#author("2020-08-22T23:01:51+09:00","default:kuzan","kuzan")
岡島昭浩「近世唐音の 重層性」(『語文研究』六三 昭六二・六)pp.36-50
>http://ci.nii.ac.jp/naid/120000981590>
 日本漢字音史における唐音は、普通、中世唐音と近世唐音とに分けて記述される。この二つの唐音が大きく異なることは概説書にも見え、今更ここに述べるまでのことはない。
 しかし、このうち近世唐音に関して言えば、それが一様な性格を持つものなのか、という疑問がある。つまり、近世唐音は江戸時代に日本で記録された中国語の音を総称しているものであり、黄檗宗の経典読誦音、唐通事らの記録、当時の中国趣味の反映とも言うべきもの、等を区別せずにそう呼んでいるからである。近世唐音は有坂秀世氏の研究(注%1)をはじめとして、国語音韻史の資料として用いられるが、国語資料として使用する前に近世唐音自体の字音体系を押さえておくことが必要である。
 筆者はこれら近世唐音資料について調べていくうちに、これらの中で黄檗宗の経典読誦音(以下「黄檗唐音」と記す)の内部に限ってみても、資料によって音の様相が異なることに気付いた。つまり黄檗唐音は重層性を示すというわけである。その性質の違いは一方が他方に伝承するうちに転訛したというようなものではなく、黄檗僧の聞いた原音の違いに係わるような性質のものなのである。

     一

 先学により指摘されていることであるが、江戸時代の唐音関係資料に、唐音は一様ではなく複数の物がある、という記述が見える。たとえば文雄の「三音正譌」(注%2)には
 華音者俗所謂唐音也。其音多品。とある。本居宣長の『漢字三音考』に「今唐音事」という題目で、唐音について述べられていること等からもわかるように、当時の「唐音」は「現代中国音」の意味であったようである。当時の中国語にも複数の方言があったのは当然の事だが、そのうちいくつかの物が、当時日本に伝来して、「唐音」と捉えられていたわけである。
 西川如見の「華夷通商考」では中国の十五省の言語について説明があり、新井白石の「東音譜」では杭州・泉州・ 州・福州の音を示すなど、諸書に記述が見えるが、具体的に方音差を示した文献としては、文雄の『三音正譌』・朝岡春睡の『四書唐音弁』(注%3)がある。
 文雄は杭州音を「正音」として韻鏡研究をした訳だが、『三音正譌』ではそれに「官話」を対照させている。体系的な比較ではなく、小韻毎の比較であるため、個別的な違いなのか否かが不明ではあるが、当時の方音差を示す有力な資料である。
 『四書唐音弁』の南京音と浙江音の比較は高松政雄氏が詳細に検討しておられるが(注%4)、『三音正譌』の官音と正音(杭州音)の対立とそれほどの違いはない。すべての韻が揃うわけではないが、「三音正譌」のような規範意識が少ないと思われる点、非常に有効な資料で、この二資料を併用すれば、当時の方音差がかなり分かるわけである。
 「四書唐音弁」が二音を併記した理由は明らかではないが、字音研究の立場の「三音正譌」が、複数の方音を記しているのは当然ともいえよう。その様な立場と比較して黄檗唐音の場合は、同宗派の経典読誦音であることから、音の異なりは読誦しているうちの転訛ぐらいであろうと考えてしまうが、実際には原音が異なると見るべき付音の差があるのである。


     二

 本稿で使用した資料は以下の十五種である。
[一] 寛文二年版禅林課誦   大本一冊 九州大学蔵
    寛文二年壬寅林鐘吉旦
      二條通鶴尾町田原仁左衛門刻
 「朝課」「暮課」「朔望儀」「雑集」よりなる。
[二] 重刻禅林課誦      大本一冊 九州大学蔵
     二條通鶴尾町田原氏仁左衛門重刻(刊年不載)
  [一]と内容にも多少の出入りがある。[一]で「朝課」の末にある「礼仏発願文」が「暮課」の末に有る。また「禅林課誦終」とある後ろの「礼華厳文」「西方願文」がなく、「仏成日讃」「仏成道」「仏涅槃」「初祖忌」「百丈忌」「諸先覚設忌」「回向讃」「三宝讃」「西方讃」「小施食香讃」がある。
 音の違いは「般」の「パ」「ポ」両形あるのを「ポ」に統一するほか、[一]では表記しない入声韻尾を数ケ所、ツで表すことなどがある。また、「仏成日讃」以下の入声韻尾は、表記されないものもあるが多くは で記される。この部分が[一]に見えない事を考えても、何か別によった資料の存在が考えられる。
[三] 寛文十年版慈悲水懺法 大本三巻一冊   長崎崇福寺蔵
        寛文十年歳次庚戌
        平安城田原道住刻
 田原道住は[一][二]の田原仁左衛門と同一人物である。各巻末に反切等を注記する「音釈」「音釈補遺」を付す。また有坂氏も触れるが、下巻末に「国字旁音例」と題して、注音上の記号等の用法の説明がある。
 ○凡旁音用一字者、其音當曳曳而呼之、勿類入聲直而促與世俗所用國字加ウ字而呼之者頗相類。今不繁逐一下ウ字
 ○凡旁音有用小圏於上者矣。如イキ字須撮脣舌居中而呼之也。如サ字音自歯頭而出。猶合ツア二字而呼之也。如ソ字音又自歯頭而出、猶合ツヲ二字而呼之也。如セ字音又自歯頭而出、猶合チエ二字而呼之也。如テト字須合上下歯而呼之、猶不正呼其體而唯呼其用也。如パピ等字先閉脣激而発音余倣此。
 ○凡旁音入聲者用小圏於下。如ハ字之類是也。或又上下用兩小圏者、上圏即如以上パピ例、下圏見復此字之為入聲也如パ字之類是也。
 ○凡旁音兩字中間 用-此一画者、開張上一字而呼之、蹙聚下一字而呼之。如ハ-ウヘ-ウ之類是也
 ○凡旁音有二音合為一音者、如ツア字之類是也。全類反切法、用三字者又與此同、如スワン之類是也。
 ○凡旁音間有不全叶反切者、如完字似属喩字母。蓋音韵之楚夏而已矣。
[四] 延宝七年版慈悲水懺法  折本三帖   九州大学蔵
 時延宝歳次己未臘八月弟子道月和南拝書
 [三]とは異版で「音釈」「国字旁音例」はない。
[五] 天和三年黄檗版観音経    折本一帖 奥村先生蔵
 『近代語研究』第三集に、奥村三雄先生が解題を付し、「天和三年黄檗版観音経-近世初期の表記・音韻史料として-」と題して影印を載せておられる。「訓点語と訓点資料」六号の「日本漢字音の体系」・「岐阜大学学芸学部研究報告(人文科学)」五号の「近世音韻史料としての黄檗唐音」に字音表をのせる。
[六]九州大学蔵「寛文二年原刻仏遺教経」書き込み 折本一帖
 寛文二年の「板存山城州宇治縣黄檗萬福禅寺印房流行」とい
う刊記が見えるが、次のような刊記が続く。
    京都西九条
       長建禅寺 蔵版
      京寺町通五条上ル 東側
  弘所  黄檗山
      書林  藤屋東七
 藤屋東七は『近世書林版元総覧』(注%5)によれば享保十八年以降なので、付された肉筆の唐音はおおむねそれより後のものとなろう。矢野準氏「近世唐音のかな表記に関する一考察」(「静岡女子大学国文研究」第十一号)に字音表をのせる。
[七] 元禄三年版仏説梵網経  折本一帖   長崎崇福寺蔵
 元禄三龍次庚午歳九月日
 邑上第五橋邊書肆林五郎兵衛壽梓
[八] 慈悲道場懺法  大本一冊     長崎崇福寺蔵
 有坂氏は天和三年版を用いるが、筆者の見た崇福寺本は末尾を欠くため、刊年等不明。各巻末の音釈は反切等を記す。
[九] 三千仏名経     折本三帖     九州大学蔵
  有坂氏は「千仏名経」と記すが、帙題が「唐音三千仏名経」とある。三巻に分かれ、「唐音過去荘厳却千仏名経」「唐音現在賢却千仏名経」「唐音未来星宿却千仏名経」と外題にある。同版の冊子本も見たことがある。有坂氏の見たものもこれであろう。刊記は見えないが享保の書き込みの有るところからそれ以前のものと考えられる。
[十] 観音懺法    折本一帖      九州大学蔵
 刊記等見えない。
[十一]金剛般若波羅蜜経   折本一帖   長崎崇福寺蔵
 刊記等見えない。
[十二]貝葉版金剛般若波羅蜜経 折本一帖   奥村先生蔵
 [十一]とは異版で、経文の前の「金剛経啓請」前後の文章がことなる。
[十三]貝葉版観音経    折本一帖   奥村先生蔵
  外題は「普門品」。[五]とは異版で音も異なる。法華経普門品の本文の後に続く文も[五]と異なる。また、巻末に「音釈」を付す。「音釈」といっても、一般的な反切等を記すものではない。
   音釋 東冬江ハヌル支微魚虞齊佳灰隊ヒク
   真文欣元寒刪先ハヌル 蕭肴豪歌麻ヒク
   陽庚青蒸ハヌル 尤ヒク 侵覃鹽咸嚴ハヌル
   屋沃覺質勿迄月曷黠屑藥陌錫緝入声ツムル
   世若衆被之重施巍慧持如支沙夜
   阿種我娑彼誓過推咸終詛然國切
 のようなものである。後半部の二つの音を示す部分は、「切」の「チイ」「チエツ」のように、本来その字が二つの音を持っているものだけを集めたのではない。本来は(韻書上では)同音であるものが、方音の違い、あるいは聞いたものの耳の違い、表記の違いによってこのような二音併記となったものである。これに関してはまた後で触れることになる[五]の黄檗版と比較して、一方の音は黄檗版と同じ、もう一方の音は貝葉版と同じという対応を見せるものもあるが、全てがそうなっているわけではない。また、この二音併記の仕方も、被彼、若如然、支之などから、右側が一貫した音体系、左側が一貫した音体系と言うわけではないと判断される。
[十四]貝葉版黄檗清規    大本  一冊
 有坂氏は古版を用い、貝葉版は誤刻があるとしているが、とりあえず貝葉版を用いた。有坂氏の書きぶりでは、記すところの音は同じもののようである。
[十五]禅林課誦         折本二帖 奥村先生蔵
 外題は「禅林朝課」「禅林暮課」。[二]の「重刻禅林課誦」と内容はほとんど同じだが、末尾部分が若干異なる。[二]にあげた「仏成道」以下が含まれていない(「仏成日讃」はある)。
  表す音は違ってはいない。有坂氏のいう「小型絵入の折本刊経」とはこれであろう。


     三

 黄檗唐音で資料によって付音に差のあるもののうち、個別的な差はなく韻・声母の表れ方の違いと見るべきものは以下の諸点であ。本来ならば、その韻すべて・その声母すべての字を挙げるべきあろうが、ここは資料による表れ方の差が顕著なもののみを挙げことが多い。
 なお「三音正譌」などで、方音差であると記されているものはその旨注記しておく。
○清濁の対立が表れているか。
 これは「三音正譌」で、例えば第一転に
  蓬  暴 並母ニ属メ濁ヲ正音トス。杭州音是ナリ。若シポンポンポンポトシ、幇滂並三母一音ノ如クスルハ、官話是ナリ。正シキニアラシ。
と見え、杭州音が清濁の区別を有するのに対し、官話にはそれがないことを示している。「四書唐音弁」でも音の異なるものの大部分がこの清濁の区別の有無である。
 ある資料に清・次清対濁の区別があるかを考える際に、濁点を積極的に打たないために清・次清対濁の区別が無いように誤認されるということも考えられるが、日母・疑母では濁点がきちんと打たれていて、全濁の字に濁点が打たれていなければ、やはり清濁の区別が無いと考えるべきであろう。
 また清濁の区別有無の判別には、匣母・奉母の表れ方でも判断できる。つまり、清濁の区別の無い資料ではハであらわれ、区別のある資料ではアヤワ行で表れるのである。しかし、清濁のはっきりしていると思われる資料でも匣母・奉母の字がすべてアヤワ行であらわれるわけではなく、ハ行がまじる。これは有坂氏も指摘していることだが、どちらとも聞き取れる音だったのだろう。
 資料の中で、清濁の区別があると見られるのは「仏遺教経」である。
 並母 菩ブ弁ベン病ビン     被避婢ピ貧ピン槃畔パン跋ハ
                 白ペ
 定母 動ドン独毒度ド定ヂイン  提 第テイ
    大ダイ・ダゝ脱ドウ田デン 但タン達タ電テン陀駄ト
    道導ダウ頭デウ談ダン   定騰テン
 澄母 重ヂヨン治ジイ除住ヂイ  陳テイン陣チン
    住ジウ・ジユ杖ヂヤン   墜ツイ持チ・ツ植チ
    着ヂヤ宅ヅエ       長チヤン籌チウ
 群母 窮ギヨン及ギ       其具キ勤禽キン掘ケツ
                 強キヤン狂クワン求キウ
 従母 自ヅウ財在ザイ罪ヅイ   疵ツ静チン
    蔵暫慚ザン
    淨ヂン集ジツ雑ザ賊ヅエ
 邪母 誦ゾン従ズイ       緒チイ
 牀母 事ズ術ジエ蛇ゼ      示ス船セン食シ
 禅母 是時ズ樹ジユ慎甚ジン   睡スイ視ス折チエ
    常ヂヤン上ジヤン禅善ゼン 上シヤン石シツ
 匣母 壊懐ワイ害アイ患ワン   玄ヘエン降ヒヤン護フ
    禍ヲ活ヲツ陥エン     慧会フイ何和惑ホ下瑕ヒヤ
                 賢ヘン厚後猴ヘウ
                 合ハ弘ホン
 奉母 煩ワン縛ヲツ       伏復服扶仏フ分フン仏フエ
                 防フワン
 ただしこの資料は清音の字にも濁点を付すことがある。
 照母 終ヂヨン
 精母 縦ヅヲン進ヂン
 穿母 触ヂヨ始ヅヲ(ツヲソヲもあり)
 心母 喪ザン
 審母 恕ジ手獣ジウ
 滂母 譬ビ(ピもあり)
 幇母 比ビ(ピもあり)
 見母 愧グイ グハイ
 透母 土ド
 渓母 鎧ガイ
 切韻系の韻書では清声母であっても当時の原音では濁音化していた可能性もある。例えば愧は「四書唐音弁」に南京クイ浙江グイとある。また時代は異なるが羅常培「唐五代西北方音」(注%6)で比は「千字文」でbi、「大乗中宗見解」でbyiとあり、土は「金剛経」「大乗中宗見解」でdo、進も「大乗中宗見解」でdzin、と濁音になっている。他に岡本氏の指摘にあるように(注%7)縦・恕は呉音でも濁音で、原音が濁音化していた可能性がある。
 以上のほかはほとんどが歯音であって、ここに問題がありそうにも思われる。「四書唐音弁」で南京音にあらわれる濁点は疑母・日母以外では巡ジユン荀ジユン頌ヅヲン食ジツ孰ジヨツ等、やはり歯音である。
 この「仏遺教経」以外の黄檗資料でも疑母・日母以外は濁点はまれであるが、打たれる場合には歯音であることが多い。貝葉版観音経・観音懺法・慈悲道場懺法等では疑母・日母以外には濁点はないが、たとえば貝葉版金剛経では
  塵ヂン尽ヂン上ジヤン静ヂン浄ヂン乗ヂン受ジウ寿ジウ甚ジム
  道ダウ
 黄檗版観音経では
  尋ヂン・ジン 浄ヂン  ジイ・シイ 婆ボ
 三千仏名経では「上ジヤン」、仏説梵網経では「尚ジヤン」等、清濁に関して歯音は特別なものをもっているようである。しかし、仏遺教経では清声母・次清声母に濁点が付されるのに対し、他資料の濁点が付される字は皆濁声母である点、様相が異なる。「四書唐音弁」の南京音での付濁点字も濁声母字であることを考えると、清濁の区別のないはずの南京音でも歯音に限っては清濁の区別を存していた、ということになろうか。すると仏遺教経以外の資料も、〈清濁の区別が無い〉のではなくて、〈清濁の区別を表記しない〉というべきであろうか。といってもこれは濁点を積極的に打つか否かの問題ではない。半濁音や疑母・日母の字には濁点・半濁点が打ってあるからである。また濁点が表記されなかったからにはその読誦音は清・次清対濁の区別の無いものとして定着するわけで、清濁を区別する文献と表記しない文献とは別の字音体系を持つものと考えておいてよいであろう。
 なお歯音の問題に関しては、他に摩擦音と破擦音の交替の問題(注%8)とも関係すると考えられ、別の機会に考えることとしたい。
○薬韻・覚韻は「ヤツ」か「ヨツ」か       (表1)
 これは「三音正譌」で第三転の条に、
  降項巷鬨學   官話ヒヤンヒヤトス又斈ヲヒヨトスルハ俗音ナリ
     琢卓    已上数字正音チユアナルヲ俗音チヨトス
と見える。すると官話ヤ・杭州音ヨということになりそうだが、「四書唐音弁」ではすこし様相が異なる。これは高松政雄氏により指摘のあるところだが、南京音ヨツ・浙江音ヤツとなるのである。「三音正譌」のほうは舒声に合わせた音の可能性もあり、「四書唐音弁」の方が信用すべきものであろう。
○祭韻の歯音と止摂の舌上音・正歯音はチイかツウか(止摂の歯頭音と区別があるか)(表2)
 これは「三音正譌」で第四転に
 知蜘 智  褫 第四第六第八支脂之ノ開ニ属スル舌音歯音半音ハ咬歯呼ニメツウイスウイリイスウイノ音ナルヲ俗音ツウスウルウトシ又官話チイシイトスルハ訛ナリ
とあり、第十五転では
 制製掣世勢逝誓 筮 俗音ツウスウズウトス
とある。
 「四書唐音弁」で見えるこの差は高松政雄氏が指摘のように南京音は正歯音ではみなチイ型になるようである。ただし、中国音韻史上では行動を伴にしている摩擦音の場合は南京音・浙江音ともにスウとなっており(例外は弑(シイスウ))、歯頭音との違いはない。祭韻では高松氏の指摘のように摩擦音でも、南京シイ・浙江スウとなる。ただ、高松氏は世(シイスウ)勢(シイスウ)滞(チイヅウ)の例のみをあげるが、逝(スウズウ)誓(スウ)という例外もあることを付け加えておく。
 貝葉版観音経の音釈では、世(スウシイ)施(スウシイ)誓(スウシイ)之(チイツウ)持(チイツウ)支(ツウチイ)が見える。
○疑母のアヤワ・ガ・ナ行の表れ方        (表3)
 「三音正譌」で指摘があるが、文雄は「磨光韻鏡」でも疑母は第三十三転の三等をニイン・ニイツとナ行で表記する他はすべてゼロ声母で表記している。したがって例えば「正音ウイ俗音グイ」とあってもそれが現実の音の反映なのかが明らかでない。
 「四書唐音弁」での二重注音は、魏ヲイ・グイと宜イイ・ニイがあるのみで、宜と同音と思われる義疑議にはニイの注音しかない。
 貝葉版観音経の音釈では、我(ゴ・ヲ)巍(グイ・ウイ)が見える。
 資料によってもっとも差があるのは止摂の表れ方である。ここでは三様の表れ方をする。そしてギが表れるか否かで資料を層別するのがよいようである。これは「四書唐音弁」ではどちらの音にも表れず、唐話辞書類にも見えない(「唐音世語」(注%9)を除く)。現代でも南京・浙江音にはない形である。
○日母のヤ・ザ・ナ行の表れ方          (表4)
 これは「三音正譌」「四書唐音弁」には見えないものである。貝葉版の観音経の音釈では、如若然とあった。黄檗版観音経・貝葉版金剛経ではすべてザ行で表れるが、その他の資料では汝がニイとなる他、ヤ行が混じる。
 有坂氏は「如」イを福州音のものであるとした。この日母のゼロ声母化は現在の南京・浙江にはなく、当時の「註官音」と明記する資料等にもあらわれない(唐話辞書類では「唐音世語」にのみ見られる。「漢語方音字匯」(注%A)では漢口・長沙・双峯・南昌・福州に見え、この中では黄檗僧の出身の多い福州がその原音として適当なわけである。しかし、当時の福州音を記したと明記する「麁幼略記」(注%B)、石崎又造氏「近世日本に於ける支那俗語文学史」所載の、篠崎東海「朝野雑記」中の「長崎通事唐話会」の福州語の部に日母のヤ行表記は見えない。また「漢語方音字匯」に載せる現代福州音も、黄檗唐音に混入したという福州音の末裔ではない。黄檗唐音の染エン・肉ヨは現代福州音ではlieng、ny となっているからである。しかし中島幹起氏「福建語の頭子音について」(注%C)、王天昌氏「福州語音研究」(注%D)などでは異なる様相を見せ、また文言音と白話音(字音と話音)の差もあって福州音の実態把握は困難である。ともかくも日母のゼロ声母化のある現代方言のうち黄檗唐音の原音としてもっともふさわしいのが福州音であるのは確かだろう。
○通摂がウンかオンか
 これはあまり他では注目されていないが、資料によって表れ方が違う。多くの資料では頭子音が唇音の場合にウン・他の場合にオンウン混在となる。たとえば古版金剛経では、蒙ムン空クン・コンなどである。
 黄檗版観音経と貝葉版金剛経ではすべてウンになる。
   観音経
  蒙ムン功クン空クン東トン通トン童トン風フン窮キウン中ツン衆ツン終ツン統ツン峯フン奉フン供クン恭クン重ツン龍ルン従ツン種ツン訟スン
   金剛経
  蒙ムン東トン通トン動トン同トン功クン空クン夢ムン中ツン衆ツン宗ツン重ツン恭クン供クン従ツン奉フン種ツン擁ユン誦スン用ユン
 舌音の時にはトンと注意符号を付けて記される。このトがtuを表すであろうことは奥村先生が観音経に関しては指摘されていることであるが、金剛経に関しても同様である。模韻は補プ孤ク蘇ス呼フ露ルなど、みなウの母音で、舌音の塗ト土ト表記はtuを表したものであろう。
○徳韻合口のエツ型とオツ型           (表5)
 貝葉版観音経の音釈では国(クエフ・コツ)が見える。該当の字が国或惑ぐらいで非常に少ないが、エツ・オツの二型がある。
 「四書唐音弁」で徳韻の合口は国クヲツ或フヲツ・ウヲツとなっている。開合不分の唇音では北ペツ・ポツの形を取っているのが参考になるが、これは開口がエツであることから、その間のゆれとも考えられる。
○唇内韻尾をムで表記するか
 これは奥村先生が既に指摘しているが、天和三年版黄檗観音経で唇内韻尾をムで表記している。
  侵韻 甚深心シム金キム今音飲イム   尋ジン臨リン品ピン
  覃韻 男南ナム甘カム          アン
  談韻 敢カム三サム
  塩韻 検ケム険ヘム瞻チエム
  添韻 念ネム
  咸韻                 咸ヘン巌エン
  凡韻                 梵ハン
 この他に貝葉版金剛般若波羅蜜経も同様にムで表記している。
  侵韻  今金キム甚ジム心深シム音イム   吽ホン
  覃韻  貪タム男南ナム闇アム含ハム
  談韻  三サム              擔タン
  添韻                   念ネン
  咸韻  喃ナム
  厳韻  厳エム
  凡韻                   凡梵ハン
 例外の字はあるが、舌内韻尾の字をムで表記した例はないので、この原音は舌内と唇内との区別があったと考えられる。また少しの例外はこの区別が韻書等によったものではないことを示してもいよう。
 凡梵品がムでなく、ンで表記されているが、これは原音がmではなくnであった可能性が高い。現代中国語の唇内韻尾を残している方言でも、頭子音が唇音の場合には、異化作用によって韻尾のmがnになっているものが多いからである。「中原音韻」でも「品」「凡」の字は舌内に配属されており、黄檗唐音の原音でもそうであった可能性は高いといえよう。
 現在の中国諸方言で舌内と唇内との区別を有するのは、汕頭・客家・広州等だが、その点だけからこの二資料の元とした音をその地方に求めるのは早計である。杭州音・官音を元としたと明記してある文雄の唐音にもムとンの区別が存することも考え合わせねばならない。なお、文雄のムとンの区別が韻書として理論的に導き出されたものではなく、現実の音を反映していることは、第十七転・第十九転のム表記から証されるのだが、そのことは別稿に譲りたい。


      四

 唇内韻尾をムで表記する二つの文献「天和三年版観音経」「貝葉版金剛般若波羅蜜経」は、他の文献と比較して、この二文献だけの共通点をいくつか持つ。日母のヤ行は全く無く、疑母のガ行表記は少ない。止摂のギ表記がない他に、他資料ではみなゴとなる「臥」がヲウとなる点も共通している。
 また、清濁の区別を有しない点を考え合わせると、これらの特徴は南京音的なものといえる。また他の資料では通摂はオンが中心でそれにウンが混入している状況であるが、この二資料はウンのみで統一されている。また止摂の舌上音はこの二資料ではチイのみでツウはみえず、祭韻の歯音もシイのみでスウは見えない。ただし止摂の正歯音はツウが見え、その点では「四書唐音弁」に載せるところの南京音と全同ではない。またムとンの区別がある点は先述のようにどこの方音とも決め切れない。
 ところでこの二資料は音の様相が似ているだけではなくて、外部徴証的にも関係がある。それは刊記の部分が酷似しているのである。字体も似ているところから覆刻であろうと思われるが、黄檗観音経で「観音経壹巻」とある「観音」の部分を「金剛」に替えただけの形なのである(この部分は字体も異なる)。他に異なっている点は、「菓」が「果」になっていることのほかに、観音経では、

      伏願罪花凋謝妙菓圓成九
       品臺上親受
      如来記 頓悟無生之旨法界
      寛親咸沾利楽此板現貯于
    黄檗山寳善庵十方有縁……

と続くのだが、金剛経の方は、

       伏願罪花凋謝妙果圓成九
       品臺上親受
     如来記 頓悟無生之旨法界寛

と、一字分繰り上がって「寛」の字を組み込んで、この行で終わっている。
 このように貝葉版金剛経と黄檗版観音経とは非常に関係が深い。しかし古版の金剛経や貝葉版観音経はこの二資料と特に関係が深いというわけでもなく、なにゆえこの二資料が共通点を多く持つのかは明らかでない。本稿の資料とは別の古版金剛経が存在することも考えられ、あるいは貝葉版と同版にしても刊年等が記されたものが見られれば、なお分かることがあるかも知れない。

 次に仏遺教経に記された音は濁点が多く打たれ清濁の区別を有することが明らかである点から、浙江音的なものではないかと推察されるが、薬韻がすべてヤツの形で表れる点も同じく浙江音的である。しかし、日母のヤ行表記がある点は福州音的といえる。疑母の止摂のギ表記も福州音のものであろうか。福州では疑母はほとんどがngのままをたもち、アヤワ行化、ナ行化はしていない。
 このような音の様相を示すのはこの資料のみであるが、この資料は前記のように書き込みであり、その点他の黄檗資料とは性質が異なる。しかし黄檗山蔵板の書物に書き込んであるから黄檗唐音の一種と見なすことに差し支えあるまい。
 以上の三資料の他の資料は分類が困難である。日母のヤ行表記の出現の仕方は各資料に見え、資料によって韻ごとのヤ行化の度合いが異なるようにも見えるが、一資料の中でも同字にザ行表記とヤ行表記の両方もあるなど、線をひきがたい。これは疑母のガ行表記に関しても同様であるが、仏説梵網経は魚韻・虞韻もギイ表記である点、イ表記中心の他資料とは異なる。またこの資料は、他資料がみなエンである「言」にゲンの注音があり、層別化が可能かも知れない。
 仏説梵網経を含めてこのグループは、清濁の区別を有しない点等南京音的ではあるが、祭韻歯音の表れ方等は黄檗版観音経・貝葉版金剛経にくらべればス・ツ表記が多く、浙江音的なようである。また日母・疑母の表れ方は仏遺教経同様、福州音的と言えようか。なお、唐話辞書の「唐音世語」はこのグループと似た様相を示し、南京音、或いは浙江音中心である唐話辞書の中では特異な存在である。


     五

 以上のように黄檗唐音は資料によって字音体系の異なりを見せ、少なくとも三つのグループに分けることができる。この意味で黄檗唐音は重層性をもつというわけである。
 有坂氏は黄檗唐音は南京音を中心に福州音が混入したものだとし、奥村先生は呉語的要素も有りそうだと指摘したが、実は資料によってその原音が異なっていると考えるべきである。つまり、黄檗唐音は南京音を中心としたものが多いが、それに浙江音等の呉語や福州音が混入することもあり、その混入のあり方は資料によって異なる、というわけである。
 黄檗唐音の原音がどこの方音であるかという問題を離れても、この黄檗唐音が重層性を示すということは、黄檗唐音を国語音韻史の資料として使うときに考慮にいれねばならない。たとえば、有坂氏のハ行音で考えてみる。
 有坂氏は、
  黄檗唐音に於ては、最古の最も信頼すべき資料についてみると支那原音のfaを写すには、すべてフワの仮名を用いている。
 として、当時の京都ではハの子音がfでなかった証拠とした。しかし、有坂氏も記すように「最古の最も信頼すべき資料」においてフワと表記されるわけでfaをハで表記する文献もあるわけである。このようなものを有坂氏は、
  この中に於て支那原音faを屡ハで表しているのは、恐く最初ファの形で支那から輸入されたものが日本寺院で伝誦される間に次第にハに転訛して来たものと見らるべきもので、私はかくの如き文献を「最古の最も信頼すべき資料」の中に加えることは出来ないのである。
と解釈している。黄檗版観音経は有坂氏が用いなかった資料であるが、これもfaをハ表記している。有坂氏に従えばこれも転訛した資料ということになるが、たとえこれが転訛したものであったとしても、それは有坂氏の「信頼すべき資料」の字音体系から転訛したものとは考えられない。勿論それは字音体系が異なるからで、たとえば「于」も「如」もイであったものが「于」がイ、「如」がジと転訛するはずがない。
 また観音経の貝葉版では、黄檗版と異なり、有坂氏のいう「信頼すべき資料」の音と共通する音が記されている。つまり観音経という一つの経典でも、転訛とは言えない音の異なりがあるわけなのである。
 有坂氏は、
  支那原音のfaとhuaとを共にハで写しているものはすべて長崎関係のものばかりである。
として、長崎におけるハ行の唇音性残存を言うのだが、黄檗唐音においてもハで写した資料の音がフワで写した資料の音から転訛したものではないとなると、黄檗版観音経に付音した人物のハ行音についても長崎関係の資料と同様の解釈をせねばなるまい。また転訛ではないにしろ、仮名表記の粗さでfaをハ表記した可能性もあるが、その可能性は長崎関係の資料にもある。奥村先生も指摘のように、黄檗版観音経はha音をもカではなく、ハで表記しているが、これは長崎関係の資料とて同じで、ハでfaをもhaをも表しているのである。
 haのハ表記という点で、近世唐音のハ音の状況は中世までのハ音の状況とは異なるわけで、長崎のハ音の唇音性残存を疑うか、黄檗版観音経の付音者についても、長崎についても、ha・faをともにハで表記できるようなハ音の状況を想定するか(たとえばhwaのようなものか)、いずれかの解釈が必要だろうが、ここでは問題提起にとどめておく。(注%E)
 有坂氏が唐通事関係の資料については唇音性の残存を言い、ハ表記のある黄檗関係資料に関してはそれを言わなかったのは、黄檗唐音が均質な字音体系を持っていると考えたからであるように思える。当時の長崎のハと、京都黄檗山のハとが異なる音であったとは、唐音資料からは証明できないというのが、黄檗唐音の重層性によって言えるのである。



            -注-
(%1)「江戸時代中頃に於けるハの頭音について」『国語音韻史の研究』
(%2)九州大学付属図書館蔵本による。
(%3)京都大学付属図書館蔵本による。
(%4)「近世唐音弁-南京音と浙江音-」岐阜大学国語国文学十七号。「近世的唐音の音体系-江南浙北音としての-」国語国文五四巻七号。「近世的唐音の音体系-その二、韻母の面よりの考察-」国語国文五五巻六号。
(%5)井上隆明氏、青裳堂書店『日本書誌学大系』14
(%6)国立中央研究院歴史語言研究所単刊甲種之十二 上海
(%7)「日本漢字音に於ける頭子音の清濁-韻鏡清の字にして日本字音濁となるものに就て-」国語国文三七巻一二号・三八巻一号
(%8)高松政雄「近世的唐音-破擦音を主として-」岐阜大学教育学部研究報告 人文科学三二巻
(%9)汲古書院『唐話辞書類集』第八集。
(%A)北京大学中国語言文学系語言学教研室。
(%B)汲古書院『唐話辞書類集』第十六集・思文閣『陽明叢書 国書篇中世国語資料』に影印、「国語国文」一八巻一号・二号に翻刻。右側に南京音、左側に福州音を付す。
(%C)「アジア・アフリカ言語文化研究」六号
(%D)中華民国中山学術文化基金〓事会補助出版、台湾
(%E)古版である黄檗版ではハ表記され、時代的に新しい貝葉版でフワ表記されているのも気になるところである。

[付記]本稿は、昭和六十年度国語学会秋季大会での発表をもとにまとめたものです。発表席上でご教授くださいました諸先生方にお礼申し上げます。
資料の閲覧をお許しくださいました長崎の崇福寺、宮田安氏にもお礼申し上げます。

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