#author("2020-10-26T00:48:43+09:00","default:kuzan","kuzan") 宇能鴻一郎 1961 炭鉱 九州弁会話 九州弁小説 //「来《き》。その火ば乗りこえてこっちい来ちゃり。いや、火ばまわっちゃいけん。火ばよけちゃいけん。火ば乗りこえて来ちゃり。さ、はよ来ちゃり。そのままでよかけん火ば乗りこえて来《き》」 // コードをたぐって外しながらその炎のすぐ前まで近づいて、啓介は恐ろしい熱さのなかで、その炎の向うに信じられないものを見たと思った。坑内の熱気に啓介とおなじように全裸になり、切りとってたばねた電線を腕にかかえ、岩壁に身をぴったり寄せて獣のように眼だけ光らせてこちらをうかがっているのは、たしかに顔見知りの集落の少女にちがいないのだ。「キイコ」と啓介は呼び、二人はしばらく黙って睨みあい、それから何か言わねばならぬと思った。 //「廃坑に女が入っていけんちゅうことば知っとろうが」 //その声もへんに高くなり昂奮から震えをおびるのをどうしようもない。 //「女が坑道に入るとサエ神のタタリがあるちゅうことは知っとろう。女の稼ぎ場は船積み場とボタ山で、坑道は男の稼ぎ場と縄張りのきまっとろうが。おれは向うば向いとるけん、早う出てゆきない」 // 精悍な少女は返事もせず、啓介をじっとみつめたままかすかに笑い、啓介はあらがいがたい力にひかれたように少しずつ炎の幕ににじりよってゆく。汗でべっとり濡れている少女の肌は炎に青白く輝き、少女が啓介の眼をしっかととらえて離さぬまま立ちあがり挑むように腰を捩ったとき、啓介はふいに脱力感に襲われて何もかも捨てて逃げだしたいと思う。 //「あんた来《き》」 //と女はいちはやく啓介のその気持に気づき、自分の啓介に対する支配力をためすようにゆっくりと、歌うように言う。 //「来《き》。その火ば乗りこえてこっちい来ちゃり。いや、火ばまわっちゃいけん。火ばよけちゃいけん。火ば乗りこえて来ちゃり。さ、はよ来ちゃり。そのままでよかけん火ば乗りこえて来《き》」 // 炎は冷血動物の舌のようにゆらゆらと高く燃えあがったり、地を舐めるように低く這ったりしている。(おれの皮膚は決して傷つけられることがないのだ。崩れのリュウの血膿を、おれは浴びたのだから)と啓介はふいに暗示にかけられたように考え、そのくせはっきりと絶望的な気持で一気に炎をかけぬけて少女の傍に立った。自分からゆっくりと身を倒した少女の肌は冷たく、二つの体はおびただしい汗でぬらついて苛立たしく滑る。 //「今日の夜のディーゼルで街へ逃げよう。早うせんと使いに来た店の用心棒に追いかくらるるかもしれん。もちろんおれがついとるから安心ばって。ディーゼルに乗りさえすりゃあとは安全じゃ」" //「追いかくらるる」? 宇能鴻一郎『鯨神』