#author("2020-08-21T15:25:26+09:00","default:kuzan","kuzan")
[[新村出]]

 自分が速記術の存在を知つたのは、明治二十三年、四年、五年ころ、私の十五、六、七歳のとき、時代でいふならば、帝国議会が開かれた明治廿三年ころから以後のことであつたでせうか。静岡の中学の上級生ないし卒業後に上京して、一高の生徒になる時分ではなかつたかと思ひます。日本で速記術が出来てから十年ほどあとのことですから、六十年ほどの昔にあたります。
 田鎖綱紀といふ人が作つたのだとか、ボソヤリ聞いてゐましたが、めつたに見聞しない姓ですから、すぐ憶えることが出来ました。
 今その率先者の略伝を調べようと思つて、経済雑誌社の『大日本人名辞書』の増補版や、昭和十二三年頃に出版された平凡社の『新撰大人名辞典』あたりを見ましたが、どれにも載せてありません。不思議とも遺憾とも申し様がないではありませんか。かういふ文化界に画期的な功績のあつた人に対して、旧時代にはそれ相当の勲位とか、贈位とか、記念碑とか、或る形の表彰はあつたに相違ない筈ですが、人名辞書に載せてないのは、大きな失態といつても差支ないではないでせうか。
 こんな慨歎をいたしながら、日本速記術の歴史を回顧してみたのですが、私が明治二十五年に東京に出て、初めて単身で歌舞伎座の芝居を見にいつたとき、三遊亭円朝の名高い講談で、支那の小説から翻案して評判の高かつた「牡丹燈龍」をやつてゐました。有名な速記者で若林なにがしといつた人が速記したものに依つたとか聞きました。円朝の講談は、一度東京向島にあつた私の実家で阻いたことがなりました。ハッくらゐの少年時代でして、円朝の十八番の「塩原多助」であつたかもしれません。これもたしか若林が速記して世に行はれたもので、外にも酒井といふ速記者があり、今でもこれら二人の速記物はおぼえてゐます。却てこれらの先駆者から進展して議会の速記者となつた先進の速記入の方のことは知らずにすごしてしまひました。これらの先輩者のことも、普通の人名辞書には顕はされてありません。実に惜しいことです。忘恩のそしりを免れません。これらのことは、私の八九歳ころだと思ひますから、明治十六七年の時分かとしてよろしいでせう。
 学術上の講演などに速記が応用されたのは、いつごろからか、全く調べても見ませんから判りませんけれども講談ものや、議会などの演説筆記よりは、概して少し後れたのではなからうかと思ひます。私自身の講演や談話の速記が取られるやうになつたのは、明治の来も末、私が京都大学に赴任してからのことで、随分度々速記者諸君の御厄介になつたもので、記憶も割合に鮮かです。
 私が東大で言語学科を修め、卒業したのが、一八九九年にあたる明治三十二年でしたが、その翌年に先輩同友と相議つて言語学会を起こしたとき、当時の風潮として言語学は、とかぐ発音や文字、殊に国字の改良に向けられましたが、日本の国字組織が漢字や仮名の複雑なシステムであつたため、又語法がかなり込み入つてゐたがために、即ち文字と文法が西洋とは非常に違つて錯雑極まるものでしたから、日本の速記の符号文字の組織がよほど面倒であり、能率が劣るといふ批評を聞いたこともあり、言語学会その他同類の学会においても、しばしば論議されたのでしたが、私は当時は音声学を先づ勉強中であつたにも拘はらず、速記法に対しては意を注ぐことは出来ませんでした。
 明治三十三年十一月号の「言語学雑誌」第九号に、ベルリンのゲルストベルガーといふ篤志家から、日本の新国字としての自己の創意に由る符号字を提案して来たことがあり、同友藤岡勝二氏が訳述且つ評論して示したことがありましたが、当時の師友は一般に冷淡に構へてをつた様でしたが、詳しくは同誌をごらん下さい。これは一九〇〇年のことで日本に速記術が起つてから十五年か二十年くらゐ後の頃でしたらうと思ひます。
 その後いろいろの段階を経て、改良進歩の跡が見られるやうであります。しかし、それらの経過とは私は殆ど没交渉でありましたから、多言も確言も出来ません。京都で知名の中根氏の進んだ方式、それの流れを汲んだ速記者諸君の御厄介になつたことを忘れがたいのですが、しかし日本の速記術の歴史や比較や優劣やを判定するに足るだけの資格がないのです。ただこの日本速記法創始七十年を記念すべき年にあたつて一言祝意を表したいと思つて筆を執つたにすぎません。私の年齢と殆ど同甲なのも喜びの一つです。
                                (昭和二十七年十月「日本の速記」)


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