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http://www.let.osaka-u.ac.jp/okajima/zatu/ranuki.txt を再掲
>#1068/1068 ことばの海
★タイトル (NLF06372)  93/10/15  14:42  ( 70)
「ら抜き言葉」という言い方 岡島空山
★内容
 「見れる」「食べれる」の類の言い方を「ら抜き言葉」と呼ぶことがふえてきているようです。月刊『言語』11月号の「世相語散歩」にも書かれています。小生がこの呼び方を眼にしたのは、島田荘司の小説の題名『ら抜き言葉殺人事件』(1991.2.25光文社、初出は「別冊小説宝石'90初冬特別号」とのこと)が初見ですが、この題名を見た時には、「見れる」「食べれる」類の言い方を指すとは思いませんで、何か暗号か、仲間内の言葉か何かかと思いました。例えば、江戸時代からある遊びでラ行の音を挿入して喋るというのがありますが(オカジマをオロカラジリマラという風に)、そういったものを想像した訳です。人からこの小説が「見れる」「食べれる」を題材にしたもので、国語教育についても書いている、と聞いて意外な感じがしたものでした。ところが、1993年6月12日(?)の国語審議会が「見れる」「食べれる」といった言い方について議論してゆく、という報道でNHKで、「いわゆるラ抜き言葉」と言っているのをきいて、「何時のまにイワユっちゃったんだろう」と思いました(この「イワユっちゃう」という言い方は、小生前から使っていたのですが、清水義範『ことばの国』集英社文庫p66にも「いわゆらなくても」が出てきて、「やられた」と思いました)。月刊『言語』1992.12月号「言語圏β」にも「“日本語乱れている”4人に3人-(1)話し方、(2)敬語の使い方、(3)あいさつの言葉…「見れる」などら抜き言葉“気にならない”57.9%�総理府調査」(『東京』9月28日朝)と見えまして、また「ことばの海」#530(92/ 9/28 ARISOさん)によれば朝日新聞でも「ら抜き言葉」と呼んでいるようですから、もしかすると調査した総理府がそう呼んでいるのでしょうか。
 「見れる」「食べれる」の類を説明するのに、「らを省略して用ゐる」というのは、古くは松下大三郎『標準日本文法』から使われていました。また「ら抜け」という言い方も、たとえば新しい例ですが、宇野信夫『まちがい言葉おかしい言葉』(河出書房新社、昭和63.1.25)、本「ことばの海」#170(91/12/11 HONG2さん)に見えます。
 私がみた限りでは島田荘司以前の「ら抜き言葉」は見出せないのですが、この言い方は、どこから出てきたのでしょうか。読売新聞社会部『東京ことば』(読売新聞社1988.6.20)では「ら抜き“れる”言葉」というのが出てきますが、私がみた範囲ではこれが一番近いですね。
 しかしこの呼び方、私はあまり好きではありません。「ら抜き」ではなく「ら抜け」だろう、というのではありません。思うに「ra抜き」ならぬ「ar抜き」とよんだ方がよいのではないか、と思うのです。
 四段動詞からできた可能動詞というのは古く(室町から江戸の頃か)成立し、森鴎外などは、我々なら「死ねる」と書きそうなところを「死なれる」と書いていたりして、どうも可能動詞を使わないようにしていたのではないか、とも思えるのですが、現在では殆どの人が使っているはずです。
 歴史的に見た可能動詞の成立には諸説あって、四段/下二段に類推した、連用形+「得る」が縮約した、などのほかに、未然形+「れる」が縮約した、という説があります。
 可能を表した未然形+れると、可能動詞とを比較してみると次のようになります。
「行かれる」 →「行ける」
  ik-(ar)e-ru     i|ke-ru
「行かれない」→「行けない」
  ik-(ar)e-nai    i|ke-nai
「行かれて」 →「行けて」
  ik-(ar)e-te     i|ke-te
 歴史的に見た可能動詞の成立はさておき、現代人の意識の中での可能動詞の生成規則が、受身尊敬の形式からarを抜いた形であると認識されれば、上一段+「られる」・下一段+「られる」においても以下の様な形が現れるのは当然の結果でしょう。
「見られる」 →「見れる」
  mi-r(ar)e-ru    mi-re-ru
「見られない」→「見れない」
  mi-r(ar)e-nai   mi-re-nai
「見られて」 →「見れて」
  mi-r(ar)e-te    mi-re-te
 別に、以前からあったとされる方言での「見れる」は、「見る」等一段動詞の五段化と関わるのではないかと思います。金田一春彦氏の名文句「ミルは方言の発話に従う」もありますが、「見らん」などの言い方は「見る」が五段化したものでしょう(「見りて」という言い方がなければ、まだ五段化の途中ということになりますが)。
五段動詞であれば可能動詞があっても全然おかしくないわけでして、こういった地域で成立した言い方を、東京方言の話者が、「ar抜き」の理に叶うとして採用した、という筋書も考えられるのではないかと、勝手に考えております。
 まとまりませんが、「ら抜き」という言い方に触発されて、勝手な思いつきを書いてみました。
 しかし考え直してみると、「ar抜き」と呼んでしまったら、可能動詞と「見れる」類の間に一線を画せなくなりますから、困っちゃいますね。はは。
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「ら抜き言葉殺人事件」(1990冬)以前の「ら抜き言葉」という言い方の例を、朝日新聞のデータベースから見つけました。1989年まで遡りました。このデータベースは85年からあって、「見れる」などで検索するともう少し古い例がひっかかる(「ら抜き」とは呼んでいない)のですが、「ら抜」「ラ抜」ではこれより古い物はありませんでした。国語教育の世界などではもうすこし以前から言っているのかもしれませんが検索の手段をもちません。
    〈ar抜き〉の考え方については阪倉篤義氏の講演が京都外大の雑誌に載っていてそこにも同趣旨のことが書いてありました。(1996.7.4)
岩波新書『日本語ウォッチング』井上史雄も、ar抜きで説いてありました。
(1998.5.14)
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1987年の「ら抜き言葉」が、『88ことばのくずかご』にあります。
(以上再掲)


http://www.let.osaka-u.ac.jp/~okajima/zatu/ranuki.txt


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