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明治38年12月
「新潮」第3巻第6号
尾崎紅葉
[[『新潮』]]第3巻第6号
[[尾崎紅葉]]

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私は言文一致体を小説の文章に用ゐは致しましたが、未だ一遍も日用文として試みた事は有りませんから、美文としての言文一致体は甚麼《どんな》物であるかと云ふ、私の見る所を些《ちよつ》と申上げませう。
其に就ては、第一に擬古文との比較を為す必要が有りまする。之を書くの難易も言ふ迄も無く、言文一致の方に利が有りまする。私が始て言文一致体を試みましたのは、都の花の二人女房で、今迄擬古文のみを書いて居りましたのが、転じて言文一致と成つた時の勢は、往には重荷を負つて上つた急坂を、空身で走り下りるやうな塩梅で、殆ど一潟千里の概有りとも申しませうか、余り自在に書けるので、自分ながら驚いたくらゐでありまする。
それから二遍が三遍となり、五度が七度と度重なるに従つて、筆路の自在を失つて、後には擬古文を書くと同じ手数に成つて了つて、今日の所では一向相異が無い。些と聞くと不思議なやうでありまするが、決して不思議も何も有りません、始は言文一致と云ふので、思出るまゝを片端から書下したのであるから何の雑作も無かつたのでありまするが、段々経験を積むに従つて、巧者が出て来る、那《あゝ》でもない、恁《こう》でもなからうと云ふ工夫が始るのです、それは脳裏《あたま》に在ると在ゆる事は、塵も留めず掻出したやうに尽く筆の頭《さき》に顕れて来る段に於ては、到底擬古文の常に言足らぬ勝の悶へながら拮り出す比ではない。此が言文一致体第一の特長でありまする。然しながら、余り手易く書ける為に書過る弊が有て、例へぱ千石通で篩ふやうな状が有りまする。一度に沢山石が出る代には粉が疎い。粉が然う疎くては美文の御用には成りません。美文と成ると是非絹漉でなければ成らんので。
因で猶且《やはり》同じほどの手数は掛る理屈で、其上に又、美文としての言文一致体と云ふ定つた者が無いのでありまするから、何とか工夫もして見たくなる、此の書易い言文一致には尤も欠けて居る所の擬古文の長所を移して見たいなどゝ云ふ慾心も出る。究竟《つまり》言文一致体は窮屈でない為に自分が業を為やうと思へば、幾らでも業の出来る余地が有るのでありまする、其等からして推敵を要する、手間も取れる、で、帰するところ擬古文を書くのと同一の苦心。手易く書かうと為れば、是程手易いものは無いが、善く書かうと為る日には、是程|難《むづか》しい者は無からうと考へまする。
けれども、実用文としては此が最も取るべき点で、書くのが易《やす》くて、読むのが易い。一挙にして両得、此のくらゐ用の能く弁じる話は無い。実用文は之に限りまする。
次に論ずべきは、美文としては韻致と云ふ者の必要が有る、只今の言文一致体は頗る此の韻致に乏いので、擬古文は此点に於て大いに優つて居る。言文一致体は如何にも物質的で、秩然《きちん》と角々《かど〳〵》を当つて、能くは行亘つて居るが、温乎《ふつくり》とした所が無い。喩へばビジネスマンと語るが如き趣が有りまする、成程用は足りるが、用の足りる丈で旨味も素気も無い、一口に申せば、趣が無いと謂ひたいので。或人は説を作して、其は習慣的である、又は感情的である、決して言文一致体其物に趣が無いのではない、趣を有らしめぬのであると言ふのでありまするが私は飽くまで然うは信じませぬ、確に擬古文の長所、言文一致体の短所と考へて、実際此の欠乏を補はんと随分工夫を致して居るのであつて、同じ事を抒べるのでも、口で話すのと、歌に唱ふのとでは敦《いづれ》が人を感ぜしむるかと云ふに、歌にしては口で言ふやうに存分は言ひ得なくても、何と無く身に沁みて感じられる。擬古文には一種の調子が有つて、文字の問に響くのが、恰も節廻し好く唱ふのに似て居る、則ち文字以外に潜んだ力を持つのでありまして、言文一致体は寧ろ素話の上手なのを聞く想が有る。美文としては唯流暢に言が通る丈では済まぬので、今の文字以外の霊妙なる力を借りて感情に訴へるのを、第一番と為るのでありまする。(下略)
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「(下略)」は本のママ(『新潮名作選/百年の文学』による)



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