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岡島昭浩
文雄におけるムとン--『磨光韻鏡』華音の十七転十九転ム表記の意味--
       『文学研究』(九州大学文学部)第85号(昭和63年2月)
pp.21-33

http://www.let.osaka-u.ac.jp/~okajima/ingaku/MONNO.HTM
<!--
   一
 文雄の字音は韻鏡による演繹的処理が強いと言われる。彼が演繹的処理を施す前の、生の音がどうであったのかということは、呉音漢音に関しては、彼の著書内部から探り出すべき性質のものではない。現在まで伝わる呉音漢音の資料(勿論、文雄当時に呉音漢音と言われていたものをも含む)によって考えるほうがよりよいあり方だからである。そしてその上で彼の施した演繹的処置がいかなるものであったのかをみればよいのである。しかし、彼の記した華音、すなわち唐音の場合には事情が異なる。唐音は当時の生の中国語音であり、文雄当時も日本へ伝来した中国語音は単一の性格を持つものではなかったからである。
 華音者俗所謂唐音也。其音多品。今長崎舌人家所学、有官話、杭州、福州、漳州不同。彼邦輿地広大。四方中国音不斉。   (三音正譌 上十一丁)(注1)
この様に「品多し」というのであるから、文雄の聞いた華音がどのようなものであったのか、容易には知り得ない。
前ニ載スル者ハ杭州音(ハンチウオム)ナリ 此音大抵韻書ノ規矩ニ叶フ故ニ取テ正音トスルナリ 然リトイヘトモ其音モ亦謬リ傳ル者間(マヽ)コレアリ 逐一韻書ニ是正シテ國字(カナヲ)施ス  (韻鏡指要録二十九丁オ)(注2)
とあり、文雄が杭州音を聞いたことは知れるのだが、「韻書に是正」してあるわけである。寛政十一年刊、泰山蔚の『音韻断』(注3)は上巻中巻に『磨光韻鏡辯正』の内題を持つ書であるが、その中に、
 予ガ門ニ遊ベル人嘗テ予ニ謂テ曰 子ハ華音ヲ何人ヨリ傳ヘラレシヤ 文雄ガ如キハ再傳ヲ下ラザレバ譌舛自少カルベシ 岡島冠山ガ著ス所ノ唐語便用唐譯便覽等ニヨリテ考フルニ子ガ論ズル所ト〓合セズ 亦譌舛ナシト云ベカラズ 予對テ曰 然リ 然レドモ其一ヲ知テ其二ヲ知ラズ 韻鏡ハ原譌音ヲ正スガ為ニ 作為セルナリ 華人若譯官ナドノ呼ブ所ヲ悉ク正音ナリト思ヘルハ甚シキ〓見ナリ 本邦ノ人ノ如キモ悉ク邦語ヲ正ク呼ニハアラズ 中華輿地廣大ナレバ一ヲ取テ以テ論ズベカラザレドモ 韻鏡ニヨリテ華音ヲ學ブトナラバ幾ク華人ノ非トシ譌トシテ斥ル音ナリトモ清濁軽重呼法悉ク韻鏡ニ符合セバ公然トシテ正音ト称スルモ誣トハ云ベカラズ 又奚ゾ親授ヲ貴デ實理ヲ卑ムルコトヲ為ン 深クコレヲ察スベシ
と記しているように、当時の韻学者の考え方は現実の音を「譌」であると捉えて、それを韻鏡によって正すという考え方をもっていたのである。文雄も同様で、『三音正譌』は呉音漢音華音の三音の「譌」を正す書である。
 さて、文雄の聞いた中国語音がいかなるものであったのかを知るには、この『三音正譌』が参考になることが多い。『三音正譌』で文雄が譌・俗音とした形が、つまりは現実の形なのである。たとえば、
 致質〓咨資姿姉恣〓次脂旨指至鴟 皆正音ツウイ官音チイ俗音ツウナリ
とあれば、杭州音がツウで、官音がチイであったことがうかがえ、『磨光韻鏡』に見えるツウイの注音の背景が知れる。
 しかしそれが示されていなければ、泰山蔚の弟子が行ったように当時の他の唐音資料と照らし合わせたり、現代中国語諸方言を参考として、それらとどう同じでどう違っているかを、彼の著書内部から探り出さねばならない。

   二
 彼の『磨光韻鏡』は、華音すなわち唐音によって韻鏡を解釈したところにおいて、それ以前の韻鏡研究から大きく前進したとされている。彼は韻図の中の一字一字に漢音呉音のほかに華音をも付しているし、そればかりではなく「有聲無形」(韻鏡指要録十六丁オ)の空巣には華音のみを記すという華音の重視ぶりである。
 さて、その『磨光韻鏡』の華音表記だが、舌内韻尾や喉内韻尾のン表記に対して、唇内韻尾にはムの仮名が当ててある。本居宣長が『漢字三音考』(注4)で
 今ノ唐音ニテモイサヽカ差別アリテ。ヌニ近ク聞ユルト。ムニ近ク聞ユルトガアレバ。古ヘノ音モ差別アリシ也。                (皇國字音ノ格)
と記したのもおそらくは文雄の影響下にある。また太田全斎『漢呉音図』の三内韻尾弁別に唐音が参看されているのも、文雄の書を見てのことではないかとの指摘もある(注5)。
 さて、この『磨光韻鏡』のム表記を、さすがに韻書である、と見る人もある(注6)。しかし舌内韻をよく見ると、みなンで表記されている中に、真韻と欣韻、つまり十七転の三・四等と十九転に限って(注7)ムで表記されているのである(以下、平声の韻目名を以て上去声をも含めて述べる)。特に十七転は一・二等はン表記で、三・四等はム表記という、一見奇異な表記のされ方である。これは『三音正譌』でも同様に記されてお(注8)り、また特に「譌」の記載はない。
  一方、呉音漢音においては唇内韻にも舌内韻と同じンがあてられており、なぜ華音にだけムを当てたのかという疑問が生じる。勿論『磨光韻鏡』の性格が華音を中心としたものであるから、呉音漢音にはそれを及ばせる必要も意図も文雄にはなかった、と考える事もできる。『日本漢字学史』によると(注9)『磨光韻鏡』の呉音漢音は、そのほとんどが『韻鏡易解』を襲っているというが、『韻鏡易解』(注10)は多くは呉音漢音の併記ではなく、片方のみ記してあるものである。
また、二十五転二十六転の三四等をヤウ型にしているのは、岡井氏も指摘のとおり、入声借韻によるところもあるが、華音の影響もありそうで、文雄の中で華音と呉音漢音とがどのような関係に合ったのかはなお疑問である。
 文雄没後に刊行された『磨光韻鏡字庫』では漢音呉音でも唇内韻には皆ムがあてられている。しかし、舌内韻に目を転じれば華音とは全く異なった原理でンムが使い分けられていることが判る(華音のンムは『磨光韻鏡』と同じ)。『磨光韻鏡字庫』の漢音呉音では十八転・二十転・二十二転・二十四転でムが使われている。『磨光韻鏡字庫』は文雄没後の刊行ゆえ、文雄の意図とは異なるのではないか、というおそれもあるが、これは文雄生前、宝暦四年の『和字大観抄』(注11)の記述と符合する。すなわち
 上にありては。むは開なり。んは合なり。下にありては。變じ
てんは開となり。むは合となる。しかれば。寒山先鹽(カンサンセンヱム)などの。 音のかなには。開にんの字を用ひ。合にむの字を用ゆべし。   (巻下 んむの字)
というものと共通する。つまりムの当てられている諸韻は合口の転なのである。これは『男信』(注12)で義門が
 大観鈔ハ無相子也。其同作磨光韻鏡字庫ニ諸ノ撥スル音ノカナ。(ン)(ム)ヲ付ワケタル様。即チ彼開合ニ據レリトミユ。
と、指摘しているものである。
 『磨光韻鏡字庫』においては(『磨光韻鏡』でも)、唇内韻はすべて合口韻に改訂されているので、唇内韻にはうまくムが当てられるのだが、舌内韻では呉音漢音本来のムン区別と異なってしまっているし、文雄自身の記した華音のムン区別とも全くかけはなれたものになってしまっている。十七転一・二等では華音ム、呉音漢音ン、十八転は華音ン、呉音漢音ム、という具合である(注13)。
 『磨光韻鏡字庫』の呉音漢音にあてられたンムの使い分けの原理は、文雄自身が『倭字大観鈔』に記したところや、義門の指摘でよかろうが、先ほどの疑問、〈なぜ華音だけにムを〉、という疑問を、〈なぜ華音にはこのようなムを〉、と替えて考えねばならない。
 三
 当時の唐音資料を見ると、多くは舌内韻と唇内韻との区別はしないのだが、天和三年版『黄檗観音経』・貝葉版『金剛般若波羅蜜経』の二資料は唇内韻にムをあてていることが多い(注14)。
『黄檗版観音経』
  侵韻 甚深心シム金キム今音飲イム     尋ジン臨リン品ピン
  覃韻 男南ナム甘カム           〓アン
  談韻 敢カム三サム
  塩韻 検ケム険ヘム瞻チエム
  添韻 念ネム
  咸韻                   咸ヘン巌エン
  凡韻                   梵ハン
『貝葉版金剛般若波羅蜜経』
  侵韻  今金キム甚ジム心深シム音イム   吽ホン
  覃韻  貪タム男南ナム闇アム含ハム
  談韻  三サム              擔タン
  添韻                   念ネン
  咸韻  喃ナム
  厳韻  厳エム
  凡韻                   凡梵ハン

 勿論、舌内韻・喉内韻にはンしか当てられておらず、唇内韻と舌内韻との区別のある中国語方言音が江戸時代にも日本に伝来して仮名に転写されていたわけで、近世唐音の中に、唇内韻と舌内韻の区別のあるものを認めるべきなのである。そうすると文雄が聞いた中国語音の生の音でも、唇内韻と舌内韻とに区別が存し、文雄はそれを聞いて『磨光韻鏡』に付音した華音の材料としたのではないかとの見方も考えられる。しかし、そうすると十七転・十九転が、なぜムで表記されたのかということを説明せねばならなくなってくる。
      四
 現在でも唇内韻と舌内韻を区別する方言は中国各地にいくらかある。『漢語方音字匯』(注15)の調査地点の中、梅県・広州・厦門・潮州の四地点、高本漢『中国音韻学研究』の方言字彙では、高麗・安南の他、広州・客家・汕頭がそれである。これらは唇内韻出自のものはm、舌内韻出自のものはnとなるのだが、朝鮮漢字音・越南漢字音を除いて、唇内韻出自のものでも、頭子音が唇音のものはみなnで発音される。これは異化現象であると説明されるが、歴史的には『中原音韻』にもみえる現象であり、『漢語方音字匯』や『中国音韻学研究』に見えない方言でも多くはこのような異化現象を起こしてると考えられる。先述の黄檗唐音資料二種の凡梵品がムでなくンで表記されているのもこうした現象の反映であると考えられる。
 またこれらmnの区別を有する現代中国語諸方言では舌内韻出自のものの一部にmで発音されているものもある。『漢語方音字匯』によれば、梅県では刃・慎・蝉、広州で蝉、厦門で刃・忍・欣、潮州で刃・忍・慎・蝉、の韻尾がそれぞれmで発音されている。『中国音韻学研究』でも蝉禅が広州・客家で、忍刃が汕頭でmに発音されるという。厦門音では「蝉」はnおわりだが、これは羅常培『厦門音系』でも同様で、同書によるとmおわりは、刃・忍・欣・ ・ で、厦韻はいずれもimである。一般的傾向として韻腹が狭いもの、そして頭子音が摩擦音であるものの一部が、唇内韻化しているようである。
 これら舌内韻出自でmに発音されるもののうち刃・忍・慎は韻鏡の十七転三等、欣は十九転、蝉は二十三転に存する。蝉は例外となるが、他の四字は皆韻鏡の代表字であり、韻鏡の代表字に限ってみるとmで発音されるものは真韻と欣韻とに限られるのである。
 先述の近世黄檗唐音資料では舌内韻出自でム表記されるものはないが、文雄の聞いた唐音がこの厦門語や閩南語と同じ状況であったとすれば『磨光韻鏡』の十七転・十九転の華音ム表記のあり方が説明可能になる。
    五
 『磨光韻鏡』には、普通の韻鏡にはみえない「合口呼」「撮口呼」などというものが書かれている。これは韻鏡のその転がすべておなじ「呼」であれば、「内転第一合」などと書かれた欄に記されるが、等毎に「呼」が異なる場合には普通の韻鏡では韻目が書かれるところに記される。また、止摂開口のように頭子音によって異なる場合には上部に記される。この「~呼」が『字彙』巻末の「韻法直図」「韻法横図」によるものであることは、 且以杭州音律之廼韻鏡近乎 是呼法直横二図委曲焉     (韻鏡索隠十丁ウ)
とあることからも知れる。
 『等韻源流』(注16)によると「開斉合撮」という用語が見えるのは『字彙』が最初であるという。文雄はこれを「華音のため」の呼法であると考えたらしく、
華音ニハ開合ヲ細分シテ種種ノ呼法某某(ソレ)ノ呼ヒ口ヲナスコト前刻ニ委曲セルカ如シ。和ノ呉音漢音ハ止(タヽ)開合ノ二ツヲ論シテ止ムヘシ      (韻鏡指要録十九丁ウ)
 明人論呼法字彙直横二圖備矣。若夫欲学華音者當由直横二圖呼法也。(韻鏡索隠十七丁ウ)
としている。文雄はこの「字彙直横二図」の呼法と華音の符合に自信を持ったらしく、
 斉歯 開口 撮口 閉口 捲舌 咬歯等之呼法 不学華音 則孰能辯之
               (韻鏡索隠七丁オ~ウ)
とまで記している。
 さて、『磨光韻鏡』の三十八転から四十一転までの唇内韻では、三十八転と四十一転が「閉口」、三十九転四十転の一三四等が「閉口」、同じく二等が「斉歯捲舌而閉」問題の十七転一二等と十九転には「斉歯呼而旋閉口」と記してある。ここ以外の舌内韻には「閉口」は見えない。十七転一二等は「開口」、十八転は一等が「合口」、二三四等が「撮口」、二十転は唇音が「合口」、牙喉音が「撮口」、二十一転は「斉歯捲舌呼」、二十二転の二等は「合口」、三四等が「撮口」、二十三転は一等が「開口」、二等「牙音斉歯余音開口」、三四等「斉歯」、二十四転の一二等「合口」、三四等「撮口」となる。以上は舒声で、入声は問題の十七転・十九転以外は舒声と等しい。十七転の入声は一二等三四等ともに「斉歯」、十九転は「斉歯呼而啓口」とある。
 さて、問題の「斉歯呼而啓口」は「直図」で、京韻九、巾韻十、金韻十一とあって、金韻の箇所に
 京巾金三韻。似出一音。而潛味之。京巾齊齒呼。金閉口呼。京齊齒而啓脣呼。巾齊齒呼而旋閉口。微有別耳。
とある、それである(注17)。「横図」では巾の列は「齊齒」としか記されておらず、かえって金の列に「音悉同上列但旋閉口」(「上列」は巾の列)と見える。文雄はここでは「横図」ではなく、「直図」によったと言えよう。ところでこの「旋」字は、河野通清『字彙巻末衡直韻圖解』では「旋閉口者旋疾也」としているが、文雄は『磨光韻鏡餘論』で「ヤヽ」と傍訓を付している(中巻三十六丁ウ)。
 「直図」の作者が何故ここに「閉口」と記したのかは不明であるが(梅膺祚はこの図を新安で得たというが、明代の新安といえば広東省宝安県になろうが、広州であれば唇内韻と舌内韻の区別はあったはずである)、南方音では「京」等の梗摂字はηではなくnおわりになっていたと思われるので、「巾」等と区別しにくくなっていたことと関係があるのだろうか(注18)。中国側の理由はともかく、文雄はこの巾韻に「旋閉口」と記されているものを読み、それを韻鏡上に記したのである。
    六
 文雄の聞いた華音が、先述の厦門音や閩南音と同じであったとすれば、唇内韻に関しても頭子音が唇音である場合はnになるし、真韻欣韻に関しても例外が存し、mで発音されるものとnで発音されるもの(文雄にとってはムに聞こえるものとンに聞こえるもの)が混じっていたわけである。それに比して他の舌内韻はすべてnで発音され(ンに聞こえ)る。そしてこの別れ方が『字彙』韻図に「閉口」とある韻でムに聞こえるものがあり、それ以外の韻ではすべてンに聞こえるというみごとな対応を示した。
 この華音と『字彙』の韻図との対応は、文雄に華音の韻鏡研究に役立つことへの自信を深めさせたと思われる。
直図京巾金(ケイキンキン)三韻似出一音云云微有別耳 以和音何辯……不学華音則孰能辯之
           (韻鏡指要録七丁オ)
「京」は呉音でキヤウ漢音でケイとなり、巾金のキンとは似ていない。「京」をキンと読む華音こそ大事だというのがここの眼目だろうが、先述のとおり、京が巾に近付いていた南方音では、巾韻(つまり韻鏡上では真韻・欣韻)に見られるmおわりの字が京韻との重要な差違になっていたことと関連する記述ではあるまいか。やはり「閉口呼」とあればmおわりである(ムに聞こえる)、ということに文雄が益々の自信を深めたことによる記述であるように見えるのである。
 ここで文雄は、「閉口」という記述のある唇内韻及び真韻欣韻と、他の舌内韻・喉内韻とを華音において区別すべきものと考え、ここに演繹的処理を施した。つまり、少しでもムに聞こえるものがあり、『字彙』の韻法直図に「閉口」という記述のある唇内韻及び真韻欣韻はすべてム表記されることになったのである。
 すべてがム表記されることになったのは、さすがに韻書ということになろうが、その背後には原則として唇内韻と舌内韻とを発音し分けている中国語の方言が江戸時代に我が国に伝わり、それを彼が聞いていた可能性は非常に高いということを忘れてはなるまい。
 これに対して、華音の裏づけ無しに「閉口呼」という『字彙』の用語のみから、このム表記を文雄が行ったという考え方が提出されるかもしれないが、それは取るまい。「閉口」などの呼法を知るには華音を学ばなければならない、と記している文雄の態度から、「閉口呼」ではムが聞かれるという対応があったものと考えたい。
   七
 『磨光韻鏡字庫』に見える呉音漢音のンムの使い分けの原理も、実は文雄としては華音の原理を応用したつもりだったとも考えられる。先にも引用した「華音ニハ開合ヲ細分シテ種種ノ呼法某某ノ呼ヒ口ヲナス……和ノ呉音漢音ハ止開合ノ二ツヲ論シテ止ムヘシ」の条からも分かるように、文雄は『字彙』の呼法を、開合を細分したもの、と考えていた。後に泰山蔚が『音韻断』の中で、文雄が三十八転を合口に作ることを批判して、
 第三十八転註閉口呼一本作開非矣止 コノ転ヨリ四十一転ニ至マデ舊本共ニ開トス 此ニコレヲ改ムルモノハ何ニ據コトヲ詳ニセズ 註意ヲ按ニ盖閉口呼ナルヲ以テナラン 文雄閉口ヲ以テ合口ノ類トシ 合口即合転ト以為ハ粗ナリ
と記したように、文雄は華音の閉口呼は呉音漢音の合口呼に対応すると考えたのであろう。しかしそうなると、泰山蔚も指摘しているように、
 若閉口果シテ合転トスベクンバ 第十七転第十九転ノ斉歯而旋閉口ト云ガ如キ 亦合転ニ属ベキヤ
ということになるのだが、文雄は華音の呼法と呉音漢音の開合の一致にさほど気を使っていなかったのであろうか。つまり、華音と呉音漢音とが似た形にならなくともよいと考えたのであろうか。そこのところは疑問である。前にも述べたように、文雄における華音と呉音漢音との関係-華音によって韻鏡を研究した文雄がその成果によって呉音漢音をどのように改訂したのか-は今後考えていくべき問題である。

  註

(1)『三音正譌』。宝暦二年刊。九州大学付属図書館蔵本による。
(2) 以下、『磨光韻鏡』『韻鏡索隠』『韻鏡指要録』『磨光韻鏡字庫』はすべて勉誠社文庫による。
(3) 国文学研究資料館蔵マイクロフィルムによる(学習院大学国語国文学研究室蔵本)。本書は岡井慎吾氏『日本漢字学史』九五、磨光韻鏡及び其の同系の諸註、三五九頁では、『聲韻断』と記され、『磨光韻鏡』とは反対の立場に立てるものとしている(三五六頁)が、『磨光韻鏡』の強い影響下にあるものであることに違いはない。
(4) 『本居宣長全集』第五巻、四〇四頁。
(5) 湯沢質幸氏『唐音の研究』四二○頁。
(6) 中田喜勝氏「南山俗語考の音韻について」中国文学論集(九州大学)一号
(7) 湯沢氏前掲書四二○頁では、「ムは臻摂開口のみ」と記す。
(8) 十七転には舒声の記載はなく、十九転に「勤(ギイム)懃(ギイム)芹(ギイム)近(ギイム) 官キイム」とある。
(9) 九五、磨光韻鏡及び其の同系の諸註、三五一頁。
(10) 元禄五年刊。釈盛典。九州大学付属図書館蔵本による。また『新増韻鏡易解大全』(享保三年刊)も、マイクロフィルム版静嘉堂文庫所蔵国語学資料集成によってみたが、付音に差はない。
(11) 九州大学付属図書館蔵本による。
(12) 国語学大系第四巻(新版第三巻)、二○一頁。
(13) 『磨光韻鏡字庫』の韻尾を表にして示すと次の通りである。
    17開 17開 18合 19開 20合 21開 22合 23開 24合 38合 39合 40合 41合
    12等 34等
 呉漢 ン  ン  ム  ン  ム  ン  ム  ン  ム  ム  ム  ム  ム
 華音 ン  ム  ン  ム  ン  ン  ン  ン  ン  ム  ム  ム  ム

(14)拙稿「近世唐音の重層性」語文研究六三参照。またこの内『黄檗観音経』については、奥村三雄氏「天和三年黄檗版観音経-近世初期の表記・音韻資料として-」近代語研究第三集、「日本漢字音の体系」訓点語と訓点資料第六号、「近世音韻資料としての黄檗唐音」岐阜大学学芸学部研究報告(人文科学)五号、等参照。
(15) 北京大学中国語言文学系語言学教研室編。
(16) 趙憩之(蔭棠)氏著。文史哲出版社再版本では一六一頁。
(17) 『字彙』の韻法図は、享保十八年刊、河野通清『字彙巻末衡直韻圖解』(九州大学付属図書館蔵本による)、及び『字彙』清刻本(九州大学付属図書館蔵本)によった。『字彙』の和刻本では、「閉」を「開」に誤刻しているものがある。たとえば「横図」の「平二」の「兼」列は、汲古書院『和刻本辞書字典集成』所収の寛文十一年刊本を始め、みな「開口」「旋開口」に作っている。
(18)

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