてゐる)中、荒木田盛員の「鸚鵡抄」の稿本はじめ、字書や文法や方言、又は語源に關する本、特に古書の索引關係の書類が此較的多きを占めてゐるのは、この目的のための蒐集であつた。
 そのうち富山房と金港堂との兩出版社が、共同で出版を引受けてくれることになつたので、ここに本格的に編纂事業が開始されたのである。これは當時の出版界では、一社でこの出版を引受けるだけの資力がなかつた結果かとも思ふが、この間の事情は、よく分らない。又當時學習院の一教師にすぎなかつた父の信用だけでは、長期且巨額に上る編纂費を出してくれなかつたので、故上田萬年博士との共著といふことで、やうやく兩出版牡の引受けを得たものであつたらしい。
 明治三十六年私が十歳の時、原稿整理を手傳つた記憶があるから、恐らくこの頃から、發行書肆の編纂費の支給がはじまつたと思ふ。今私の眼の前には、父が「太平記」や「佩文韻府」や「史記」などに朱線を引いて、索引を作つてゐた姿が浮ぶ。明治三十七年の暮に、父は住居を牛込から小石川の目白臺に移したが、編輯所はこの邸内の離れ家に設けられた。
 かくて十年の歳月を閲し、大正二年頃、やうやく原稿の一部が出来上り、印刷に附する運びとなつたが、最初に引受けた日清印刷株式會牡(今の大日本印刷株式會社榎町工場}は、活字が足りなくなつて手を上げ、結局秀英社(今の大日本印刷の加賀町工場)が引受けることとなり、大正四年より八年にかけて、四卷が次次と刊行されて行つたが、この期間は私の一高から大学への時期に當り、私は主として第三校の校正を引受けて目を通した。
 昭和八年に父は永年の教師生活を打ち切つたが、その晩年は序文にもある如く、實弟吉見謹三郎を助手にして、増補の事業に從つてゐた。然し冨山房側の希望もあつて、まづ修訂版を出し、次いで増補卷を刊行することになつた。かくて昭和十四年十月に修訂版が發刊されたが、既にこの時は日華事變より太平洋戰爭への轉換を示す困難な情勢下にあつた。
 増補巻を出すにつき、父は別に中辭典(「辭鏡」と假稱)の編纂を思ひ立ち、冨山房の同意を得て、昭和十五年より再び編輯所を邸内に設けた。私も助手の一人として、増補並びに中辭典の編纂に從ひ、勤務の傍ら、こゝに出勤した。
 然るにわが國は太平洋戰爭に突入して、用紙は極度に不足し、印刷所も軍に徴用さるるもの多く、辭書の發行は殆んど望み薄となつた。
 なほその上昭和十九年六月、四十年來住みなれた目白臺の住宅が、彊制疎開により取拂ひの悲運に遭ひ、本辭典編纂の故地を立去らなければならなかつたので、父は他の視る目にも悲痛な面持で、三女の婚嫁先なる淀橋戸塚へ移轉した。この移轉先へは、編纂の助力者樋口氏も翌二十年四月、その御住居が戰災により焼失したので、一時同居された。然るにこの移轉先も、やがて焼夷彈が見舞ひ、父の枕を離れる僅か四五寸のところへ天井を貫いて落下し、燃え出すといふ騷ぎが起り、遂に孫娘の假寓する栃禾縣足尾に疎開するに至つた。
 かくの如く昭和二十年には、原稿を手にする日も、途絶え勝ではあつたが、樋口氏より送られた原稿に、「二十年四月」と日附のあるものを見てゐるから、辭書の増補を完成したいといふ願望と努力とは、毫も衰へてゐなかつたらしい。ただ何ぶんにも八十三歳といふ頽齢と、戦時の榮養失調とは、その生命をこれ以上保たしめず、終戰の御詔勅を拜聽して、悲憤涕泣しつつ、急に床より起てなくなり、十時間前に老衰で死亡した糟糠の妻の後を追つて、九月二十六日長逝した。
 私は目白臺の家を疎開する時、父と別れて西落合へ居を求めたが、その際ほぼ完成してゐた中辟典を、樋口氏の御厚意によつて東洋文庫に寄托した。増補の原稿は自宅に引取つておいたが、空襲が熾烈を極むるに至り、講談社にお願ひして、同社の倉庫に保管を委托した。かくて戸塚の父の寓居は燒け、私の家も撓夷彈に見舞はれて一部罹災したが、二つの原稿は幸ひに戰災を免れ得たのである。
 終戰後の混亂時代を目撃し、占領下の苦しい國民の生活を甞めて、――辭書の出版の如きは未だ遠い先のことと考へてゐたが、今囘冨山房社長の英斷により、父の遺著が縮刷刊行されることとなつたのは、何よりの喜びであり、なほこの上は、晩年に心血をそそいだ増補を包含した新しい大辭典の出版と、中辭典の刊行とが、陽の目を見る日の來らんことを、衷心より願つて已まない。
 ここに本書刊行に至る經過の一端を記すと共に、父の生前に寄せられた前冨山房社長坂本嘉治馬氏、及びその令息現社長守正氏の厚誼を深く感謝する次第である。
 なほ本辭典の出版印刷については、編輯部の数納兵治氏、芳賀定氏、伊達豊氏、出版部の郡司直氏に一方ならぬ御配慮を賜った。厚く御禮を申上げる。
 終りに、私にとつては、生涯の大半につながりを持つ、本辭書の更生の姿を眼の前にして、感無量のものがあることを附け加へさせて頂きたい。
  昭和二十七年九月
                  松井驥識
                  [[松井驥]]識

<<


トップ   新規 一覧 検索 最終更新   ヘルプ   最終更新のRSS