#author("2020-01-28T02:11:59+09:00","default:kuzan","kuzan")

岩波全書
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はしがき
 日本語は非常にむづかしい言語のやうに思はれ、また云はれてゐる。特に外國語を學習した人たちには、外國語との比較の上から、さう思はれることが多い。これには色々な理由が考へられるが、第一に、日本語では、漢字と假名といふ、全く異質な文字が併用され、かつ一語一語の表記法が浮動して固定してゐないといふこと、次に、同類の思想を表現したり、それの派生的觀念を表現するのに、固有日本語と漢語とが複雜に交錯してゐて、簡明な一の體系によつて貫かれてゐないこと、敬語の使用が複雜であること等々が擧げられるであらうが、日本語には、文法的法則が確立されてゐないのではないかといふ感じも、國語に對して不安の念を抱かせる一の重要な理由になるのではないかと思はれる。日本語に、はたして文法があるのだらうかといふ疑問は、明治初年にヨーロッパの諸國語を學んだ人たちのひとしく抱いた不安であつた。その後多くの文法學者が出て、日本文法に關する研究が盛んになつては來たが、今日まだ標準的日本文法が確立されてゐないことは、右
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はしか巻
のやうな不安を裏書きすることにもならないとは限らない。しかしながら、今日、日本文法に關して、決定的な結論が出てゐないといふことは、日本文法學がまだ建設の途上にあるためであつて、日本語に文法が存在しないためでないことは明かである。
 日本語について、結論的な文法書が出てゐないといふことは、一面、國語學の未熟なことを思はせるのであるが、ヨーロッパの文法學が、ギリシア以來の傳統の重壓のために、革新的な科學的文法學説の出て來る道が妨げられてゐるのに較べて、日本文法學の前途には、これを阻むやうな固定した傳統も標準もないといふことは、この道に携る學者に明るい氣持ちをさへ與へてゐるのではないかと思はれる。ただ私たちは、日本文法に關心を持たれる人たちに、次のやうなことを期待したいのである。
 今日、文法學の基礎知識は、日本語についてよりも、むしろ英、佛、獨等のヨーロッパの諸國語について與へられる方が多い。そこで、日本語の文法についても、ヨーロッパの諸言語の文法を基準にして考へたがる。その結果、割切れない多くの現象に行き當るのであるが、言語は傳統的なものであり、歴史的なものであつて、思考の法則が普遍的であるやうには、言語の法則は一般的な原理で律することが出來ないものを持つてゐる。日本語
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ばしかき
の文法は、日本語そのものに即して觀察されないかぎり、正しい結論を得ることは困難なのである。ヨーロッパの言語の法則が、一般文法の原理であるかのやうな錯覺を打破することが何よりも大切である。
 右のやうな考へは、また次に述べる日本語は變則的、例外的な言語であるとい、ふ偏見につらなつてゐる。變則的、例外的であるから、ヨーロッパの言語の原理的法則に照らして割切れないところがあるのも當然であるといふやうな考へに安住してしまふのである。確かに、今日文化的言語として世界を支配するものは、英、佛、獨等の印歐語系の言語である。日本語と同系統、同語族の言語で、これに拮抗し得るのは、ただ日本語だけである。群がる鞦類の中の一羽の鳥のやうなもので、數の上から云へば、たしかに例外的、變則的存在に違ひない。日本語の文法現象の一々が破格であり、奇異であると感ぜられるのも當然である。しかし、そこに眞理を見出し得ないかぎり、日本語の文法は完全に記述することは困難であらうし、更に世界諸言語の文法現象の奥にひそむ、より高次な言語的眞理を把握することは不可能となるであらう。世界諸言語の文法的眞理の探求といふことは、日本文法學のヨーロッパ文法學への近寄せといふやうな安易なことで達成出來るとは思へな
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はしがき
いのである。明治以後の文法研究者の惱みはそこにあつた。最初は、ヨーロッパ文法の理論に忠實に從ふことによつて、日本文法を完全に記述することが出來ると豫想したのであるが、やがてそれが不可能であることが分つて見ると、原理は結局日本語そのものの中に求めなければならないこととなつたのである。これは誰にも頼ることの出來ない、また既成の學論や理論にすがることの出來ない、日本の學徒が、日本語と眞正面から取組んで始めて出來ることなのである。しかし、ここで日本文法學が始めて正しい意味の科學として出發することになつたと云ふことが出來るのである。ただここで考へ得られる一の足揚は、古い日本語研究に現れた學説と理論とである。鎌倉時代(西紀第十二世紀)或はそれ以前から、日本學者が日本語について考察し、思索して來た理論や學説は、まさに日本語そのものの一の投影として、私たちの行手を照らす燈であるに違ひない。本書は、右のやうな研究方法に立脚して、日本語の理論を遠い過去の先學の研究に求め、それを理論的に展開して日本文法學を組織しようとしたものである。その意味で、本書は、拙著國語學史(昭和十五年岩波書店刊)の研究を前挑とするものであることを附加へて畳きたい。
 私の見るところでは、その基礎的構造の理論をつかみ得るならば、日本語は、印歐語に
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 比して、比較的簡明な文法を持つた言語であると云ふことが出來るのではないかと考へてゐる。ただし、ここに云ふ日本語の基礎的構造を、理論的に把握するためには、問題を言語そのものの本質的究明にまで掘下げて考へる必要があるのである。本書は、それらの點について詳論する暇が無かつたので、大體の記述に止めて、詳しくは拙著『國語學原論』(昭和十六年岩波書店刊)に讓ることとした。
 今日の日本文法學は、その組織の末節にある異同を改めたり、言語學の最高水準に照して理論をより確實にしたりすることによつては、もほやどうにもならない、もつと基本的な問題にぶつかつてゐるのである。それは、言語そのものをどのやうに考へるかの問題である。本書は、そのやうな根本問題を出發點としてゐるので、日本文法の大體の輪廓を知らうとする人たちにとつては、煩はしいまでに、理論のために頁を割いてゐるが、日本文法を日本語の性格に郎して勸察されようとする人たちにとつて、或は言語と人間精禪、言語と人間文化の交渉の祕奥を探らうとする人たちにとつては、何ほどかの手がかりを示すことが出來ると信ずるのである。
 ちなみに、本書に用ゐた學術用語は、殆ど古來の使用と現在の慣用のものを用ゐ、その
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ぱしが老
概念内容を改めて行くことに力を注いで、努めて薪造語を避ける方針をとつた。しかし、現在の用語がすべて適切であると考へてゐる譯ではなく、それに對する試案は、本論、文法用語の項目の中にも述べて置いた。
 以上のやうな理由に基づいて、本書では、日本文法の組織の骨組を作ることに追はれて、充分な記述にまで手がのびなかつたことを、諒承されたい。
 また、本書に用ゐた「かなづかひ」については、私は「現代かなづかい」の根本方針に疑ひを持つてゐるので(一)新かなづかひ法が、確實な理論の上に制定されるまでは、暫く舊來の方式に從ふこととした。私一己の試案(二)もあるけれども、かりそめに、そのやうなものを實行することは、徒に混亂の種を増すことであると考へて見合はせることにした。
 (一) 國語審議會答申の「現代かなづかい」について(國語と國文學 第二十四卷第二號、『國語問題と國語教育』に收む)
 (二) 國語假名つかひ改訂私案(國語と國文學 第二十五卷第三號、『國語問題と國語教育』に收む)
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目次
 第      第は
 ニ       ーし
一章六五四三二一章が
總_ 文  文日軸き 口
總  論
法學の對象
本文法學の由來とその日的
言語の本質と言語に於ける單位的なもの(一)
言語の本質と言語に於ける單位的なもの(二)
一
一
=
西
 証
 ・口 法
   用
読  語
i論 i
,δ
用言の活用と五士音圖及び現代かなづかい
二七
出
μ幽
イ
言語に於ける單位としての語
四幽
に圏
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肖
、
二
三
ロ 語の構造
ハ 語の認定
詞
ヲルヌリチトヘホニハロイ
甑㎜の分類-詞と辭…1
總 読
代名詞
代名詞
動 詞
形容詞
  體
  言
  と
((名
ニー・詞
)  )
形式名詞と形式動詞
動詞の派生語-自動・他動 受身 可能 敬讓 使役
洳八八七六六六五王四
八洳二二六五記六四加
いはゆる形容動詞の取扱ひ方
連體詞と副詞
接頭語と接尾語
結

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次
目
四 辭
イ
口
總説
接續詞
感動詞
助動詞
指定の助動詞
指定の助動詞
打消の助動詞
打消の助動詞
打消の助動詞
(一〇)
 (=)
永 助詞
まぬなあだ
い  いる
過去及び完了の助動詞
音勘士心及び推一量…の助動詞
推量の助動詞 だらう
推量の助動詞 らしい
 推墳の助動詞べし
 敬譲の助動詞 ます
た
、つ  よ、つ
です ごぎいます でございます
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總 説
格を表はす助詞
限定を表はす助詞
接續を表はす助詞
感動を表はす助詞
第三章 文
  一 總論
論
'匕四一一冫h」六
六五四三二
ハロ・イ
詞と辭との意味的關係
句と入子型構造(こ
句と入子型構造(二)
用言に於ける陳述の表現
文の成分と格
總  説
 述語格と主語格
…述語格と客語、補語、賓語格
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  ホ
   へ
第四章
  一
六五四三二
荊
文の集合と文章
修飾語格
對象語格
獨立語格
文章論
恩
文章の構造
文章の成分
文章論と語論との關係
その他の諸問題
索  引
次
目
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第一章 總論
日本文法學の由來とその目的
早總 論
 日本文法がどのやうなものであり、また日本文法研究がどのやうな目的と任務を持つものであるかを明かにするには、まづ、日本文法を研究する學問である日本文法論或は日本文法學の成立の由來を明かにすることが便宜であり、また必要なことである。
 今日見るやうな日本文法の研究は、江戸時代末期に、オラング語の文法書が舶載され、それに倣つて國語の文法を組織しようとしたことに端を發し、明治時代になつては、主として英文法書の影響を受けて、多くの日本文法書が作られ、また日本文法の研究が促されるやうになつた。

 當時輸入された外國の文法書は、學問的な文法研究書といふよりは、外國語の學習の手引きとしての教課文法書であつたため、國語の文法書も専らそのやうな見地で編まれたも
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・一 日本文法學の由來きその目的
のであつた。即ち、文法書は、國語の、特に文語の讀解と表現とに役立つものといふことが、主要な任務とされた。また日本文法の紅織の立て方、説明の方法も、專ら外國の文法書のそれに倣つたことも止むを得ないことであつた。
 日本文法の全面的な組織と體系化は、右に述べたやうに、外國の文法書の影響によるものではあつたが、それに類した研究や、その部分的研究に屬するものは、從來の國語研究に全然無かつた譯ではなかつたので、江戸時代の國語學者の研究にも捨てがたいものがあり、見るべきものがあることが顧みられるやうになつて、ここに日本、西洋の研究を取入れた折衷文法書も現れるやうになつて來た。更に進んで、ヨーロッパの言語學の理論に立脚し、日本語の文法を根本的に研究しようといふことになり、從來の實用主義を離れて、全く純科學的精神に立脚し、日本文法を言語學或は國語學の一環として研究するやうになつたのが、近代の日本文法學の大體の状況であるといふことが出來るのである。しかしながら、日本でも西洋でも同じことであるが、文法研究の淵源に溯つて見ると、文法研究は、古典の讀解、表現の技法のために存在したものであつて、單に學問のための學問として存在したものではなかつた。云はば、人間の言語的實踐に羯應するものとして存在したので
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論
第一章總
あつた。何となれば、古典の言語は、現代に於いては意味不通のものとなつて、先づ言語的に解明して行くことが必要とされたからである。文法學が必要とされるのは、理解の揚合だけではない。古典言語によつて表現することが、唯一の表現方法であつた時代に於いては、文法學はまた表現の重要な武器でもあつたのである。このことは、今日外國語學習に於ける外國語文法學の關係と全く同じであると云ふことが出來る。近代になつて、言語研究の課題が、古典言語から、現代語へと移つて來た。現代口語の文法が研究されるやうになつたのは、我が國では明治三十年代のことである。ところで、外國人は別として、我々は、現代語については、その文法的知識なくしても、一往の理解と表現に事缺くことはないと考へてゐる。確かにそれは事實である。もし口語文法の研究と教授が、文語文法のそれの意味なき傳承に過ぎないものではないと考へるならば、そしてまた、それが單なる學問のための學問以上の意義があると考へるならば、それにどのやうな意義が附與されるであらうか。今、これを教育の立場に於いて考へて見よう。昭和六年中學校令施行規則及び教授要目が改正され、中學校の低學年に口語文法が課せられるやうになつた時、橋本進吉博士は次のやうに述べて居られる。
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一 日本文法學の由來とその目的
	 現代に於ては、口語文が一般に行はれて文語文は甚だ稀にしか用ひられません。まして中學校に入つて始めて文法を學ぶものは、口語文にかなり親んで居りますが、文語文には甚だ踈いのであります。既知から未知に入り、易から難に及ぶのが、教育の根本原理であるとすれば、かやうな實情の下にあつて、文語の文法から始めるのは順序を顛倒したものであつて、既に習熟してゐる口語について文法を説き、然る後、文語の文法に及ぶのが最も自然な道筋であると考へます。(一)
 博士は、口語文法の教授を以て、文語文法に入る階梯準備として考へられた。博士はまた同時に、口語法の教授に、ただ文語法への階梯としての意義だけでなく、更に別個の、獨立した意義のあることを述べて居られる。
	 廣く國語教育の立場から見れば、文法の知識は、我が國語の構造を明かにし、國語の特質を知らしめ、又、文法の上にあらはれた國民の思考法を自覺せしめるに必要である事は既に述べた通りである。(二)
 口語法の教授は、言語の表現、理解のためといふ實用的見地を離れて、國語の構造、更に國民の思考法に對する自覺を喚起させるところにあることを主張されたもので、これは
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第一一章總
昭和六年の教授要目にある「文法ノ教授ニ於テハ國語ノ特色ヲ理解セシムルト共ニ國語愛護ノ精神ヲ養ハンコトニ留意スヘシ」といふことと揆を一にするものである。橋本博士は、更にその考を進めて、
	國語教育といふ立場だけからでなく、一般に教育といふ立場からして、國文法の學修といふ事を考へて見る時、ここにまた別種の意義が見出されるのではなからうかと思ふ。組織的教育に於て課せられる種々の學科は、それぞれの領域に於ける特殊の知識を與へる外に、種々のものの見方考方取扱方を教へるものである。(中略)精神や文化を研究する專門の學としては文科的の諸學があるが、これ等は普通教育に於ては十分に學的體系をなした知識としては授けられないやうであり、(中略)唯國文法のみは、かやうな所まで行きうるのではなからうかとおもはれる。(三)
 文法科の任務を、ただ國語についての認識を高めるばかりでなく、文化現象を觀察する唯一の學科として考へるやうになり、その後の國定文法教科書は、右の線に沿つて、生徒自ら國語の法則を發見し、これを組織する研究的、開發的な方法によつて行はれるやうな組織に改められた。
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Pt 日オ・文法學の由來とそのll的
 普通教育に於ける文法科は、以上述べたやうに、文化現象としての國語の法則を觀察する認識學科となつたのであるが、その理由は、口語文が國語教育の主要な内容となつて來たためである。口語文が重要視された結果、口語法が文語法教授にとつて代はることになつたが、同時に、從來、文語法教授の主要な任務であつた古典講讀のための文法教授といふ實用的意味も當然改められ、以上のやうな新しい意味を口語法教授に附與することとなつたのである。それも文法科の一の行き方ではあらうが、中等學校の諸科目が、大學、專門學校に於ける學科別の縮圖である必要はなく、またあつてはならないことを思へば、文法科を認識學科として見る現今の取扱ひ方には大きな問題があると見なければならない。
 文法學は、確かに人間の精神や文化を研究する學問の一つではあるが、中等學校に於ける文法科の目的は、必しも小國語學者、小文法學者を養成することではない筈である。中等學校に於ける文法科の任務を正當に理解するには、もう一度これを國語科の中に引戻し
て、國語教育全體の立場から、文法科を考へて來る必要があるのである。普通教育としての國語科の任務は、何と云つても、國民の國語生活である、讀むこと、書くこと、聞くこと、話すことの訓練、學習にあることはまちがひないところであらう。この四の國語生活
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第一章 總論
の形態は、人間一生の生活を通じて、片時も離れることの出來ないもので、これを圓滑に實踐することが出來るやうにすることは、國語教育に課せられた根本的使命である。これらの實踐を有效にし、適切にするためには、國語に對する或る程度の自覺と認識が必要で
あつて、國語要説とか文法學は、その意味に於いて中等學校の教科口として意味があるのであつて、それ自身獨立した學問としてあることが必要なのではない。
 口語法の教授に、實用的見地が否定されるやうになつたのは、文語法の組織がそのまま口語法に踏襲されたことが重要な原因をなしてゐると見ることが出來る。動詞・形容詞の活用形と、その接續する語との關係のやうな事實は、古語の場合には非常に重要な事柄であらうが、現代語の場合には、殆ど問題にならない自明の事柄である。從つてそこから、口語法を實用的意味に於いて課することが否定されるやうになつたのも、當然であると云へるのであるが、そのことから、直に口語法を精神觀察のための認識學科として位置付けることには大きな飛躍がある。本來から云へば、口語文教授に即應して口語法が學科目として取上げられた時、先づ考へられなければならなかつたことは、現代語生活に文法教授のやうなものが必要であるかどうか、もし必要であるとしても、そこに取上げられる問題、
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一 日本文法離の由褒とその目的
または文法書の組織といふものは如何にあらねばならないかといふことが仔細に考究されねばならなかつた筈なのである。ところが、そのやうなことは殆ど問題にされることなく、文語文法の方法と組織とがそのまま口語法に踏襲されたが爲に、口語法教授が文語法教授の持つてゐる實用的意味を持ち續けることが出來なくなり、文法教授の任務に大轉換を行ふことを餘儀なくされたのである。その根底には、文語文法教授の内容と組織とは、凡そ文法學の絶對的な規範であるといふ考へが存してゐたと見ることが出來るのではなからうか。文語文法の組織は、文語文のために必要な組織であり、口語のためには、またそれとは別個の文法組織と問題とが當然考へられなくてはならない筈なのである。文語文の理解と表現には文語法の知識が必要であるが、現代語生活に於いては、もはや文語法の組織をそのまま教授するやうなことは必要ないのであつて、現代語生活をよりよくするためには、それを助ける何等か別の形に於ける文法學の教授といふことが必要とされるのである。これは今後の口語法研究の重要な課題である。
 學校教育に於いて、文法學科を研究的に、開發的に行ひ、生徒自ら言語の法則を發見するやうに導く教授法が不遖當であると考へられることには、以上のほかに猶次のやうな理
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録一章總
由が考へられる。その一は、言語現象は自然現象と異なり、極めて複雜な人間の精神現象であるから、中學校の低學年に於いてこれを課することは、生徒の智能の發達段階から見て不適當であるばかりでなく、これを無造作に行ふことは、言語に對する誤つた觀念を植ゑつけてしまふといふ危險が生ずることである。その二は、言語に對する認識は、言語の自覺的な實踐の上にはじめて築きあげられるものであることは、文學の學問的認識が、文學的體驗をまつてはじめて可能であるのとひとしい。文學的體驗なくして文學論を云々することが危險であるやうに、言語的經驗を自覺的にすることなくして、言語の法則を問題にすることは本末を顳倒したことになる。
 以上のやうな理由によつて、學校教育に於ける文法科は、生徒の言語的經驗を自覺的にし、確實にするといふ實用的見地に於いて課せられるといふことが望ましいので、このやうな實踐的經驗をまつて、はじめて國語に對する認識も、自覺も高められることとなるのである。このことは、一見、文法科の教育的意義を無視して、舊來の暗記的學科に逆轉させるやうに受取られるかも知れないのであるが、學校教育に於ける文法科は、それ自身獨立した一學科としての意義があるのでなく、國語科の一翼を荷ふものとしてのみ存在價値
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一 日ズ文注攣の由來とその口的
があることを理解するならば、當然のことであると云はなければならないのである。
 私は余り文法學の教育的な面ばかりを述べ過ぎたやうであるが、純粹の學術的な文法學の任務についても同じやうなことが云へるのである。一個の科學としての文法學についても、究極に於いてそれは實用的意義を失ふものではないのである。實用的意義を考へることによつて、學問自體が歪められることは、嚴に戒めなければならないことであるが、一方文法學の實用的意義を考へることによつて、文法學の正しい發逹を促す面のあることも忘れてならないことである。
 文法學とその實用的意義との交渉は、單に文法學の理論が、言語的實踐に效果があるといふ、學理とその應用との關係に於いて交渉があるばかりでなく、實はもつと深いところで交渉してゐると見なければならない。それは、一言語は本來人間生活の手段として成立するものであり、常にある目的意識を持ち、それを逹成するに必要な技術によつて表現されるものである。從つて、このやうな言語の投影である文法學は、堂然實踐的體系として組織されなければならない筈である。また饌的體系を彗た文法黌してはじめ直の科掘學的文法學と云ひ得るのである。
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 私は本書に於いて、以上述べたやうな文法學の體系を組織することを企圖したのであるが、現實はその半にも到達することが出來ない結果に終つたやうである。それらの點については、今後の研究にまつこととした。
 (一) 『新文典別記初年級用』の新文典編纂の趣意及び方針の項
 (二) 『國語學と國語教育』(岩波講座 國語教育、橋本博士著作集 第一巻)
 (三) 同上書

呂 文法學の對象
論
第一章總
 文法學は、言語の事實全般を研究對象とする言語學の一分科として成立するものであることは明かであるが、それならば、言語の如何なる事實を研究するものであるか。言語の學問としては、文字を研究する文字學、音聲を研究する音聲學、意味を研究する意味學、或は言語の方言的分裂の事實を研究する方言學、歴史的變遷の事實を研究する言語史學等等を數へることが出來るが、それらの種々な分科に對して、文法學は如何なる言語の事實
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=二 女法ξ}fの麥㌃象
を研究するものであるのか。文法學の對象が、文法であるとするならば、文法とは、言語に於ける如何なる事實であるのか。先づこの點を明かにしなければならない。
 文法を以て、言語構成に關するすべての法式、または通則と解する考方がある。橋本進吉博士は、次のやうに述べて居られる。
	すべて言語構威の法式又は通則を論ずるのが文法又は語法であるとすれば(筆者註、ここでは文法、語法といふことを、文法學、語法學の意味に用ゐてゐる。)、右に擧げた音聲上の種々の構成法や、單語の構成法や、文の構成法は、すべて文法(語法)に屬する事項といふことが出來る。(一)
 事實、文法研究の中に、音聲組織の研究や語源研究をも含めてゐる多くの文法書もあるが、それは、言語についての一切の法則的なものを文法とする考方に基づくものであらうが、さうすれば、結局、文法學は言語についての一切の法則的なものを研究對象とする言語學と同意語となつてしまつて、文法學の眞の對象を決定することが困難になるおそれがある。
 右のやうな説に對して、山田孝雄博士は、文法學の概念を限定して次のやうに述べて居
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られる。
	これ(筆者註、文法學を指す)は語の性質、遐用等を研究する部門なり。
即ち文法學は、語の研・究に限定されることになるのである。博士に從へば、語は言語に於ける材料であるから、常然その静止態の研究と同時に、その活動態の研究も含まれるが故に、いはゆる文の研究もこれに含まれると見るのである。安藤正次氏が語法を定義して、
	語の相互間の關係を規定する法則をさして語法といふ。(三)といはれたのは、山田博士の意味するところと大體同じであると考へて差支へないのであつて、かくして文法學に於いて、一般に語を研究する語論或は品詞論、及び語の運用或は語の相互的關係を論ずる文論、文章論或は措辭論に大別されることになるのである。
 このやうな語及び語の相互關係の研究に對して、文字或は音聲の研究の如きは、語の分析された個々の要素についての研究を意味するのであつて、文法研究が、常に言語を一體と見て、それら一體である語の相互關係を研究對象とする點に於いて著しく相違するのである。
 以上述べたところによつて、文法研究の對象が、言語の要素に關する研究である文字論、
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二文注堵の對象
             智誤信胆艶ハ
音聲論、意味論などと異なり、言語自身を一體として、それの體系を問題とし、研究する學問であることが、明かにされたと思ふのであるが、一體としての言語とは如何なるものであるかについて、それが語であるか、文であるかといふことになれば、今日までのところ、まだ明確な理論の基礎が築かれてはゐないやうである。一體としての言語が如何なるものであり、その體系が如何なるものであるかを明かにしようとするならば、先づ何よりも言語とは如何なるものであるかといふこと、即ち言語の本質が何であるかといふことが問はれなければならないのである。次に私はこの點を明かにしようと思ふ。
 (一) 『國語學概論』(橋本進吉博士著作集 第一巻 二九頁)
 (二) 『日本文法學概論』一五頁
 (三) 『國語學通考』二九五頁

三 言語の本質と言語に於ける單位的なもの(一)
 言語の本質が何であるかといふ言語本質觀には、今日、全く異なつた二の考方が對立し
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論
第一章總
てゐる。その一は、言語は思想と音聲或は文字が結合して出來上つた一の構成體であると見る考方である。これを構成的言語觀、或は言語構成觀と名づけることが出來る。言語の研究にあたつて、對象の觀察、分析に先立つて、このやうな本質觀が問題にされるのは、何故であるかといふならば、言語は我々にとつて極めて親近なものであるにも拘はらず、それは、我々の周圍にある動物や植物などのやうに直接に手に觸れ、目に訴へて觀察することの出來るものと異なり、その正體を捉へることが困難なものであるからである。そこで言語の現象的な事實から、言語はこれこれのものであらうといふ臆測のもとに、一の假説を立てて理論を構威して行かなければならないのである。この假論が、言語のあらゆる現象を殘すところなく論明しおほせるならば、その時、この假説は一の言語理論として定立され、更に種々な言語現象を説明する根本理論となることが出來るのである。右に述べた言語構成觀は、言語は種々な要素の結合體と見るのであるから、言語研究はこれらの要素を抽出して、それが如何に結合されてゐるかを研究することになるのである。言語に對するこのやうな見方及び研究方法は、物質を原子に分析し、その結合の歌態を研究する自然科學の物質觀とその方法とに類似してゐると見ることが出來るのである。このやうにし
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嘗 言語の木質と言語に於ける單位伽なもの(一)
て言語から、音聲と思想との二要素が抽出される。音聲を更に分解すれば、音節が抽出され、音節は更に單音に分解されることになる。しかしながら、このやうに分解を推し進めて行けば、それは結局言語の一面しか明かにすることが出來ないと考へられるところから、思想と音聲との結合したものを單位として分解を施して行く時、句、或は橋本進吉博士のいふところの文節なる單位が得られ、更に之れを思想と音聲との相關關係を破壊することなく分解して行く時、單語に到達する。單語の性質と、單語相互の關係の法則を文法といふならば、文法は、單語を究極の單位として、それが結合される場合の法則をいふものであると見ることが出來るのである。文法の概念は、一般に右のやうに考へられてゐるのであるが、右のやうな考方の特質は、言語の音聲に於いて、究極の單位として單音を分析し、單音の結合に於いて音聲を論明し、理解して行かうとする考方と全く同樣で、言語に於いて、究極の單位として單語を抽出し、單語の結合に於いて言語を説明し、その結合法に於いて文法なる言語事實を認めようとするのである。從來の文法學が、單語論、品詞論を基礎とし、或は中心として、その上に、文章論、或は措辭論が組織されたのは、右のやうな理由に基づくのであつて、根本は、言語を要素或は單位の結合から構成されてゐると見る
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章總
言語構成觀の當然の結論であると見ることが出來るのである。
 言語構成觀は、既に述べたやうに、自然科學的物質構成觀から類推された言語觀であつて、それがはたして、人間的事實に屬する言語のあらゆる現象を論明し蠱すことが出來るかどうかといふ疑問から次の別個の言語觀が成立するのである。
 次に擧げるところの言語観は、言語を人間が自己の思想を外部に表現する精神・生理的活動そのものと見る考方である。これは、言語を要素の結合としてでなく、表現過程そのものに於いて言語を見ようとするのであるから、これを過程的言語觀、或は言語過程觀と名付けることが出來るであらう。
 言語過程觀は、日本の古い國語研究の中に培はれた言語本質觀であつて、それはヨーロッパに發達した言語構成觀に對立する全く異なつた言語に對する思想である。この言語觀の由來とその理論體系、また言語構成觀との相違については、私の『國語學史』(岩波書店、昭和十五年十二月刊)及び『國語學原論』(同、昭和十六年十二月刊)に詳論したので、委細はそれに讓つて、ここでは極めて簡單にその概要を述べることとする。
 一 言語は思想の表現であり、また理解である。思想の表現過程及び理解過程そのもの
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三言語の本質と言語に於ける甲位的なもの(一)
が言語であると考へるのである。
 ニ 思想の表現がすべて言語であるとはいふことが出來ない。思想の表現は、繪畫、音樂、舞踊等によつても行はれるが、言語は、音聲(發音行爲)或は文字(記載行爲)によつて行はれる表現行爲である。同時に、音聲(聽取行爲)或は文字(讀書行爲)によつて行はれる理解行爲である。
 三 言語は、從つて人間行爲の一に屬する。言語を行爲する主體を言語主體と名付けるならば、言語は、言語主體の行爲、實踐としてのみ成立する。そして、それは常に時間の上に展開する。時間的事實であるといふことは、言語の根本的性格である。繪畫や彫刻も
行爲としてまた實踐として成立するが、それは平面或は空間の上に展開する事實である。
 四 言語が人間的行爲であり、思想傳達の形式であるといふことは、表現の主體(話手)、理解の主體(聞手)を豫想することであり、話手、聞手は、言語成立の不可缺の條件である。
 五 構成的言語觀で、言語の構成要素の一と考へられてゐる思想は、言語過程觀に於いては、表現される内容として、言語の成立にはこれもまた不可缺の條件ではあるが、言語そのものに屬するものではない。
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一章總
 六 構成的言語觀で、言語の構成要素と考へられてゐる音聲及び文字は、言語過程觀に於いては、表現の一の段階と考へられる。
 七 言語は、常に言語主體の目的意識に基づく實踐的行爲であり、從つて、表現を調整する技術を拌ふものである。
 八 言語を實踐する言語主體の立場を主體的立場といび、言語を觀察し研究する立場を觀察的立場といひ、この兩者の立場を混同することが許されないと同時に、この兩者の立場の關係を明かにして置くことは重要である。
 九 言語の觀察者が、他の言語主體によつて生産された言語を觀察する場合でも、これを觀察者自身の主體的活動に移行して、内省觀察する以外に、言語研究の方法は考へられない。他人の言語をそのままに觀察するといふことは出來ないことである。奈良時代の言語を觀察するといふことは、奈良時代の言語主體の言語的行爲を、觀察者の主體的活動として再現することによって觀察が可能とされるのである。これを別の言葉でいふならば、「觀察的立場は、常に主體的立場を前提とすることによつてのみ可能とされる。」(一)といふことになる。
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四 言語の本質と磊語に於ける1'i;位的なもの`二)
 一〇 言語研究者の觀察の對象となるのは、常に特定個人の個々の言語である。その中から特殊的現象と普遍的現象とをよりわけ、原理的なもの、法則的なものを歸納するのは、言語研究者の任務である。このやうな普遍化的認識と同時に、特定個人の言語の特殊相を明かにする個別化的認識も言語研究者の重要な任務である。この二つの方向は、相寄り相助けて完全な言語研究の體系を構成する。
 以上は、言語過程觀の最も根本的な言語に對する考方であつて、本書の論述の基調をなすものである。
(一) 『國語學原論』三九頁

四 言語の本質と言語に於ける單位的なもの(二)
 言語構成觀に對立する言語過程觀の概略は、以上述べたやうなものであるが、本書に於いては、日本文法を專ら右に述べた言語過程觀の立場に於いて概説しようと思ふ。從つて、
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第一章總論
言語の究極的單位として單語を考へ、單語を基本とし、出發點として、その結合に於いて言語を考へて行かうとする構成的な考方をとらないで、分析以前の統一體としての言語的事實を捉へ、それを記述することから出發しようとするのである。このやうな研究對象としての統一體としての言語的事實を、言語に於ける單位と名付けるならば、言語に於いて單位と認められるものはどのやうなものであらうか。言語に於ける單位的なものとして、私は次の三つのものを擧げようと思ふ。
  一 語
  二 文
  三 文章
 ここにいふ語及び文は、從來の文法研究に於いて取扱はれたものであるが、文章は、從來、語及び文の集積或は運用として扱はれたもので、例へば、芭蕉の『奥の細道』や漱石の『行人』のやうな一篇の言語的作品をいふのである。これらの文章が、それ自身一の統一體であることに於いて語や文と異なるものでないことは明かである。
 今、この三つのものを文法研究の單位と稱する時、ここに用ゐられた單位の概念を明か
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四 言語の本質と言語に於ける單位的なもの(二)
にして置くことは、右の對象設定の推論を明かにする上に有效であらうと思ふので、以下そのことについて述べようと思ふ。
 一般に、語が言語に於ける單位であると云はれる場合と、私が右に語を單位とするといふ場合の單位の概念には、相當の距離があるのである。一般の用法では、言語の分析の窮極に於いて見出せる分析不可能なものとして、これを言語の單位といふのであつて、それは原子論的單位としての單位の意味である。そこには全體に對する部分の意味が存在するのであつて、それは構成的言語觀の當然の蹄結である。釈がここに云ふ單位といふのは、質的統一體としての全體概念である。人を數へる場合に單位として用ゐられる三人、五人の「人」は、長さや重さを計量する場合に用ゐられる尺や瓦が、量を分割するための基本量を意味するのと異なり、また全體を分析して得られる究極體を意味するのとも異なり、全く質的統一體を意味するところの單位である。言語の單位として擧げた右の三者は、音聲または文字による思想の表現としての言語であることに於いて、根本的性質を同じくし、かつそれぞれに完全な統一體であることによつてこれを言語研究の單位といふことが出來るのである。このやうな單位の概念は、例へば、書籍に於いて、單行本、全集、叢書を、
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第…章綜
それぞれに書籍の單位として取扱ふのと同様に考へることが出來るのである。
 語と文とを言語研究の對象とすることは、從來の文法學に於いて行はれたことで、既に相當の業績を收めたことであるが、ここに云ふ文章については、從來、專ら修辭論に於いて取扱はれて來たことであつて、それが果して、文法學上の對象となり得るかどうかについて疑ふものが多いのではないかと思ふ。文章が國語學の對象となり得るかどうかについて疑はれるといふことは、それが專ら個別的な技術に屬することで、そこから一般的な法則を抽象することが不可能ではないかといふ考へに基づくのである。もちろん文章成立の條件は、個々の場合によつて異なり、そこには一般的法則が定立しないやうに考へられるが、文章が文章として成立するには、それが繪畫とも異なり、音樂とも異なる言語の一般的原則の上に立つて成立するものであることは明かであるから、そこから一般的法則を抽象し得ないとは云ふことが出來ない譯である。文章の構造或は文章の法則は、語や文の研究から歸納し得るものでなく、文章を一の言語的單位として、これを正面の對象に据ゑることから始めなければならないのである。
 文章が、今日専ら修辭法の問題として取上げられてゐることは、語や文が嘗ては修辭法
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四 言語の捧質と毒語に及ける軍位的なものに⇒
の立場から論ぜられたのと同じである。規範を論ずるには、その根底に、事實の科學的な研究や分析が必要であるところから、語や文の修辭論の前提として、科學的な語研究や文研究が成立するやうになつた事情を思へば、規範的文章論が成立するためには、當然科學的な文章研究が起こらなければならないことが分かるのである。文章のことは、修辭論に屬することで、科學的な言語研究の對象とするに値しないもののやうに考へることは正しいことではない。
 文章を對象として研究することは、一個の教材をそれ自身一の統一體として取扱はねばならない國語教育の方面から、現實の問題として強く要請されてゐることである。それは、國語教育の當面の問題は、語でもなく、また文でもなく、實に統一體としての文章(音聲言語の場合も含めて)であるからである。國語教育に於いては、問題は文章の理解と表現との實踐、訓練にあることは勿論であるが、そのやうな教育活動の根底に、文章學の確固たる裏付なくしては、その教育的指導を完全に果すことが出來ない譯である。
 ここで再び最初の文法學の對象は何であるかの問題に立返つて見るならば、「文法學は、言語に於ける單位である語、文、文章を對象として、その性質、構造、體系を研究し、そ
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の間に存する法則を明かにする學問であつて、同じく言語研究ではあるが、言語の構成要素である音聲、文字、意味等を研究する學問とは異なるのである。文法學は以上のやうなものであるから、古來、それが言語研究の中樞的な位遣を占め、時には言語學と同意語の
やうに考へられたのも常然である。音聲、文字、意味の研究も、このやうな文法研究から派生し、その發展として分化して來たものであると見ることが出來る。これは國語學の歴史に於いても認め得ることであり、語法或は文法といふやうな名稱も、その間の事情を物語るものである。近代言語學は、言語の歴史的變邏や方言的分裂を主要な言語研究の課題にして來たために、文法研究は圏外に置かれたかのやうな觀があつたけれども、文法研究が、常に言語を言語としての統一體の姿に於いてこれを把握し研究する部門であることに於いて、言語學の基礎的で、かつ中樞的な領域であることは動かせないであらう。
 以上のやうな單位設定の方法に對して、著しい對照をなすものは、從來の文法研究に於ける單位の概念である。そこでは、單位は言語の分析に於いて到達する分析不可能な・究極的なものとして考へられた。そこには、自然科學に於ける物質構造の考方が反映して居ることを兒出すのである。文法は、これら單位である語の運用上の法則として考へられて來
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四 言語の本質と昆語に於ける單位的なもの(二)
たのである。しかしながら、自然科學的な單位の概念を、言語の研究に適用することは、そもそも無理なことであつて、次第に、統一體としての單位概念に移行するのは自然であつた。そのことは、文法研究の歴史を見れば、明かであつて、語を文法研究の單位として
設定することに既にそれが現れて居る。山田孝雄博士が、語を言語に於ける單位と考へ、その單位の意味を述べて、
	 單位とは分解を施すことを前提としたる觀念にしてその分解の極限の地位をさすものなり。(一)
といはれる時、その單位の意味は、正に原子論的單位の意味であるが、
	單語とは語として分解の極に逹したる單位にして(二)
といはれる時は、既に「語として」といふ質的統一體としての單位の概念が混入してゐるのである。語を質的統一體として見るならば、ここに當然起こらなければならない疑問は、文もまた語と同樣に言語に於ける單位ではないかといふことである。この疑問に對して山田博士は、
	 語といふは思想の發表の材料として見ての名目にして、文といふは思想その事として
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の名目なり(三)
といふやうに説明して居られるのであるが、文の中の語が、思想發表の材料として考へられるべきものであるかといふことには、疑問が殘るのである。文法研究に、質的統一體としての單位概念を導入するならば、文及び文章も、語に劣らず、言語に於ける嚴然たる單
位として認められなければならないのである。
(一) 『日本文法學概論』二九頁
(二) 『改訂版日本文法講義』九頁
(三) 『日本文法學概論』二〇頁

五 文法用語
 今日文法學上用ゐられてゐる用語には、體言、用言、係《かかり》、結《むすび》、その他、用言の活用形に關する未然形、連用形等、或は、活用の種類に關する四段活用、下一段活用、上一段活用等の名稱のやうに、古い國語學上の用語を繼承したものもあるが、品詞名の大部分は、ヨ
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五文法用語
ーロッパ諸國語特にオランダ、イギリス文法の用語の飜譯に基づくものが多い。それら、外國文法の用語の飜譯については、大槻文彦博士に、『和蘭宇典文典の譯述起原』(一)の論文があつて、詳細に述べられてゐる。文法上の用語のやうなものは、その實用的見地から云つても、世界共通であることは、望ましいことであるが、言語は本來歴皮的傳統的のもので、言語によつて、その性格を著しく異にし、その體系も從つて相違するので、これを一律に統一してしまふことは、理論的に殆ど不可能のことである。同じく印歐語族に屬する言語の中でも、英語とオランダ語とはその性格を異にしてゐるので、例へば、英語のadjectiveに相當するものは、オランダ語では、By Voeglyke Naam Woordenとして、名詞に近いものとして取扱はれてゐるのは、それが名詞と同じやうな格變化をするためである。して見れば、印歐語とは著しく性格を異にする國語の文法用語にそれ獨特のものがあるのは、當然のことと云ふべきで、一端の類似から同一名稱を借用する時は、却つて誤解と混亂をひき起こす原因とならないとも限らない。ただし國語内部で、同一文法的事實に種々な用語が用ゐられることは、決して望ましいことではないから、適當にこれを整理統一することは必要であるばかりでなく、徒に奇を好んで新用語を創作することは、嚴に
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第一章總
戒める必要があると思ふのである。ただここで注意したいことは、用語は便宜的なものに過ぎないとは云つても、名稱が事實を反映してゐることは、實用上極めて便宜であるから、用語の制定に當つては、文法理論、學説の嚴密な檢討の上に立つてなされなければならないことは云ふまでもない。
 今日の文法用語の大部分が、外國文典の飜譯に起原するものであることは既に述べたことであり、そしてその中のあるものは、習慣が固定して、確固として拔くことの出來ないものになつてゐるものがあるが、もともと、性格を異にしたヨーロッパ文法の用語をそのまま飜譯借用したために、今日、國語の正しい認識に妨げになつて居るもの、或は不便を感ずるやうなものが少くない。これらについては、再檢討をする必要を感ずるのであるが、習慣が久しいために、これを變改することは容易でないのであるから、國語の文法について考へようとするものは、さしあたり、用語にひきずられることなく、事實そのものについて深い洞察を怠らないやうにする必要がある。
 次に、現在の私の見解に基づいて、問題とすべき文法上の用語を列擧して見ようと思ふ。
 一 形容詞
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五女浤用語
 本來、adjective或はattributiveの譯語として出來たもので、それはこれらの語の持つ機能の上から、實質概念を表はす名詞に對して、屬性概念を表はす語として、名詞に附屬する語であると考へるところに成立した名稱である。從つて、この品詞名には、多分に文論に於ける文構成要素の考へを交へて居ることは明かである。これに反して、國語に於いて形容詞と呼ばれる語は、元來、用言中の一部として認められたもので、それは、語形の變らぬ體言に對して、語形の變る語として認められたものである。勿論、古く國語學上に於いても、これを形状の語といふやうに命名したものもあるが、(二)それが動詞と一類をなして、用言であると認められたことは同じである。國語に於いては、以上のやうに、語の機能的關係からではなく、全く語そのものの持つ性質上から分類されたものである。このやうに、adjectiveと形容詞とは全く異なつた性質を持つた語として理解されたものであるにも拘はらず、これに形容詞といふ屬性概念の表現を意味するやうな名稱が與へられた結果、國語の文法操作の上に、少からぬ混亂を招いたことは事實である。その一は、
  イ 美しい鳥
  ロ 飛ぶ鳥
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第一章總
イの美しいが形容詞と呼ばれるならば、ロの飛ぶも當然形容詞と呼ばれなければならないのではないかと云ふ疑問である。事實英語に於いて、a flying birdの傍線の語は、participial adjectiveと呼ばれて、形容詞として取扱はれてゐるのである。國語に於いては、更に進んで以上のやうな形容詞、動詞の連體形を、形容詞的修飾語などと呼ばれることがあるが、かうなると、もはや用言の一類としての形容詞の名義を逸脱して、英語に於けるattributiveの概念そのままで用ゐたことになる。これは甚しい概念の混亂であつて、國語の形容詞の本質的性格を確認するためには、むしろ、形容詞の名稱を避けて、用言の名稱に立歸る必要があるのである。そして、この形容詞の名稱は、近時學者によつて指摘されるやうになつた特別の語、即ち連體修飾語にのみ用ゐられる「或る」「あらゆる」「件の」等の語のために保留して置くことが望ましいのではないかと思ふ。形容詞の原義は、文の成分としての意味を含めてゐるのであるから、このやうにして保留された形容詞の名義の中には、時に一切の連體修飾語として用ゐられた語を含めて云ふことが出來るのである。本書では、暫く從來の慣用に從ふこととしたので、英語等に於けるadjectiveの概念は、形容詞よりも、近頃使はれるやうになつた連體詞に相當するものと考へてほしいのである。
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五交法用語
 二 助動詞
 この品詞名も今日廣く行はれてゐるものであるが、その起源はやはり英文法などのAuxiliary verbに發してゐるものである。大槻文彦博士の『廣日本文典』には次のやうに説明してある。
	 助動詞ハ、動詞ノ活用ノ、其意ヲ盡サヾルヲ助ケムガ爲ニ、其下ニ付キテ、更ニ種々ノ意義ヲ添フル語ナリ。
 これは全く、英文法などの概念に從つて、動詞の意義を補助するものと考へたのであるが、今日、助動詞として取扱はれてゐる大部分の語は、古く、「てにをは」、「てには」、「辭」などの名稱によつて取扱はれて來たもので、それは、決して、動詞に種々の意義を添へるものとして、考へられたものではなかつた。むしろ今日の助詞と一括して、助詞が活用のないてにはであるのに對して、これらの語は、活用のあるてにはと考へられたので、近世の國語學者は助詞に對して語辭體言(東條義門『活語指南』)、靜辭(富樫廣蔭『詞の玉橋』)の名稱を用ゐ、いはゆる助動詞に對しては、語辭用言或は動辭の名稱を用ゐた。ところが明治以後になつて、辭の中の活用あるものを、助動詞と概念して、助詞とは全く別のカテ
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ゴリーに所屬させたために、これらの語の眞義が全く忘れ去られてしまつた。てには或は辭に屬する語は、國語に於ける重要な語として、國語研究の中樞をなして來たのであるが、これらの語の眞義が忘れ去られたといふことは、同時に、國語の眞の性格が理解出來なくなつたことを意味するのである。『廣日本文典』は既に述べたやうな見解であるから、助動詞を、動詞、形容詞の次に論じ、山田博士の『日本文法論』『日本文法學概論』は、助動詞といふ名稱は用ゐられなかつたが、むしろ積極的に動詞の語尾として、動詞内部の構成部分のやうに取扱はれて、これを複語尾と名付けられた。助動詞が助詞と全く異質なものとして考へられたことは同じである。橋本進吉博士は、その文節論の立場から、文節構成に於ける助詞と助動詞との機能が同一であることを認められて、これを古來の名稱である辭の名義に一括されたのであるが、それは專ら單獨で文節を構成し得るもの、常に他の語に件はれるものといふ語の分類原理に從つて、辭を附屬する語として考へられ、助動詞をその中に所屬させたので、古來の辭としての助動詞の眞義を復活されたのではなかつた。
 本書では、助動詞の眞義を古來のてには研究の中に求めて、これを辭の一類としたのであるから、助動詞の名稱そのものが、既に内容の實際を示さないことになる。そこで、も
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五   〕文 ξ去 /lj 言吾
し適切な名稱を求めるとするならば、動辭、活用あるてには、動くてには等の名稱を選ぶのであるが、習慣を奪重して暫く助動詞の名稱を存置することとした。
 代名詞の名稱とその内容についても問題とすべきことが多いが、それについては、その項目の中で論ずる豫定である。
 文節の名稱も、橋本進吉博士の提唱以來、國定教科書などにも採用されるやうになつたが、このことについても問題があるので、文論中、「句と入子型構造」の中に附説することとした。
 (一) 明治三十一年三月、『復軒雜纂』に收む。
 (二) 富士谷成章の『|裝《よそひ》圖』に於いては|状《さま》といひ、鈴木朖の『言語四種論』に於いては形状の詞といふ。
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第一章總
六 用言の活用と五十音圖及び現代かなづかい
 五十音圖はもと梵語學の影響の下に作られた國語の音韻表であるが、その組織がよく國語の音韻、語法の性質を反映してゐたがために、近世になつてから、國語の現象、特に用言の活用研究に利用されるやうになつた。動詞、形容詞の分類も、全くその活用と五十音圖との關係から出て居り、特に動詞の活用の種類は、全く五十音圖の行と段とに配當されて、何行何段と呼ばれるやうになつて居る。そこで五十音圖の性質を明かにして置くことは、活用研究の眞意を理解する上からも大切なことであらうと思ふのである。

 近世以來、五十音圖が國語の活用現象をよく説明するところから、五十音圖は國語學上、動かすことの出來ない鐵則のやうに考へられ、近世末期に至つては、五十音圖を神秘化する思想まで生まれるに至つたが、元來、五十音圖は國語の音韻、語法現象の觀察から歸納されたもので、これを絶對視すべきものではないのである。かつ、五十音圖は、國語の音韻が或る程度崩壞した時代に成立したもので、その成立の年代は、凡そ平安時代前期と推
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六 用言の活用と五十昔圖及び現代かなづかい
定されてゐるのである。しかし、この音圖が假名で書かれるやうになつてから、既に消滅したア行ヤ行のエの區別は、この五十音の中に現はれて來なくなつた。そのやうな次第であるから、もしこのやうな音韻表が、奈良時代或はそれ以前に作られたとしたならば、その組織はよほど變つたものであつたらうと想像されるのである。更に中世、近世に至つては、國語の音韻は五十音圖成立時代よりも更に減少したのであるから、今日このやうな音韻表を作るとするならば、それはまた五十音圖とは相違したものが出來るであらうと云ふことは想像に難くない。このやうに、五十音圖は、相對的價値において見られねばならないのである。ただ近世國語學の扱つた國語資料と五士背圖成立の年代とが、それほど隔つてゐなかつたことが、五十音圖の利用を有利に、また效果的にしたのである。もし上代國語を、その嚴密な音韻體系において整理しようとするならば、時代を異にして成立した五十音圖の利用は恐らく困難であつたらうと想像されるのである。同樣の理由を以て、後代の國語を、その音韻に即して整理する場合には、當然後代國語の音韻體系に基づいた音韻表によつて整理し、組織しなければならないのであるが、近世國語學者の活用研究は、活用をその音韻によらず、專ら文字によって組織したために、五十音圖の利用は效果的であ
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第一章鮒
つたのである。活用について、ハ行四段活用などと云はれてゐるのは、その音韻に即して云はれてゐるのではなく、ハ行音の文字に即して云はれることで、音韻に即して云ふならば、當然ワ行何段と云はれなければならないのである。
 國語を純然たる表音主義によつて記載しようとする場合には、まづ現代國語の音韻體系に基づく音韻表が作られることが何よりも大切なことである。國語の活用現象もそれによつて組織されることになるのである。
 「現代かなづかい」は、その根本方針として、國語の表音主義を採用してゐるのであるが、同時に、音韻とは關係のない文字の使用を規定してゐるので、「現代かなづかい」による國語表記の基礎となる音韻表は、音韻體系と文字體系との兩者をにらみ合はせてこれを制定しなければならない。舊來の五士音圖を保存し、その上に立つて「現代かなづかい」による國語の文法體系を説明しようとするのは甚しい矛盾であり、また國語を混亂させる原因となるものである。
 今試みに現代語の音韻文字表を作製して見ると別表のやうになる。
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考     備											行段
	節    音							韻  母			
及書の互の尾語中語はげるれらゐ用に◎の詞助び るれらゐ用にεの詞助	ラ	マ	ノ、'_	ナ	タ	サ	カ	,ヤ	ワ	ア	
	τb	ま	は	な	た	さ	か	や	わは	あ	
	ら	ま	は	な	た	さ	か	や	わは	あ	
に昔の守の尾語中語はび 鹽〕   るれらゐ用	リ	ミ	ヒ	二	チ	シ	キ	イ			
	り	み	ひ	に	ち	し	き	おひ			
	り	み	ひ	に	ち	し	き	い			
	丿レ	ム	フ	ヌ	ツ	ス	ク	工	ウ		
	る	む	ふ	ぬ	つ	す	く	ゆ	うふ		
	る	む	ふ	ぬ	つ	す	く	ゆ	う		
   〔            「るれらゐ用に己の詞助はこ・	レ	メ	へ	ネ	テ	セ	ケ	工			
	れ	・め	へ	ね	て	せ	け	えゑへ			
	れ	め	へ	ね	て	せ	け	えへ			
るれらゐ用に包の詞跏堰i	口	モ	ホ	ノ	ト	ソ	コ	ヨ	オ		
	ろ	も	ほ	の	と	そ	こ	よ	おをほ		
	ろ	も	ほ	の	と	そ	こ	よ	おを		
五十音圖による音韻と文字との對照表
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第一章總
表の解説
 一 表に於いて、片假名は音韻を表はし、平假名は、その音韻に相當する文字を示したものである。從つて、右の表は、根本に於いて國語の音韻表であるといふことが出來る。從來の五十音圖は、音韻表でもあり、また假名表でもあつて、その區別が明かでなかつた。
 二 〔ア〕〔ワ〕〔ヤ〕三行の音は、これを母韻と認めて、表の先頭に掲げることとした。この三行は、〔イ〕段に於いては、すべて〔イ〕音に統合され、〔ウ〕段に於いては、〔ア〕〔ワ〕行は〔ウ〕音に統合され、〔エ〕段に於いては、すべて〔エ〕音に統合され、〔オ〕段に於いては、〔ア〕〔ワ〕行は〔オ〕音に統合されてゐる。
 三 右のやうに整理することによつて、〔ア〕行と〔ワ〕行との相違は、單に〔ア〕段に於いて、相違があるのみとなつた。
 四 〔ア〕〔ワ〕〔ヤ〕三行の音は母韻であるから、〔カ〕行以下の音は、すべて拗言である
ことも許されるのである。例へば、〔カ〕は、〔キャ〕或は〔クヮ〕として認められるのである。
 五 音韻に相當する假名は、歴史的假名づかひの場合を上段に、現代かなづかいの場合
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六 用言の活用と五十普厨及び現代かなイかい
を下段に置いて示した。
 表について見れば明かなやうに、歴史的かなづかひに於いては、ワ音に對して「わ」「は」二文字が當てられ、イ音に對して「い」「ゐ」「ひ」三文字が當てられてゐる。この複雜性を除く「現代かなづかい」の方針に從へば、ワ音に對しては專ら「わ」字を用ゐ、助詞のワ音に對してのみ「は」を用ゐることとし、イ音に對しては、「い」を用ゐて「ゐ」「ひ」を用ゐない。ウ音に對しては「う」、エ音に對しては、「え」を用ゐ、助詞のエ音に對してだけ「へ」を用ゐることとし、オ音に對しては「お」を用ゐ、助詞のオ音に對してだけ「を」を用ゐることとしてゐる。音韻と文字との關係をどのやうにするかといふことは、假名づかひ問題の論の分かれるところであるが、表音主義を徹底させる立場をとるかぎり、助詞の〔ワ〕〔オ〕〔エ〕の音に對して、「は」「を」「へ」を用ゐるといふ規定は矛盾である。もし、歴史的假名づかひの訂正によつて新假名づかひを制定する方針をとるならば、この表に於ける音韻と文字との關係を訂正して行けばよろしい。例へば、イ音はすべて「い」と書き、動詞の語尾の「ひ」だけを保存するといふことになれば、イ音に對しては、「い」「ひ」の文字が殘ることとなる。現代かなづかいに即して云ふならば、ハ行四段
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論
第一章總
活用はワ行四段活用となり、次のやうに活用する。
  思う  ーわ ーい ーう ーえ
 問題は意志の表現「思はう」(現代かなづかいは、「思おう」と書く)の處理である。この處理には二の方法が考へられる(動詞活用形の項參照)。一は、表記そのものに即して「思お」を活用形とすることである。さうすれば、この動詞の語尾は、オ段にも活用するので、ワ行五段活用の動詞であるといふことになる。この方法は、「書いて」といふ助詞接續から、「書い」を一の活用形と認める方法と一致するのである。ところが、このやうな處理方法には、一の難點がある。「おもおう」といふ記載は、「おもお」と「う」の結合ではなく、「う」は長音の記號であるから、或は「おもおー」と記載してもよい譯である。さうなると、「おー」を「お」と「ー」とに分析して、「おもお」を一の活用形とすることが困難になるのである。表音的記載法は、どこまでも音聲現象の記載であるから、その記載が常に必しも文法的事實をそこに反映してゐるとは限らない。あたかも、美的鑑賞の立場から、或ひは生活に便利であるといふ立場から仕立てられた衣服が、人間の五體の生理的状況を反映してゐないのと同じである。かくて、動詞と意志表現との結合した「おもお
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六 用言の活用と五十言圖及び現代かなづかい
う」といふ語句から、記載のままに活用形を抽出することは困難なのである。
 次に第二の方法は、「書いて」の「書い」を一個の別の活用形と立てずに、連用形の音便とする方法である。この場合には、記載法は問題にならない。文法的事實を、言語の音聲現象の奥にひそむ法則の體系と考へて、助詞「て」の一般的接續關係を求めるならば、それは連用形に接續するものであることが分かる。して見れば、「書いて」の「書い」も連用形でなければならない。「書く」の連用形「書き」が「書い」となるのは音便現象としてさうなるに過ぎないのである。このことは、單に觀念的にさう云はれるばかりでなく、歴史的事實からもそのやうに云はれるのである。動詞につく意志の表現は、「見よう」「受けよう」のやうに動詞の未然形に附くものであることは、他の動詞の場合からも、また歴史的にも、證明することが出來るといふことになれば、「おもおう」といふ表現は、動詞「思う」の未然形「思わ」に「よう」に相當する意志の助動詞「x」が附いたものと見ることが出來るのである。この「x」は、歴史的に溯れば、「う」或は「む」であるから、このやうな助動詞と「思う」との結合が、音便的になり、それを「おもおう」と記載するのであると説明しなければならない。ただこの場合注意しなければならないことは、「お
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もおう」の「う」は長音記號であつて助動詞ではないが、歴史的假名づかひにおける助動詞「う」の類推から、これをも助動詞と誤認する錯覺に陷ることである。嚴密に云ふならば、口語四段活用に接續する意志を表はす助動詞は、それがどのやうな語であるかは抽出することが出來ないのであつて、ただ歴史的に從來これを「う」として取扱つて來たに過ぎない。この「う」と現代かなづかいの長音符號「う」を混同してはならないのである。そこで現代かなづかいに基づく動詞の接續には次の注意書を加へる必要がある。
 四段活用の未然形に意志を表わす助動詞が附いた場合はこれを次のように記す。
  書か−意志の助動詞……書こう
  買わ−意志の助動詞……買おう
                     (この三行は「現代かなづかい」による)
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第二章語論
總説
イ 言語に於ける單位としての語
 總論に於いて述べたやうに、本書に於いては、語を文及び文章とともに、言語に於ける單位的なものと考へ、文法學の第一部門と立てたのであるが、語を單位として認定することの根據は、語は、言語の觀察、歸納によつて求められるものでなく、言語主體の意識に於いて、既に單位的なものとして存在してゐるといふ考へに導かれたものである。
 語を單位として認定することに關しては、右に述べたこととは、全く異なつた考方が存在してゐる。その一は、語と文とはいづれが其體的な言語單位であるかといふ問題に對して、語を以て思想表現の材料、資材であると見る考方である。これについて、山田孝雄博士は次のやうに述べて居られる。
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論
第二章語
	 文法研究の直接の對象は言語にありといふ、その研究の基礎とすべきは言語の如何なる部分なるかといふことなり。これにつきては普通には單語を以て研究の基礎とすといはるるが、しかも近時は往々文法研究の唯一の具體的單位は文なりと主張せるものありて、これらの論者は世に語といふものは後に文より抽出したるものなりと説くなり。この説は頗る勢力あるやうになれりと見ゆ。この二樣の見解はいづれを正しとすべきか。先づこれを決せざるべからざるなり。(一)
とし、この疑問を次のやうに解決しようとされた。
	 語といふは思想の發表の材料として見ての名目にして、文といふは思想その事としての名目なり。(二)
 この考方は、材料とその運用の關係に於いて、語と文との相違を見ようとしたもので、ソシュールが「ラング」と「パロル」の二を對立させたのと極めて近いといふことが出來るであらう。(三)
 本書の基調とする言語過程觀に從ふならば、語は思想表現の材料ではなく、語それ自身、思想の表現と見なければならない。問題は、同じく思想の表現である文と、統一體として
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の單位の性質にどのやうな相違があるかといふことでなければならない。
 語に對する考方の第二は、語は文の分析によって得られる究極的な單位であるとする考方で、そこには、學問的な分析作業が前提とされてゐることは明かである。
	 單語とは語として分解の極に逹したる單位にして、ある觀念を表明して談話文章の構造の直接の材料たるものなり。(四)
とあるのはその一例である。
 その第三は、單語を以て、文節から歸納、抽出されたものであるとする考方で、この場合でも、語は學問的操作の結論として見出せるものと考へられてゐるのである。
	 實際に物を言う場合には、文節以上に短く句切って發音することはない。ところで、このような文節を數多く並べてみると、共通した部分を持っているもののあることがわかる。
	 櫻が 険く。
	 櫻を 植える。
	 見渡す 限り 櫻です。
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第二章語
	 この三つの文における「櫻が」「櫻を」「櫻です」という文節を比べてみると、「櫻」という部分が共通している。この共通している部分が、單語といわれるものである。(五)
 以上いづれの考方に從つても、單語は、言語の主體的意識に於いて存在してゐるものではなく、言語に對して、何等かの學問的操作を施した結果、得られた結論であるとするのである。これは、先きに述べた單語を以て言語主體の意識に於いて、既に單位として存在
するものとする考方と甚しく相違するものであるが、單語が分解或は歸納的操作の結論でないことは、主體的立場に於いて單語を指示することが、極めて自然に出來ることによつても明かである。例へば、
	 私の好きな學科は、國語と數學です。
といふやうな思想表現に於いて、これを句切つて發音すれば、
	 私の 好きな 學科は、國語と 數學です。
のやうになり、「これ以上句切って發音すると、實際の言葉としては、聞いておかしく感じられたり、わからなくなったりする。」(六)といふところから、このやうな句切れを文節と稱し、文の單位と考へる考方もあるが、右の表現に於いても、「私」「好き」「學科」「國
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論
一總
語」「數學」といふやうな語が、それ自身統一體としての單位として意識されないとは云ふことは出來ない。英語のmy, 或はラテン語の屬格のmensaeから、無格の「私」「テーブル」に相當する語を考へるといふことは、主體的意識に於いては、恐らく困難なこと
であらうが、國語に於いては、むしろ、「私」「テーブル」といふ語を獨立した單位と考へるのは容易である。
 語が、言語の分析或は歸納的操作の結論でないことは、從來の文法書が、極めて無造作に語論から出發してゐることからも云はれることであり、また辭書に於ける語の排列から見ても、語が主體的立場に於いて、極めて自然に認定されるものであることは明かである。
(一)『日本文法學概論』十九頁
(二)同上書 二〇頁
(三)小林英夫譯、ソシュール著『言語學原論』序説第四章「言語の言語學と言の言語學」
(四)山田孝雄『改訂版日本文法講義』九頁
(五)文部省『中等文法』(口語)四頁
(六)文部省『中等文法』(口語)三頁
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ロ 語の構造
 語は、文及び文章とともに、言語に於ける單位として、既に主體的立場に於いて認定されて居るものであることは、前に述べて來た。語、文及び文章は、その關係を外形的に見れば、文は語の結合されたものであり、文章は文の集積したものであると考へられ、從來も多くそのやうに説明されて來た。この考方は、一切のものを、その究極的單位から説明しようとする自然科學的原子論的考方の類推に基づくものであることは既に述べた。本書に於いて單位としてとられた語、文及び文章は、そのやうな原子論的單位ではなく、それ自身一の統一體としての性質を備へたところの單位であることを注意しなければならない。從つて問題は、語、文及び文章が、統一體としての性質上、どのやうな點に相違があるかといふことが追求されなければならないのである。語、文及び文章は、それが言語であるからには、言語主體がその思想内容を音聲或は文字によつて外部に表出する精神、生理的過程であることに於いて共通してゐることは明かである。もしそこに何等かの質的相違があるとするならば、これらの單位の表現としての構造の上に相違があると考へなければな
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らない。以下、語がその構造上、文及び文章とどのやうな點に相違があるかを考へることにする。
「語の構造がどのやうなものであるかを、結論的に云ふならば、語は思想内容の一囘過程によつて成立する言語表現であるといふことが出來る。例へば、一輪の椿の花をとつて、これを〔ハナ〕といふ音聲を以て表現するならば、これは、〔ハ〕といふ音聲で花の或る部分を表はし、〔ナ〕とい音聲で花の他の部分を表はしたのではなく、〔ハナ〕といふ音聲の結合を以て花を表はしたのであるから、これを一囘過程の表現といふのである。即ちこのやうな表現過程を一語といふのである。もしこの場合、同じ花を指して〔ツバキノハナ〕といふならば、それは、〔ツバキ〕〔ノ〕〔ハナ〕といふ三囘過程をとつた表現であるから、これを一語であるとすることは出來ないのである。この場合、表現される事物は前の場合と全く同じであるから、一語か否かの決定には、表現される事物の單複は、全く關係しないといふことがわかるのである。またこの場合、表現の媒材となる音聲の單複といふことも、この語の單複とは關係がない。〔ツバキ〕は三音節から成つてゐるが、語としては一語である。
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集二章語
 以上述べるところによつて、一語と云はれるものの構造上の性質が明かにされたと思ふ
のであるが、なほ次のやうな場合をどのやうに説明すべきかといふ問題が起こると思ふの
である。十字科に屬して「あぶらな」と云はれてゐる植物をとつて、これを〔ナノハナ〕
と云つた場合、この構造は、前の「つばきのはな」と同一でないことが分る。「つばきの
はな」は、一個の花が何に屬するものであるかの説明であるのに對して、「なのはな」は、
花そのものを云ひ表はすところの一囘過程の表現であることが分る。ところが、この「な
のはな」は、「花」を〔ハナ〕と云ふ場合の一囘過程とは幾分の相違が認められる。それは、
「なのはな」が一囘過程の表現でありながら、その中になほ觀念の分析と、それに對應す
る〔ナ〕〔ノ〕〔ハナ〕といふ三囘の過程を包含してゐることである。即ちそれは三語を含む
ところの一語であつて、これを圖解すれば次のやうになる。
  イ  A……→a      「はな」の場合
  ロ  A    bc「なのはな」の場合
  ABCはそれぞれ語によつて表現される事物或は思想を意味し、abcがそれに對應
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説
總
 する音聲を意味するならば、イの場合は、Aといふ思想が音聲aによつて表現される一囘過程の語の場合を示し、ロの場合は、同じAが、表現の過程に於いて、B及びCといふ思想に分裂し、その分裂した思想に對應する音聲bcによつて最初のAを表現しようとするのである。
 一般にこのやうな構造を持つた語を複合語或は合成語と呼んでゐる。複合語或は合成語は、その表現過程に於いて複雜な經過をとつたものであるにしても、その結果に於いては一囘過程の一語と全く同じである。その點、説明的意圖を含むところの「つばきのはな」はこれを複合語或は合成語とは云ふことが出來ないのである。一の圖形を「三角形」と云つた場合、これを複合語であると云ふことが出來るが、同じ圖形を「三邊によつて圍まれた圖形」と云つた場合は、これを複合語とは云ふことは出來ない。
 以上述べて來た語の定義に於いて、二の重要な點が觀取されるであらう。その一は、一語の決定は、その語によつて表現される事物或は思想そのものの單複によらないといふことである。「はな」といふ語によつて表現される事物は、これを客觀的に見れば、かべん、ずい、がく等の構成體であつても、「はな」といふ語は一語である。何となれば、その表
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現過程が一囘に過ぎないからである。「社會」「デパート」「さとり(悟)」等によつて表現される事物、事柄の内容が如何に複雜であつてもこれらは皆一語である。
 その二は、語の單複の決定は、その語の表現主體の意識によつて決定されるといふことである。「さかな」といふ語は、「酒」「菓」の複合であると云つても、現代人の意識に於いては、もはやこのやうな思想の分裂は意識されてゐない。從つて、現代語としてはこれを複合語とは云ふことが出來ないのである。
 以上述べたことは、言語過程觀に立つた語に對する考方であつて、從來行はれて來た言語構成觀による語の論明とは根本酌に異なるものである。構成觀に從ふならば、言語は思想と音聲との結合體であると考へるところから、語の單複を、言語の思想の單複によつて決定しようとするのであるが、それが困難であることは既に述べた通りである。また構成觀にょれば、語は、言語主體と何のかかはりもないのであるから、これについて單語、複合語の別を決定することも出來ないのである。語源學者から云へば複合語であると云はれるものが、一般には單語と考へられて居つて、その類別についての明確な基準を求めることが出來ないこととなる。
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總
 言語過程説は、以上のやうな困難な點を克服して、語の單複の決定を、その過程の上に求め、かつ表現者の主體的意識に基づくこととしたのである。
 單位としての語と、單位としての文の構造上の相違は、文論に於いてこれを明かにするであらう。
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ハ 語の認定
 ある語が一語であつて二語でないと云はれる根據は、その過程的構造にあることは前項
に於いてこれを明かにした。單位としての語は、本來主體的意識として成立するので、學
問的な歸納、分析の操作によってはじめて求められるものでないこともこれを明かにした
のであるが、このやうな語の認定に關しては、なほ多くの困難な問題が潜んでゐる。「山」
「川」「犬」「猫」等が一語として認定され、かつそれが主體的意識に於いて存在するもの
であることについては、恐らく問題が無いであらう。ところが、今日一般に行はれてゐる
文法書に於いては、「靜かだ」「ほがらかだ」「綺麗だ」を一語と認めてこれを形容動詞と
稱してゐる。その根據は、「靜か」「ほがらか」「綺麗」等は、それだけで獨立して用ゐら
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れることなく、常に「だ」と結合して用ゐられるからであるとするのである。しかしながら、最も素朴な主體的意識に於いても、「靜か」「ほがらか」「綺麗」を一の統一體として意識することは決して困難でほない。現に、辭書は、「靜か」を以て一語として掲げて居つて、「靜かだ」を掲げてゐないのは、それが自然な一語としての認定に基づくがためである。かつ、「靜かだ」といふ時は、概念の表現と同時に、それとは全く性質の異なる陳述の表現がこれに加はり、それが「だ」によつて表現されてゐるといふ自然意識が存在してゐることは事實であらう。このやうな見地から、「静か」を一語と認め、同時に「だ」もまた一語と認めることの出來る根據があるのである。同樣にして、「行けば」「咲かない」等に於ける「行け」「咲か」はそれだけで獨立して用ゐられることなく、常に「ば」「ない」等と結合して用ゐられるにもかかはらず、「行け」「険か」を一語と認めることが出來るのである。このやうに、語の認定が主體的意識にあるといふことは、言語主體が、「これは一語である」といふ自覺に於いて用ゐられてゐるが故に一語と認定するのでなく、語の運用に於いて認められる無自覺的な意識に於いて云ふのである。文法學は言語に於ける右のやうな潜在意識的なものを追求し、これを法則化するのである。ここに文法學がややもすれ
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ノへ
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二訊の分類
ば觀念的に、思辨的になる危險があるのであるが、
ただ現象的なものの追求からは文法學は生まれて來ない。
二 語の分類
 詞と辭
 語はすべて同様な性質を持つものではなく、種々の點から同類を集め異類を分つことが出來る。このやうにして分類されたものを今日「品詞」と呼んでゐる。品詞の名稱は外國文法學の飜譯から出たものであらうが、このやうな學問的作業は、外國語學をまつて始めて行はれたことではなく、古くは鎌倉時代に成立したと認められる『|手爾葉《てには》大概抄』などで試みられてゐる「詞」と「てには」の分類の如きは、やはり語の品詞分類の一種である。品詞の名稱は、語の種類別の意味であるから、オランダ文典輪入當時には、詞品、蘭語九品のやうに用ゐられて居つたものが、現在のやうに品詞となつたのは、恐らく、「九品の詞」「八品の詞」の省略形であつて、詞品の語の顳倒したものではないのであらう。從つ
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二章語
て意味は、語の品定めであり、語の種類別であるから、語種、語類と云つても差支へない
譯である。
 語の種類別であるから、その分類の根本的基準は語といふものの性質がどのやうなもの
であるかといふことに對する考方に基づくと同時に、また語の現象のしかたが諸言語によ
つて區々であるから、分類の方法も、實際に即して、それぞれの言語の性格から割出され
て來なければならないのである。ここに外國語に於ける語の分類方法が、國語にそのまま
適用することが出來ない理由があり、國語の分類には、國語に對する深い沈潜と洞察とが
要求される所以である。
 語の分類をするからには、何よりも先づ語そのものの性質がどのやうなものであるかの
檢討から入るのが正しい順序であらう。
 一の語を規定するものは、言語構成觀に從へば、思想内容と音聲形式との結合にあつた。
この考へに從ふならば、一切の語は、思想内容と音聲形式との結合であるから、その點に
於いては語はすべて同一であると云はなければならないのである。そこで、從來、語を分類する基準をどのやうな點に求めたかと云ふならば、例へば、山田孝雄博士は、第一にそ
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二語の分類
の語が獨立觀念を持つか持たないかといふ點に分類の基準を求めようと寄れた。
  一切の單語は之を同の方面より見ればそが單語たるに於いて一致す。然れども吾人は
 其の中に異を求めてこれを分類せざるべからず。かくて、これを獨立の觀念の有無によ
 りて區別すれば、一定の明かなる具象的觀念を有し、その語一個にて場合にょりて一の
 思想をあらはし得るものと然らざるものとあり。一は所謂觀念語にして他は獨立の具象
 的觀念を有せざるものなり。この一語にて一の思想をあらはすことの絶對的に不可能な
 るものはかの豆尓乎波の類にして專ら觀念語を助けてそれらにつきての關係を示すもの
 なり。(中略)この故に、先づ單語を大別して觀念語と關係語との二とす。(一)
 即ち、山田博士は、これを具象的な獨立觀念の有無といふことで説明されようとするの
であるが、てにをは|或《、、、、》は助詞といはれるものが、他の語に比較して其象的な獨立觀念を持
たないかといふのに、必しもさうとは云へないのである。博士が、觀念語と云はれるもの
の中にも、極めて抽象的な概念しかあらはさない「こと」「もの」のやうな語もあり、關
係語の中にも、「か」「も」の如く疑問、強意の如き且ハ象的な思想をあらはすものもあつて、
獨立觀念といふ點で、この兩者を截然と分つことは困難である。山田博士は、更に獨立的
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、
鱆
・ーP鮮、
」
論
二章語
に思想をあらはし得るものと、さうでないものとの別を以て説明されようとする。この分
類基準は、橋本進吉博士もとられたところのものであつて、博士は語が文節を構成する手
續きの上から、一はそれ自らで獨立して文節を構成し得るもの、二は常に第一の語に件つ
て文節を構成し得るものに二大別され、前者を詞、後者を辭と命名された。(二》しかしなが
ら、語が獨立して用ゐられるか否かといふことは、必しも絶對的なものでなく、語を分類
する絶對的な條件とはすることが出來ないものである。例へば、用言の活用形、「行けば」
の「行け」は、「ば」と結合してのみ用ゐられるものであつて、「行け」はそれだけで文節
を構成するものとは考へられない。また「八百屋」「肉屋」の「屋」も、決してそれ自身
獨立して文節を構成するものとは考へられないにも拘はらず、「屋」を助詞の中に入れる
ことはない。獨立する語、附屬する語の二大別は、國定の文法歡科書に採用されて、廣く
普及するやうになつた分類基準であるが、それは語そのものの相違に基づいたものでなく、
單に用法上の相違に基づいたものであるといふ點から見ても、語の分類基準とするには、
既に理論的に薄弱であると云はなければならない。語の分類基準を、語そのものの性質の
上に相違を見出すことが出來なかつたのは、語を構成的に見る言語構成觀の當然の結論で
59
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==言吾の分・灘嘆
あつたのである。
                                        60
 語の根本的性格を、表現過程に求めた言語過程觀は、語の類別の根據をも、當然その過
程的構造形式に求めるのである。・→切の語について、その愚の表現過程を檢するのに、譌
次のやうな二の重要な相違を見出すことが出來る。                 串
  一概念過程を含む形式        鯉
  二概念過程を含まぬ形式           確引
 一は、思想内容或は表現される事柄を、一旦客體化し、概念化した上でこれを音磬、|文《(一》
字によつて表現するところのものである。人間を取りまく森羅萬象は、これを表現する時、
既にそれが客體化されて居るものであるから、これを表現するには、そこに客體化、概念
化の作用を經過するのは當然である。「花が険いた。」といつた場合の「花」といふ語は、
目前の具體的な「花」をあらはすことに於いて、その花を客體化してゐると同時に、具體
的な花そのものをあらはしてゐるのでなく、これを概念化して、花一般として表現してゐ
るのである。鈴木朖は、このやうな表現に於ける働を、「さし顯はす」と呼んでゐるので
ある。(蠶)この働きはく○屋け篝9(表象する)の作用に似てゐる。語の中のあるものは、
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、
、
転
も
論
二章語
このやうな作用を經て表現するところのものである。このやうな表現は、自然物の表現に
於いては勿論であるが、主觀的な情意に關することをも同樣な手續きで表現することが出
來る。「よろこび」「悲しみ」「要求」「懇願」等の語はこのやうにして出來るのである。
 語のあるものは、このやうにして、表現される事物を客體化するといふ作用を經て表現
されるものであると同時に、それらが表現される事物の個々のものを個物として表現して
ゐるのでなく、これを概念化して、一般的なものとして表現するものであることも注意す
べきことである。「花が険いた。」と云つても、それは、我が家の具體的な櫻或は椿をその
ままに表現してゐるのではなく、これを「花」として一般化して表現してゐるのである。
これを「櫻が険いた。」と表現した場合でも、具體的な櫻を、櫻一般として表現してゐる
のである。語が常に概念しか表はすことが出來ないといふことは、言語の持つ宿命的な性
質であつて、從つて個物をいくらかでも具體的に表現するために、「庭の櫻」とか、「綺麗
な櫻」とか、種々な修飾語がこれに冠せられるのであるが、それらの修飾語といへども、
それが概念的なものであることには變りはないのである。
 以上のやうな經過をとる表現に對して、よろこび、かなしみ等の主觀的情意を、客體化
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二語の分類
せず、また概念化せず、そのまま直接に表現する語がある。その著しいものは、いはゆる感動詞であつて、「ああ」「おや」「まあ」「はい」「ねえ」等がこれに屬する。鈴木朖は、一乱さし顯はすLところの語に對して、このやうな語を「心の聲」と呼んでゐる。(四)心の直接的な表現で、客體化、概念化の作用を含まぬ意味であらうと思ふのである。現今文法書で説かれてゐる助詞、助動詞、接續詞、感動詞を大體これに入れることが出來るのである。この兩者の區別は、例へば、「ああ」に對して「驚き」、「行かない」の「ない」に對して「否定」、「雨が降るだらう」の「だらう」に對して「推量」等の語を對比して内省して見るならば、自ら理解し得るであらうと思ふのであるが、「驚き」といふ語は、「ああ」によつて表現される感情内容を客體化し、概念化して表現したところのものである。
 このやうな語の類別は、國語に於いては、既に古く鎌倉時代から行はれた方法で、第一の形式をとつた語を|詞(呼域鵡)といひ、第二の形式をとつた語を|辭(賊減融鷺)といつて居つた。この兩者の表現の相違を、古來種々な比喩を用ゐて論明してゐるのであるが、宣長は、表現全體を人間の衣服に譬へ、詞に屬するものを布であるとし、辭に屬するものを、布を縫ふ手或は技術に譬へてゐる。或は、詞を玉にたとへ、辭を、玉を貫く緒にたとへたりし
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第==章語
てゐる。玉とこれを貫く緒によつて、裝飾品が出來るのである。色
 これらの比喩を通して我々が觀取出來ることは、詞と辭とは、その表現であることに於いて共通してゐるのであるが、この兩者の表現の間には次元の相違が存在してゐることが認められてゐることと、辭は常に言語主體の立場に屬するものしか表現出來ないといふことである。次元の相違といふことは、詞が常に客體界を表現するのに對して、辭は、客體界に志向する言語主體の感情、情緒、意志、欲求等を表はすことをいふのである。その關係は次のやうに圖示することが出來る。
              上の鬪が示すやうに、CiDの表現と、AiBの表現とは、
丶、
D
  噺  AO
  CIDは零體黒であり
  AlBは言語主髀の情意である
「語 「詞はでいをかならでは働|篤《ま》 係について述べてゐるので》かず、
係について述べてゐるのである。
それぞれに獨立したものでなく、相互に緊密な關係があるも
のである。このことは、文論に於いて詳細に論ずる豫定であ
るが、既に宣長が云つたやうに、詞は布であり、辭はそれを
縫ふ技術として相互に結付く關係にあり、(六)鈴木朖もまた
  てにをはは|詞《、、、、》ならではつく所なしL・七)と云つて、その關
留贈安ε{'ノ、脅二彩〜
63
---------------------[End of Page 77]---------------------
二語の分類
 語を構成的に見るかぎり、一切の語は、音聲と思想との結合體に過ぎず、そこに語を分
類する何等の差別をも見出し得ないのであるが、言語を表現過程と見ることによつて、こ
こに右に述べたやうな極めて著しい表現性の相違の存在することが認められるのである。
この事實は、文法に於ける品詞分類の第一基準として、文法學に重大な變革をもたらすも
のでなければならないのである。
 語に次元を異にした詞と辭の區別の存在することは、日本語特有の現象ではなく、凡そ
言語といはれるものには、通有の事實と考へられるのであるが、日本語に於いて、この區
別が、既に古く西紀第十三世紀頃に學者の注目するところとなつてゐたといふことは、日
本語が、このやうな理論を導き出すに都合のよい構造をなしてゐたといふことが主要な原
因であつたといへるのである。即ち、ヨーロッパの言語に於いては、詞的表現と辭的表現
とが、屡ー合體して一語として表現されるのに對して、日本語に於いては、この兩者が多
くの場合に別々の語として表現されてゐるために他ならないのである。例へば、ラテン語
に於いては、國語に於ける格を表はす辭が、詞の中に融合して、語の變化といふ形式によ
つて表はされてゐる如きがそれである。ラテン語に於ける一語は、云はば國語に於ける詞
G4
多?濃メ物擁ρ'バ
又
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璽丶11」イノ『}7〜竃
と辭の合體したものに相當するものであると云へるのである。ヨーロッパ語に於いても、
前置詞、接續詞の如きは、それ自身辭と考へることが出來る品詞である。
・(一)
・(二)
(三)
(四)
(五)
(六)
v(七)
『日本文法學概論』八四頁
『國語法要説』(橋本逖吉博ま著作集 第二巻 五三頁)
『言語四種論』
同上書
『詞の玉緒纏糊論』
同上書
『言語四種論』
論
舞_章語
三 詞
イ總  詮
ぐ系懸
詞は、「シ」「ことば」と呼ばれ、語の分類に於いて辭に對立するものであり、その一般
(15
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詞
三
硬楓3臆
      ・ざ
的性質は、大體次のやうに要約することが出來る。
                                       ー/備
 一 表現される事物、事柄の・客體的概念的表現である。
 二 主體に對立する客體化の表現である。
三主觀的念情・籍でも・これを客體的に・概念的に表現することによつて詞にな伊
る・                          瑚
四纂籍合して蠡的な田鑾現となる.    勝
 五 辭によって統一される客體界の表現であるから、丈に於ける詞は、常に客體界の秩 紹
                                         '、嫉
序である「格」を持つ。
 以下、詞の下位分類について述べることとする。
       ロ 體言と名詞
コ喜物・事柄の客體的、概念的表現である詞を分つて・體言・用言とする。
 體言、用言の別は、詞が、他の語との接續關係に於いて、その語形式を變へないものを
「ー曇『:ー奪、一ドー魯
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ー丶
、1亅」{JJ遍ーゴー㍉ー響ノ《蓋篭遭.'《ー
論
二章語
體言といひ、その語形式を變ぺるものを用言といふ』しこの分類法とその概念規定は、古來
の方法とその命名法に從つたもので、國語の性質をよく反映してゐるものとして合理性が
認められる。體言をはたらかぬ語、用言をはたらく語といふのも、語形變化の有無の點か
ら云つたものである。
 體と用との意義については、今日學者の聞に説が分れて居つて、語についてその思想の
面を特に重視する山田孝雄博士は、體言といふ名稱は、概念を表はす語の意義であつて、
活用せぬ語を體言といふのは誤つてゐると詳細に述べて居られる。(一)博士の云はれるやう
に、體用の名稱は、その起源的意味に於いては、確かに、實體と作用の意味に用ゐられた
ものであらうが、それだからとて、國語學上に於ける體用の名稱を、その起源的意味に解
するのが正しいとは云へないのである。用言に語形變化があるといふことは、本來、體用
の觀念とは別に學者によつて注Rされて居つたことで、それを、背相通の現象として説明し、
またそのやうな現象を、ひらくとかはたらくとか|稱《、、、  、、、、》し、それに對して語形變化のない語を、
「ひらきなき語」とか、「はたらかぬ語」といふ風に呼んでゐた。たまたま體用といふ名
稱が連歌等に用ゐられて一般に普及して居つたので、この名稱を國語上の現象に借用した
G7
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詞
ので、ここで體用といふ名稱は、國語學上では、語形變化をしない語、語形變化をする語
の意味に用ゐられるやうになつたのである。事實が先で、名稱は後である。東條義門の如
きは、語を先づ二大別し、體言の中に、活用のない辭、即ち今日云ふ助詞をも所屬させ、
用言の中に、活用のある辭、即ち助動詞をも所屬させてゐるが、この分類法は、それまで
の詞と辭の二大別に對して、活用するかしないかといふことを第一分類基準として特に強
調したものと見ることが出來るのである。山田博士の文法體系は、語について、それが表
はす概念内容の性質を特に重視された爲に、體用の名稱についても、これを言語的立場に
於いて見ることを避けられたものと想像されるのであるが、既に述べたやうに、名稱の起
源的意味は、これらの名稱が現實に使用されて來た實際とは距離のあるものであることを
知る必.要がある。
 さて、以上のやうに、語形變化をしない語を體言とする時、第一に問題になることは、
「あめ」(雨)といふ語が「くも」(雲)といふ語と結合する時、「あまぐも」となり、「ふ
ね」が「ふなうた」となるやうな|揚《O》合、「あめ」「ふね」は語形變化をする故、體言でなく
用言とすべきであるかといふ疑問が提出されるのであるが、これらは、複合語を構威する
63
ζ鼕ー婁}ーβ監ー}!鳳事丶靂〜ーーー」ーー}監丶ー蓄ど蟹 )丶㌧'監F)・、・・ーt-ーノ騙
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〜量雪り囓嘉
   /ノ
ノ誇ど
  場合に起こる一時的な音聲現象に過ぎないのであるから、これを文法的な語形變化といふ
  ことは出來ない。從つて、「あめ」「ふね」のやうな語は用言でなく體出.口と見なければなら
  ないのである。これに反して、用言と云はれる語は、他の語に接續する場合、一樣に、ま
  た規則的に語形を變化するところの語である。
   以上のやうに、體言の名稱は、語の形式に基づくものであつて、その意義に關係しない。
  これをヨーロッパ諸國語に於ける目oβ昌或は餮びω蜜暮ぞ① の名稱と比較するならば、後
  者が實在に對する名稱の意義に用ゐられて居つて、むしろ表現される事柄に即した名稱で
  あることに於いて、山田博士のいはゆる起源的意味に於ける體の名義に近いといふことが
礼出來るであらう。ご|國《7》語に於ける體言の中に、比較的自由に主語、述語、修飾語になること
ゆ の出來るものを名詞と稱するならば、それはけoq昌或はωβび馨9ロ江く① の譯語としての名
  詞に近づくであらう。自由に主請、述語、修飾語になることが出來る體言とは、ほぼ明瞭
論
  にその實在を指摘し、また考へることが出來るやうな語である。本書に於いては、體言の
、中、このやうな語を便宜、名詞と呼ぶことにする。名詞といふ・m詞名は本來國語學に於い
|二《ゴ㍉》 て發生したものでなく、外國語學の名稱を借用したまでのものであるから、どこまでも便
し9
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詞 宜的のものであつて、體言の中、どこまでを名詞とするかの明瞭な一線を劃することは勿
三}論困難であ匝
  體言の中、「山」「川」「犬」「猫」「正直」「親切」「ゆとり」「あはれ」等は名詞と名づけ
 るに相應しいものであるが、體言の中には、次のやうな、いはゆる名詞の中に入れるには
 相應しくないものがあることを注意しなければならない。
   一 いはゆる形容動詞の語幹と云はれてゐるもの
   暖か のどか はで 綺麗 丁寧 嚴重 急 批到的
  二 形容詞の甑㎜幹
   あま(甘) から(辛) ひろ(廣) ちか(近)
  三 いはゆる形式名詞
   知らない筈がない。
   大きいのがいい。
   おいで下さる由。
   出かけるつもりです。
70
ー
〜璽し》〜達Dゆ{丶匸〜[f墨蜃亀隻量藍奪・竃p曇π塾「ーー聲、》亀▼丶星5i覧@監尹ぐ夢鵬簍f餐ーーー
---------------------[End of Page 84]---------------------
一出
一一翫⊥
語  論
 四 接尾語の中、活用のないもの。
  赤さ つよみ 私たち 歸りしな
 五 漢語の中、語の構成に用ゐられるもの。
  族館 圖書館 映晝館
  商人 役人 小作人
  平和的 國際的 立體的
  驛長 事務長(長は獨立しても用ゐられる)
 六 接頭語
  お寫眞 御夫婦 玉音
ボ書に於いては、右のやうに、名詞とするにはふさはしくないが、或る觀念を表現し、
かつ語形變化をしないものを體冨とした㎞嫁β㍉広③翼
 (一) 『國語學史要』第九項、『日本文法學概論』第六章
71
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詞
ハ 代名詞(一)
 代名詞の名稱は、オランダ文法などからの直譯によつて出來た品詞名であることは云ふ
までもないのであるが、今日、英文法などでも、この名稱が、その内容を適切に云ひ表は
してゐるかどうかといふことについては、學者の間に問題があるのであつて、我々が國語
について考へるに當つても、この名稱を一往離れて、事實そのものに印して考へて行くこ
とが必要であらうと思ふ。
 一般に代名詞の代表的なものとして擧げられてゐるものに、人稱代名詞がある。即ち、
第一人稱に屬するものに、私(わたくしわたし)、僕、俺等があり、第二人稱に屬するものに、あな
た、君、おまへ等があり、第三人稱に屬するものに、あのかた、彼、あいつ等がある。「ご
れらの語は、語形が變化しない點から云つて、體言に屬することは明かであると同時に、∴《'》|・
明瞭な個體的事物を表現することに於いて、名詞と同樣に見ることも出來るのであゐ㎏と
ころで、これらの語が、何故に、文法上一般の名詞とは別に、代名詞として取扱はれて來
たのであらうか。これが先づ考へるべき重要な點である。 一般に名詞は、具象的と抽象的
72
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蔓龜111」』』-I11亅耀1ーノ蟹q
論
第二章語
との別にかかはりなく、事物の概念を表現するものである。「商人」といふ語も、「人」と
いふ語も、ともに名詞であることは明かである。既に擧げたところの人稱代名詞は、それ
が何等かの人を表現するものであることに於いて名詞「商人」或は「人」と共通して居る
のであるが、ヨれらの名詞と異なるところは、人稱代名詞は、常に言語主體即ち話手と事
物との關係を表現する場合にのみ用ゐられる語であるといふことである。對人關係を表現
する語には、「親」とか「兄」とか「先生」等の語があるが、これらの語は、必しも話手
との關係の表現にだけ用ゐられるといふものではない。聞手との關係に於いても、第三者
との關係に於いても、「親を大切になさい。」といふ風に用ゐられる。ところが、「君は行
きますか。」といふ場合の「君」は、必ず話手に對して聞手の關係に立つものに對しての
み用ゐられるのである。第一人稱の代名詞は、話手が自分自身を話手といふ關係に於いて
表現する時にのみ用ゐられ、第二人稱の代名詞は、話手が他者を聞手としての關係に於い
て表現する時にのみ用ゐられ、第三人稱の代名詞は、話手が他者を話題の事物としての關
係に於いて表現する時にのみ用ゐられるのである。從つてどのやうな職業、階級に騰する
人でも、人そのものの概念内容に關せず、話手との關係によつて、「私」となり、「あなた」
るし
73
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                              鷲臼9・舮、∫,払
詞 となり、「彼」となるのである。このやうに見て來るならば、却稱代名詞の特質は、話手
三
 との關係概念を表現するところにあると云ふことが出來ゐ随ここに繰返して注意すべきこ
 とは、話手との關係といふことであつて、話手との關係といふことは、その人が聞手であ
 るか、話題の人物であるか、或は話手自身であるかといふこと以外には無いのである。代
 名詞の特質を、以上のやうに、話手との關係概念の表現といふことに求めるならば、その
 やうな關係に置かれるものが人であるか物であるかといふことは、代名詞の本質を左右す
 るものではない。そこで、そのやうな關係にあるものが、事物、揚所、方角である場合に
 は、これを指示代名詞といふ。事物、揚所、方角等は、話手との關係に於いて、話手とな
 つたり、聞手となつたりすることは、擬人的用法以外には考へられないから、それは常に
 第三人稱の立場に立つのである。人稱代名詞が、話手との關係概念を表現すると同時に、
 そのやうな關係に立つ「人」そのものをも含めて表現するやうに、指示代名詞もまたその
 やうな關係に立つ「物」を同時に含めて表現する。「これ」「そこ」「あちら」等がそれで
 ある。
  代名詞と云はれる語が、事物の概念を表現するのでなく、常に話手と聞手、話手と表現
74
蘆蜃5畢墜曳饗「ー塾&5「ー」【量}ー監匡}し灘㌧蟹3ー藍匳匿ρも魯鬢「」聲も隻『;
---------------------[End of Page 88]---------------------
ーd覧』8塁1響ー
論
第二章語
内容との關係を表現するものであるために、進んで、話手と表現内容との關係の表現にも
次のやうな差別の表現が考へられてゐる。印ち、萄表現内容が、話手に近い關係にあるか、
聞手に近い關係にあるか、或は兩者に對して第三者的…關係にあるか・或は不定であるか・当純弱
の識別の表現であ伶例へば、表現内容になつてゐる人物や事物について、「こいつ」「そ|畷《穆》、へ
いつ」「あいつ」「どいつ」といふ語が對立するのはそれである。場所や方角についても同
様に、「ここ」「そこ」「あそこ」「どこ」、或は「こちら」「そちら」「あちら」「どちら」な
どと區別するのである。一般に代名詞に於ける近稱、中稱、遠稱、不定稱などと云はれる
事實で、この關係の識別の表現は、國語に於いては、諸外國語に比して著しい特色をなし
てゐる事實である。(一)これらの代名詞に於いて、關係概念を表現する中心的部分が、「こ」
「そ」「あ」「ど」であるところから、佐久間博士は、代名詞の體系をコソアドの體系とし
て把握して居られることは注意すべきことである。このやうに、褐名詞と云はれてゐる語!
は、すべて話手との關係を規定し表現するところに特色があるので・その點に於いて一般や
の讐或は名詞と明かに區別せられなければならないものなのであゑこれらの甑㎜の特集
は、話手の屬性的概念の表現にあるのでなく、全く話手との關係概念の表現にあるので、 75
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琶詞
文法研究に於いて、犖霧慮されねばならない;の事例といふことが出來るのである。お
 以上述べて來た 代名討は、話手との關係概念を表現すると同時に、その關係に置かれた
事物の概念をも含めた表現であるが故に、これらを體言或は名詞に對應させて體言的或は
名詞的代名詞と云つてもよい譯である(目O偉冖P娼HOづOd冖P・)。
 次に、左の文について見るに、
  この繪は立派な繪ですね。この作者は誰ですか。
 ここに用ゐられてゐる「この」といふ語は、「庭の櫻」「川の水」等に於ける「庭の」「川
の」等が、或る事物的概念を表現して、「櫻」或は「水」の修飾語になつてゐるのと相違
して、話手と事物との關係概念を表現して、「繪」或は「作者」の修飾語になつてゐる點
で、既に述べて來た代名詞の性質に共通してゐるものである。從つてこれらの語は、本
質的には右の代名詞の範疇に所屬せしむべきものなのである。ただ既に述べて來た體言的
或は名詞的代名詞と異なるところは、「この」の「こ」が、話手と事物との關係概念だけ
を表現して、そのやうな關係にある|物《、》を含めてゐないといふことである。|代《り》名詞の基本的.
形式は、このやうな關係概念だけを表現すべきものであるかも分らないのであろ『事物を
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1
論
第二章語
O
も含めるといふことは、代名詞と名詞との複合語と認むべきものなのである。事實、「こ
のかた」は、「話手とこのやうな|關《、》係にある方」の意味で、「こ」だけが純粹の代名詞と認
めることも出來るのである。「ここ」は「 めることも出來るのである。「ここ」は「こ|處《へ》  ことである。前の例文に於いて、「この繪」の とは以上の如くであるが、同じ例文中の「こ( 手と作者との關係を云つたものではなく、 こ  の關係に置かれた事物即ちここでは、「繪」を かである。して見れば、この第二の場合は、虹 きものである。   御意見は結構ですが、その具體案を示しイ   いつか承つた事件、あの結末はどうなり素論  右の「そ」「あ」は共に「その御意見」「あ(。. |右《まロ》のやうな「この」「その」「あの」「どの」章影 離して他の助詞に結合して用ゐられることなノ》」の意味であることも一般に知られてゐる
ことである。前の例文に於いて、「この繪」の「こ」が、純粹の關係概念の表現であるこ
とは以上の如くであるが、同じ例文中の「この作者」の場合の「こ」は少しく異なり、話
手と作者との關係を云つたものではなく、 この話手とこの繪との關係概念と同時に、そ
の關係に置かれた事物即ちここでは、「繪」をも含めて表現してゐるものであることは明
かである。して見れば、この第二の場合は、既に述べて來た名詞的代名詞の例に入れるべ
きものである。
  御意見は結構ですが、その具體案を示して下さい。
  いつか承つた事件、あの結末はどうなりましたか。
 右の「そ」「あ」は共に「その御意見」「あの事件」の意味に用ゐられたものである。
 右のやうな「この」「その」「あの」「どの」等については、「こ」「そ」「あ」「ど」が分
離して他の助詞に結合して用ゐられることなく、常に「の」とのみ結合して連體修飾語に
77
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詞
三
用ゐられることから、これを一語と見るべきであるといふ説があり、これを連體詞に所屬
させる考方があるが、既に述べたやうに、これらの語は、話手との關係概念を表現する點
から、代名詞以外の品詞に所屬させることは、理論上からも實際上からも當を得たことで
はない。ただし、人稱代名詞、指示代名詞が名詞に對應するところから、これを名詞的代
名詞と名づけたと同樣に、「この」「その」等を連體詞的代名詞と名づけることは許される
であらう。
 以上のやうな理由で、次のやうな語もこれに所屬させることが出來る。
  こんな そんな あんな どんな
 形容詞といふ名稱を、もし連體修飾語として用ゐられる語の名稱に保留することが出來
るならば、これらの語に形容詞的代名詞の名稱を用ゐることが最も適當してゐる。
 連體修飾語的代名詞に對して、次のやうな例が見られる。
 かう、こんなに
  かう忙しくてはやり切れない。  こんなにも考へられます。
 さう、そんなに
レ
サ
ー〜,plートー昌蟹卩ー
---------------------[End of Page 92]---------------------
ー雪¶丿〜《亀
ー
  さう忙しくては本も讀めないでせう。  そんなに考へて下されば助かります。
 ああ、あんなに
  ああ忙しくては體に惡いのではないのですか。  あんなに云つてゐるのですから、
  何とかするつもりでせう。
 どう、どんなに
  どうするつもりなのですか。  どんなに考へて見ても駄目です。
 右のやうな語は、連用修飾語としてのみ用ゐられるので、これを副詞的代名詞と稱する
ことが許されるであらう。
第二章語論
79
---------------------[End of Page 93]---------------------
R
讐 詞
情
態
一
O
O
こんな
かう
こんなに
そんな
さ・つ
そんなに
あんな
ああ
あんなに
どんな
どう
どんなに
關  方
     所
係
○
O
この
その
あの
副詞的代
名詞
どの
連體詞的
代名詞
角
○
○
こちら
こつち
そちら
そつち
あちら
あつち
どちら
どつち
○
○
ここ
そこ
あそこ
どこ
物  人
○
○
茫
そそ
れ
あ
あれ
どど
れ
わたくし
僕
あなた
君
このかた
そのかた
あのかた
どのかた
どなた
名詞的代
名詞
/
/
/の關係「話
話手と
鶲類/∠(第
手
聞
廴
人稱)「(第二人稱)宮
稱
中嚠
汽咋
f↑
遠
稱
不定稱
事
柄
(第三人稱)
80
代名詞分類表
---------------------[End of Page 94]---------------------
9
亀〕丿貫亀謬ゴ{、ガ」雪モ礼層σ」丶-」7齔盡」雪{」8雷1丿
論
語
輩
二
 右の表についての説明
 一 右の表を理解するについては、第一に、言語の成立條件である話ア、聞手及び表現
される事柄の關係とそれらの性質をよく理解しなければならない。£ご
 二 話手及び聞手は一般に人であり、表現される事柄は、人、物、所、方角、…關係、惰
態等の種々のものが含まれる。
 三 代名詞の最も基本的なものは、右の表の中の「關係」を表はす代名詞であるが、そ
れは常に「の」と結合して潼體修飾語としてしか用ゐられない。
 四 その他の代名詞は、この關係概念を表はす代名詞に、その關係に置かれた人や物を
含めて云つたものである。「このかた」は「こ」の關係にある人を意味する。
 五 以上のやうであるから、.代名詞は、體言や名詞の中の一類でもなく、また體言や連
體詞や副詞と並ぶ一類の品詞でもなく、それらに對應して別個の系列を作るところの品詞3
てあることが分る。代名詞が、常に話手を軸として、それとの…關係を表現するところに、,
他の品詞との根本的な表現上の相違を見出すことが出來る。
                                        81
 (一) 佐久悶鼎『現代日本語の表現ど語洪』前篇 第五
---------------------[End of Page 95]---------------------
詞
三
V(二) 『國語學原論』總論 第五項
82
       二代名詞(二)
            ,訴
        〜こ、しP ハ'二
以上、私は、』、磐代名詞と呼ばれて來た品詞の性質を吟味して・その特質を・話手と
事柄との關係概念を、話手の立場に於いて表現するものと解して來た緬從つて、一切の事
柄は、その事物的概念の相違にかかはらず、話手との關係をひとしくすることによつて、
例へば、商人であれ、官吏であれ、使用人であれ、その人が話手に對して聞手の關係にあ
る時、これを、「あなた」「君」「おまへ」と呼ぶことが出來る譯である。そしてこれを文
法上第二人稱の代名詞と呼ぶのである。この代名詞中の小變異、「あなた」と「君」との
區別ですらも、聞手そのものの事物的概念によるのではなく、話手との身分關係の相違に
よるのであるが、これらの代名詞が、代名詞と云はれる根本の理由は、何よりも、話手に
對立する聞手であるといふ關係の表現にかかつてゐる譯である。ともかく、以上のやうな
特質を持つた語を從來代名詞と稱して來たのであるが、ここに問題になることは、このや
うな語を代名詞と呼ぶことの可否である。代名詞といふ名稱が、言語的事實そのものを云
レ』『蘯響璽靨巳鼕 ー
---------------------[End of Page 96]---------------------
論
語
章
二
第
ひ表はしてゐると見るべきか、或は名稱と事實とは全く別のものであると見るべきか、そ
の邊の事情を明かにして置かないと、思はぬ混亂が生じないとも限らないのである。
 最初に、これは極めて通俗的、常識的な用語法に屬することであるが、例へば、「知識
人とは、理窟ばかり逹者で、實行力を件はない人間を云ふ代名詞である。」といふやうな
場合の代名詞の名義である。これは云はば名詞に代用される別の名詞、即ち代用名詞の意
味に用ゐられた場合で、嚴密な文法上の用語法とは云ふことが出來ないものであるが、代
名詞の皮相な觀察から、右のやうな代名詞觀が生まれて來ないとは限らない。「鈴木さん」
と呼ぶ代りに「あなた」と呼び、同じ人を「先生」と呼んだとすれば、「あなた」も「先
生」も、「鈴木さん」といふ名稱の代用であるから代名詞であるといふ考へは屡ー云はれ
ることである。このやうな見解からは、代名詞の眞義が理解出來ないことは既に述べた通
りである。
 次に、從來屡ー用ゐられて來た代名詞の定義は、代名詞はものを指す語であるといふ考
方に基づくものである。
  代名詞とは名目をいふ代りに用ゐる詞の義にして、體言の一種なるが、概念そのもの
63
---------------------[End of Page 97]---------------------
詞
三
 を直接にあらはさずして、ただ其を間接にさすに|用ゐらるるものなり。二)
                                         84
 代名詞は事物を指していふ語です。(昌)
 なほ、佐久間鼎博士は、代名詞を「指す語」の體系として述べて居られる。二e
 代名詞を指す語として規定することは、これも外國文法の飜譯に基づくものであらうが、
代名詞を指す語として理解することにはなほ多くの問題があると思ふのである。語はその
根本に於いて表現であるとする時、代名詞の特質としての「指す」といふことは、表現の
如何なることを云ふのであるかを明かにしなければならない。もし語が表現そのものであ
ると見る考方に從ふならば、表現される事柄と表現との關係に於いて、一切の語は、表現
によって、表現される事柄をさすものであるといふことが出來る。鈴木朖が詞について、(
「物事をさし顯して詞となる」(弓と云つてゐるのは、正にそのことであると考へてよいの∵、f
である。語が常にそのやうな性質のものであるならば、代名詞を特に「指す語」として規、ズ
定することは不充分である。代名詞を「指す語」と規定した一の大きな理由と考へられる
ことは、既に述べたやうに、代名詞は表現される事物そのものについては甚だ漠然とした
概念しか表現しない。`例へば、一個の机を「これ」と云つたとしても、それが必ず「机」
丶》ズ
》
壷
---------------------[End of Page 98]---------------------
丿〜.ゴ{り《丿ぐ\逸
を意味するとは受取られない場合が多い。何となれば、「これ」は机でも椅子でも、或は
机の上の紙でも鉛筆でも意味することが出來るからである。そこで、この缺陷を補ふため
に、指なり、眼なりによつて、事物それ自體を指示することが行はれる。これが代名詞を
「指す語」と規定するやうになつた一の理由ではないかと考へられるのであるが、もしさ
,つだとすれば、それは代名詞の表現の特質を云つたものであるよりも、その特質から來る
結果について云つたものであるから、そこに我々は代名詞の特質を見出す手がかりを見出
さなければならないのである。
                      謬〜翫Q純
 既に述べて來たところで明かにされたやうに、「代名詞が、何等かの概念的表現であるこ
とに於いて、他の詞と共通するのであるが、その概念が、話手を基準にした關係概念であ
ることに於いて、他の詞と根本的に相違するものであるPこのことは、表現性の特質から
代名詞を規定したことになるのである。
論
隻二章語
 本項を終はるに當つて、代名詞研究の重要性について一言して遣かうと思ふ。代名詞研
究の重要性は、要するに、言語の表現上から云つて、代名詞が主要な機能を持つことを意
---------------------[End of Page 99]---------------------
詞
味するのである。
 第一に、代名詞は、話手と事柄との關係の概念的表現であるから、話手と同一關係にあ
る一切の事柄を、すべて同一の代名詞を以て表現することが出來る。これは表現上のすば
らしい經濟である。會話の場合などは、環境の補助によつて、代名詞が最大の效果を發揮
することは、あまねく知られてゐることである。しかしながら、代名詞は、話題の事柄に
關して、ただその關係概念か、事柄の極めて抽象的な概念しか表現しないのであるから、
聞手は、屡ー同一關係にある數種の事柄の中、いづれを採るべきかに迷ふことが起こるの
は當然である。そこに誤解の原因が生ずるのであるから、代名詞の使用については、それ
が表はす事柄が、明瞭に理解出來るやうに用ゐられなければならない。このことは、音聲
言語の場合でも、また文字言語の場合でも同じであるが、現場の補助もなく、その都度、
・確實性を追求する機會もなく、かつ比較的複雜な内容を表現する必要のある文章表現の揚
合には、特に細心の注意が拂はれなければならない。例へば、
  一般の歴史の上に於いて、民衆に關する研究は、あまり多く開けてゐない。d剥は研
 究さるべきものであつて、しかも歴丱ハ棚究から逸し、かつ忘れられてゐたものである。
ε6
妻ー藍塾酵 、∂、》 廴声
丶'㌧
、ト整薹も鬟巳i「監厂ξー鞭ー、㌻ー
---------------------[End of Page 100]---------------------
〆
1-4ーー丿蟹、ゴー1瓢ノ《1で
9
瓠、p
論
継一血一「匡
爿一り11口
といふやうな文章に於いて、傍線のある「これ」といふ代名詞は、筆者が直前に云つた或
る事柄を承けてゐることは事實である。そこで、それが何であるかを檢して見ると、それ
は、直前の「民衆に關する研究」を承けて層るのではないかといふことが想像される。そ
こで、この語をもう一度再現して來れば、次のやうになる。
  ……あまり多く開けてゐない。民衆に關する研究は研究さるぺきものであつて、しか
  並も:.:.
これで意味が通じないといふ譯ではないが、「研究は研究さるべきものであつて」といふ
表現は上乘のものとは云ひ得ない。そこで、「これは」によつて承けられる前文を次のや
うに改めることによつて、その承接を一暦論理的にすることが出來る。
   民衆に關することの|研《、、、》究は、あまり多く開けてゐない。これは|研究さるべきもので
  あつて、
即ち、後文は前文を承けて、「民衆に關することは研究さるべきであつて」となるのであ
る。しかしながら、また、前文を虚心に讀み下して行くならば、「これ」といふ代名詞は、
次のやうな文の展開を導く方がより自然のやうにも考へられるのである。
---------------------[End of Page 101]---------------------
詈詞
   民衆に關する研究は、あまり多く開けてゐない。これ(「前丈を全部承けてゐると見る
  ことが出來る。」)は研究の困難に原因するのである。
とでも展開すべき勢を持つてゐる。何となれば、「これ」といふ代名詞は、話手と事柄と
の最も近い關係を表はし、かつそのやうな關係にある事柄を表現する語だからである。も
し以上のやうな展開が最も自然であると假定するならば、それに反した代名詞の用法は、
文章の理解を難澁にし、時にはその論理的把握を誤らせる結果に導くのである。代名詞が
單に一語によつて表はされる事柄を承けるばかりでなく、右に述べたやうに、一の文によ
つて表はされるやうな複雜な事柄をも表はすものであることも注意しなければならない。
 代名詞は、文章の理解を正しくするためにも、また表現を確實にする上からも、充分注
意されなければならないことである。このことは、本書の文章論に於いて重要な問題とな
ることである。
  ゾ
((ノ画丶
ゝノ))
『日本文法學概論』一一九頁
『新文典別記初級用』五二頁
『現代日本語の表現と語法』前篇
第四
88
ーーーー「曇ー冤D亭丶ーf丶「D
丶!丶ゝ7・ー要ー「ー丶蓼'ーー≧ーー}
---------------------[End of Page 102]---------------------
f.ー.3」ーノ《触-」7」λ
/四)
『言語四種論』界ミマへ
ホ 形式名詞と形式動詞
第二章語論
 形式名詞といふ用語は、從來文法學上用ゐられたものであり、またそのやうな事實につ
いても學者の間で問題にされたことである。(一)木枝塘一氏はこれを次のやうに詮明して居
られる。(昌)
  實質名詞といふのは名稱に對してそれに相當する一定の實質概念(其體的にせよ抽象
 的にせよ)のあるものを言ひ、形式名詞といふのはその名稱に對して一定の實質的意義
 をもつてゐないもので、單に名詞としての一般的形式しかもつてゐないものを言ふので
 ある。從つてこの形式名詞を用ひる時は、その上に必ず之を制限(限定)する語を加へ
 なければならないのである。
それはどのやうな語を指すかといふのに、例へば、
  そはわが欲するところにあらず。
  すつぼんのことを上方にてはまるといふ。
89
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詞   前後の事情から考へてそんな矧がない。
三
 に於ける「ところ」「こと」「筈」のやうな語を指すのであるが、これらの語が、單に名詞
 としての一般的形式しかもつてゐないと見ることは疑問であつて、やはり語として或る概
 念を表現するものであることは間違ひないであらうが、ただその翻念が極めて抽象的形式
 的であるために、常にこれを補足し限定する修飾語を必要とするやうな名嗣であるといふ
 方が適切である。從つて、これらの語が表現する概念内容が漠然としてゐるといふ點で、
 接尾語と極めて近いのであるが、異なるところは、接尾語は、他の語と結合して一の複合
 語を構成することが出來るのに對して、形式名詞は、他の語に對する接續の關係は、獨立
 した名詞と同じやうに用ゐられるが、それだけで獨立して用ゐられることがないといふこ
  とである。例へば、接尾語「さ」は、「暑さ」「淋しさ」などといふやうに、一語を構成す
  るが、形式名詞「こと」は、「あついこと」「さびしいこと」といふ風には用ゐられるが、
  「あつこと」「さびしこと」などとは云はれない。形式名詞が文法上注意されるのは、そ
  の概念内容の問題ではなく、それが常に何等がの修御語を俘ひ、それを含めて始めて主語
  なり、述語なりに立ち得る非獨立性の名詞であるといふ點にあるのである。山田博士は、
90
☆、穣憾り
」
}
P〜ひξ、、・ーー凄登丶ノーーiL〜璽」レ
---------------------[End of Page 104]---------------------
ー
㌧
帆
員問
第_章
三二托
Il純
形式體言として、數詞と代名詞とを擧げて居られるが、(三)この中、數詞は確かに形式概念、
を表現するものではあるが、ここにいふ形式の意味とは異なるものである。代名詞は、そ
の項に述べるやうに、話手と或る事柄との關係概念を表現する語ではあるが、これもここ
に云ふ形式名詞の中に入れるべきものではない。形式名詞といふ名稱そのものが甚だ不適
當ではあるが、ここでは既に述べたやうに、概念内容の極めて抽象的なそれだけでは獨立
出來ない名詞について云ふことにする。もし形式名詞、形式動詞の名稱が不適當であると
するならば、不完全名詞、(穹不完全動詞の名稱を用ゐる方がよいであらうが、不完全動詞
の名稱は、一般には、活用形の整はない、例へば、「敢へ」「能ふ」といふやうな動詞をい
ふ場合に用ゐるので、ここではこれを避けることとした。
   形式名詞の例
  たび(度)   このたび  私が會ふたびに
  筈       そんな筈はない。  行く筈です。
  ため      子供のためを考へる。  雨が降つたために止めた。
  まま      思うたままを書く。
---------------------[End of Page 105]---------------------
詞
窕
の
わ
け
折
やう
こと
うへ
ゆゑ
|間《かん》
件
點
あげく
もの
さういふ譯です。
私が話したのは誤です。(橋本博士はこれを準體助詞として助詞の中に
入れられたが、形式名詞と考へるのが適當であらう。佐久間博士は代名助
詞とされる。)
參上の折
人のやうでもない。
嬉しいことだ。
お目にかかつた上で
病氣のゆゑを以て
その間
お話しの件  使用の件  購入の件  雜件  用件
指摘して下さつた點は
散々使つたあげくに
馬鹿にしたものでもない。
92
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ーー-ー
ー盈墨}ゴノ
丶
論
第二章
111
  ところ    あなたの云ふところは正しい。
  よし     病氣のよし
 形式名詞(體言)に對して、當然、形式動詞或は形式用言が考へられる。形式動詞に關
連して、形式用言の名稱が、山田博士の文法學によつて一般に知られてゐるので、まづ、
博士の形式用言の説について見ることにする。
 山田博士は、從來動詞に所屬させられて居つた「あり」を動詞の範疇から引離し、これ
を形式用言と命名された。これと他の實、質用言としての動詞との相違點はどこにあるかと
云へば、
  實質用言とは陳述の力と共に何らかの其體的の屬性觀念の同時にあらはされたる用言
 にして、形式用言とは陳述の力を有することは勿論なるが、實質の甚しく缺乏してその
 示す屬性の意味甚だ稀薄にして、ただその形式をいふに止まり、その最も抽象的なるも
 のはただ存在をいふに止まり、進んでは單に陳述の力のみをあらはすに止まるものな
 り。(識)
と述べて居られるやうに、ここで形式的といふのは、概念内容の稀薄なものを指して云は
93
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詞
軍
れてゐるのであるから、博士のいふところの形式用言は正に上に述べて來た形式體言とそ
                                         94
の性質を同じくするものであると考へて差支へないのである。山田博士の文法體系は、語
の表現する概念内容の異同といふことを、根本的な基準としてゐるやうに考へられるので
あるが、本書のやうに、表現性の相違といふことを語の類別の基礎とする考方に從ふなら
ば、形式用言を特に實質用言と區別する必要を認めないことは、形式名詞の場合と同じで
ある。そこで、璃書では、形式用言といふものを特立せず、動詞の中で、概念内容の極めく
て稀薄にして、從つてそれには常に何等かの補足する語を必要とするやうな動詞を形式動.|呂《噸》
詞として述べようと思ふ・9}この場合でも、形式名詞の場合と同樣に、接尾語との關連に絶《γ气》|②
えず注意する必要がある。
 形式動詞としてまず注目されるのは「ある」であるが、今日では、「ある」は陳述だけ
を表現する助動詞として・廣く用ゐられてはゐるが(助動詞の項參照)、形式動詞としては、
あまり用ゐられず、むしろ「ゐる」を多く用ゐてゐる。
 「ゐる」は極めて抽象的な存在、袱態の概念を表現するために、多くの場合、これを限
定する修飾語を必要とする。例へば、
ξ
ノρ』ぱ9
---------------------[End of Page 108]---------------------
り
駄}双丶ー
ー921」冒鳳雪響墅■蜀層ーワ
鵯製ゝ
副旧
    _` コ亀7t
第_,・
ヨ弋
11口
  花が嘆いてゐる(文語の「花咲きてあり」「花咲きたリ」に相當する)。
  川が流れてゐる。
右は、「花」「川」の存在、状態を表現してゐるのであるが、「花がゐる」「川がゐる」だけ
では全く意味をなさず、連用修飾語「険いて」「流れて」を俘つて始めて意味が完全にな
る。これは形式名詞が連體修飾語を作つて始めて意味が完全になるのと全く同じである。
 「する」も同樣で、
  暖かくしてお出かけなさい。寒いから、
  見もしないで、あんなことをいふ。
  びくびくする。ぬらぬらする。
  それが駄目だとすれば、かうやつて見よう。
  何としてもそれはまつい。
右は「す」(爲)の一般的な意味である身體的な動作の意味から轉じたもので、心對念内容 '亨 }
                                       -ペ2ーノ
の極めて漠然とした形式動詞になつたために、多くの場合、これを補足する連用修飾語を|磁《ノノ ノノノ》
必要とする。,このやうに「する」の表現する内容が稀薄であるために、「あり」が陳述をづ9《r」》|5
    、                                                                                                                  ー
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詞
冒
表はす辭に轉換して行つたと同様な徑路をとつて、殆ど陳述を表はすに近くなつてゐる揚
合もある。
  君にしては、上出來だつた。
  月清くして、風涼し(文語)。
 「なる」もまた形式動詞に數へることが出來る。
  水がぬるくなる。
  あの方もおいでになる。
  私は實業家になる。
  氣が樂になる。
右は「水がなる」「私はなる」では意味の表現が全く不完全であつて、これを補ふものと
して、「ぬるく」「實業家に」といふ連用修飾語を必要とする。右のやうに、それ自身では
全く完全な意味を表はすことの出來ない動詞の意味を補ふための連用修飾語を、特に補語
といふことがある。形式動詞について、もし補語を認めるならば、形式名詞の連體修飾語
もこれを補語とすべきであるといふ湯澤幸吉郎氏の論は傾聽に値するものであり、それは
96
ー
〆'畦
---------------------[End of Page 110]---------------------
气 、    d」8匸璽1■■ノ
 D¶竃電          雪'.
澄」うf還ー
論
第二章譜
また文法操作の上に、便宜なものであると考へられる。曇
 「なす」は「す」と殆ど同義語で、一般に敬讓の接尾語を添へて「なさる」の形を以て、
用ゐられる。
  お讀みなさる。
  はらはらなさるQ
  御出席なさる。
 「いたす」も前項と同様、「す」と同義語である。
  おねがひいたす。  承知いたす。
 「やる」「もらふ」「あげる」「くださる」等の語も、それが物の授受、或はヒドの意味
でなく、次のやうに用ゐられた時、やはりこれを形式動詞といふことが出來るてあらう。
  甲が乙に讀んでやる。
  甲が乙に讀んであげる。
  甲が乙に讀んでもらふ。
  甲が乙に讀んでくださる。
97
---------------------[End of Page 111]---------------------
詞
「給ふ」「申す」「あそばす」についても同じである。
-(一)
 (二)
〆(三)
 (四)
・(五)
 (六)
『日本文法學概論』一〇三頁。
『高等國文法薪講』品詞篇 七五頁
『日本文法學概論』一〇四頁
吉澤義則『高等國文法』
『日本文法學概論』一八九頁
『修飾語に關する考察』(國語と國文學
   へ 動  詞
昭和六年五月)
 動詞は用言の一種である。用言は體言に對立する品詞の總括的な名稱で、一語が、種々
の用法に從つて語形の變化するものをいふ。語形が變化する語には動詞と形容詞とがある
が、動詞は形容詞と異なつて、語尾が五十音圖の行に從つて變化するものを總稱したもの
である丿㌧∵、〔 .
 動詞の定義には、しばしば、その表現する概念内容から、「動詞は事物の動作、作用、
存在をいふ語である」といふことが云はれて居り、動詞といふ名稱そのものが、そのやう
L■ーし集夢
---------------------[End of Page 112]---------------------
毒亀-
ジ
.ノ丶号
、
論
第二章語
な意味を示してゐるやうに考へられるが、概念内容の上から動詞を規定することは用言の
場合と同樣、國語の性質から見て適切でない。本書では、動詞を專ら用言の根本的な性質
である語形變化といふ點から規定することとした。
 動詞を觀察するには、次の諸點に注意しなければならない。
 一 活用と接續  二 語尾と語幹  三 活用形  四 動詞の活用の種類
 一 活用と接續
 動詞の品詞的性質が、語形の變化する語であることは既に述べた。この變化するといふ
ことを別の語で云へば、活用或は活用するといふことである。しかしながら、ここで大切
なことは、動詞における活用の意味である。語が變化するといふ點だけを問題にするなら
ば、英語、ドイッ語、フランス語等のく①Hびのoo且q㎎㊤氏o目も活用であるといふことが
出來るのであるが、oo⇔冒σQ9試○目と國語の活用とは、同じ語形變化でも、その性質が根本
的に異なつてゐる。8且¢σq㊤怠o昌は、一語が、人稱、單複數、時、法に從つて形を變化す
ることを意味するのであるが、國語の場合は、これと異なり、動詞が他の語に接續したり、
或はそれ身で登したりする場合に起こる語形變化である。幗携鐘變化とは、動
---------------------[End of Page 113]---------------------
詞 詞の斷續による語形變化であつ|匡これを動詞の活用といふのである。國語の活用の意味
三
 が以上のやうなものであることは、活用研究の雁史が明かにこれを示してゐるので、例へ
 ば、本居宣長の門下である鈴木朖に、『活語斷續譜』といふ著書があるが、ここに云ふ斷綾
 とは、絡止及び接續の意味で、斷綾譜とは今日で云ふ活用表のことである。斷續表である
 から、それは當然活用する動詞と、それに接續する種々な語の兩者を含めて成立するので
 あるが、活用研究が進み、活用が整理されるに從つて、變化する動詞の語形だけを、
   険か  ーき  ーく  ーけ
 のやうに、排列するやうになつた結果、活用とは、語形の變化を意味するものと一般に考
  へられるやうになつたが、それはどこまでもその語の終止或は他の語との接續による語形
 變化であることを忘れてはならない。
  動詞の活用と、oo且qσqp怠o昌の相違は以上述べた通りであるが、むし活用を接續に基づ
 く語形變化であると規定すると、ここに更に一の疑問が生じて來る。それは、例へば、「さ
 け」(酒)といふ語と、「たる」(樽)といふ語が結合する時、「さけ」の最後の音節が〔ア〕
 韻に轉じて、「さかだる」といふやうな現象が起こることである。これも語の接續から起
100
各1・・榔昏'轟?%
ノ
ー
膨
」蜃σ鬮醒
---------------------[End of Page 114]---------------------
含籌」理蠱」冨」〜」宅」丿f・オ、錮ハ
、
秒し
 こる變化の現象であるとするならば、これと活用の相違はどのやうな點にあるかといふこ
 とである。右のやうな變化は、全く音聲上の變化で、そこには意味といふものが關連する
覧ことがない・これ長して蠧詞の活用の場合は・常鞠定の陳述・例へば・鬟とか打湧隻.貿
ひ消或は連用修飾的陳述、連體修飾的陳述等に應ずるところの語形變紫・しかもそれが
♂しすべての動詞を通じて法則的に行はれるところに特色があ晩⊇流れる水Lと云へば、外-,. ,
   見だけを昆れば、動詞と名詞との結合であるが,實はこの二の語の…間には、連體修飾的陳
   述を表はす辭が零記號の形で存在してゐると見なければならなか。これは次の二の表現を
   比較して見れば明かである。
  引 イきれい劇水
     ・ 流れる陥水
-、『イの連體修飾的陳述を表はす指定の助動詞「な」に相當するものは、ロにおいては別の語
⑳論によつて表現されず曇記號になつて居るが、その語に相當するものが、語形の變篩ち
藩麺蠹齢麩鯵幾部鄭額艨襟辭難羅鍵脯脯
;.za r=ka}ζt
101
ーズ
/:・'il
,、 . 2 r
---------------------[End of Page 115]---------------------
踊である。活用現象はたしかに陳述の機能を含むものではあるが、しかしそれは、活用する
 語形、例へば、「険き」といふ語形に特殊の陳述の意味が固定して寓せられてゐることを
 意味するのではない。
   花は険かない。
   花が険き、鳥が歌ふ。
   花が険く。
  右の三の例の「険く」は皆述語として、そこには陳述が想定されるのであるが、語形は
 それぞれに異なつてゐる。「険か」は打消の陳述に應ずる語形であり、「嘆き」は、陳述の
 中止に、「険く」は陳述の絡止に應ずる語形であつて、根本は動詞の接續絡止に關係する
 のである。
  二 語尾と語幹
  語尾とは、動詞がそれだけで絡止したり、他の語に接續したりする場合の絡止面及び接
 續面をいふ。連續した語旬、例へば、「花が険けば」のやうなものを基にして考へるなら
 ば、そこから語を分析した場合の動詞の切斷面であるといふことが出來る。右の例で云へ
1U2
〜・
篠
、、、ーー、曳ξ㌦ヒ丶。1・、1\》・
し丶疑}』ーー冫fー
---------------------[End of Page 116]---------------------
・丿」累絮ーー」,」{-丶.
熱へ
r1)旧
第二章
糞庄
μ口
ば、「険けーば」の「け」が|語《(》尾であるといふことになる。今、動詞を主にして、「険く」
といふ語に例をとるならば、それが「ない」「ます」「時」「ば」及びそれが終止する場合
を考へて見るのに、
  険かない。
  険きます。
  嘆く時、
  嘆けば、
  嘆d。
右の傍線の部分が、接續而或は絡上面であつて、この接續面或は絡土面を動詞の語尾とい
ひ、語尾を除いた直接接續に關係のない部分即ち「さ」が語幹である。次に、「越亥る」
といふ動詞の接續面と終止画とを取り出して見ると、
  越えない。
  越えます。
  越える時、
103
---------------------[End of Page 117]---------------------
詞
三
  越えれば、
  越える。
右のやうに、「ない」「ます」に接續する語尾は、「え」であるが、「時」「ば」及び絡止の
場合は、「る」「れ」が接續面であり、また終止面であるが、このやうな語については、
「える」「えれ」をこの動詞の語尾といふのである。「える」「えれ」をまとめて語尾とい
ふのは不合理のやうに考へられるが、富士谷成章は『|脚結《あゆひ》抄』の中の|裝圖《よそひ》(一)の中で、右の
ゃうな「る」「れ」を|靡《なびき》と稱してゐる。恐らく語尾がなびいたものといふふうに比喩的に
考へたものであらうが、動詞の接續關係から考へるならば、語尾を以上のやうに考へるこ
とは適切であらうと思ふ。
 ある動詞については、語幹と語尾が同じになつてゐて、語幹がそのまま接續絡止の面を
蕪ねることがある。「|見《み》る」「|爲《ナ》る」「|寢《ね》る」等の動詞は、語幹の「み」「す」「ね」がその
まま、「みよう」「します」「ねない」のやうに接續する。
 三 活用形
 動詞について活用形といふことを云ふ場合、一往それは動詞が他の語に接續する場合の
104
p-yー丶驂ーー責
、3
τ、奮㌧丶蜃1亀〜丶〜ーー'ー、ー〜冫'♪〜ーー
---------------------[End of Page 118]---------------------
●
{」{
論
第二章語
語形であるといふことが出來る。例へば、「険けば」といふ句において、動詞「険く」が
「ば」に續く場合の「嘆け」が活用形である。また、「嘆きました」から分析される「険
き」、「嘆いた」から分析される「険い」もそれぞれに活用形である。しかしながら、活用
形といふのは、動詞が他の語に接續する個々の語形について云はれるのでなく、そのやう
な語形の鏨理統合されたものについて云はれるのである。それならば、そのやうな整理統
合は、どのやうな見地において行はれるかと云ふならば、それは接續する語を基準にした
ものである。例へば、一切の體言は、一の動詞については必ず同じ語形から接續して、
「険く時」「険く花」「嘆くやうだ」のやうに云ふ。そこでこのやうな體言に接續する語形
を一の活用形と立てて連體形といふ名稱が成立することになる。次に、助詞、助動詞につ
いて、これを見ると、すぺての助詞、助動詞が、みな一様にある語形から接續するのでは
なく、例へば、「ない」といふ助動詞は、「行か」といふ語形に接續するのに對して、「ま
す」といふ敬讓の助動詞は、「行き」といふ語形に接續するといふやうに、接續する語形
を異にするのであるが、「ない」と同樣な接續關係を持つ語は、他に、「う」「よう」等の
語があり、「ます」と同様なものに、一切の動詞等がある。そこで「ない」の語群、「ます」
1C5
---------------------[End of Page 119]---------------------
詞
蠶
の語群に應ずる活用形として、未然形、連用形といふ名稱が成立する。このやうな研究の
手順によつて、近世の國語學者によつて整理された活用形の名稱は、次のやうなものであ
る。即ち、
  未然形 連用形 絡止形 連體形 假定形(文語では巳然形或は既然形といふ)命令形の
六であり、それぞれの動詞について、活用形の簡單な到別法として次のやうな方法がとら
れてゐる。
 未然形 助動詞「ない」が附く語形。
  讀まない  起きない  來ない
 連用形 敬讓の助動詞「ます」が附く語形。
  受けます  します
 終止形 切れる語形。
  書く。  考へる。
 連體形 體言例へば、「時」が附く語形。
  見る時  する時
匿「蟹}ー、・
籌
・♪喉,尹ー丶唇}、晒
1C6
、ゝ詈ノドiーーーーヒもーー藍ーー
---------------------[End of Page 120]---------------------
'
1盞璽6雪覆ノ〜聖▲盪艦1璽7ー歹
論
第二章語
 假定形 助詞「ば」が附く語形。
  起きれば  考へれば
 命令形 命令を表はし、或は命令の意味の助詞「よ」が附く語形。
  押せ。 投げよ。
このやうな活用形の研究は、近世においては、全く文語を基礎にして整理されたものであ
り、明治以後になつて、やうやく口語の活用形が整へられるやうになつた。今日において
は、一般の動詞については、絡止形に接續する語群と、連體形に接續する語群との間に接
續關係の相違を認めることが出來ないので、むしろこれを統合して、終止連體形といふ活
用形を立てることも一の方法であるが、文語法との關連上から、及び指定の助動詞「だ」
については、今日なほ連體形「な」「の」の形が行はれてゐるのであるから、從來の絡止
形、連體形の名稱を保存する理由もあるのである(指定の助動詞の項參照)。
 活用形についてその接續關係を考へる時、助動詞「た」は、次のやうな語形から接續す
る。即ち、
  圓耐た
107
---------------------[End of Page 121]---------------------
詞
三
  立つた
  譖矧だ
これらを「た」の接續する特殊の活用形と見て、學者によつてはこれを音便形の名稱を以
て呼ぶことがある。(e現代口語の事實に即するならば、確かに「た」の接續は、右に述べ
たやうな特殊な語形から接續するのであるが、このやうな接續關係は、四段活用では、サ
行動詞を除いたものについて存在し、サ行四段及びその他の活用の動詞については、「ま
す」の一群に屬する語と同樣に、一律に連用形に接續する。印ち、
  劃Uた
  劉た
  劑た
して見れば、「た」は原則的には連用形接續の語と認め、「険い」「立つ」「讀ん」の語尾
「い」「つ」「ん」は、連用形の語尾の變形したものと認めることは必しも不當ではない。
かつこれを歴史的に見れば、或る時代には、「険い」「立つ」「讀ん」は、「険き」「立ち」
「讀み」の音便現象として並立して行はれたのであるから、これら音便形を連用形と全く
108
---------------------[End of Page 122]---------------------
ーσ丿{Gー・
論
第二章語
別の活用形として立てる理由はないのである。以上述べた音便形の處理は、實は文法學上
の根本に觸れる問題を含んでゐるのであつて、文法的處理は、言語の現象的事實にのみ執
することは許されないのであつて、現象の奥にひそむ法則を探求することが重要な任務と
されるのである。さればと云つて、現象を無硯して法則を立てるならば、それはまた言語
の事實に浩はないこととなる。現象の奥にひそむ法則の探求と云つても、そこには必ず言
語學的證明に堪へるものがなければならないのは當然である。
 次に、活用形の名稱について屡}起こる誤解について説明をして置かうと思ふ。例へば、
未然形といふ名稱から、「行か」「受け」といふ語形そのものに、右の名稱のやうな意味が
あると考へるのは大きな誤解である。この名稱は、この語形に接續する一群の語の一端を
とつて借りに命名したのであるから、誤解を避ける意味からするならば、むしろ第一活用
形と名づけ、順次、第二、第三と命名するのも一方法と思ふのであるが、誤解のおそれを
除くならば、從來の名稱も便宜であるのでこれに從ふこととした。
 四 動詞の活用の種類
 動詞において活用形が明かにされるといふことは、その動詞の接續關係が明かにされる
109
---------------------[End of Page 123]---------------------
調
ことを意味する。活用形の研究によって、動詞の接續關係は簡明にすることが出來た。更
に進んで、それぞれの動詞の活用形の語尾を整理分類することによって、すべての動詞は、
それぞれに一定數の基本形式に分屬させることが可能である。このやうにして明かにされ
たものが動詞の活用の種類である。動詞の種類の分類は、いろいろの見地からこれを分類
することが出來るであらう。例へば、自動詞、他動詞による分類、概念内容による動作性
動詞と歌態性動詞等の別が考へられるであらうが、動詞の品詞としての根本的性質は活用
する語印ち用言にあり、そのことは換言すれば、活用形の變化にあるのであるから、その
點に着目して分類することは、國語の動詞の性質の上から見て、また實用的見地から見て
當然のことである。活用形の變化は、これを動詞の語尾の變化に置換へることが可能であ
る。そして語尾の變化は、これを五十昔圖の假名の上に配當することによつて一暦明瞭に
することが出來る。例へば、語尾が、五十音圖の何行のあいうえの四段に配當されるもの
が何行四段活用であり、同樣にして、い及びい段に「る」、「れ」の添つたものに配當され
るものが上一段活用である。ここに「|上《カミ》」といふのは、やはり五十音圖に即して、う字を
界にして、あいうが上であり、うえおが下であると考へたところから來るのである。かく
110
●バト
---------------------[End of Page 124]---------------------
1
萩』丶」-丿14
第二章語 論
して今日、口語において認められてゐる活用の種類は次の通りである。
  四段活用
  上一段活用
  下一段活用
外に「來る」「する」の二語だけが、例外的な活用をするので、次のこの變格活用を設け
る。
  か行變格活用
  さ行變格活用
以上正格三種、變格二種あはせて五種の活用が認められてゐる。これを圖に示せば次の通
りである。
 動詞について何行といふのは、語尾の音韻に即していふのではなく、五十音圖に配當さ
れた假名に即していはれてゐることである。故に、「笑ふ」が「は」行四段であるといふ
のは、この動詞の語尾が、五十音圖の「は」行文字に活用することである。この動詞の語
尾を表音的に訂正した場合のことについては、總論第六項を參照されたい。
111
---------------------[End of Page 125]---------------------
詞
三
(一) 『國語學史』一五七頁。今日の活用表に當る。
(二) 橋本進吉『新文典』初年級用
112
●
}
---------------------[End of Page 126]---------------------
f鴫ー
〜翼・9《覧響」尾亅ワ{亀4
〜
活用の種類を示す表
第二章語論
 活
  用
重詞  形
の種類
四段活用
(書く)
上一段活用
(起きる)
下一段活用
(捨てる)
力行變格活
用
(來る)
サ行變格活
用
(爲る)
未然形
1か
-き
1て
一
せし
連用形
1き
ーき
1て
き
し
終止形
1く
!きる
1てる
くる
する
連體形
ーく
1きる
ーてる
くる
する
假定形
ーけ
ーきれ
1てれ
くれ
すれ
命令形
ーけ
ーき
1て
一
せし
五
十
普
圖
配
當
一
㊨⑯⑤②お
あ⑭うえお
あいう②お
あ⑭⑤え⑤
あ⑭⑤えお
あ⑯⑤②お
113
---------------------[End of Page 127]---------------------
詞
三
ト
動詞の派生語
 接尾語が、體言的なもの、用言的なものを通じて、語の構成要素となつて、新しい語を
作ることは後に述べる豫定である。接辭が附いて出來た語を派生語αΦ鼠く9鉱く①といふの
であるが、ここでは、これら派生語の中で、極めて普遍的に行はれる動詞の派生語につい
て述べることにする。
 一 自動詞と他動詞との對立
 日本語では、客語(或は目的語)○び冨9を表示する記號が無いために、客語の必要の
有無といふことで、太來的に動詞について、自動、他動を決定することは出來ない。ただ
意味の上から、或は接尾語によつて、動詞の對立が考へられる場合、相互に一方を自動詞
といひ、他を他動詞といふことがある。
 (一)自・他ともに同じ活用形のもの
  、塘す   (自、サ行四段)   水が培す。
  〆塘す    (他、サ行四段)   水を塘す。
114
邇
  陰}覧ー
---------------------[End of Page 128]---------------------
ー
{
ご'
〜
、
第二章語論
、吹く (自、カ行四段) 風が吹く。
 〆吹く    (他、力行四段)   火を吹く。
ヘニ) 自.他が活用の種類は同じで、行の相違によつて分れるもの
 {
  あまる  (自、ラ行四段)   費川があまる。
  あます  (他、サ行四段)   費用をあます。
 {
  おこる  (自、ラ行四段)   事件がおこる。
  おこす  (他、サ行四段)   事件をおこす。
(三) 自.他が活用の行は同じで、種類の相違によつて分れるもの
hあく (自、力行四段) 門があく。
 〆あける   (他、カ行下一段)  門をあける・
 {
  くだける (自、力行下一段)  氷がくだける。
  くだく   (他、カ行四段)   氷をくだく。
(四) 自・他が活用の行と種類の相違によつて分れるもの
 駄埋まる  (自、ラ行四段)   堀が埋まる。
115
---------------------[End of Page 129]---------------------
調
ミ
  〆埋める   (他、マ行下一段)  堀を埋める。
   揚がる  (自、ラ行四段)   旗が揚がる。
  {
   揚げる  (他、力行下一段)  旗を揚げる。
 (五) 自動詞の語尾(未然形)に、他動の意味を表はす接尾語「す」「せる」「させる」が
附いて自・他に分れるもの。
癖す
  思ふ
 {
  思はせる
護る
〆寢させる
二 受身
動詞の語尾に、
(自、力行四段)
(他、サ行四段)
(自、ハ行四段)
(他、サ行下一段)
(自、ナ行下一段)
(他、サ行下一段)
子供が驚く。
子供を驚かす。
昔を思ふ。
昔を思はせる。
子供が寢る。
子供を寢させる。
       受身を表はす接尾語「れる」「られる」をつけて表はす。「れる」は四段
活用の未然形に、「られる」はその他の活用の未然形につく。
116
、
》
 '
bb〜りーみ
---------------------[End of Page 130]---------------------
〜
ーノ」7    、
  ノナ も
論
第二章語
  丶笑ふ  .(自、他ハ行四段) 子供が(を)笑ふ。
  〆笑はれる (受、ラ行下一段)  弟に笑はれる。
  丶蹴る    (他、ラ行四段)   石を蹴る。
  |厂《ノ》蹴られる  (受、ラ行下一段)  馬に蹴られる。
また、サ變の動詞が受身になる場合は、「しられる」とは云はずに、「される」と云ふ。
  〔議論する
  八
  厂議論される
   不問にする
  {
   不問にされる
右のやうに、受身の動詞を作る接尾語「れる」「られる」は、從來、助動詞として取扱は
れて來たのであるが、その項にも述べるやうに、これらの接尾語は、辭としての助動詞に
屬するものではなく、詞の中の用言に屬する接尾語として考へなければならないものであ
る。一般に助動詞の附いたものは、例へば、「授けない」は「授け・ない」のやうに、一
の句であつて、どこまでも二語として取扱はなければならないものであるが、接尾語の附
117
---------------------[End of Page 131]---------------------
  詞 いたものは、「授けられる」のやうに、これを複合動詞或は全く一語として取扱ふことが
  匿 出來るのである。從つて、主語との照應も受身の場合は、接尾語の附いたものが一語とし
    てその述語となることが出來る。
ぐ戸訴嚼陂は賞を與へない.(主語「彼」に對する述語は「姐三である).
    、/彼は賞を與へられる。(主語「彼」に.對する述語は「與へられる」である)。
     以下、可能、自發、敬譲、使役についても同じことが云へる。
     三 可能
     動詞の語尾に、可能を表はす接尾語「れる」「られる」をつけて表はす。「れる」「られ
    る」の接續のしかたは、前項の受身の揚A口と同じである。
      へ讀む   (マ行四段)     私は本を讀む。
      〆|讀《、》まれる  (可能 ラ行下一段) 私は本が讀まれる。
      》寢る   (ナ行下一段)    早く寢る。
      ノ广寢られる  (可能 ラ行下一段) 私はよく寢られる。
    可能を表はすには、自他の野立の場合の(三)のやうに、四段活用を下一段に活用させて
118
ーら塾f6【ー
ーゝ》ポー匳》廴夛ー丶ドー3k櫨ーp3'
}ート、L尸'
---------------------[End of Page 132]---------------------
ど丶ー』弓、」署塾「-
電
」ー丶ー.ー、
`へ
1潤
第二章語
も表はすことが出來る。
  水を飲む。    マ行四段
  この水は飲める。 マ行下一段
四段以外の動詞についても、「起きられる」を「起ぎれる」、「食べられる」を「食べれる」,
「受けられる」を「受けれる」などといふこともある。可能の表現には、意味上、命令形
を用ゐることはない。
 四 自發或は自然可能
 動詞の語尾に、自發或は自然可能を表はす接尾語「れる」「られる」をつけて表はす。
「れる」「られる」の接續のしかたは、前項の受身、可能の揚…合と同じてある。命令形を
用ゐないことは可能の場く口と同じである。
、北日のことを思ひ川す(サ行四段)。
〆昔のことが思ひ出される(ラ行下一段)。
、あなたの來るのを待つ(タ行四段)。
〆あなたの來るのが待だ,れる(ラ行下一段)。
119
---------------------[End of Page 133]---------------------
詞
三
 自發と可能との間には意味の本質的な區別があるわけではない。
 五 敬讓
 動詞の語尾に、敬讓を表はす接尾語「れる」「られる」をつけて表はす。「れる」「られ
る」の接續のしかたは前項と同じで、この場合には時に命令形を用ゐることが出來る。
   私は今日出かける(力行下一段)。
  {
   先生は昨日出かけられた(ラ行下一段)。
   人の厚意を受ける(力行下一段)。
  {
   人の厚意は素直に受けられよ(ラ行下一段)。
 敬讓の接尾語による敬讓の表現は、話手の敬意の表現と考へるならば、事柄の表現に關
することではなくて、話手の立場の表現として、これらの接尾語は、むしろ助動詞として
辭に屬するのではないかと云ふ疑問が起こるであらうが、右のやうな敬讓の表現は、話手
の敬讓の意の直接的表現ではなくして、事柄について、それを特殊なありかたのものとし
て表現するところに右のやうな敬譲の表現が成立つのである。從つて右のやうな表現は、
敬譲の意に基づく事柄の表現といふことが出來るのである。これを次のやうな敬讓の表現
亅20
冫
、塾匹・丶3〜ββ竪
---------------------[End of Page 134]---------------------
,
.'
」7f曳ーぎー
論
第二章語
と比較するとこ暦明かにすることが出來る。
  先生は昨日出かけられた。
  先生は昨日お出かけなされた。
  先生は昨日お出かけになつた。
 即ち、或る動作を、事實そのままのものとして表現せず、「なさる」「になる」といふ語
を用ゐて、そのやうな事實が、「出來する」「威就する」といふ表現をすることによつて、
それが敬讓の表現となるのと同じである。
 以上述べた受身、可能、自發、敬譲の表現に用ゐられる接尾語「れる」「られる」は、
その起源に於いては、恐らく、存在を意味する動詞「あり」の用法の種々に分化發達した
悉のではあるまいかと考へられる。
 また、これらの接尾語がついたものは、一語として考へられると同時に、複合語として
も考へられるのであつて、次のやうな用例についてこれを見ることが出來る。
  如何に困難であるかを知られるのである(『夜明け前』、原本は「知らるる」とある)。
 右の「知られる」は「知る」と「れる」との結合した複合動詞であつて、もしこれを一
121
---------------------[End of Page 135]---------------------
詞
語と見れば、當然右の文は、「困難であるかが知られる」とならなければならないのであ
るが、例文のやうに、「……を知られる」となつてゐるのは、「知る」が分離して、その客
語として、「……を」といふ助詞が用ゐられたものと解されるのである。同樣に、
  島と島との間を見通せないので(『志賀直哉全集』巻七)
 右の「・…:の聞を」は、「見通す」(他動、サ行四段)の客語であり、「見通せ」は、サ行
下一段の可能の動詞として次へ續いて行くのであるから、この「見通す」といふ動詞は、
一語でありながら、意味的には二語の複合語と同じやうに用ゐられてゐるのである。
  妻を殺きれ、子を殺されて、われ亦死しては竟に釜なし(『八犬傳』 卷二)。
 「殺す」の客語は、「妻」及び「子」で、その主語はその殺害者であるが、「殺され」の
主語は、この文の話手「われ」であつて、「殺され」といふ動詞は、ここでは前汝例文と
同様に、二語に分離して用ゐられてゐる。
  私は電話をかけられて困つた。
  事の顳末を報告されて、私も安心した。
 右の文は、次の文とは當然意味が異なつて來る。
122
》ーー…ーL凄`丶・監匸蚕ノーーーーー…
---------------------[End of Page 136]---------------------
評
ト5
{
ー
・1し ご雪ーノ{.ー9]■詈霊量】」
凶β丶
川・II
第_酔
:を庄
1駈口
  事の顛末が報告されて、 一切が明かになつた。
 前の文では、「肇の顴末」は、「報告す」の客語であるが、後の文では、「報告され」の
主語となつて帰つて、受身の意味を持つ一語として用ゐられてゐるのである。
 六 使役
 他動詞の語尼に、更に他動を表はす接尾語「す」「せる」「させる」をつけて表はす。
「す」「せる」は四段の未然形に、「させる」はその他の動詞の未然形につく。
  讀ます    (使、サ行四段)   本を讃ませば、讀める。
  讀ませる   (使、サ行下一段)  本を讃ませれば、讀める。
  受けさせる  (使、サ行下一段)  試驗を受けさせた。
 「す」「せる」は必しも和通じて用ゐられるとは限らないやうであるが、次のやうに用
ゐられる。
  、やらした  やらせば、やります(「す」を附けた場八口、サ行四段)。
  〆やらせた  やらせれば・やります(「せる」を附けた場合・サ行下一段)。
  、持たした  筆を持たせば、立派に書く。
123
---------------------[End of Page 137]---------------------
詞
一に
  戸持たせた  筆を持たせれば、立派に書く。
サ變の他動詞を使役にする場合には、「發見しさせる」とは云はずに、「發見させる」といふ。
 使役とは、他動詞に更に他動の接尾語が付いたものであるから、いはば、二重の他動と
いふことが出來る。それが複合語的性絡を持つて分離されることがあることは前項同樣で
ある。
  私は彼に劇をやらせた。
右に於いて、「私」は「やらせ」の主語であるが、「劇」は「やる」の客語である。
 使役の構成は、二重他動にあるのであるから、自動詞に「す」「せる」「させる」をっけ
ても使役にはならない。
   沈む(自)
  一
霈輪)(使讐す(他)
   浮く(自)
{浮かす(他)浮か茎他)
124
声
』
篳
竃
{
'
戛
---------------------[End of Page 138]---------------------
〆
ー亅4生ー
'
-气〜ー1《
  尸浮かさせる(使)
   喜ぶ(自)
  {
   喜ばす(他) 喜ばせる(他)
   寢る(自)
  {
   寢す(他) 寢かす(他) 寢かせる(他)
   寢させる(使) 寝かさせる(使)
ただ、「せる」「させる」のついた他動詞は、そのまま使役に用ゐられることが多いやうで
ある。
論
第二章語
       チ形容詞
、鴫.ババ灯ハ◎巽
〔形容詞は用言の一種であつて、動詞と異なるところは、活用の語尾が五十音圖の排列と
は無關係に、一律に「く」「い」「けれ」と活用す磁ことである。形容詞もその接續絡止の
關係から活用形を持つが、それぞれの活用形に接續ナる語は、動詞と必しも一致しない。
また、動詞の場合には、語尾變化だけで命令を表はすことが出來るが、形容詞の場合には、
125
---------------------[End of Page 139]---------------------
詞
ξ
指定の助動詞「ある」を附け、その命令形によつて表はすから、形容詞そのものの語形變
化としては命令形を缺いてゐる。また、動詞の場合ては、活用形に直に接續して表はすこ
との出來る推量、並に過去及び完了は、形容詞の場合には、指定の助動詞「ある」を介し
て附く。
命令の表現
  正しくあれ(「あれ」は形容詞の連用形に附く)。
推量の表現
  寒からう(寒くーあらーう)。
 過去及び完了の表現
  美しかつた(美しくーあつーた)。
形容詞の活用形は次の通りである。
未然形 助動詞「ない」が附く語形。(こ
  正しくない。  高くない。
 連用形 助詞の「て」或は用言が附く語形。
126
`
{
ー
,ー』畳亀「
---------------------[End of Page 140]---------------------
^,
書 」」ー置尾《-`
あ書气ー」{jJく
論
第二章
塑1
5覧;■
  丸くて大きい。  美しく見える。
 終止形 切れる語形。
  流れが早い。  損害が大きい。
 連體形 體言、例へば「こと」が附く語形。「
  勇ましいこと  高い山
 假定形 助詞「ば」が附く語形。
  早ければ待ちませう。  恥かしければ止めよ。
 語尾及び語幹については既に動詞の項で觸れたが、|動詞の語幹は」般に全く獨立性を|失《ゴ げコ》を
                                        "
つてゐるのに反して、形容詞では、語幹が一の體言として意味的に獨立性を持つことがゑ
厩≧ある。形容詞の語幹は、體言に轉成する可能性を持つ動詞の連用形に匹敵するもので《、 ㌔ノ》|、
                                       、《
ある。從つて、形容詞の語幹は、他の體言、用言と結合して複合語を構成することがある。宀,、
 (一) 手なが  足ばや  待ち倒
 (二) 高値  遠ざかる  細長い
三)瀏さ矧さ             珈
---------------------[End of Page 141]---------------------
詞
竇
はた、「ほそぼそ」「近々」のやつに覊を重ねて一語を構成したり、「刳のいとま」藺撚
や到着した」のやうに一語としての機能を持つことが多い。
 以上のやうな形容詞の語幹の性質から到斷して、形容詞の語尾「い」は、語尾と考へる
よりも、むしろ活用を持つた接尾語と見る方が適切であると云へるのであ偽い類似の接彪-\
語として、「しい」「ない」「らしい」「がましい」等がこれに屬する。動詞の語尾は、起源
的には接尾語或は獨立の一語と見るべきものもあるであらうが、今日においては、動詞の
語尾と語幹は全く一語に結合して殆ど遊離性を持たない點で形容詞と異なつてゐる。
 (一) 助動詞「ない」の代りに、打消助動詞「ぬ」を用ゐる場合は、助動詞「ある」を介して、次
   のやうにいふ。この場合「ある」は形容詞の連用形につく。
   面白からぬ傾向(面白くーあらーぬ)
リ
いはゆる形容動詞の取扱ひ方
黛、
㌃(
Y ㌔
歌
 本書では、形容動詞の品詞目を立てなかつた。そこで、從來、形容動詞として取扱はれ
て來た語をどのやうに説明するかを明かにする必要がある。
舜
貯
,ー
ノー丶
、'ー
   、ノー-ムレ〜
---------------------[End of Page 142]---------------------
〜遷lu逝幾G
畷竃{看傷ー丶ーげ弓
4
論
第二童語
 まつ、形容動詞と考へられて來た語を擧げて見るのに、
 一 「白からう。」「白かつた。」といふ云ひ方に於いて、「白から」「白かつ」を形容動
詞の活用形と認めるのである(文語に於いて第一種形容動詞といはれて來たもの)。
 二  「靜かだ。」「丈夫だ。」の如き類である(文語に於いて第二種形容動詞といはれて來たも
の)。
 三 「堂々たる風采」「確乎たる意志」に於ける「堂々たる」「確乎たる」を形容動詞の
活用形と認めるのである(文語に於いて第三種形容動詞といはれて來たもの)。
 橋本進士口博士に從へば、右の中、第一の場合は、活用形も、未然形、連用形以外には用
ゐられず、かつ助動詞「う」と「た」とに接續する場合だけであるから、これを形容詞の
活用系列の中に收めて、特に第二種形容動詞といふものを立てない。次に第三種形容動詞
については、體言に連る場合にかぎられるから、これを連體詞に入れて、特に形容動詞と
して取扱ふ必要はないとされた。(一)かくして、口語で形容動詞と認むべきものは、文語の
第二種形容動詞に當るものだけに限られ、その活用形は次のやうになるとされてゐる。
129
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詞
三
靜か	纛釐
だら	未然形
にでだつ	連用形
	終亅}=形連體形
な	
なら	假定形
	命令形
1eo
 以上は橋本博士の見解であつて、これは國定教科書に採用されて廣く行はれてゐる考方
である。なほ、他の學説も紹介すべきであるが、それらについては、隨時、必要に應じて
附説することにして、ここでは直に本書の見解を述べることとする。
 第一に、「靜かだ」「丈夫だ」を一語と考へ、そこからこれを形容動詞といふ一品詞を立
てるべきであるといふ考へが出て來るのであるが、これらの語を一語として取扱ふことが、
一の問題として取上げられなければならない。一般に我々の常識的な言語意識として、
「靜か」「丈夫」といふやうな語は、「親切」「綺麗」「勇敢」「大膽」「おだやか」「すなほ」
などの語と共に、一語として考へられ、辭書に於いても一般にそのやうに採録されてゐる。
これは、文法を取扱ふ上の一の重要な根據である。橋本博士は、これらの語が、單獨で用
ゐられないことを理由として、一語と認めることを不穩當であるとされるのであるが、
ー
   匪
・監■瞹
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癰竃、ー|耄《・         鮨》亅1墾量丿ヨ墾・〜弓
2Jq{・
論
第二章語
「たちまち」「すぐ」といふやうな語も、連用修飾語以外に主語として單獨に用ゐられる
ことのない、用法の限られた語であるが、これを一語でないとは云ふことは出來ない。か
つ、「靜かだら」「靜かなら」といふやうな語もそれだけ單獨に用ゐられることがないから、
これを一語とすることは不穩當であると云はなければならないのである。
 今、「靜か」「丈夫」を一語とするならば、「靜かな」「靜かだ」或は「丈夫に」「丈夫で」「丈夫なら」に於ける「なら」「で」「に」「だ」を何と見るぺきかといふに、本書では、これを指定の助動詞「だ」の活用系列と考へたのである。即ち、「静かな」「丈夫に」は、「靜か」「丈夫」といふ語形の變化しない語、即ち體言に、指定の助動詞の附いたものと考へたのである。このことについては、後章指定の助動詞の項を參照せられたいが、右のやうにして、いはゆる形容動詞は、一般に體言(名詞)に指定の助動詞の附いたものと全く同等に取扱はれることとなるのである。
      髀言 指定助動詞
  彼は私の親友だ。
    髀言 指定助動詞
  彼は親切だ。
ただ右の二例について懾別されることは、意味の上から云つて、前者の「親友」が名詞的
131
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詞
三
であるのに對して、後者の「親切」が形容詞的であり、從つて、後者には、「大變」「非常
に」といふやうな連用修飾語を加へることが出來る。しかし、それは意味の上から來るこ
とで、「親友」「親切」の二語が語性を異にしてゐるためであるからではないのである。例
へば、「健康」「單純」「單調」といふやうな語をとつて見ても、
  彼は健康を誇にしてゐる。
  彼は非常に健康だ。
  單純を選ぶ。
  極めて單純な事柄。
  單調に飽いた。
  すこぶる單調だ。
これらがいづれを名詞とし、いづれを形容動詞とするかは容易に到斷を下し得ないことで
あつて、教育上からも極めて困難な問題である。これらの相違は、品詞の別として教授せ
らるべき事柄ではなくして、名詞の意味論に所屬する問題である。全く名詞と考へられて
ゐる語の中にも次のやうな用法がある。
132
匿匿戸ーーー尹ーー・ーー丶『}
  、
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t}ー
---------------------[End of Page 146]---------------------
f
-1・丿7鳳-{丶9蓋罷、
論
第二章話
  明日から學校だ。
  水に入つたら、てんで金槌だ。
名詞や體言が、連用修飾語をとることについては、文論の述語格の項を參照されたい。
 形容動詞を立てることの不合理は、その敬語的表現の説明に困難を感ずることである。
「静かだ」に對應する敬語的表現は「靜かです」となるのであるから、「静かだ」を形容
動詞と立てるならば、「静かです」も當然形容動詞としてその活用系列が論明されなけれ
ばならない筈であるが、國定教科書に於いては、「です」を斷定を表はす助動詞としたため、
「靜かです」は形容動詞の語幹に「です」が附いたものといふやうに論明せざるを得なく
なつたのであるが、もし「靜か」を一語と見ることが出來ないといふ立場を固執するなら
ば、「靜…かです」も當然それだけで一語と見なければならないし、「です」を分離させて、
斷定を表はす語であると見ることも出來ない譯である。本書に於いては、「静かです」或
は「靜かでございます」の場合も、「静かだ」の場合と同樣に、體言に敬語助動詞「です」
「でございます」が附いたものとして説明した。
 橋本博士は、「確かである」「立派でございます」のやうなものは、形容動詞の「確かだ」
133
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三謁
「立派です」などとは別で、副詞「確かで」と、補助用言「ある」「ございます」との連語であると説明された。9)しかし博士は、また別のところで、「確かで」「立派で」を形容動詞の連用形として扱つて居られる、三)と同時に、形容詞の連用形を副詞とすることには贊成して居られないのであるから、西)右の取扱ひには多分に矛盾が存すると云はなければならない。これは、「確かだ」を一語の形容動詞と考へるところに無理があるのであつて、本書では、「確か」といふ體言に、指定の助動詞「だ」「で」「に」「である」「です」「でございます」等が附いたものとしたのである。 「確かに」を副詞とするのは、廣義の副詞の場合に許されることで、本書では、體言「確か」が連用修飾語に立つたものとした(連體詞と副詞の項滲一照)o
 (一) 『國語の形容動詞について』橋本進吉博士著作集 第三卷
 (二) 『新文典別記』上級用(昭和十三年二月版)二九八頁
ーレ(三) 『國語の形容動詞について』橋本進吉博ナ薯作集 第二卷 ==一頁
 (四) 『新文典別記』 口語篇  三七.}只
134
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f下冊
語
讌
鍬
 日本語に於いて認定される單語は、一般に格の記號を持たないのが普通である。語は無
格性であるといふことが出來る。從つて、そこから導き出される口m詞の概念にも、格の概
念を件はない。これに反して、ヨーロッパの言語のあるもの、例へば、ラテン語、ドノ・ッ
語の如きに於いては、名詞は必ず何等かの格記號を件ふのが常で、無格の名詞、例へば、
「机」といふ語に和賞するラテン語、ドイツ語を考へることは出來ない。そのやうな場合
には、主格を以て代用するのである。印歐語は元來このやうに有格性の言語であるために、
そこから導き出された品詞の概念の中には、他の語との關係の概念が含まれることが多い。
騨&Φo怠く①鴇㊤αくΦHび のやうな口m詞は、これらの語が、常に他の語に附加されるといふ機能
的關係から命名されたものである。動詞くΦ筈に對する見方にも、それが、主語である名
詞の陳述をすることに、その本質的性格を認めようとするのである。ここにも陳述と動詞
の概念的表現とが不可分離のものとして融合してゐる。
 以上のやうな印歐語の性格に對して、國語に於いては、格は必ず別の語、即ち助詞にょ
135
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'
詞
冒
つて表現される。從つて、名詞と格表現との結合である句が、ラテン語やドイッ語に於け
る一語に相當する譯である。同様にして、國語の動詞は、用言即ち語形變化をする語とし
て理解される以外に、それが陳述の機能を持つと考へることは誤りである(文論、用言に
於ける陳述の表現參照)。
 ところが國語に於いても、}或る種類の語は、連體修飾語か、連用修飾語以外には用ゐら
れないといふやうなものがある。即ちこれらの語は、格表現がその語の中に本來的に備つ
てゐると見るべきものなのである。そこで、これらの中、連體修飾語としてのみ用ゐられ
るものを連體詞といひ、連用修飾語としてのみ用ゐられるものを副詞といふことにすゐ凶
これらの名稱は、體言、用言、動詞、形容詞等の品詞の概念が、全く語それ自體の持つ性
質に基づいてゐるのに對して、文構成上の役目をも含めて呼ぶところに、大きな相違點を
見出すのである。これらの品詞と他の品詞との關係を明かにするために、先づ連體詞につ
いて説明を試みてみる。
  イ 昔のことです。(體言)
  ロ ある日のことです。(連體詞)
136
丶輸ゆζ!
蔭丶墜βも魯}ー}ー1奮夢ー、
---------------------[End of Page 150]---------------------
,
亀
ゴ〜{-丶痼亅
論
第二章語
イの「昔」といふ語は、助詞「の」を件つて、下の體言「こと」に對して連體修飾格に立
つてゐるが、修飾的陳述の表現である「の」を除いた「昔」といふ語は、體言であつて、
それは他の別の格にも立つことが出來る語である。換言すれば、體言がこの場合連體修飾
語に用ゐられてゐるので、ここでは、體言としての品詞の性質と、その文構成上の職能は
別のものと考へられる。これに反して、ロの「ある」は、語形の變らないといふ點では、
一往體言とすることが出來るが、この語は、英語のけぼρ爵暮等が連體修飾語として用
ゐられたものを、αΦ日8ω零暮ぞ①㊤&Φo試くΦと呼ぶやうに、その用法が限定された特殊の
語であるから、その文構成上の職能をも含めて連髏詞と呼ぶことにするのである。連體詞
といふ名稱は、近頃の學者の考案したものであるが、既に總論文法用語の項に於いて述べ
て置いたやうに、いはゆる形容詞といふ名稱は、このやうな形容を意味する特殊な語のた
めに保留して、連體詞と呼ぶ代りに、これらをこそ形容詞と呼ぶのが適切ではないかと思
ふ。從つて、これらの語は、形容詞的職能を持つ品詞の意味になるのである。匐體詞の各斜'昏
                                        }ρ.ー・
稱は、このやうに職能を含めた名稱であるから、これを擴張して、前例のイの場合の「昔冖搾、.ψ
                                         蠍
の」を、その修飾的陳述を表はす「の」を含めて、連體詞と云つても差支へないことにな一
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幽rζラ
綱る譯である。嚴密な意味に於ける連體詞に於いて、右のやうな修飾的陳述を表はす語は、鵬
 語そのものの中に、融合してしまつてゐると見るべきであ喰元來國語の諸語は、無格性'b
 を常とするのであるから、嚴密な意味に於ける連體詞は極めて少數である。例を擧げるな
 らば、
    一 本問題  該事件等の漢語に屬するもの。
   二 とんだ災難  いはゆる秀才型  大きな(一).家  瀏十日  曲つた道(二)
   三 イ こんな話  あんな出來事
      ロ この本  その時
 三は、これらの語の性質上、むしろ代名詞の系列に所屬させるぺきものであることは、代
 名詞の項に述べたところであるが、その職能をも含めていふならば、連體詞的代名詞とで
 も呼ぶべきものである。
  次に、副詞について述べる。
   イ 昔おちいさんとおばあさんがありました。
    ロ 會議はすでに終つてゐた。
ー,ーーーー譽ー`【「ー倉r㌧「垂〜【ーーーー墜匹ーーー
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《
ー毒-董量ぞ
論
第二賣語
イの「昔」は、逋體詞の場合と同樣に、品詞としては體言であつて、この場合、連用修飾
語として用ゐられたものである。ところが、ロの「すでに」は、「靜かに」「ほがらかに」
等のいはゆる形容動詞と云はれてゐる語が、「靜か」と「に」、「ほがらか」と「に」に分
解して二語の結合と考へられるのに對して、これだけで一語と考へざるを得ない語である。
そしてイの場合と異なるところは、この語が體言として種々の格に立つことが出來る無格
性のものではなく、逋用修飾語として以外には用ゐられない語である。即ちこの語は、連
用修飾語としての性質をその中に持つてゐると見ることが出來る。このやうにして、一語.、左
にして概念と同時に修飾的陳述を含む語を特に副詞と名づけるのである。 一般に次のやう
な例に於いて、
  花が美しく喚いてゐる。
「美しく」を形容詞と見るべきか、副詞と見るべきかについて疑問が起こる。これを形容
詞と見る立場は、この語を用言の一活用形と見るのであつて、その場合、この語の、この
文に於ける職能といふものは考慮の外に置かれてゐる。それは、「美しい」といふ語は、
                                        鸚
用言として、本來、無格性のものであるから、この語の品詞が何であるかと問はれるなら
ゆ)lsv
---------------------[End of Page 153]---------------------
1
監
ば、右のやうに答へるのは當然である。今、この語を副詞と見る立場は、この語の持つ連
用修飾的陳述をも含めて云ふのであつて、實は、そのやうな連用修飾的陳述は、零記號の
形式を以てこの語に別に加へられたものと解することは、無格性を本體とする國語の單語
に於いて當然認められなければならないことである。これを圖示すれば、次のやうになる。
  鬨し-π
即ち、「美しく」と、零記號の陳述とを含めて始めて副詞といふことが出來るのである。
もし副詞の名稱も廣義に解するならば、この語の、この場合の用法に即して副詞といふこ
とが許されるのは、連體詞の場合と同樣である。しかし、「美しく」だけに即して云ふな
らば、
  美しく、赤い花
とも云はれるやうに、連體修飾語にも立ち得る語であり、更に他の活用形を考へに入れる
ならば、一義的に副詞とは云へないことは明かである。ヨーロッパの言語が、接尾語占鴇
を添加して連用修飾語的職能を一語の中に表示するのと異なり、國語の用言の活用形は、
決して格を表示するものではないのであるから、一語に郎して云ふならば、右のやうな形
140
、
塾
---------------------[End of Page 154]---------------------
ム
嵐
論
第二章
アL
容詞の連用形を副詞といふことは出來ないのである。ところが、若干の語は、「すでに」
のやうに、一語の中に連用修飾的陳述を含めてゐるのがあるので、特にこれを副詞として
取扱ふのである。
 ここで連體修飾語及び連用修飾語の名稱について一言するならば、連體、連用といふこ
とは、活用形の名稱の適用であると思ふのであるが、この名稱は、專ら用言と體言との接
續關係を形式的に云つたもので、そこには、文の職能に關する概念は含まれてゐない筈で
ある。文の構成要素の間の職能關係は、體言、用言等の品詞別を超越して、語の意味的關
係に於いて成立するのであるから、文構成の職能に關する用語としては、先きに保留した
形容詞的修飾語及び副詞的修飾語の名稱を使用するのが合理的である。何となれば、形容
詞、副詞の名稱は、語の意味的な機能關係について云はれることだからである。例へば、
  きつばりお言ひでしたか。
  明日から學校だ。
に於いて、「きつぱり」は常に副詞的修飾語に用ゐられる語であるから、これを副詞と名
づけることは既に述べた。そしてこの語は、下の「お言ひ」といふ用言から轉成した體言
141
---------------------[End of Page 155]---------------------
量
を修飾する關係に立つてゐる。しかし、「きつばり」といふ副詞は、體言といふ品詞に關
係してゐるのでなく、この語の持つ動作的意味に關係してゐるのである。また、次の「明
日」は、助詞「から」によつて格が表示され、連用修飾語に立つてゐる體言であるから、
一般には、用言との關係が豫想されるのであるが、ここでは、體言「學校」が關係してゐ
る。これも、實は體言そのものが關係してゐるのでなく、「學校」といふ語の持つ意味に
關係するのである。「學校」は、ここでは建築物の意味でなく、學習、勉學と同義語に用
ゐられ、動作、歌態を意味するのである。從つて、「明日」といふ語も、連用修飾語とい
ふよりは、副詞的修飾語と呼ぶのが適切である。橋本博士は、形容詞的修飾語、副詞的修
飾語、特に形容詞的修飾語の名稱は、適當でないとして、連用、連體の名稱を用ゐると云
つて居られるが、三)それは、形容詞の名義が國語に於いては特殊の用言の名義に用ゐられ
て居ることが理由とされるからである。右に述べた私の提案は、形容詞の名稱を今日いは
ゆる連體詞の名稱に保溜した場合にのみ成立するものであることを附加へて置きたい。
 副詞の修飾關係を右のやうであるとして見れば、
  一 大履靜かな家  もつと穩かな日
142
孟
〜
¢
---------------------[End of Page 156]---------------------
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、、昏艦ー蓋ー・
,重■厘匸亅4量111昌|覧《∋》
簫
論
第二蕈
安r紀
質日
に於いて、副詞「大騒」「もつと」は、從來、形容動詞「靜…かな」「穩かな」を修飾してゐ
ると考へたので、連用修飾語として差支へなかつたのであるが、本書では、形容動詞を否
定して、これを、體言「靜か」「穩か」と「な」の結合としたので、これらの副詞は、當
然體言を修飾するものと考へなければならない。これらの副詞は、これらの體言の持つ、
状態的意味の修飾語と考へられるのである。
  二もつとゆつくり歩け。
    だいぶんはつきり見える。
右の傍線の副詞は、「ゆつくり」「はつきり」といふ體号口に關係するといふよりも、前例と
同樣に、これらの語の歌態的意味に關係することによつて副詞と云はれる。
  三 わつか三人で仕上げた。
    すこし右へよれ。
    ずつと晋の話
右の例は、甚[だ難問であつて、確實な説明は下しにくいが、「わつか三人」の場合は、「三
人」が量的な歌態を表はしたものと考へられる。「すこし右」の場合の「右」は、單なる
143
---------------------[End of Page 157]---------------------
詞
一二
方向でなくして、そこには、動作の概念が含まれて居るものと見られる。「ずつと昔」の
場合の「昔」も同樣に、時間を遡つて行くといふ思考上の動作があるやうに見られる。從
つて、過去の年代が決定されて居る場合、例へば、「ずつと寛永時代に」などとは云はれ
ない。「はるか頂上には雲がただよつてゐる。」といふやうな場合にも、「頂上」といふ語
に視覺的な動作が拌ふが故に云はれることであらうと思ふ。右の原理は、推して、「ひと
り歩き」「いちや漬け」のやうな複合語の要素聞の關係についても、云はれるのではない
かと思ふ。これらに於いては、「ひとり」「いちや」はそれぞれ下の轉成の體言の動作的意
味に對して副詞的修飾語に立つてゐるのではないかと思ふ。
 最後に、從來副詞の用法として擧げられて來たものの中で、今日なほ問題とされてゐる
ものは、いはゆる陳述の副詞と云はれてゐるものである。例へば、
  明日は恐らく晴天だらう。
  彼はあのことを決して忘れない。
  もし君が行けば、僕も行く。
右の傍線のある「恐らく」「決して」「もし」は、それぞれ「だらう」「ない」そして「行
144
;働狭法Bz
、
---------------------[End of Page 158]---------------------
、
の〜メ
亀篭曇ー云4ー
  メ
勺月u
、丿i>
論
第二章語
けLの零記號の陳述に「ば」を俘つた假定的陳述を修飾してゐるところから、陳述副詞と
一般に云はれてゐる。今まで述べて來た副詞の諸例は、そのすべてが,詞に關係するので
あるが、ここに擧げた陳述副詞は、辭を修飾するのであるから、副詞の用法としては、極
めて異例に屬するものと云はなければならない。そこで、これらの副詞は、はたして詞に
所屬して副詞と云ふことが出來るものであるかどうかといふ疑が起こつて來る譯である。
思ふに、これらは、レ|副《フ》詞として詞に所屬するものでなく、辭に所厩するものではないかとーみへ㌻惣
                                     L 、
考へるのである。その理由は、詞はその根本的性格として、事柄の概念的表現であるから、
話手に對立する一切の事柄を表現するのである。「おほかた仕事もすんだ。」「多分にいた
だいた。」等の傍線の語は、事柄のありかたを表現して詞であり、これらの語は、各人稱
に關係する事柄に通じて用ゐることが出來る。ところが、これらの詞が話手に關すること
に、更に話手の心持ちに關する表現に限定されるやうになると、辭と共通した性質を持つ
やうになる。
  おほかた 仕事もすむ頃だらう。
  ー'                                             45
  多分 うまく行くだらう。                          -
---------------------[End of Page 159]---------------------
詞 右の「おほかた」「多分」は、十中八九は斷定し得るが、一分の疑ひを殘してゐるやうな
三
 氣持を表現してゐるのである。これらが、辭とみなされる理由は、これらの|語が第二者、
 第三者の心持ちの表現匹は用ゐることが出來ないからである。「勿論」「無論」といふやう
                           ノ」
 な語も、本來は「誰が見ても異議がなく」の意味で、
   勿論、次のやうな場合は例外である。
 ,のやうに用ゐられるのであるが、これが次第に話手のことに限定されて來ると、強い到斷
 の表現として陳述の辭と呼應して來る。「斷じて」といふ語も同じで、第二、第三人稱に
                 ーー枇
 通じて、「斷じて行へば、鬼祚も遞く」といふやうに用ゐられ、それが詞に屬することは
 明かであるが、この語が、話手の心持ちの表現に限定されて來ると、強く主張する話手の
 氣持の表現として、特に否定辭と呼應して、「斷じて不正は行はない」といふ風に用ゐら
 れる。この場合、「行ふ」の主語が、どのやうな人稱に屬してゐても、「斷じて」は必ず話
 手の否定に關して云はれることである。かうなると、もはや詞ではなく辭であるといはな
 ければならない。
  佐久間鼎博士は、
146
!
置守
◎ノ
登量メ・5置『量}}『止
---------------------[End of Page 160]---------------------
<ノー丶丶,
㌧ぎ1.感・ひ丶・之》5ラ
|乃《しノ》uヌ、t、e'》13《リハへ》|9
渦
兆如
論
第二章語
  この料理は だんじてうまい。
  あの映識は だんじておもしろかつた。
といふやうな方言的用例を擧げて居られるが、これは述語の状態について云つたもので、
詞としての副詞の轉義であるから陳述に關係がない。・四
以上のやうに、陳述副詞と云はれてゐるものは、云はば、陳述が上下に分裂して表現さ勉冒
れたもので、「無論……だ」「決して……ない」「恐らく……だらう」を一の辭と考へるべ略ゐ.メ
きであら亀古く話手の禁止表現として行はれた                 レ` 《眠》|(
  吹く風をな來その關と思へども
の「な……そ」と同類と見ることが許されはしないか。暫く疑ひを殘して試案を提出する
ことにした。次に、いはゆる陳述副詞の例を擧げるならば、
響「だ」「です」或は用言の零記諜譚應する.
きつし
                                        柳
  決してノ
し、
飯・託3〔冫
---------------------[End of Page 161]---------------------
詞
三
とても
斷じて
おほかたμ
恐らく、
どうか〆
強い否定の「ない」に呼應する。
どうぞ楓
想像、推量の辭「だらう」「でせう」に呼應する。
もし
懇願を表はす辭即ち命令形に呼應する。
假定的陳述に對應する。
148
(一) 「大きな」は、「靜かな」「ほがらかな」等のいはゆる形容動詞と同樣には考へられない。形
  容動詞の場合には、「靜か」「ほがらか」を一語として、「な」を指定の助動詞とすることが出
  來ることについては前項に述べたが、「大きな」については、「大き」「な」と分解することが
  出來ない。「大き」といふ語には一語としての意識がないからである。「大きな」は逹體修飾語
  以外には用ゐられない語である。
(二) 「曲つた」の「た」は、起源的には「たり」から出たもので、「たり」の用法は、「……して
  ゐる」といふ訣態を表はす詞としての用法と、過去及rび完了を表はす助動詞の用法が並立し、
  次第に助動詞的用法に移つて行つたのであるが、「たり」から出た「た」に竜、右のやうな二
、、畦.
、
隻
、
魯-}♂窰、
ー艦「
ー
---------------------[End of Page 162]---------------------
艦ヨ」鴦・
遷-1題濁ド"
  の用法が並立してゐる。詞としては、「尖った帽孑」「腐つた根性」「沈んだ顏」などと用ゐら
  れるが、これはすべての動詞について規則的に云はれる譯ではない。「走った犬」「泳いだ魚」
  「倒れた人」等は、「走ってゐる」「泳いでゐる」「倒れてゐる」の意味には用ゐられない。ま
  た、右の状態を表はす詞としての「た」は、ただ連體形としての用法に於いてそのやうな意味
  に用ゐられるので、「帽子が尖った」は「帽子が尖ってゐる」の意味には用ゐられない。して
  見れば、右の朕態を表はす「た」は、連體修飾語としてしか用ゐられないものとして連體詞と
  するのが遖切である。右のやうな「た」は、状態を表はす一種の接尾語と認められるのである
  (接頭語と接尾語の項及rび過去及び完了の助動詞の項參照)。
(三) 『改制新文典別記』 口語篇 一コニ○頁
(四) 佐久聞鼎『現代日本語法の研究』九〇頁
ル接頭語と接尾語
一掣丶
百岡
第二章語
 接頭語、接尾語は、接頭辭、接尾辭ともいひ、これを總括して接辭とも云はれてゐるも
のである。他の・m詞がすべて語としての性質上から一類を立てたものであるのに對して、
ここに述べるところの接頭語、接尾語といはれるものは、他の語と統合して、一語を構成
することの出來るやうな語をいふのである。從つて、それは、一語の内部的な構成要素と
149
---------------------[End of Page 163]---------------------
詞 考へられ、これを研究するのは、文法學以前の語の語源學に屬するやうにも考へられるが、
三
 接頭語、接尾語の多くは、古くは一語としての獨立の機能と意味を持つて居つたと考へら
 れるものが多く、また現在でも、語とこれら接辭との劃然とした境をつけることが困難な
 場合が多い。このことは、語の品詞的性質を決定する接尾語に於いて特に重要な意味を持
 つて來るのであつて、これを全く語の内部的な構成要素と見るか、或は一語としての機能
 を認めるかといふことは、國語の構造の問題にも關連し、ひいては、文の意味的理解にも
 重要な關連を持つ問題となつて來るのである。
   一 接頭語
  接頭語は、鷲Φ臣図の譯語で、明治以後新しく加へられた文法學上の名目であつて、獨
籾立した一語としての機能を持たない造語成分を云ふのであるが、本來、獨立した一語と認
 められるものもあり、かつそれだけで一定の意味を有するものであるから、これがついて
 出・來た語は、複合語と認むべきものである。現代語として比較的造語力のあるものの例を
 擧げるならば、
   す
15J
竃這ち。`し亀ノ6・ム疋亀嗾藍陰塵Dξ'
ー、ー丶隆!`ー㌔ノノ墜ーー,〜ー`
---------------------[End of Page 164]---------------------
   す足 すつばだか すがほ
  お
   お米 おいそがしい おつかれ
  ま(まつ)
   ま夜中 ま新しい まつか(貫赤)
  こ
   こうるさい こぎれい こやかましい
  びく
   ひつたくる ひつかく ひきはがす
  ぶつ
   ぶつたたく ぶつかける ぶちのめす
なほこの外に漢語起源のものを擧げれば、
  ふ(不)
   不案内 ふたしか 不都合
151
ぶんなぐる
まつくら
t
着
薯ヨー罫〜ー丶気
聲
---------------------[End of Page 165]---------------------
詞
三
 ぶ(無)
  無器量 ぶしつけ 無風流
 ご(御)
  御馳走 倒苦勞 dたいそう
 ぜん(全)
  全日本體育連盟
二 接尾語
勤翻尾萱、qh・図の譯語で、獨亠ユした壽としての機能を持たない造語成分を一本ふので
 あるが、英語などと比較して、國語の接尾語は、機能上、單語内部の要素と考へるよりも、
|第《、》壽として取扱ふ方が適切で巉英語などの麓語も、起源的には藷としての機能を
 持つたものが、相當多かつたのであらうか、今日接尾語と云はれるものは、皆、一語の内
 部的構成要素となつてしまつてゐるものについて云はれる。そして、それらは、語に特定
  の品詞性を與へるものと考へられてゐる。例へば、ζを附ければ津○びぢのやうに副詞と
 しての資格が與へられる。このやうな接尾語の概念を、そのまま國語に遖用して説明する
152
〜
---------------------[End of Page 166]---------------------
ー
;
論
二章語
ことが出來るかは甚だ疑問である。例へば、山田孝雄博士は、接尾語を分けて、意義を添
ふるものと、一定の資格を與ふるものとし、後者に於いて、更にこれを四に分け、名詞の
資格を盥ハふるもの、形容詞の資格を與ふるもの、動詞の資格を與ふるもの、副詞の資格を
與ふるものといふ風に分類して居られる。(一)しかしながら、この外國語文法の適用が、國
語の性格を如實に説明出來るかどうかは甚だ疑はしい。第一に、國語に於いて、一般に接
尾語と云はれてゐるものは、單純に或る品詞性を附與するものではなく、接尾語それ自身
が、皆それぞれに或る概念内容を持つものであることに於いて、英・佛・獨語の接尾語と
甚しく相違する。例へば、動詞の資格を與ふる接尾語として山田博士の舉げられたものを
見ると(山田博+は接尾辭と云はれてゐる)
  めく-春めく 時めく
  がるーおもしろがる 見たがる
が擧げられてゐるが、これらの接尾語は、もとの語に、ある別の品詞的性格を與へるもの
であるといふよりは、更に別の意味を加へてゐるものであることが分る。即ち、接尾語そ
れ自身が或る概念内容を表現してゐるのである。英語で昌oび一①から昌○びぢが出來、フラ
153
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  罰 ンス語でげ①霞Φq図からげΦ母ΦqωΦ日①昌けが出來る場合には、甘"誉Φ昌はただ副詞として
  三
    の品詞を決定するもので、語の意味に新しいものを附加へてゐるとは考へられない。第二
   に、國語に於いては、接尾語は他の語との關係に於いて、一語としての機能を持つてゐる
   と考へられることである。例へば、次の例、
     私に何か云ひたげにしてゐた。
     地に屆きさうな様子です。
  ㌃あなたにほめられた瀏にそん董をするのです・
   に於いて、⇒接尾語と云はれてゐる「げ」「さう」「さ」は、それぞれに、「云びたげ」「屆き
絢、塔さう」「ほめられたさ」で壽を襞してゐるのでは奮、「私に禦云ひた」「地に屆き」
知   「あなたにほめられた」に附いたものと考へなくてはならな艙即ち「げ」は様子の意味
   を以て、「私に何か云ひたい」といふ句全體によつて修飾されてゐると考へるぺきである。
罫それは一語の構成要素といふ吉も、それ|自《ノ》竺語として、他の語と同等の幕を以て結
 ・・ 合してゐるものである。異なるところは、一般の語であるならば、「私に何か云ひたい樣
   子」といふ風に、これも形容詞を構成する接尾語と云はれてゐる「たい」の連體形から接
154
ー、}1
、p、
亀D5も鑒覧、
廴βし昼3㌧警置τ
ー
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{うfJ璽
'失ーノろ響.竃-響璽塁置墨
論
第二'3
一庄
【1口
續するのに對して、この場合は、語幹から直に接續してゐる。これは「さ」の場合も同じ
である。そしてまた、「げ」「さ」「さう」は、それだけで獨立して用ゐられず、常に何等
かの修飾語を件ふといふ相違がある。國語の接尾語は以上のやうな性質を持つてゐるので、
これらと、他の語、特に獨立しない語との間に明確な一線を劃すことは困難である。例へ
ば、助數詞と云はれる「二羽」「三羽」の「朋」、「四本」「五本」の「本」も接尾語と云は
れてゐるが、これらと獨立した用法を持つ「二箱」の「箱」、「六圓」の「圓」の如きもの、
或は動詞的接尾語の中、「ばむ」「めく」の如きものと、獨立しても用ゐられる「才子ぶ
る」「時めかす」の「ぶる」「めかす」と本質的に異なつたものとは云ふことが出來ないの
である。そこで、一國語の接尾語をもし定義するならば、比較的獨立性が少く他の語と合しー,'
て一語を構成することの出來る語とでも云はなければならない。一語を雌…成することが出|学《で》《い》|」
來るといふ點で、いはゆる形式名詞のやうなものと區別することが出來る。形式名詞につ戸涛
                                L
いてはその項に既に述べた。
右のやうな接尾語の概念は、これ.を潼途mの場く口にも遖用出來る。
                                         励
  館(寫眞館、本館) 店(商店、藥店)
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調  手(歌手、運轉手)  人(病人、役人、軍人、法人)
霊 以上のやうなものと、獨立した用法もある長(驛長)、感(讀後感、責任感)などと根本
 的な相違は認め…難い。
1,r
體言的接尾語の例
 げ  1文語的な云ひ方に殘る。
 がた ー殿がた あなたがた
 かた ー讀みかた 泳ぎかた
 がてら1人を訪ねがてら、京都へ行きました。(e
たしさささ
ちなうま
1寒さ
ー1-山下さま(敬稱)
-悲しさうな顏 あの人は、うれしいさうです。
1東京を立ちしなに
ll君たち
4
㌔「
譬ヤ    倉
ー
 暮
書
ーノこ監ノ
直ーζ罌
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6召璽■雪薯」
1
苧1屆租23
〜
  丶
[岡
第二章語
だらけi泥だらけ
ども1私ども
て  -賣詞 讀みて(「てがない」といふ時は獨立する)
なみ 1軒なみ 足なみ 人なみ(人と同等の意)
ながらー本を譲みながら歩く 皮ながら食べる
   「こはいながらも通りやんせ」「芳いながらしつかりしてゐる」の場合は助詞
たややもめみ
  うと
域
ー赤み すごみ
ーこはいめ 三番め つぎめ
t枕もと手もと
1書きやう 今やう 返事のしやう
1餅や わからずや
1尖つ掴 曲つだ(これが附いた豁は、連體詞と認むべきことは、「連體罰と副詞」
  の項で述べた。)
ー職域地域
157
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詞
三
然線觀化間
ー1東京大阪聞 一年開(「その聞」などと用ゐられる時は形式體言)
1能率化 具體化
-世界觀側面觀
-東海道線本線
-政治家然 殿樣然
糞㌘4鳶
用言的接尾語の例
 がる   寒がる 悲しがる いやがる
 がましいーおしつけがましい 催促がましい
 がたい1讀みがたい 濟度しがたい
 きる ーやりきる 食べきる
 しい(い)i赤い 目星い 大人しい 腹立た図 たのも図
 させる(使役)1起きさせる 受けさせる
 じみる1世帶じみる 老人じみる
158
'
・-ーーー ー  畢レ¶
サ
4
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、
聲,ー6喝〜も
亀丶1■
第二章語 論
す(他動)ーおこす あるかす
だつ 1殺氣だつ 目だつ きはだつ
だす 1動きだす(始める意) さぐりだす(出す意)
たがる1行きたがる 見たがる
たい -行きたい 見たい
つく 1産氣つく 怖氣つく 物心づく
つける1行きつける 見つける 叱りつける 呼びつける
なす 1山なす大波 瀧なす汗
ばむ 1汗ばむ 黄ばむ
ぶる ー大人ぶる 學者ぶる
めく 1春めく 田舍めく
らしい-ー男らしい 馬鹿らしい いやらしい
れる、られる1叱られる 受けられる
159
---------------------[End of Page 173]---------------------
罰
三
 用言的接尾語の中、動詞に規則的に附く受身、可能、使役、敬讓の接尾語については、
動詞の派生語の項で詳細に述べた。これらの接尾語が、從來、助動詞の中で説かれてゐた
ものであること、そしてそれが助動詞に所屬するものでなく、詞として接尾語に所屬させ
なければならないといふ根據については、特に注意する必要がある。
γ(こ『日本文法學概論』五八〒五全ハ頁
 (二) 木枝氏は,『高等國文法薪講 品詞篇』 八蝋=一頁に、接續助詞として説いてゐられる。
160
ヲ結
  以上述べた詞の下位分類の中には、形式名詞、形式動詞のやうに、名詞、動詞の特殊例
 と認められるもの、或は接尾語のやうに、各品詞に分屬させられるものを、併せて述べた
ヅので、そ奪を除いて、覊に。器と認むべ耄のは、左の通りである.
競一釁口(名詞を含む)
 ! 二 用言
   イ 動詞
    '
5ー ρ噴,
ψノ4¶ー 4
、域
》竃
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ー-量∬丶ー墨⊃監ーコー・
亀Dご」《9隻31{ー.
 ロ 形容罰
三 代名詞
 ノ・ 名詞的代名詞
 ロ 連體詞的代名詞
 ハ 副詞的代名詞
四 連體詞
五 副詞
四 辭
論
二章語
イ總  論
辭は、「ジ」「てには」「てにをは」と呼ばれ、語の二大別の一として、詞に對立するも
のである。語の構造上から云へば、概念過程を經ないところの表現で、その一般的性質は、
161
---------------------[End of Page 175]---------------------
四辭
大體次のやうに要約することが出來る。                      2
                                       ノ ー6
 (一) 表現される事柄に對する話手の立場の表現である。              膨
 (二) 話手の立場の直接的表現であるから、つねに話手に關することしか表現出來ない。潔
 (三) 辭の表現には、必ず詞の表現が豫想され、詞と辭の結合によつて、始めて具體的 万
   な思想の表現となる。                            孟
                                        怠
 (四) 辭は格を示すことはあつても、それ自身格を構成し、文の成分となることはない。
ロ 接 續詞4'

 接續詞は、一般に、語、句、文を續ける語であると定義されてゐるが、この定義から、接續詞があたかも物と物とを連結する連結機のやうな役目をするものと考へられ易い。言語をこのやうに物質化して、物質相互の機能として考へて行くことは、理解を助ける一往の方法ではあらうが、言語の本質に即して考へて行く方法としては正當ではない。それはどこまでも比喩にしか過ぎない。言語が表現であるとするならば、何よりも先づ接續詞と云はれてゐる語が、如何なる表現の語であるかを明かにしなければならない。
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第二章語
  イ 山また山を越えてゆく。
  ・ 彼は英語も話せ、かつドイッ語も讀める。
  ハ それは私も讀んだ。しかし面白い本ではない。
右の例の傍線の語は、それぞれに、語、句、文を接續する接續詞であるといはれてゐるが、それがどのやうな理由で接續詞であるといはれるかを檢討して見よう恵ふ・これら簿嵐續詞が、何等かの客體的な事柄を表現してゐるかを考へて見るのに、「また」「かつ」「しかし」といふやうな語が、何等かの妻の概念を表現してゐるとは考へられないcイの揚蛮合について見るのに、「山」といふ客體的な事柄の外に、何か別の事柄があることが表現されてゐるのではなく、あるものは「山」「山」である。ただこの場合、話手の立場に於いては、「山」が連續してゐるだけではなく、一の山に更に別の山が加つて來るものとして考へられる。山の連續が特殊の意味を以て迎へられるといふ話手の立場の表現として「また」が用ゐられてゐるのである。ロの場合も同樣で、⊃畢實として表現されてゐるものは、「彼が英語が話せる」といふことと、「彼がドイッ語が讀める」といふことであつて・ 〜〃
前者に後者が加つてゐると見るか、前者と後者とがただ並列してゐると見るかは、話手の
---------------------[End of Page 177]---------------------
四辭
立場の相違で、「かつ」はそのやうな立場の表現を明かにしたものである。もし別の話手であるならば、同じ事實を次のやうに表現するかも知れないのである。
  彼は英語が話せ、ドイツ語が讀める。
ハの場合も同様で、ただ事實をそのまま記述するならば、
  私も讀んだ。面白い本ではない。
となるのであるが、この二の事實に因果關係を見出すのは、話手の立場の相違による。話手が、面白いであらうと期待して讀む場合とさうでない場合とでは、當然二の事實の關係が異なるべきで、そのやうな立場の表現が、この「しかし」といふ語によつて表現されるのである。以上のやうな理由から、.接續詞と呼ばれてゐる右のやうな語は、第一に話手の立場の表現として辭に所屬させるぺきものであることが分ると同時に、そのやうな立場が、弔二の事柄に關係して生じたものであるところから、結果として、語、句、文を接續するといふことになり、、これらの語が接續詞と云はれることになるのである。あたかも兩性間の愛情は、本質的には常に相手に對する感情の表現としてのみ存在するのであるが、結果から見れば、愛情が兩性聞を結合してゐるやうに見えるのと似てゐる。
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.五回
|雛
し
 接續詞の性質を理解するためには、これを詞との關係に於いて見ることと、同じく接續の用をなすと考へられてゐる接續助詞との關係に於いて見ることが大切である。
  イ いづれまたおうかがひいたします。
  ロ 昨日はお邪魔しました。またその節は御馳走樣になりました。
イの場合の「また」は、「おうかがひいたします」といふ動作が再び繰返されることを云つたので、體言が副詞的修飾語として用ゐられたものである。この語は、また、同樣な意味で、「またの機會」「またぎき」などとも用ゐられる。いづれも體言で詞に屬する。・の場合は、イのやうに屬性概念の表現ではなく、話手が或る事柄を、前の事柄に附加へて述べる意圖を表現したもので、この場合「また」は「御馳走になる」といふ事實が再び繰返されたことを意味してゐるのでは決してない。
 「なほ」といふ語についても、
  イ そんなことをされては,なほ困る。
  ロ 明日御注文の品をお屆けします。瀏その時くはしく御説明します。
イは前項の「また」と同様、困りかたの度が一暦はげしくなることを云つたので、體言が
165
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四辭
副詞的修飾語として用ゐられたので、詞に屬する。ロは、説明を更にくはしくする意味で
はなく、注文を屆ける旨を述べ、それに附加へて、説明することをも申し述べる旨を云つ
たので、前項のロの場合と全く同樣である。手紙などに、「なほ」として、別の事項を書
き加へるのを「なほなほ書き」などと云ふのは右のやうな意味に於いてである。語形式が
同じで、一方が詞に屬し、一方が接續詞として辭に屬する理由は、以上の具體例によって
ほぼ明かになつたことと思ふ。
 次に、接續詞は、意義上、接續助詞といはれる一群の助詞と極めて近似してゐるので、その相違を明かにして置く必要がある。接續詞を辭に所屬させるならば、それは接綾助詞と根本的に所屬をひとしくしてゐるので、更にそれぞれの特質を明かにして置かなければならない。助詞は、常に詞と結合して句を構成し、詞によって表現される事柄に對する話手の立場の表現であるが、接續詞は、それに先行する表現に對する話手の立場の表現であることに於いて助詞と共通するが、常に詞と結合して句を構成せず、形式上、それだけで獨立してゐる。
  山と、山を越えて行く(助詞)。  山また山を越えて行く(接續詞)。
166
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  それは私も讀んだが、面白い本ではなかつた(助詞)。  それは私も讀んだ。しか凵
  面白い本ではなかつた(接續詞)。
  彼は英語も話せる凵、ドイツ語も讀める(助詞)。  彼は英語も話せ、倒下イツ
  語も讀める(接續詞)。
上段の助詞の場合は、形式上、上の語或は句に密接し、それで一の句を構成してゐることは他の助詞の場合と全く同じであるが、これらの助詞が、その意味上、他の思想を並列、展開させるところから、接續助詞と云はれるのである。これに反して、下段の接續詞と云はれるものは、ド|形《]》式上、それだけで獨立して詞を俘はない。これは一見、辭としての原則に反してゐるやうに見えるのであるが、それは形式的にさうなのであつて、意味的に見るならば、接續詞も、必ずそれに先行する思想の表現を豫想しなければ成立しないことは明かであ降Q
  けれども、私は行かなければなりません。
  しかし、もう駄目です。
のやうな文は、それに先行するものとして、「今日はひどい雨です。」とか、「私は全力を
167
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辭盡しました。Lといふやうな思想を受けて、はじめて「けれども」「しかし」といふことが出來るのである。從つて、辭としての接續詞も、廣い意味に於いて詞を豫想すると云ひ得るし、またそのやうに理解することが、接續詞の正しい處理であると云ひ得るのである。
 ここに接續詞と接續助詞との密接な關係が考へられるのである。
   雨がひどく降つた。だが道はさほど惡くない。            み乙、、
 凋「だが」は、先行文の陳述を「だ」で受け、それに助詞「が」の加つたもの隆、助動詞と助詞との複合であるが、一般の助詞助動詞の通則である詞との結合を持たず、それだけで獨立してゐるので、これを接續詞といふことが出來るのである。「だが」の代りにただ「が」といふことがあるが、この場合は起源的には接續助詞で、なほかつこれを接續詞といふことが出來るのは、助詞としての結合機能を持たないからである。このやうに、接續助詞と接續詞との間には、密接な關連があるのである。
  また次のやうな例に於いて、
   雨が止んだ。すると急に鳥が鳴き出した。
   雨が止んだ。それで鳥が鳴き出した。
亅68
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第二章語
「すると」の「する」は、「雨が止む」といふ動詞を受けたものであるから、詞に屬すべきもので、それに接續助詞「と」二)が附いたものであるから、全體で詞と辭の結合した旬であり、かつ、「と」は接續助詞としての結合機能を持つてゐる。このやうな「すると」を接續詞と見るべきか、或は句として、「と」を助詞と見るべきかの問題が起こる。これに對する解答は、「すると」を詞と辭との結合と見るのは、この語の語原的分解であつて、今日の主體的意識に於いては、もはや「するーと」の意識は無くなつて、むしろ次の表現と同價値になつてゐる。
  雨が止んだ。と急に鳥が鳴き出した。
そこで、前項、の「だが」「が」を接續詞と認めたと同様な意味で、「すると」を接續詞と認めることが出來るのである。次の「それで」についても同樣なことが云へるのである。以上の「すると」「それで」の「する」「それ」が、明かに先行文の内容を表現してゐるとは意識されなくなつても、これらの接續詞が、常に先行文の意味を承けてゐるといふ意識のあることは認められると思ふ。これらの語が接續詞と云はれる理由である。
 以上の説明の中、「それで」といふ接續詞については、なほ附加へるべき重要なことが
169
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四辭
ある。「それで」は、その成立について云へば、「それ」と助動詞「だ」の連用形「で」の結合であり、かつ、「それ」は先行文に示されてゐる「雨が止んだ」といふ事實であるといふことは既に述べたことであるが、この場合の「それ」は代名詞であることは明かである。そして、それは、特定の事柄と、話手との間の關係概念を表現し、かつそのやうな關係にある事柄を表現する機能を持つものであるから、「それで」は、先行文に述べられた事實を、次ぎの文に關係させる機能を持つ譯である。これが、接續詞の持つ重要な機能であつて、「それで」がその起源的意味を失つた後でも、獨立した接續詞として右のやうな機能を持ち續けるのである。接續詞は、從來、極めて輕く扱はれて來たが、それは從來の文法研究の對象が、語もしくは文の範圍に限られて居つたがためである。從つて、主語、述語、修飾語といふやうなものは、文の構成要素として重要硯され、これに反して、接續詞のやうなものは、文の構成要素以外のものとして、これに注意を拂はれることが少かつた。しかし、もし文章を思想の展開と見る時、文章を構成する個々の文の關係といふことが重要な問題になつて來る。その場合、注意の焦點は嘗然この關係に重要な役割を持つ代名詞、接續詞に注がれなければならないのである。そして、接續詞成立に、代名詞が重要
170
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二章 語
な關係を持つことは以上の論明によつて明かにされたと思ふ。
 それならば、接續詞はどのやうにして、二の思想を結ぶのであらうか。
  雨が止んだ。それで鳥が鳴き出した。
右の接續詞を伴ふ表現は、その意味に於いて、
  雨が止んで、鳥が鳴き出した。
と同じである。そして、「雨が止んで」を一般に、副詞的(或は連用)修飾節と呼んでゐる。何となれば、「雨が止む」といふ事實は、「鳥が鳴き出す」といふ事實の條件になつてゐると考へられるからである。今もしこの二の思想を、接續詞を以て結び、かつ「それで」といふ語に、先行文の思想が含まれてゐるものと解することが出來るとするならば、「それで」は副詞、或は副詞的修飾語と認めて差支へないことになる。山田博士の主張される接續副詞の考方はこのやうにして生まれて來たものと考へられるのである。(eこれに對する解答は次の通りである。既に述べたやうに、明かに接續詞と認められるものは、辭に屬し、詞と區別される。從つて、辭は格を表現するけれども、それ自身格に立つことはない(このことは後の文論の格の項で述べる)。今もし、「それで」が辭であるとするならば、
171
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四
辭
それはただ思想の轉換することを直接的に表現したので、「それで」自身が何等かの格に立つといふやうに考へることは出來ないのである。もし山田博士の説が認められるとするならば、それは、「それで」の中の「それ」といふ語だけが、下の述語に對して、副詞的修飾語に立つといふことが云へるのである。ところが、ここでは、 「それで」はも早一語として、これ以上分析することが出來ないものとするならば、副詞的修飾語の格に立つのは、先行の「雨が止んだ」といふ文、或は「雨が止んで」といふ節でなければならない。換言すれば、「それで」は、先行文に副詞的修飾格を附與する辭と考へるべきであるといふことになるのである。この事實は、次の二の用例について見れば一履明かにされるであらう。
  イ 彼は私に水を飮ませて呉れました。それから路銀のために若干の金まで惠んで呉れました。
  ロ 私は○月東京に着いた。それから急いで彼の家にかけつけた。
右の中、イの場合は、辭としての「また」「なほ」と同樣に、或る事柄を云ひ添へることを云つたもので、明かに接續詞であるが、ロの場合は、{、それからLの「それ」が先行文
172
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を明かに承けてゐるので、「それ」を下の述語の副詞的修飾語であると云ふことが出來る。今もしこの兩者を共に接續詞と云つた場合でも、イはただ表現を附加へるための表現であり、ロは、前後の文の論理的關係を表現するのであるから、これを副詞的接續詞と呼ぶことが出來るであらう。即ち、前後の文を副詞的修飾語の意味で關係づける接續詞の意味である。
論
二章語
 接續詞の概念を明かにするために、凡そ語・句・丈の接續の表現は、されるかを考へて見ることも必要である。
 一 語に關して
  1 接續詞による
    犬或は猫  老人及び病人
  2 單に語を並べる(この場合符號の助を借りることがある)
    山川草木  金・銀・釧∵鐵
 二 句或は節に關して
どのやうにしてな
173
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辭   ユ 接續詞による
     |鳥が鳴き、そして|花が険く。
     風が吹き、かつ雨がはげしい。噛
   2 接續助詞による
     鳥が鳴いて、花が倹く。
     ・春が來たけれども、花が嘆かない。
   3 用言、助動詞の連用中止法による
     鳥が鳴き、花が険く。
     風が寒く、温度が降る。
     彼は健康で、氣分も朗かだ。」
  三 文に關して
   コ 接續詞による
     鳥が鳴く。そして花が険く。
     風が吹く。団れど寒くない。
x74
---------------------[End of Page 188]---------------------
第二章語
  2 文をただ連ねる
    鳥が鳴く。花が険く。
    風がはげしく吹きつける。船は木の葉の樣に奔弄される。
思想の展開、接續は大體以上のやうな方法で表現されるのであるが、接續詞及び接續助詞がその一半の任務を負ふことは、既に述べたところで明かにされた。接續詞或は接續助詞の助を借りずに、ただ用言の連用中止法を以てするのは、現代語法では、大體、順態接續の場合に限られるやうである。これを以て見ても、接續詞の機能は、接續の關係を特に明かにするところにあり、またそのために發達して來たものと考へられるのである。接續形式の最も單純なものは、用言及び助動詞の連用中止法にあると云ふことが出來る。そこで、この連用中止法といふものが如何なるものであるかを見るに、用言に於いては、詞の活用形に屬することであるが、それは用言の概念内容に關することでなく、用言に加へられた零記號の陳述に關することで、陳述の未完結形式が用言の活用形式を借りて具現したものと見ることが出來るのである。陳述は辭と同價値と認めることが出來るから、接續の表現は、本來的に辭の受持つ任務であるといふことが出來る譯である。これを圖に示すならば、
175
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四辭
  零記號の辭の未完結形式(用言の連用中止法)ー接續助詞ー接續詞・
 以上述べたところによつて明かなやうに、接續詞の持つ機能は、極めて重要なものであり、それを反映してか、接續詞を語原的に分析すれば、その中には、辭の持つ陳述機能、代名詞、助詞等の機能が織込まれてゐる。それにも拘はらず、接續詞の品詞目を認めるこ
とは充分に認められてよいのではないかと思ふ。
 接續詞として認められてゐるものを左に掲げて置く(中に問題になる竜のも含める)。
  が かつ けれど(も)
  さて さらに されば
  しかし しかしながら したがつて しかるに
  すると すなはち
  そうすると そうして そこで そして そもそも そのうへ
  それで(も) それとも それに それどころか それ故
  それから それなら それだから そのくせ
  ただ ただし だが だから だつて だけど だのに だつたら
176
---------------------[End of Page 190]---------------------
ついては つぎに
で では でも ですが でしたら
》}
ところが ところで とはいふものの
なほ ならびに
はた はなしかはつて
また または もつとも
ゆゑに よつて
論
二章話
(一) この場合の「と」を助詞と考へることについては、次のやうな異説を提出することが出來る。
  本書に於いては、右のやうな「と」を不完全形式を持つ指定の助動詞の連用形とみなして、陳述性を持つものと解した(指定の助動詞「と」の項參照)。從って、「すると」は、零記號の陳述を伴ふサ變動詞の連用形と同じ資格を持ったものと解することが出來る。更に進んで、この場合のサ變動詞は、先行文の動詞「止む」を受けてこれを繰返すところの代用動詞と考へるならば、この例文は次の表現と同じ意味となるのである。即ち、
   雨が止んだ。雨が止み急に鳥が鳴き出した。
  右の傍線の概念内容冖を省略し、ただその陳述性のみを殘して表現すれば、衣に竭げる
177
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辭     雨が止んだ。と急に鳥が鳴き出した。
四    になると見ることが出來る。從つて、この「と」は、接續詞と見るよりも、指定助動詞の連用形と見て、詞を拌はない辭の用法と見ることも出來る。これを圖解すれば次のやうになる。
     雨が止んだ。[]固急に鳥が鳴き出した。
    同じやうなことは、助動詞「だ」の連用形「で」についても云はれる。
     雨が止んだ。で急に鳥が鳴き出した。
    右のやうな助動詞の連用形が、用言の連用形と共に、接續を表現することは、後に説くところである。
 ノ〆(二) 『日本文法學概論』三九二頁以下
178
ハ 感動詞
 感動詞は、感歎詞、間投詞とも云はれ、話手の感情や呼びかげ應答を表現する語である。

出來ゐい感動詞が常に話手の感情、應答の表現であつて、第二人稱者や第三人稱者の感情じ[ 、、
---------------------[End of Page 192]---------------------
  や、應答を、「おや」とか「まあ」といふ風に表現出來ないことは極めて自明のことである。£慰動詞は辭に屬する語ではあるが、他の辭と異なることは、そのやうな感情、應答の令、志向對象となる事柄の表現を拌はずに、それだけで獨立して表現されることである。しかし、感動詞によつて表現される感情や應答に對應する客體的な事柄の存在することは明かであつて、喜びの感情の表現には、そのやうな主體的感惰の志向する客體的な事柄があり、「いいえ」といふ拒否の應答には、相手の何等かの勸誘なり、要求がある譯である。ところが、感動詞に於いては、そのやう螽情の志向對象である事柄の表現を伴はずに、ただ,ひ主體的な感情だけが表現されるのであるから、辭としては、云はば例外的であると云ふべきである。しかし、鼻」れは・馨體的なものが省略されたと見るべきでなく・むしろ主客合趣

第二章語
一主客未剖の表現であると見るべきで逡礎つて虐動詞は、それだけで、具體的な、完結した表現と認めることが出來るから、一の文と見なすことが出來るのである伽感動詞
が、「文相當のもの」(ωΦ旨Φ昌8Φρ9く巴Φ彗)と云はれる理由はそこにあ邑》.箇3、|伊《ノも》
「感動詞は右に述べたやうに、主客未分の表現であるから、感動詞に續いて現れる表現は、多くの場合、その未分のものの分析であることが多い。
179
---------------------[End of Page 193]---------------------
四辭
  ああ、面白い本だ。
に於いて、「面白い本だ。」といふ表現は、「ああ」といふ感動の言語的分析になつてゐるのである。「いいえ、私は行きません。」「やれ、これで安心だ」等に於いてこれを理解することが出來る。感動詞とそれに續く文との間には、以上のやうな密接な連關があるので、感動詞は、文法上では一文をなすが、句讀法の上では・點を以て續けることが多占山田孝雄博土は、感動詞とその後續文との間に右のやうな關係があるところから、感動詞を感動の副詞として副詞の中に所屬させて居られるが、(一)副詞と感動詞の、語の性質上
の相違が以上の如くであり、かつ、感動詞を後續文の修飾語と見ることに甚しく無理があると考へられるのである。↓委疹」褐
 感動詞は、感動と應答の音聲的表現であるが、それならば、一切の感動、應答の表現、例へば、溜息のやうなものも感動詞であるかと云ふに、渝動|詞《iζ气》が膏|麹《と》悶であると云はれるに
は、やはりそこに社會慣習的な形式を持つ必要があ臨或る個人が驚いた時に、「ヶl」と叫んだとしても、それは單なる叫聲であつて感動詞と云はれないことは、個人が勝手に線を組合せて備忘の用にしたとしても文字と云ふことの出來ないのと同じである。
180
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.X一)  『日本文法學餌悃論』 三{ハ九百ハ
二 助 動 詞
論
語
章
二
 助動詞の名稱が不適當なものであり、從つて今日一般に文法書で論かれてゐる内容についても、檢討を要するものであることは、總論の文法用語の項で述べたことであり、また助動詞中の受身、可能、使役、敬讓の意を表はす「れる」「られる」「せる」「させる」は、助動詞としてよりも、接尾語として取扱ふぺきものであることも、動詞の派生語の項で述べたことである。本書では、國語研究の古い傅統にむしろ合理性を認め、古い用語法に從つて、これを助詞と共に辭(或は、てには、てにをは)に屬するものとして取扱ふこととした。從つて、助動詞の名稱も、近世の國語研究において用ゐられた動くてには、或は動助詞の名稱を適當と考へるのであるが、暫く慣用に從ふこととし、ただ概念規定に於いて改訂を試みることとした。
 以上述べたやうに、助動詞は辭に屬するものとして、辭の一般性に於いて、他の感動詞、接續詞、助詞と同樣に、話手の立場の直接表現であり、從つて、話手以外の思想を表現す
181
---------------------[End of Page 195]---------------------
四辭
ることの出來ないものであり、常に詞と結合して始めて其體的な思想の表現となることに於いて共通するのであるが、最もその性質が近い助詞と比較して、次の點に於いて重要な
相鵞贈繁立場の翫募讐郵繋ガで萱そのことのために・
助動詞は、多くの場合に活用を持つことになるのであゐb用言は、單純な肯定到斷の陳述
の場合は、一般には零記號の形に於いて陳述が表現される。換言すれば、陳述の辭を用ゐず、その代りに、用言それ自身の活用によって下の語に接續するのである。
  |劇が|劇日   |嚠だコ。(「な」「だ」は指定の助動詞の活用形)
  |暖《用言》かい日  |暖《 ツニロ》かい。(「な」「だ」に相當する辭が省略され、用昔目の活用形がその代用となる。)
 助動詞によつて表現される陳連と、それに屬する語は次のやうに分けられる。
 一 指定     だ ある
 二打消   ないぬまい
 三 過去及び完了 た
 四 意志及び推量 う よう だらう らしい べし
182
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五 敬譲
ー指定
ー打稍
-推量
ます です でございます ございまず
ません でありません ありません
でせう
(一) 指定の助動詞 だ
論
第二章語
だ	語活劉
で	未然形
とにで	連用形
だ	終止形
のな	連體形
なら	假定形
o)零1形L	
〆
」
め
 指定の助動詞は、話手の單純な肯定到斷を表はす語である。この中、「に」「と」「の」
は、從來助詞として取扱はれてゐたものであるが、下に擧げる例によつて知られるやうに、
そこには明かに陳述性が認められるので、これを助動詞と認めるのが正しいであらう。ま
た、右の表に掲げた各活用形は、その起源に於いては、それぞれ異なつた體系に屬する語
であつたであらうが、今日に於いては、一の體系として用ゐられるやうになつたものであ
183
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四 辭
る。本書に於いては、形容動詞を立てないから、從來形容動詞の語尾と考へられてゐた「だら」「だつ」「で」「に」「だ」「な」「なら」は、そのまま、或は分析されて、すべて右の活用形に所屬させることが出來る。次に用例を活用形に從つて掲げることとする。
未然形(一)
  體が健康でない。
 連用形
  體が健康である。(「ある」は指定の助動詞であるから、この場合は二重指定の表現といふこ
   とが出來る)
  體が健康であらう。(健康だらう)(二)
  體が健康で、性質が楡快だ。(中止の場合)
  私は健康で働いてゐます。(連用修飾的陳述を表はす場合)
  月明かに、風涼し。(中止の場合、文語だけに用ゐられる)
  元氣団、楡快悶、働いてゐる。(連用修飾的陳述を表はす)
  隊伍整然と行進する。(連用修飾的陳述を表はす)
184
tーーーー.ー.ノーー丿ーξ\、
,
ー
ちー鳶
---------------------[End of Page 198]---------------------
ゴ',_〆義ゾ・
  三5
論
二章語
 花が雪と散つてゐる。(右に同じ)
 「今日は行かない」と(三)云つてゐた。(右に同じ)
 野となく、山と(鴎)なくかけまはる。
終止形
 今日は日曜だ。(さ
連體形さ
 それが駄目な時
 僅かの御禮しか出來ない、
假定形(さ
 明日おひまなら、お出かけ下さい。
 氣分が惡いなら、お止めなさい。
 あなたが行くなら、一緒に行きませう。
(ごつ跡動詞「ない」の癢する活用形を未然形の「で」としたのは・「ない」が動詞に於いて・
  一般に未然形に付くのを原則とするところから、考へたことである。動詞では、未然形に付く
185
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四辭
  助動詞として「ない」の外に「う」があるが、「で」の場合には「う」はそのままつかず、申間に「ある」といふ助動詞を介して付くことになる。「ある」は動詞の場合と同樣、連用形の「で」に付くから、「で」の未然形の用法は「ない」に付く時だけといふことになる。そのやうな點からも、「ない」は連用形の「で」に付くと考へた方が簡明であるとも云へ萬
(二) 「であらう」の結合した「だらう」を本書では、別に推量の助動詞としても取扱つてゐる。
  分析的に考へれば、「で」は指定、「あら」も指定、「う」は推量であるから、これを總括して推量といふことが出來るわけである。推量の助動詞は、これを嚴密に云へば、推量的陳述或は推量的指定の助動詞といふことが出來るからである。
(三) 引用丈を受ける「と」も全く同じで、引用丈全體に、連用修飾格の資格を與へるもので、前の二の例と文法的關係に於いて差異はない。
(四) この場合も前例と同樣であるが、打消の助動詞「ない」を伴ってゐる。「となく」は、「でなく」と同じ意味であるが、幾分古い形であると云つてよい。「でなく」に對して「である」があるやうに、「となく」に對して「とある」或は「とする」がある。「とある」が「たる」となることは一般に知られてゐる。 「とする」の「する」は形式動詞として殆ど陳述のみの表現に轉成することがある。
   とある家の側に(「と」の上にあるべき連體修飾語が省略されたものと見ることが出來る)
   一っとして上手に出來たものがない。
186
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第二章語
  また次のやうな例も同樣に考へることが出來る。
   雪子は晋を戀ふるあまり、さういふ義兄の行動を心の中で物足りなく思ひ、亡なつた父もき
   つと白分と同樣に感じて、草葉の蔭から義兄を批難してゐるであらうと思つてゐた。刮、ち
   やうどその時分、ー父が死んで間もない頃(『細雪』上)
(五) 「だ」はどのやうな品詞に接續するかと云へば、
  (一) 名詞及び體言 山だ。 それは僕の生命だQ 行くのだ。 花のやうだ。 ほがらかだ。
   元氣だ。 駄目だ。
  (二) その他、方言では用言の零記號の陳述の代用に用ゐられることがある。
   それはいけないだQ もつとやらすだ。
  從來、形容動詞の終止形の語尾と考へられたものは全部これに入ることになる。
嬢) 「な」「の」は、屡ー共通して用ゐられるが、語によつて、「な」の附く場合と「の」の附く
  場合とがある。「駄日の」「僅かな」とも云ふことが出來るが、「突然」「焦眉」「混濁」等には
  「の」がつき、「親切」「孤獨」「あやふや」等には、大體に「な」がっくやうである。
(七) 「なら」は「ならば」とも用ゐられる。體言について假定的陳述を表はし、また用言に電つ
  く。この場合は、用言の假定形に「ぱ」のついたものと同じになる。用言の零記號の陳述とこ
  の指定の助動詞とが同じ價値になるわけである。
187
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四 跡
188
(二) 指定の助動詞 ある
楚
ある
未然形
あら
連用形
あり
終止形
ある
逹體形
ある
假定形
あれ
命令形
あれ
 指定の助動詞「ある」は、元來、詞としての動詞「あり」が陳述を表はす辭に轉成した
もので、指定の意味から云へば、前項の「だ」と同じであるが、文語では、接續機能の少
い「に」「と」と結合して、「なり」「たり」といふ助動詞を構成する。このやうに、「あり」
は、他の用言或は助動詞の接續機能を助ける役目を持つ。「あり」は、單純な肯定到.斷を
表はす助動詞であるから、これが附いても、陳述の内容に變化は無く、時に肯定到斷を強
めるやうな場合もある。前項の「だ」に於いて、推量の陳述を表はす場合、一般に動詞な
らば、未然形に「う」を附ければよいのであるが、「だ」の場合には、未然形「で」に
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第二章語論
「う」を附けることが出來ない。そこで、「で」と「う」の中間に「ある」を加へて次のやうにいふ。
  彼は正直でーあらーう(正直だらう)。
從つて、意味は、單に陳述に推量の加つたものに過ぎない。これと同じことが形容詞の揚
合にも適用される。
  風が寒くーあらーう(寒からう)。
形容詞の零記號の陳述が、「ある」といふ助動詞に置換へられて、その接續を助けるので
ある。同樣のことが、過去及び完了を表はす場合にも起こる。
  彼は正直でーあつーた(正直だつた)。
  風が寒くーあつーた(寒かつた)。
「あり」が附いても、陳述の内容に變化が無いから、前項の「だ」の活用形に、更に「あ
る」を加へても、同じ意味を表はすことが出來る。.肯定到斷が二重になつたのであるから、
陳述が一層念入りになつたとも見ることが出來る。伊∵距ご。
  彼は政治家でーあり、また音樂家でーある(政治家で、音樂家だ)。
189
---------------------[End of Page 203]---------------------
四辭
 波がおだやかでーあれば、楡快でーある(おだやかなら楡快だ)。
「ある」が否定を表はす打消助動詞に加つた時も、從つて、打消の意味に塘減はない。
 我が生活樂にならずーあり(ならぎり、ならず。文語)。
未然形(一)
 君はいやであらう。
 花もちき険くであらう。
連用形
 今日は休日であり、大變な人出です。
 昨日は寒くあつた(寒かつた)。
終止形
 成績は良好である(「良好だ」と同じ)。
 色は紅にーあり(紅なり。文語)。
 前途洋々とーあり(洋々たり。文語)o
連體形
190
---------------------[End of Page 204]---------------------
 彼が健在であることは輯もしい(「健在なこと」と同じ)。
假定形
 正直であれば、きつと成功する(「正直なら」と同じ)。
命令形
 勤勉であれ。
(】) 「であらう」は「だらう」ともいひ、それ全體で推量の助動詞として用ゐられる
  謝剔詞の項点少照)o
(三) 打消の助動詞 ない
(推量の助
第二章語 論
γ
ない
未然形
○
連用形
なく
終止形一纛形
ない
ない
假定形
なけれ
命令形
O
未然形(一) 口語では用ゐられない。
191
---------------------[End of Page 205]---------------------
四辭…
連用形(昌)
 風も吹かなくて、楡快な遠足でした。
 體も丈夫でなく、余り無理は出來ない。
 氣温も寒くなく、快適だ。
終止形
 一向本も讀まない。
 今日は暑くはない。
 體は丈夫でない。
 本も讀まないで、遊んでゐる。
 病氣はたいして惡くないらしい。
連體形
 あの人が來ないのは珍らしい。
 このことを知らない人はありませんの
假定形
192
,ノ¶
■ア・
,ー」璽置艦「
,
ー誓幽 ーー璽-
---------------------[End of Page 206]---------------------
饕丿{ー覧
〜
`
噛{禰
  勉強しなければ、駄目だ。
  寒くなければ、出かけよう。
接續のしかたは、動詞形容詞においてはその未然形に附く。ただし、四段活用の「ある」には附かない。必要のある時は、形容詞の「ない」を用ゐる。
  机の上には本がない(「本があらない」とは云はない)。
 また、助動詞「だ」の未然形「で」にも附く。
論
二章語
(一) 一般に未然形に附く推量の「う」は、連用形から「ある」を介して衣のやうにいふ。
   病氣ではなくーあらーう(なからう)と思ふ。
  また、「食べなくない」「なくない」といふ二重の打消…も考へられなくはないのであるが、比較
  的少いので、未然形を缺くこととした。
(二) 動詞の未然形に附く「ない」は、 一般に助動詞と認められてゐるが、形容詞の未然形に附く
  「ない」は、助動詞でなく、形容詞であるとされてゐる。その理由は、形容詞の場合は、
   寒くはない。 寒くもない。
  といふやうに、形容詞と「ない」との間に、助詞「は」「も」等を介入させることが出來るか
  らといふのであるが、それは、この「ない」を形容詞であるとする理由にはならない。編味は
193
---------------------[End of Page 207]---------------------
四 辭
動詞に附く時と同樣に、打消であることに變りはないP動詞に附く場合には、「は」「も」等の
助詞を次甲のやうにして用ゐる。
 流れはしない。 流れもしない。
即ち、動詞の場合には、「しない」が打消助動詞と同じ資格になるのである。この場合のナ變
の「し」は、形式動詞の項に述べたやうに、殆ど陳述性のみの表現に轉成してゐると見ること
が出來る。このやうな表現法は、文語の形容詞の否定表現にも現れるのであつて、例へば、
 寒くはあらずQ 寒くもあらず。
に於いて、「あら」は、詞としての動詞から陳述の表現である辭に轉成した巡ので、「あらず」
が全體で否定の辭としての役目をしてゐる。印語形容詞にっく「ない」は、この「あらず」の
置換へられたも.であ琢幽礁助鞠詞と考へられなければならない。
                右・
194
(四) 打消の助動詞 ぬ
弖筏
口目
活用
ぬ
未然形
O
連用形
ず
終止形
連體形
ぬ(ん) ぬ(ん)
假定形
ね
命令形
O
-乱智ー
{▼ー-免丶
璽
〜
撃』-■蜃暦靂量賢
---------------------[End of Page 208]---------------------
鎌二章語論
{亀⊆1弓{も
 打消助動詞「ぬ」は、文語の殘存形として、或は方言として用ゐられる。
 未然形  口語では用ゐられない。
連用形
  飮まず、食はず、歩く。
  そんなことにとんちやくせず、仕事を續ける。
絡止形
  そんなことは引受けられん。
  誰も來んね。
連體形
  早くやらんことには、間に合はん。
假定形
  切符を買はねば乘れません。
接續のしかたは、動詞においては未然形に附く。ただし四段活用の「ある」には附かな
い。必要のある時は、形容詞の「ない」を用ゐることは、打稍助動詞の「ない」の場合と
195
---------------------[End of Page 209]---------------------
四辭
同じである。
 サ變の動詞に附く時は、「しぬ」と云はずに、「せぬ」と云ふ。これは、「ぬ」が文語的
であるために、文語γ變動詞の未然形に接續する形が殘されてゐるのである。
 形容詞においては、そのまま附かずに、助動詞「ある」を介する。
  暑からず、寒からず、まことに楡快だ(暑くーあらーず、寒くーあらーず)。
  好ましからぬ評到を聞く。
 「ぬ」は右に述べた活用系列の外に、連用形の「ず」に「ある」を介する用法が並び行
はれるが文語的用法である。
  いらざることを云ふものだ(「いらずーあるーこと」の意、「いらぬ」と同じ)。
  思はざるも甚しい。
 橋本進吉博士は、右のやうに、「ず」と「ある」とが結合した「ざり」を、「ず」とは別
の一助動詞として居られる。さうすれば、同樣に、「ない」「べし」に對して、「なくーある」
「べくーある」の結合した「なかる」「べかる」も一助動詞としなければならないことに
なる。
196
ー」ーひーLfff鏖「ーーーーーー・ーーーー盈慶「
3ー}除陰」「蠱ー虜ひ
---------------------[End of Page 210]---------------------
 i〜ー 自1量1羅冨塾
くーー璧」覧」揖-
碧夛ノ
二章語論
(五) 打消の助動詞 まい
活用
語
まい
未然形
O
連用形
O
終止形
まい
疆迄假定形
(まい)
○
命令形
○
終止形
  その話は知るまい。
  つまらぬことは考へまい。
連體形
  あるまいことでもない。
接續のしかたは、四段活用の動詞においてはその絡止形に、その他の動詞においてはそ
の未然形に附く。
 「まい」は、第一人稱に關する動詞に附く時は、打消に意志が拌ひ、他の人稱に關する
197
---------------------[End of Page 211]---------------------
辭 動詞に附く時は打消に推量の意が件ふ(「多分、私は行かれますまい」の時は推量)。
四 私は行く剖(意志)。
    あの人は行くまい(推量)。
  (六) 過去及び完了の助動詞 た
tg8
騒
た
未然形
たら
連用形
○
終止形
た
連體形
た
假定形
たら
命令形
○
 「た」は、起源的には接續助詞「て」に、動詞「あり」の結合した「たり」であるから、
意味の上から云つても、助動詞ではなく、存在或は歌態を表はす詞である。
  をみなへしうしろめたくも見ゆるかなあれ刳宿にひとり立てれば(『古今集』秋上)
  老いたる人
右のやうな例は、「荒れてゐる」「老いてゐる」の意味であるから、詞と見るべきものであ
      ー          ー聲τ套【軍f置ーーーヤβpー倉〜ー・盡ノーF}b峯警
      「 ー 〜丶Ψ色罵
---------------------[End of Page 212]---------------------
丶
論
語
章
二
る。このやうな「てあり」の「あり」が、次第に辭に轉成して用ゐられるやうになると、
存在、状態の表現から、事柄に對する話手の確認到斷を表はすやうになる。過去及完了の
助動詞と云はれるものはそれである。過去及完了と云へば、客觀的な事柄の歌態の表現の
やうに受取られるが、この助動詞の本質は右のやうな話手の立場の表現であるが、從來の
習慣に從つて過去及び完了の語を用ゐることとした。山田孝雄博士が、囘想及び確認とい
ふ語を用ゐて居られるのは以上のやうな理由に基づくのであらう。(一)
 「た」の起源が以上のやうな有樣であるために、現在でも、存在歌態を表はす用法があ
る。
  尖つた帽子  曲つた道  さびた刀
 しかしこのやうな用法はすべての動詞にあるわけではなく、「走つた犬」「泳いだ魚」
「讀んだ人」は、「走つてゐる」「泳いでゐる」「讀んでゐる」の意味ではないから、前者
のやうな存在、状態を表はす「た」は接尾語と見て「尖つた」「曲つた」は、複合的な詞
として連體詞に所蜀させるのが遖當である。そして、單語としての「た」はすべて助動詞
と認めるべきである。
199
---------------------[End of Page 213]---------------------
未然形
  汽車が着いたらう。
終止形(昌)
  昨日は風が吹いた《図hμ》|。
  勝負はきまつた。
  風が寒かつた(寒くーあつーた)。
連體形
  君に逡つた手紙
  私が讀んだ本
假定形
  着いたら、電報を下さい。
  話したらば、驚くでせう。
接續のしかたは、動詞にはその連用形に附き、形容詞には、助動詞「ある」を介してそ
の連用形に附く。
200
を  bーー【雪薩鹽7置【睡卩「匿p露匡「  ー
ーー駐ー》鑒ど' ●睡し、亀 「♂毳ゐー  酪『「置F.」ーー
}ー婁蠱「「駅`し冨塾、
、ノノー
---------------------[End of Page 214]---------------------
,、ー,ー丶量曇靂塵響」11」醒■ーー ノ
〈
、{乳
 サ行以外の四段活用の動詞に附く時は、その連用形は音便になり、ナ行マ行バ行の場合
は、「た」が連濁になつて、「だ」となる。
  書いた(    書いた(イ|音《む》    勝つた(|促音    呼んだ(|撥《む 》昔  ,、(一) 『日本文法  く一→ゾ 「た」が事    すものである鱗\馨が既に完    な場合でも云     のやうに表現    ない。しかし論   この兩者には    到斷は同時に語章  ない」をそれ窮》便)
  勝つた(|促音便)
  呼んだ(    呼んだ(|撥《む 》  ,、(一) 『日本皮  会→ゾ 「た」が     すものであ鱗\馨が曁     な場合でも     のやうに表     ない。しか論   この兩者に     到斷は同時語章  ない」をそ窮》膏便、連濁)
,、(一) 『日本文法學概論』錦十五章複語尾各説
く一→ゾ 「た」が事柄の・客觀的な状態の表現でなく、話手の立場の表現として、囘想或は確認を表は
ル|朕《ロ》
ント、
\
論
第二章語
すものであることは、例へば、「勝負はきまつた」といふ表現は、必しも・客觀的な事柄として
勝負が既に完了した時ばかりでなく、話手が、勝負の數を見通して、その決定を確認したやう
な場合でも云ふことが幽來るのである。甲は「勝負はきまつた」と表現しても、乙は必しもそ
のやうに表現しない場合がある。話手の立場によつて定まるので、事柄によつて定まるのでは
ない。しかしながら、そのやうな話手の立場は、事柄の客観的な事情に基づくことが多いので、
この兩者には相互に密接な關連がある。(「|手《\》紙が來ない」「風は寒くない」といふやうな否定
到斷は同時に、『手紙」「風」についての…状態を表現してゐるわけであるから、「來ない」「寒く
ない」をそ憑七れ形容嗣と謬こ壕催譲學原論』二憾八頁、註を滲照%
                (ハ
             '吋
201
イ  ニ/ラ乱
---------------------[End of Page 215]---------------------
四
(七) 意士心及び推量一の助動詞
う  よう
202
肇
、ハノ
未然形
○
よ、つ
O
連用形
O
○
終止形
、つ
よ・つ
連體形
(う)
(よう)
假定形
○
○
命令形
O
O
 「う」「よう」は、起源的には話手の推量の意を含めた陳述を表はす助動詞であるが、
今日ではむしろ意志を表はす助動詞と云つた方が適切である。從つて、それらの陳述の内
容をなす述語は、第一人稱に限られてゐる。例へば、
  明日は出かけよう。
 と云へば、述語「出かける」の主語は、第一人稱の「私」であつて、「あなた」或は一、彼L
ではない。從つて、第二人稱或は第三人稱の動作に關しては用ゐることが出來ない。
壷・
〜紳ll-1置匿ー
---------------------[End of Page 216]---------------------
論
第二章語
  父は明日出かけよう。
  あなたは明日出かけよう。
などとは云ふことが出來ない。
 しかしながら、「う」「よう」は、本來、推量を表はす助動詞であつて、次のやうな場合
には今日でも例外的に推量を表はすものとして用ゐられてゐる。
  月が登らうとしてゐる。
  そんなこともあらう。
  それもよからう(よくーあらーう)。
 「う」「よう」が話手の意志の表現に轉用されるやうになつた結果、推量を表はす語が
別に用意されるやうになつた。それが次項に述べる「だらう」である。「だらう」はすべ
ての人稱を通じて推最を表はす語として用ゐられてゐる。
 絡止形
  今日は大にがんばらう。
  もう起きよう。
203
---------------------[End of Page 217]---------------------
四 辭
  さぞうれしからう(推量)。
  それを云は引としてゐた(推量)。
連體形
  そんなことを信じよう筈がない(推量)。
 接續のしかたは、「う」は四段活用動詞の未然形に附き、「よう」はその他の動詞の未然
形に附く。形容詞には、助動詞「ある」を介して附く。
204
(八) 推量の助動詞 だらう
楚
だらう
未然形
O
連用形
O
終止形
だらう
連體形
(だらう)
假定形
O
命令形
○
前項に觸れて置いたやうに、
終止形
話手の推量的陳述を表はす。
---------------------[End of Page 218]---------------------
第'烹章語
  彼も多分來るだらう。
  さぞかし淋しいだ酬-引σ
  あれは山だらう。
  今夜は風もおだやかだらう。
 連體形
  彼が承諾するだらうことは望めない。
 接續のしかたは、「う」「よう」が專ら動詞に附くのに對して、「だらう」は、體言、動詞、形容詞に自由に接續する。これは、「だらう」は元來、指定の助動詞連用形の「で」と、同じく指定の助動詞「ある」の結合したものに、更に推量の助動詞「う」が附いたものであるためで、體言に接續するのが元來の接續法であつたものと考へられる。後に「であらう」が一語としての機能を持つやうになつた結果、「う」「よう」の代りに推量の助動詞として、廣く用言に接續するやうになつたと考へられる。以上のやうな理由で、本書では、「であらう」「だらう」を一語の推量の助動詞として取扱ふこととした。「だらう」を一語と認めるならば、「だつた」も過去及び完了の助動詞と認めてよかりさうであるが、
205
---------------------[End of Page 219]---------------------
辭 「だらう」が一語として機能するのに對して、「だつた」は、「雨が降るだつた」「今日は
四
 寒いだつた」とは云はれないから、「だつた」はやはり「で」「あつた」の複合と見るのが適切である。
2C6
(九) 推量の助動詞 らしい
ら	語
し1い	活紛
iO	未然
	形
ら	連
し	用
く	形
ら	終
し	止
い	形
ら	連
し	體
い	形
○	假定
	形
○	命令
	形
丿	
一	
 「う」「よう」は、時間的に見て、將來起こり得る事實に對する推量及び意志の表現で
あるに對して、「らしい」は現在起こつてゐる事實に對する推量を表現するものである。
  父は出かけるらしい。
 「出かける」といふ動作は、現在の事實であるが、それが確實なこととしてではなく、
そのやうに推測されるといふことを表はす。
♪
---------------------[End of Page 220]---------------------
〜、、
論
第二章語
  頭が痛いらしい。
 「頭が痛む」といふ事實は、現に起こつてゐる事實であらうが、その到斷が、その状況
から推量される場合である。「らしい」といふ到斷には、常に或る客觀的な状況が、その
到斷の根據になつてゐる點で「だらう」と異なる。
 「頭が痛いだらう」といふ推量到斷には、必しもそのやうな到斷を成立させる客觀的な
状況を必要としないが、「らしい」といふ推量到斷が、右のやうに客觀的状況を條件とす
るところから、接尾語の「らしい」と密接な關連を持つことが理解されるのである。
  玄關に來たのはお客さんらしい(推量の助動詞)。
  すつかり商人らしくなつた(接尾語)。
〜|前《フ》者は、「お客さん」であると推定される客觀的條件を多分に備へてゐる場合であるが、ー
讐は・籟的状況の商人的であることを一至てゐるので・そこには到斷が表現されて痣
るのではなくして、事柄の屬性概念が表現されてゐる。後者の「らしく」は、「商人」と唐
                                       丸
結合して一個の複合形容詞を構成してゐるのであるb               /噛
                                        刎
 連用形
---------------------[End of Page 221]---------------------
四辭
 彼は氣分が惡いらしく、ふさいでゐた。
 あまり氣乘りしないらしうございます。
 大變心配らしかつた(らしくーあつた)。
 どこかへ出かけるらしくて、いそいでゐた。
終止形
 父は喜んでゐるらしい。
 母は淋しいらしい。
 海はおだやからしい。
 雨が大分降つたらしい。
連體形
 そのことには不服らしい樣子です。脚
 何か起こつたらしいけはひだ。
接續のしかたは、「らしい」は動詞、形容詞の絡止形及び體言に附く。また、助動詞の
「ない」「た」の終止形にも附く。
208
}
---------------------[End of Page 222]---------------------
』瓢潛■■置■響、
-㍉,、舊刀置1'
竜           '
ー
籤丶置1■置1
                                      ーー
 「らしい」は元來推量的陳述を表はす語であるから、當然その中に到斷の表現が含まれ"`二
                                       躯浅
てゐる筈であるが、時に次のやうに、指定の助動詞「である」を重ねる用法もある。  π持
                                       X
  計豊の實行は困難であるらしい(「困難らしい」と同じ)い左
(一〇)推量の助動詞べし
楚
べし
未然形
O
連州形
べく
終止形
○
連體形
べき
假定形
○
命令形
○
論
第二章語
 「べし」は本來、文語の助動詞であるが、口語の中にも屡≧これを混ずることがある。
ただし、その用法は次のやうに極めて限定され、終止形が全然用ゐられないことは、この
助動詞が口語特有のものでないことを示してゐる。
 方言では、「ぺし」の轉訛した「べい」が終止形として用ゐられることがある。
 連用形
209
---------------------[End of Page 223]---------------------
四辭
  御期待に添ふべく、努力しよう。
  それは云ふべくして、行はれない。
 連體形
  そんなことはなすべきことではない。
  恐るべき病處のとりことなつた。
  多かるべき筈がない。
 接續のしかたは、動詞にはその終止形に附き、形容詞には、指定の助動詞「ある」(絡
止形)を介して附く。
  多かるべき筈がない(多くーあるーベき)。
210
 (一一) 敬讓の助動詞 ます です ございます でございます
 話手が聞手に對する敬讓の心持ちを表現する語の中で、特に陳述に現れるものを敬讓の
助動詞といふ。「あの方は私の先生です。」といふ表現で、「あの方」「先生」は、第三者に
關する語であるが、「,です」は、この表現の相手である聞手に對する話手の敬讓の心持を
」
饗
,、ー5ー幽
紙〜び '
〜,孔▽唾
・蓴
r
---------------------[End of Page 224]---------------------
ジ
魂
{ノq,
第二章語 論
表現する語であつて、敬讓の意を含めない、通常の指定の助動詞「だ」に對應するもので
ある。
 既に述べて來たやうに、陳述を表はす助動詞は、(一)指定 (二)打滔 (三)過去及
び完了 (四)意志及び推量に分類されるが、聞手に對する敬讓は、以上四のそれぞれに
あるわけであるから敬譲の助動詞は、次のやうに分類することが出來る。
 (一) 指定の敬讓助動詞
 (二) 打消の敬譲助動詞
 (三) 過去及び完了の敬讓助動詞
 (四) 推量の敬譲助動詞(意志を表はす敬讓の助動詞は含まない)
 これらの敬讓助動詞は、それぞれに、通常の指定、打消、過去及び完了及び推量の表現
に對應するので、これを表に示せば次のやうになる。
211
---------------------[End of Page 225]---------------------
四辭
  !
瓢/
 《隨口匹》|《ズ 》|/
/1
/待1
タ
/遇
/
指
定
打
消
ます
ございます
です
でございます
ません
ありません
でありません
ございません
でございませ
・ん
1了完び及去過
ました
でした
ございました
でございまし
た
敬讓 の 表 現
雨が降ります(逋語が勤詞の場合)
今日は寒うございます薤語が形容詞の場合)
今日は天氣です(遞語が體言の場倉
今日は天氣でございます(逋語が體言の揚倉
逋常 の 表現
雨が降る嬲
今日は寒い翳
今日は天氣だ
今日は天氣だ
天氣である
天氣である
雨が降りません(逋語が動肖の場合)
今日は寒くありません読語が嘱容詞の場合)
今日は天氣でありません广諦語が體言の場合)
今日は寒く(う)ございませ細(講鷹攤舮容)
今日は天氣矧ございません(讖鷹軅餾)
昨日は雨が降りました
昨日は天氣でした
昨日は寒うございました
昨日は天氣でございました
雨が降らない
今日は寒くない
今日は天氣でない
今日は寒くない
今日は天氣でない
}昨日は雨が降つ矧
昨日は天氣だつた天氣であつた
昨日は寒かつた(寒くあつた)
昨日は天氣だつた天氣であつた
=
212
、
要
、
塾。 隻
参
}も
---------------------[End of Page 226]---------------------
論
第二章語
ませう(意志)
でせう
  ございませう
推
  でございませ
  、つ
量
らしいです
らしうござい
ます
行きませう 受けませう
明日は雨が降るでせう
明日は塞いでせう
明日は天氣でせう
明日は寒うございませう
明日は寒いでございませう
明周は天氣でございませう
今日は雨が降るらしいです
今日は寒いらしいです
今日は天氣らしいです
今日は雨が降るらしうございます
行かう受けよう
明日は雨が降るだらう
明日は寒いだらう
明日は天氣だらう
明日は寒いだらう
明日は寒いだらう
明日は天氣だらう
今日は雨が降るらしい
今日は寒いらしい
今日は天氣らしい
今日は雨が降るらしい
	
一	
ノ〉今	
日 日	
は は	
天寒	
氣い	
ら	ら
し	し
、	、
つ	つ
ご	ご
ざ	ざ
い	い
ま	ま
すす	
一	
今今	
日 日	
は は	
天i寒	
氣い	
ら ら	
し し	
い い	
	
輻一一                      一	
213
---------------------[End of Page 227]---------------------
四辭
 右の表についての總括的補足的説明。
 一 右の表は、話手の聞手に對する敬讓の表現が、通常の表現に對してどのやうに對應
するかを示したものである。敬讓と通常の表現を含めて待遇と呼ぶことにした。
 一一 「ます」に對應する通常表現の説明に用ゐた盥の記號は、用言の陳述が、言語の形
に表現されてゐないことを示す。「ます」といふ敬讓の助動詞は、この表現されてゐない
零記號の陳述に對應するものである。
 三 指定の敬讓助動詞に、「あります」「であります」を加へてもよろしい。形容詞の連
用形について「寒くあります」、體言について「天氣であります」が稀に用ゐられる。こ
の用法は打消の場合には、「寒くありません」「天氣でありません」となつて一般的に用ゐ
られる。
 四 「です」が動詞の終止形について「降るです」と用ゐられることがあるが一般的で
はない。形容詞の終止形について「寒いです」といふ云ひ方は、かなり廣く行はれるやう
になつた。それは、「寒い」と「寒うございます」の中間に位する遖當な敬讓の表現であ
ると考へられるためであらう。
214
▲8墨唇鮨}ーp『酢臺霧誉藍璽詈
}監響量「ーー鑒〜爵ー響耋亀ー塵!齷璽ー敦ーー
聲=ρ87●ー垂冊ρ▲(憲5脅ヒバ盈醒戛
---------------------[End of Page 228]---------------------
L
蓼
耀
論
第二章
蕪
rl口
 五 「ます」の命令形「ませ」「まし」は、「くださる」「なさる」「あそばす」などにだ
け附く。
 六  「降らない」「寒くない」「天氣でない」の打消敬讓の云ひ方には「降らないです」
「寒くないです」「天氣でないです」などといふ云ひ方もある。打消と敬譲との云ひ方が
逆になつたものである。
 七 過去及び完了の敬讓表現には、「降つたです」「塞かつたです」といふ云ひ方もある。
 八 「ませう」は、意志ばかりでなく「降りませう」といふやうに、推量にも用ゐられ
る。また、「降るでせう」「寒うございませう」などを、「でせう」を用ゐて、「降りますで
せう」「寒うございますでせう」などともいふ。陳述の累加した表現で、敬讓の意が張く
なる。
 九 種類の異なつた陳述を重ねた場合には、敬讓の表現は、一般に最後に來る。
  雨が降つたらしうございます,(過去及び完了と推量)
  雨が降らなかつたでせう(打消、過去及び完了と推量)
215
---------------------[End of Page 229]---------------------
四辭
ホ 助  詞
    ρ
)ね
乙
二貿、
%
誌・sも
1丶
む
㌔/
216
 (一)總説
 助詞が辭として持つ一般的性質については、辭の總論の項に述べて置いた。次に、助動
詞と助詞との相違點についても、助動詞の項に概略を附説した。その要點は、|一助動詞《丶で〜〜、〆・》は常シ
に陳諦ち到斷襄はすものであり、從つて、その點、文の中に用ゐられてゐる用言と同組
                                       陛
樣に、その連用上、多く活用を且ハ備するのであるが、助詞は、陳述の表現ではないから、
活用を持たな㌫近世の國語學者がこれを靜辭と云つたのは、活用を持たない辭の意味で-
ある。
 文法上、助詞をどのやうに分類、整理するかについては種々の觀點があり得るであらう。
その一は、他語との接續關係から分類することである。助詞は助動詞と同樣に、常に他の
詞と結合して句を構成するものであるところから、最近は、專ら附屬語或は從屬語として
の見地からこれを整理することが行はれて來た。(一)
 橋本博士の助詞の分数法は、博士の文法體系が、詞と辭の結合である句、博士のいはゆ
倉
撃
肇
i
---------------------[End of Page 230]---------------------
噴亀■1翼
論
第二章語
る丈節を出發點とするところから、詞との接續關係に重點が注がれるやうになつたことは
常然の歸結であるが、辭を常に詞との接續關係に於いて見ることは、はたして當を得たこ
とであらうか。辭の根本的意義は、客體的な事柄に對する話手の立場の表現にあるのであ
つて、如何なる詞と結合するかといふことは、辭の根本的性質を規定するものではない。
文論の總論に於いて述べるやうに、辭には常に客體的な事柄を總括する機能を持つてゐる
ことを考へるなちば、それらが、話手のどのやうな立場の表現であるかといふことが、表
現を有機的に理解し、文の構造を明かにする上に大切なことである。例へば、
  朝起きてから、夜癪るまで勉張した。
に於いて、助詞「から」「まで」、助動詞「た」が、それぞれ、「て」「寢る」「勉張し」に接續するといふことは、助詞、助動詞の機能や性質を理解する上に、さまで重要なこととは考へられない。そこで本書に於いては、話手の立場を理解する上から、助詞、助動詞の意味を重要なものとして、分類の基準を立てた。この方法は、助動詞については一般にとられてゐる方法であるが、助詞の場合にも當然適用されなければならないのである。
 そこで、本書では、助詞を次の四種に分つこととした。
217
---------------------[End of Page 231]---------------------
辭   格を表はす助詞
四
   限定を表はす助詞
   接續を表はす助詞
   感動を表はす助詞
  右に述べた助詞によつて表現される格以下の思想内容は、云ふまでもなく概念的表現ではなく、話手の種々な立場の直接的な表現である。右の四種の助詞の中、感動の助詞について見れば、その性質を幾分明かにすることが出來るであらうと思ふ。例へば、「雨か!」といふ表現は、これを鬪解すれば、
   雨測。
 となり、「か」は感動を表はす助詞として詞と結合してゐる。この「か」は、感動の概念的表現である「うれしい」「悲しみ」或は「情緒」などといふ語と全く相違して、感動そのものの音聲的表現である。從つて、この表現を受取るものは、この「か」によつて、話手の感情情緒をそのままに讀取ることが出來るのである。雨に對する話手の立場がそのまま表現されてゐるからである。助詞の表現の特質はほぼ以上のやうに云へるのであるが、
218
---------------------[End of Page 232]---------------------
第二章語
このことは、格を表はす助詞についても云へることである。次の圖において、
       乙  甲と乙と二の棒が、右のやうな關係に置かれた場合、この關係を、
   /〈甲「甲が乙によりかかつてゐる」と云ふ認定≒「乙が甲を支へてゐる」と云ふ認定は、全く話手の立場にまかされてゐる。その認定の相違によつて、「甲が|乙《OO》によりかかる」といふ表現も、「乙が|甲《むむ》を支へる」といふ表現も出て來るのであるが、その際の「が」「に」「を」といふ助詞は、全く前例の場合と同様に、關係の概念的表現ではなく、事柄そのものに對する認定の直接的表現であると云へるのである。
 (一) 橋本逖吉博士の『新文典』には、語を獨立する詞と附麗する辭とに分けて、助詞を附屬する辭に所屬させて、專ら接續のしかたによつて助詞を分類されてゐる。
 (二) 格を表はす助詞
 事柄に對する話手の認定の中、事柄と事柄との關係の認定を表現するものであるから、感情的なものは無く、殆どすべてが、論理的思考の表現であると云つてよい。
  が  風が吹いてゐる。       病氣が恐ろしい。(じ
  は  萬葉集は歌集である。(e
219
---------------------[End of Page 233]---------------------
四辭
 の
 に
 へ
 を
 と
 から
 より
 で
 まで
(一)
(二)
(三)
(四)
(五)
池の水
庭に木を植ゑる。
町へ行く。
木を切る。
茶碗と箸
はじめから絡りまで
  そんなことよりこれをおやりなさい。
  庭で遊んでゐる。
  どこまで行くのですか。
 上の「が」が主格を表はすのに對して、下の「が」は對象格を表はす
 (三)の「限定を表はす助詞」の「は」
 上の「の」は、所屬格を表はし、下の
れら「の」は、指定の助動詞「だ」の連體形の
 「政治家になる」といふ場合の「に」は、指定の助動詞「だ」
 「に」は場所、「へ」は方向を表はすのであらうが、現代口語ではこの區別は必しも嚴重に
 海の見える丘。へ三)
 甲にひとしい。へ四}
 紙へ書いて置いた。(玳)
 梯子をのぼる。
 友だちと出かける。
 そんなことから失敗するのだ。
    夏より暑い。
 耳で聞く。(さ
 夏まて續ける。(七)
             (文論對象格の項參照)。
と相違して、他と區別する意味はない。
「の」は、從屬句の主格を表はす時に用ゐられる。こ
   「の」とは異なる。
          の連用形であるo
220
---------------------[End of Page 234]---------------------
  守られてゐない。ただし、その區別が極めて明かな場合には、「うち凋居る。」「外刈ばらまく。」
  のやうに、「に」「へ」の囁別を有效に使ひわけるやうである。
(六) 「耳で聞く。」「健康「で暮す。」「節約で切拔ける。」等の例を見て來ると、このやうな「で」は或は指定の助動詞「だ」の連用形とも考へられる。
(七) 限定を表はす「まで」と比較すれば、格を表はす助詞の眞意がよく理解されるであらう。
論
第二章 語
 (三) 限定を表はす助詞
 「限定を表はす」といふ説明が當つてゐるかどうかは疑問であるが、暫く右のやうに概
括することとした。實例を以て云ふならば、例へば、甲が勉強してゐるとする。この事實
の表現は、ただこの事實そのものが表現を成立させるばかりでなく、周圍の事情によって
話手の事實に對する認定に相違があり、從つて表現も異なる。その事情といふのは、甲の
外に、乙も丙も勉強してゐる場合、甲以外は乙も丙も勉強してゐない場合、怠者である甲
が勉強してゐる場合、優等生である甲が勉強してゐる場合等によつて、この事實そのもの
の認定のしかたを異にする。從つて次のやうな表現が成立する。
  甲が勉強してゐる。
221
---------------------[End of Page 235]---------------------
四辭
  甲も勉張してゐる。
  甲でも勉強してゐる。"
  甲は勉強してゐる。
  甲だけ勉強してゐる。
  甲ばかり勉強してゐる。
  甲まで勉張してゐる。
 右の表現における助詞には、話手の甲に對する期待、評價、滿足等が表現されてゐるこ
とが分る。
さやもはか
へ
ばかり(ご
ペンか鉛筆・かを貸して下さい。 行くか止めるかを決めよう。
ぼくは駄目です。       日曜は家です。
私もお件します。       笑ひもしません。
みかんや林檎がある。     あれやこれやと忙しい。
これさへ出來れば、あとは簡單だ。 一寸顏を出しさへすればよい。
  水ばかり飮む、      百圓ばかり貸して下さい。
222
∠
血F、
ρ
ー
---------------------[End of Page 236]---------------------
嘉
へ
ノ
第二章語 論
ぐらゐ(昌)
やだほづきこたなしだで
らのどつりそりりかけも
  二里ぐらゐある。
お茶でも飮みませう。
百圓だけ貸して下さい。
君しか持つて來ない。
日なり耳なり働かせなさい。
寢たり起きたりの生活です。
それこそ私の得意のところ。
それきり何とも云つて來ない。
三つづつ・配る
一時間ほど經つた時
ああだのかうだの云つてゐる。
靴やら下駄やらがいつばいです。
など これなどはよい方です。
これぐらゐはかまはない。
明日でもお屆けします。
見るだけでよろしい。
そんなことしか出來ない。
行くなり止まるなり、君の御隨意です。
讀んだり書いたり出來ますか。
ようこそお出で下さいました。
二日きりしかもたない。
五人つつに組を分ける。
私ほど愚かなものはない。
本だのペンだのが散らばる。
 譬者を呼ぶやら藥を買ひに行くやら、大變
です。
「大丈夫だ」などと云ふものですから
223
---------------------[End of Page 237]---------------------
四辭
 まで三)衣類は勿論、族費まで惠んで呉れた。 そんなにまで云はなくてもよい。
(一) 「ばかり」には二の意味がある。上はその事柄に集注されてゐるといふ認定の表現であり、
  ドは、漠然たる限定を表はす。
(二) 「くらゐ」は元來、程度を意味する體言であったものが、辭として用ゐられるやうになつて、
  漠然たる限定を表はす。
  このくらゐ飮んでも差支ない(飮んで差支ない分量を云ふ。體言)。
  これぐらゐ飮んでも差支ない(飮んで差支ない物の範圍を云ふ。助詞)。
  ただし、第二の「これ」が分量を云ふ時は、第一と同じ意味になる。
(三〉 格助詞の「まで」と比較する必要がある。
224
 (四) 接續を表はす助詞
 同時的に存在する物と物との關係は、格助詞によつて表現されることは既に述べた。同
時的に存在する動作及び行僞、或は時間的に繼起する事柄と事柄との關係の認定も助詞に
よつて表現される。この一群に屬する助詞は、陳述に件ふ點で格助詞と著しく相違するも
のである。元來、陳述と陳述との關係は、用言の活用形の中、連用形中止法を以て示され
∠
?
←
し
---------------------[End of Page 238]---------------------
「   ー戛ー
1-5響置1」べし、書
ー,」」塁r 、
{尹ー受《1丶」丶f・〜〉.ー{ー廴
論
第二章語
るのであるが、特殊な關係は、更にそれに助詞を加へることによつて一騒明瞭にされる。
用言の活用形が、辭と同じ機能を持つものであることは既に述べたところであるが、本項
に所屬する助詞を考へるに當つては、まづそのことを念頭に置く必要がある。
  雨が降り、地が固まる(零記號の陳述に相當する用言の連用形が因果關係を示す)。
  雨が降ると、地が固まる(「と」は指定の助動詞「だ」の連用中止法で、前例の審記號に相當
   する)。
  雨が降るなら、地が固まる(「なら」は指定の助動詞「だ」の假定形で、前例の零記號及び
   「と」に相當する)。
  雨が降つて、地が固まる(因果關係を明かにするために、陳述に助詞「て」が添はつた場合)。
 右の「て」は、「雨が降る」といふ事實が原因であることの表示であるが、表現された
文に即して云へば、前句を後句に結合する役目をしてゐるやうに見えるので、これを接續
を表はす助詞と一般に呼んでゐるのであるが、語そのものが接續機能を持つやうに考へる
のは、單に比喩的にのみ云ふことが許されるものであることを、ここでも改めて確認する
必要があるのである。
225
---------------------[End of Page 239]---------------------
四辭
ばが
ててと
も§i∋
から
けれど(けれども)
し  雪も降るし、風も吹いて來た。
ながら(三) 話を聞きながら、記録する。
のに 雨が降るのに、出かけた。
ので 雨が降るので、止めた。
つつ 惡いと知りつつ、やつてしまつた。
老人だが、元氣だ。       私も知つてゐるが、彼は親切だ。
雨が降れ圃、中止する。     風がつめたけれぱ、のどを惡くするかも知
                れない。
腰をかけると、窓を閉めた。  谷へ下りると、水がある。
圖書館に行つて、しらべて見る。 外をのぞいて見る。
話しても、だめでせう。     體が小さくても、元氣です。
本を讀んでも、頭に入らない。
水が出るから、お洗ひなさい。  氣候がはげしいから、風を引きます。
       叱るけれど、ききめがない。 暖いけれど、風がつめたい。
山は高いし、谷も深い。
貧しいながら、よく勉強する。
學生なのに、一向勉張しないΩ
學生なので、遠慮した。
 水は次第に減少しつつある。
226
-隻ー,塞イ
ーー……〜ずー翻鰹も㌻や農●腰丶どノ
---------------------[End of Page 240]---------------------
亠1扈卩   '   、
」
(一) このやうな「と」を一般に接續の助詞として取扱つてゐるが、これは指定の助動詞「だ」の
  連用形の中止法と認むべきではないかと思ふ。古くは、このやうな場合、同じく指定の助動詞
  「に」が通用して用ゐられたやうである。
   いそぎ滲らせ御覽ずるに、めづらかなる兄の御かたちなり(『源氏物語』桐壷卷)。
   外日しつればふと忘るるに、にくげなるは罪や得らむと覺ゆ(『枕草子』)。
(二) 「て」は同哮的な事柄、繼起的な事柄のいづれの接續にも用ゐられる。
(三) 「ながら」は状態の持續をいふ體言であつたものが、接續の助詞に轉成したものである。上
  と下との「ながら」に意味の相違が認められるが、それは第三者の解釋であつて、話手の氣持
  ちとしては、兩者とも、「その趺態に於いて」の意眛に過ぎないのであらう。
論
第二章語
(五) 感動を表はす助週鉾N氾柔ゐ願
 か(こ これはあなたの帽子ですか。
    おや、雪か。
 かしら 今日は雨かしら。
 よ  鳥が飛んでゐるよ。
    蝶よ。舞へく。
そんなことが分らないのか。
今日はやつて來るかしら。
これを御覽よ。
227
---------------------[End of Page 241]---------------------
四 辭
な(なあ) よく廻るな(なあ)。
ね(ねえ) 可愛いいね。
さ  早く起きるさ。
な  枝を折るな。
ろ(よ) みんな起きろ。
そ  そら、押すそ。
わ  私も行きますわ。
ものか(もんか) 行つてやるものか。
 とも
 の
 や
 こと
(一)
勉強するとも。
いらつしやいますの?・
花や、一寸おいで。
まあ、すばらしいこと。
 第二の限定を表はす「か」と根本的に區別があるわけではない。ある事柄に對する不定の氣
持ちを表現する場合は、これを限定の助詞と見て麗く。
名人だな(なあ)。
よく出來たねえ。
その道の逹人さ。
ぐつくするな。
じつくり考へて見よ。嚇
これは大金だぞ。
綺麗ですわ。
 悲しいもんか。
それでいいとも。
いいえ、いただきませんの。
そんなことよせや。
お利口だこと。
     ここに舉げた例は、陳逑に拌ふ場合で、
228
4
---------------------[End of Page 242]---------------------
一
耀闘閥鬮駒脚綱暉脚騨嗣翩騾騨■騨闘卩一♂一鬨剛剛闘闘騨鞠一騨
v戛剣領蠢Q§羅幻.⊃畏Q膨櫓ゆ築'{遜蠢初鞍霆幻眠聽Q露思磊燕司ご)鰻髴i掴感>UA丿楚毎巌
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---------------------[End of Page 243]---------------------
第三章文
論
薩錫斥
230
總
説ー  c、猶・
り 'ユ丶    ,!
 文が、語或は文章とともに、文法學の對象として、言語における一つの單位であること
は既に述べた。文法學における文研究のなすべき最初のことは、言語における單位的なも
の、一の統一體としての丈の性質を明かにすることであり、第二に、文を、それを構成す
る要素に分析して、その構成において文を考察することであり、第三に、文と語との交渉
を明かにすることである。
 文の性質を説明する方法として、從來一般にとられた方法は、文を構成する要素の結合
として説明する方法であつて、例へば、主語と述語の結合されたものが文であるとするの
はそれである。しかしながら・受が一の統一體であるとするならば、そこには必ず、語が こ3
                                        詔,舷
一の統一體であるといふこととは異なる、全く別の統一原理が存在しなければならない。 を、
'」rI匿瞹ー1
}陰ー匹
匡巳丶「「ー疊「慶酔臨ー.〜「こー 勘「ー」塵ー.簍u〜しー隆「」【5巳邑己「量p拳ー叢ー
---------------------[End of Page 244]---------------------
転     ノ
  ・7
/ひ
穐・五
    この統一原理を明かにすることが、文の性質を明かにする第一の仕事である。
    文の性質を規定するものとして、大體、次の三つの條件が考へられる。
疲 《  (|一《ソ》) 具體的な思想の表現であること。
神抱三)統程があることQ
 …6  (三) 完結性があること。
    以下、右の三點について説明を加へようと思ふ。
論
女
諌
  (一) 具體的な思想の表現であること。
 語も、文と同じく思想の表現であるが、語は、話手の客體的な面か、主體的な面かのい
つれかの表現である。體言「山」「机」、動詞「動く」「打つ」、形容詞「涼しい」「高い」
等は話手の表象、概念の表現であるのに對し、「ない」「だ」等は話手の到斷の表現に屬す
るものである。語は右のやうに、客體的な面か、主體的な面かのいづれかに屬して、そこ
から文法學上の詞と辭の分類が成立するのであるから、語は人間の思想のある面を表現す
るものではあるが、決して具體的な思想を表現するものではない。人間の具體的な思想と
231
---------------------[End of Page 245]---------------------
説
總
はどのやうなものであるかと云へば、人間は絶えず外界の刺戟を受け、或は主觀的な感情
                                         ㎜
情緒を對象化することによって、主鶻に對立するところの客體界を構成すると同時に、一
方、そのやうな客體界に對して、常に到斷、感情、情緒を以て反應するものである。換言
すれば、|广《7》具體的な思想とは、客體界と主體界との結合において成立するものである。從つー-
て、具體的な思想の表現とは、客體的なものと、主體的なものとの結合した表現において
云ふことが出來るのである。文とは、このやうな具體的な思想を表現するものである。從 ー
つて、「犬、猫、山、川」といふやうな語を連呼しても、それは結局、客體界の表現に絡
始してゐるのであるから、語の連續ではあるが、文といふことは出來ない。ところが、
  犬だ。
といふ表現になると、客體界の表現「犬」と同時に、それに對する到斷が、「だ」といふ
語によつて表現されて、ここに主髀、客體の合一した其體的な表現が成立する。これが師
ち文と云はれるものである。以上のやうに、文は主體客體の合一した表現であるが故に、
その最も簡單な形は、前例の「犬だ」の表現に見ることが出來るのであるが、これを次の
やうに鬪示することが出來る。
4
塵
蔭膨D皀`【置写6犀ー 魯8【置璽ー、ー梶p
蓄転ノ監ー藍」
p醒鬱蓚5皇匹鏖墨卩藍垂5邑唇蘆糧
---------------------[End of Page 246]---------------------
論
第一曽章
  犬だ。
 具體的な思想の表現と云つても、それは常に主體的表現と客體的表現とを且ハ備するとは
限らない。次の例、
  まあ!驚いた。
 「まあ」は主體的な感情の表現であるが、この表現には、この感情の志向的對象である
事件とか、人とかが表現されてゐない。しかしそれは當然何ものかについての驚きの表現
として「まあ」と云はれたのであるから、この「まあ」も五ハ髀的な思想の表現として文と
云つて差支へない。また次の例、
  犬!
においては、 一單語の表現のやうに見えるが、ここには語として表現されない話手の感情
が、抑揚、張調の形式を以て表現されて屠り、文字言語として1の記號を以て表現されて
居るのである。して見れば、この表現も、主客の合一した具體的な思想を表現したものと
して、文といふことが出來るのである。一語文ω①暮ΦロoΦΦρ鉦く巴①馨と云はれるものが
それである。
233
---------------------[End of Page 247]---------------------
説
一總
 國語においては、用言は一般にはそれだけで概念と同時に陳述を表現する。坂道を登ら
うとする時、次のやうに叫んだとする。
  あぶない。
 右の表現は、表面上は一語でありながら、零記號の陳述が件つてゐるものと見て、これ
を文と認めることが出來るのである。
 以上述べるところは、説明が演繹的になつてゐるが、實は素朴な文の意識を考察するこ
とによつて、そのやうな意識の成立條件として歸納せられたものに他ならないのである。
234
響i:1:σ丶リノつ
,Σ
  (二) 統一性があること                         ,鳩.絵萱ヌ戸
4,文に統一性があるといふことは、それが纏まつた思想の表現であることを意味する。!如
何に語が連續してゐても、纏まりのないものは文とは云ふことが出來ない。例へば、商店
の看板にある瞥業種Uの羅列のやうなものである。一文の纏まりは何によつて成立するかと
いふならば\、それは話手の到斷、願望、欲求、命令、禁止等の主體的なものの表現による
のである。前に述べた且ハ體的思想の中、主體的立場の表現がそれに當るので、それによつ
2hf『ー〜,」1星ノ膠慶「
セ凄し」邑職唇、啗1
し'ー「臨」霹・ーー■5匡D墨β「
---------------------[End of Page 248]---------------------
論
第霊賣
て、客體的な表現が纏まりを持ち、統一性を獲得するのであゐ⑩從來、文は多くの場合、 ー
纏まりを受ける要素を數へあげて、例へば、主語と述語がなければ、文が成立しないとい
ふやうに、考へて來たが、更に重要なものは、むしろ各要素を纏めこれを統一する主體的
な機能であると考へなくてはならない。一の統一した都市を成立させるものは、その交通、
經濟、衞生等の諸設備よりも、それを統一遐營する行政的機能にあると考へなければなら
ないと同じである。このやうに考へて來た場合、國語における文の統一性が、如何なる語
により、如何なる形式において表現されて居るかといふことは、具體的な問題として重要
になつて來る。
 國語において、主體的なものの表現として辭があり、その中で、感動詞は主客未分化の
表現としてそれ自身文であることは既に述べた。次に接續詞は、前の文を統一して後の文
をおこすために用ゐられるものであるから、文の展開に役立つものとしてこれを除外すれ
ば、丈の統一に關與するものとしては、助詞及び助動詞が考へられるのである。
 更に、用言に伴ふ零記號の陳述を、陳述を表はす指定の助動詞と同價値のものと認める
ならば・測に統一を與へるものは・次の三に概括することが出來る・    躅
---------------------[End of Page 249]---------------------
一總
  一 用言に件ふ陳述 二 助動詞 三 助詞
 次に、これらの語が、どのやうな形式において文に統一性を與へてゐるかを觀察して見
る。
 一 用言に伴ふ陳述
  裏の小川がさらさら流れる。
 右の表現において、これを統一する陳述は、特別な語によつて表現されてゐるのではな
く、一般には「流れる」といふ用言に其有されてゐると考へられてゐる。しかしながら、
この表現されない、零記號の陳述は、「裏の小川がさらさら流れる」といふ事實全體に關
係するものとして、次の圖形に示すやうな關係でこの表現を統一し、その故にこれが文で
あると云はれるのである。
  園の小川がさらさら流れ降互.芋、.∴、,.、、v
 即ち、陽記號で示される話手の陳述が、「裏の小川云々」全體を包むやうな形式におい
て統一してゐるのである。あたかも、風呂敷が種々な品物を包んで統一を形づくつてゐる
のと似てゐる。この統一形式は、國語の構造の特異な點であつて、英獨語における
236
4
◎    葦4」1▼▲蘯C、
壕藍・
---------------------[End of Page 250]---------------------
帰、
論
諦
第
    孕…℃
の鬪形の示すやうな統一形式と著しい野照をしてゐる。英・佛・獨語においては、統一の
表現は語の中闇に存在して天秤形をなしてゐる。以上の點から考へて、國語において、陳
述が用言に其有されてゐると考へることは、その統一形式を理解する上に大きな妨げとな
ると考へられるので、本書においては、陳述を用言の外に置いて考へるといふ論明法をと
つたのである。この云はば假説的理論は、次の統一形式を考察することによつて一暦明か
にされるであらうと思ふ。
 二 助動詞
  今日は波の音も靜かだ。
 右の表現における陳述は、明かに語の形式をとつて、「だ」と表現されてゐる。この陳
述「だ」は、單に「靜か」といふ語に結合して、其體的な思想の表現となつてゐるのでは、.一
なく、「今日は……靜か」奈體と結合し、そのやうな事實に統一を與へるものとして表現
されてゐることは見易いことであると思ふのである。「だ」の代りに「でない」「だつた」
「らしい」を置換へても、その統一形式に變りはない。
フ`畠躰'ぶ1
---------------------[End of Page 251]---------------------
讖
總
 三 助詞
  今日もまた雨か。
 右の表現においては、陳述「である」が省略されて、助詞「か」が全體を統一し、話手
の詠歎的な氣持ちが表現されてゐる。それは、「今日もまた雨である」ことに對する詠歎
の表現である。詠歎と詠歎の對象及びその統一形式は、前二項の陳述の場合と全く同じで
あるじ
238
   (三) 完結性があること
よ、『つ文の成立條件として、統一性があるといふことは、同時に具體的思想の表現であること
0を|意《ハ氏》味するのであるがバそれらの統一性を與へる陳述、及び助詞、助動詞の存在は、必し邊'
|黙《ハ》,も文を成立させたことを意識喜な画誇.卸ザ、.禽       ゼパ《ブし》|、
   裏の小川はさらさらと流れ
 といふ表現において、陳述は零記號の形式で存在はしてゐるのであるが、それが「流れ」
 といふ動詞の連用形が示すやうに、完結しないものとな9、この表現全體が或る統一を得
'
噫
セ
---------------------[End of Page 252]---------------------
ー
ー
                            謬き9
                         吻洗いト刃d. -零
 ながら、更に展開する姿勢を取つてゐる。換言すれば、この表現には完結性が無いことに
 なつて文といふことは出來ないのである。この表現が薯みるど茸ば駕獄、だぬにば、汽表現磁冗♂ζ
  の最後が、終止形にょつ毒態珍楚劉".嘉必譽條件となる・國語においては・匐
 概法の場合を除いて、文の終りが完結形式でなければならないといふことは、|一《`》の特質と
  も云ふことが出來るであらうφのことは、活用における羅の現象とも相呼應するもの
  であ毎
   |助動詞《r   6、》によつて統一された場合も同様で、それが終止形によつて完結されて居るといふ
  ことは必要な條件となる。
  助詞の場合も同じで、ヂベての助詞は、それの附く語に或る種の統一性を與へるもので、
  あらうが、常に必しも完結性を與へるとは限ちない。「寒いか」「起きろ」「えらいそ」等り
の「か」「ろ」「ぞ」は・完結して文を成立芒めるが・「行くが」「美しいけれど」「よけ幡
∵ば」等の「が」「けれど」「ば」は完結垂ない助詞であ礁纛筆、挈軌
∴鴛騰解嬬鐸鰐麹黝鐸讐誇縹無いかと鸚
---------------------[End of Page 253]---------------------
二詞と辭との冠叺的關係
 以上は、文をその構成要素によつて挽明せず、文成立の基本的條件を吟味することにょ
つて、言語研究の一の對象である統一體としての文の性質を明かにしたのである。
二 詞と辭との意味的關係
 詞と辭によつて表現される思想内容を、思想内容そのものとして見れば、客觀的な自然、
人事であり、また主觀的な感情、意志等であつて、そこに何等の差異を見出すことが梓來
ないのであるが、これを表現に即して考へるならば、そこに根本的な相違があることは既
に述べたところである。即ち、詞は、思想内容を概念的、客體的に表現したものであるこ
とによつて、それは、言語主體即ち話手に對立する客體界を表現し、辭は、專ら話手それ
自體即ち言語主體の種々な立場を表現するのである。そして、この兩者の表現の聞には密
接な關係が存在する。即ち話手の立場の表現と云つても、それは必ず或る客體的なものに
對する話手の立場の表現であり、客體界の表現には、必ず何等かの話手の立場の表現を件
つてはじめて且ハ體的な思想の表現となるのである。例へば、「故郷の山よ。」といふ表現に
2≦0
---------------------[End of Page 254]---------------------
、.
、ー
紙ー
第三章女論
於いて、話手の感動を表はす「よ」といふ語は、この場合、話手に對立する客體界である
「故郷の山」に對する感動の表現であつて、この主體、客體の表現が合體して始めて具體
的な思想の表現となることが出來るのである。この關係は次のやうに圖示することが出來
る。
              Aを言語主體(話手)とする時、弧CDは、Aに對立する
     B 
             客體界の表現、點線A8は、客體界CDに對する話手の立場
cA④Dの耄あぞA皇CDあ間に些志向作用恚向
             對象との關係が存在し、ABCDが即ち具體的な思想の表現
であると云ふことが出來るのである。國語に於いては、この主體的なもの辭と、客體的な
竜の詞とは、常に次のやうな關係に結合されるのである。
   む       辛
  故|郷《魔尠》の山|よ
 この關係は、また別の言葉で云へば、客體的なものを、主髏的なもので包む、或は統一
してゐるとも云ふことが出來るのである。包むものと包まれるもの、統一するものと統一
されるものとの聞には、次元の相違が存在するので、このやうな詞と辭との關係を、本書
241
---------------------[End of Page 255]---------------------
二 詞と辭との意味的關係
に於いては次のやうに圖解することにする。
  一故郷の凹固或は故郷の山測
 客體的表現、詞が、主體的表現、辭によつて包まれ、また統一されるといふ關係は、種
種なものに譬へてこれを詮明することが出來る。菓子を箱に入れた場合、菓子は食べるも
のとして云はば客體的存在であるが、箱は、これを包むものであり、またこれを統一する
ものであり、かつ、この菓子を人に贈らうとする膾主の心づかひの表現として、主體的表
現であると云へる。一方は食べるものであるのに對して、他方はこれを保護する容器とし
て、そこに次元の相違が存在する。また、汽關車と客車の關係について見れば、客車は連
搬されるものであるのに對して、汽關車はこれを連搬するものであるから、これにも客體
的なものと、主體的なものとの相違が認められる。汽關車は客車を包むものであり、また、
統一するものである。客觀的に見れば、ともに車輛であるこの兩者に、機能的に見れば以
上のやうな相違が認められるのである。繪と簸との間の關係も同じである謹は嚢に彳
とつて纛的なものの表鞏あるが、響は、攣のものを牧めるに擢しいものとして部。
                                        ㌔識レ
書家によつて選ばれる。客體的なものに羯する豊家の志向の表現である。しかも額縁はそη黛二・
                                       方≠
∠
も嘉'ーーー:尋`ーー隻βーー 盛
喬虚そ.ー
广
、禽
ぐ
---------------------[End of Page 256]---------------------
9∬量丶.ーぎ・
論
第三章文
れによつて繪を包み、かつ統一し、この兩者によつて繪がはじめて完成されるのであ色
本書に於いて、圖解に用ゐた[(11は机の難と引手との關係を羲化したもので、
引手は箱の一面に取付けられてはゐるが、抽斗を引出すものとして、これを包み統一する
關係になつてゐる。かつ引手は、この抽斗を用ゐる主體の使用を助けるものとして、手の
延長と考へることが出來るのである。
 このやうな詞と辭との關係は、鈴木朖も既に次のやうな譬喩を以て論明してゐる。(ご
   詞               辭(てにをは)
  物事をさし顯はして詞となり、 其の詞につける心の聲なり
  詞は器物の如く        それを使ひ動かす手の如し
  詞はてにをはならでは|働《、、、、》かず  詞ならではつく所なし
 かくして、
  字を書く。
  字も書く。
  字だけ書く。
243
---------------------[End of Page 257]---------------------
二 詞と辭との意味的關係
  宇ばかり書く。
に於いて、複線を以て示した語は、すべて辭であり、單線を以て示した詞に對する話手の
何等かの認定を表現するものである。これらの辭は、「書く」といふ動作の主格には何の
關係もない。「甲は字ばかり書く」と云つても、それは、甲が繪をかくことを拒否して、
專ら字を書くことだけを欲してゐるといふ、甲の意識を表現してゐるのではない。「ばか
り」はそのやうな客體界の事實を表現することは出來ないのである。また例へば、停車揚
に汽車を待つてゐる人が、遙か彼方に汽車の姿を認めて、次のやうに云つたとする。
  汽車が來ます。
  汽車が來ました。
  汽車が來るらしい。
 複線の語は辭であつて、この場合も前例同樣に、ただ「汽車が來る」といふ事實に對す
る話手の認定の表現であつて、これらの語によつて、「汽車が來る」といふ事實そのもの
が確實であるか、不確實であるかといふ客觀的な情勢を表現することは出來ないのである。
 凡そ辭と云はれるものは、すべて右のやうな性質を持つてゐるのであつて、從つてそれ
244
---------------------[End of Page 258]---------------------
」
論
第三章文
は常に話手の認定の對象になる客體的なものと密接に結びつき、或る場合には、客鱧的な
ものの表現である詞に融合して一語のやうになつてしまふ場合もあり得るのである。印歐
語に於ける格變化を含んだ名詞の如きはそれである。國語に於いては、辭は多くの場合詞
と遊離して一の語と考へられてゐるが、音聲的には、詞と辭は結合して一のまとまりをな
してゐる。これを句或は文節(橋本進吉博士)と云ふ。
 辭のうちで、感動詞はいささか特例と考へられるのであつて、「ああ」「おや」の如きは
感動の主體的表現として、當然、辭と考へられるのであるが、これらの感動の表現にも、
必ず感動の對象ししなるべき客體的事物、事柄が存在しなければならない。即ち或る事柄に
對する驚き、詠歎の表現である筈である。しかし感動詞の場合には、そのやうな客體的な
ものが、言語の形に表現されず、主客未剖の形で表現されてゐると解することが出來るの
である。
 詞と辭の關係が、以上のやうに、客體的なものとい・轟睡的なもの、統一されるものと統一
するものとの關係にあり、その間に次元の相違が認められるのに對して、詞と詞との聞に
はそのやうな關係が成立しない。例へば、接尾語の結合した
245
---------------------[End of Page 259]---------------------
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」
論
第三章文
 詞辭の結合が完結形式をとつて、「春だ。」と云はれる時は、通常これを文と呼ぶのであ
るが、このやうな詞辭が結合して完結したものが、一の文の一部分をなす時は、これをも
句といふことが出來る。例へば、「山も春だ。」に於いては、「山も」も「春だ」もともに
句と云ふことが出來る。以上のやうに、句の概念の中には、詞と辭の結合といふことと、
文の斷片であるといふ二の概念が含まれてゐると見るべきである。
 句が、詞と辭の結合で音聲的に一のまとまりをなして居るといふことは、昔盤連鎮の上
に、中間休止が存在することを意味するのであつて、句を形威するといふことは、句切れ
が出來ることである。
 ここに句切れが出來ると云つても、それは單なる生理的條件によつて出來る休止ではな
い。例へば、ある音節以上は、息を續けることが出來なくて休止が出來るといふやうなも
のではない。たとひ、二喬節でも「メガ」(芽が)で休止が|出《ノ》來る。これは|句《め》を構成する
一語一語の意味によって支へられるからである。嚴密に云へば、詞と辭との主體的意識に
於ける辨別によつて、語と語との間に離合の現象が生ずるのである。
  サクラガ サイタ(櫻が険いた)。
247
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三 句とス子墾構造(一)
は、決して
  サクラ ガサ イタ
と云はれないのは、辭は常に上の詞と結合して一まとまり(句)にならうとするからである。
 國語に於いては、用言には特に陳述を表はす辭を用ゐることなく、用言だけで陳述を表
はすのが普通である・このやうな馨には・表現されな撫闘黜を含めてこれを句と
いふことが出來る。
  日程を變へ翊、明日出發する薩
 辭を件はないのは、用言の場合ばかりでなく、前例の「明日」の如きは、名詞であつて、
格を表はす蹴「に」を拌はずに連用修飾語として用ゐられてゐる。從つて、この「明日」
は、この文に即して云へば、零記號の省略されたものと見ることが出來るから、これだけ
で句をなしてゐる譯である。
 次に、句と句との闇には、意味上或は構造上、どういふ關係があるかを考へて見るのに、
吹のやうな注意すべきことがある。例へば、
  梅の非化が険いた。
248
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論
第登章文
といふ文は、これを句に分つて見れば、これを次のやうに圖解することが出來る。
  桐d一柑洲嘆い彑
 即ち三の句に分つことが出來る。召れならば、文は句がこのやうに暦々相重つて出來た
ものであるかと云ふのに、「花が」は、「梅の」に對して、一の句をなすと同時に、また一
方、「梅の花」を一の詞とし、それに「が」といふ辭が附いて、「栴の花が」を一の句と見
ることが出來る。この二の句切りかたは、一見矛盾してゐるやうに見えるが、互に矛盾し
相排斥するところの事實ではなく、實は「梅の花が」といふ句の中に、「梅の」といふ句
を含んでゐると見ることが出來るのである。これを鬪解すれば次のやうになるのである。
  梅の花が
 右の圖解によつても明かなやうに、「が」といふ辭は、詞「花」に附いて句をなすので
あるが、それは、ただ「花」といふ語に單純に附いてゐるのではなく、「梅の」といふ修
飾語を件つたところの「花」に附くと考へられるのは當然である。句を含む句を考へるこ
とは、思想の統一された表現の構造を考へる上に、極めて大切なこととなるのである。次
に、右の例文中の「嘆いた」は、詞と辭の結合として同樣に句と考へられるのであるが、
畑B乙{
249
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三 句と入子型構造(一)
右の辭「た」は、ただ單に「険く」といふ語だけに附いたものでなく、特定の主語(ここ
では「梅の花」)を持つた述語に附いて句をなすと考へなくてはならない。從つて右の文
は次のやうに圖解されることとなる。
  梅の花が険いた
 即ち、右の文は、全體として、詞と辭の結合した句と見なすべきものとなるのである。
ただし、右の句は、辭「た」によって完結してゐるので、これを文と云はなければならな
いのであるが、「険いた」といふ語結合だけについて見れば、文の部分としてこれを句と
いふことが出來る譯である。右の例文を、もう一度全體的に圖解すれば款のやうになる。
  杓の花が険いた
 この圖型を、既に用ゐた枡型式に改めるならば、
羸回花窶∴因
のやうになる。右の圖形によつて、語の連結がどのやうにして句をなし、句が重つてどの
やうにして統一した思想の表現に到逹するかを理解すべきである。
250
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論
第只章
 このやうな單位の排列と統一の形式を照ヂ型構造と呼ぶのである刃入子型構造は、原子
的排列構造とは異なつた構造形式を持つものであつて、その適例は、入子盃といはれる三
重の盃に見ることが出來る。その構造は圃のやうに、大盃cは、中盃bをその上に載せ、
          中盃bは、更に小盃aをその上に載せて、そして全體として統一し
          た三段組の盃を構成してゐる。abcはそれぞれに奈體に對しては
          部分の關係に立つと同時に、bがcに對する關係は、單獨にbがc
          に對するのではなく、aを含んだbとして、cに對するのである。
          cは盃自體として見れば一の統一體ではあるが、aを含んだbを、
更に含むことにょり三重の盃としての統一を完成するのである。入子型構造とは、右のや
うな興味ある構造形式を持つものであつて、數珠の排列と統一に於ける形式と比較するな
らば、その特質を理解することが出來るであらう。
 以上述べた入子型構造は、物質に關することであり、かつ察問的構造に屬するものであ
つて、これを時間的に展開する表現であるところの言語に類推することは極めて困難なこ
とであるが、國語に於ける語の連結とその統一構造とは、もしこれを直觀的に把握しよう
251
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四 句と入子型構造(二)
餌
避
とするならば、以上のやうな入子型構造に於いて理解するのが最も適切ではないかと思ふ
のである。
四 句と入子型構造 (二)
 前項に於いて、私は、主體的意識に於ける詞と辭との表現性の辨別に基づく、語の結合
を句と命名することとした。從つて、州可はその構成内容から云へば、文と同じものである
が、それが完結形式をとらず、或は完結形式をとつた場合でも、文の一部分をなすことに
よつて句と云はれるのであ彑着・.渤
A利がここに句と呼ぶところのものは、實は橋本進吉博士が文節二)と名づけられたもの
に對する批到の上に成立つてゐ燈ので、まづそのことを明かにしなければならない。
「〈幡本博士は、文に於ける切Rを文節と命名されたが、それは音聲論に於ける音節の概念
の類推に基づ戚ものである。しかしながら、苦節が單なる調昔の曲折によって生ずるもの
であり、波の起伏に類するもので、そこには冷髀の統一といふものを考へる必要が無いの
252
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  に對して、博士の文節は、必しも文に於ける單なる思想表現の曲折ではなく、それは意味
  に支へられて、全體として一の統一を形成すべきものである。
   從つて撚節の分析は、思想表現の意味的曲折及びその統一形式と關連して來なければな
ーらない筈であるが、博士の文節に對する考察はそこまで到達することが出來なかつ牝のぞ
  の根本は、博士が文節を|文《、、》の|節《へ》として把握したところに原因してゐ曲Vと思ふのである。文
  節の名稱は、博士の指摘せられた文節の事實そのものの正しい理解を進展させるには不適
  當であつた。|畔《丶》寧ろ、文節の名稱は、文章の一節或は一段であるbgH四σqH㊤娼げを呼ぶに適切
  な名稱として保留したいと思ふのであるい次に、それならば、橋本博士によつて指摘せら
  れた事實としての文節を呼ぶ名稱が從來無かつたかと云ふに、それに最も近く、或は更に
  適切な用語し」考へられるのは、和歌、連俳等に用ゐられた「句」の名稱である。上句、下
  句、初旬、二句、發句、夲旬、或は句切れ等の句の語義を見ると、文節の名稱よりも、旬
論
  の名稱を用ゐることが慣用の上からも遖切である。ただ一般に句と云はれてゐるものは、
|章《女》 博士が文節と云はれたもの以上の句切れを意味するところから、句の名稱を斥けて文節の
|舞《三》 名稱が採用されるやうになつたものと思はれるのである。例へば、
253
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四 句と入子型構造(二)
  久方の一ひかりのどけき一春の凵に一静心なく一花の散るらむ}
に於いて、初句は一文節から成り、二句は「光」「のどけき」の二文節から成り、三句は
「春の」「日に」の二文節から成り、四句は「」靜心L「なく」の二文節から成り、五旬は
「花の」「散るらむ」の二文節から成つてゐる。以上のやうに見て來れば、 一見句と文節
とは一致しないやうではあるが、二の句「光のどけき」はこれを次のやうに圖解すること
が出來る。
  光猛のどけき幽
 右は句を含む句と考へられるから、文節としても當然二句全體を一文節とも考へること
が出來るのである。三句は、二文節であると同時に、「春の日に」を一文節と考へること
は極めて客易である。四句は二句と同様、一文節と認めて差支へなく、五句も左のやうに
文節を含む文節として一文節と認めることは困難ではない。
  花の散るらむ
 以上のやうにして、句は句を含んで思想の統一が完成して行くことを考へるならば、從
來の句に分つ立場と、文節的分析は決して矛盾するものではなく、全く一致するものであ
254
」     〜
昏
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.丶
論
第巨音丈
ることを知るのである。更に一二三句を合して上句といひ、四五旬を合して下句といふ揚
合でも、句としての根本概念には、いささかの變化も無いのである。して見れば、從來慣
用された句の名稱以外に文節の名稱を用ゐる特別の根據はなく、句の名稱の方にむしろ融無'
通性があり、入子型構造を自然に暗示するものがあるといふことが出來る。句のまとまり
によつて出來る語の連鎖の中の休止は、從つて句切れと呼び、またこのやうに適當に語の
まとまりをつけることを句切るといふ譯である。連歌、俳諧の初句である|發句《ほつく》は、本來、
その表現技術の掟に從ふならば、獨立の想と形式を持たなければならないものであるから、
當然文法上の文に屬して、これを句と稱することが出來ない筈のものではあるが、發句の
具體的なありかたは、歌仙或は百韻の一部分であるといふ見地から句と呼ばれることが出
來るのである。このことは和歌に於いても同樣であつて、
  天つ風雲のかよひ路ふきとちよ
      少女の姿しばしとどめむ
に於いて、上句は、そこで思想が完結するにもかかはらず、なほ旬と呼ばれるのし向じで
                                         痂
ある。發句が全く獨立して、なほ句或は俳句と呼ばれるのは、歴史的な理由以外に何もな
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五 用言に於ける陳逮の表現
いのであつて、文法上から云へば句と呼ぶことが出來ないことは勿論である。そこでは、
一の詩形の名稱として用ゐられるに過ぎないのである。
 句の名稱は、またbぽ9ω①の譯語として一般に通用してゐる。それは、bけ騫ω①が上に
述べて來た詞と辭の結合である句に近似してゐるところから對譯に用ゐられたのであるか
ら、句の名稱を保存することは、彼我の言語の性質を比較對照する上にも便宜である。
 (一) 『國語學概論』橋本進吉博士著作集 第一巻 二三頁『國語法要説』同著作集 第二巻 五
  頁          し         レ
256
五 用言に於ける陳述の表現
さ護!广笥蜂へ ・..冫0、(い
へ
 詞は、それが概念作用による事柄の客體化の表現として、辭に對立するものであるが、
それならば、詞は皆すべて一樣であるかといふのに、そこにはなほ常に語形を變へないも
のと、語形を變へるものとが區別される。
 山、川、犬、猫等は前者でこれを鶻言といひ、走る、受ける、暖い、樂しい等は後者で
〉
孟
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藤さ
第匿章文論
これを用言といひ、その中に動詞と形容詞とが區別されることも既に述べたところである。
動詞、形容詞は、共に詞として概念を表現するのであるが、の〕れらの語が一般に使用され
てゐ欣態を見ると・例へば・          桝
  犬が走る。
  篌が圏・浮議"、鵡9  ヒ」幺ー   霞
のやうに、それは概念ばかりでなく、|到斷即《丶、,、くノ》ち文法上にいはゆる陳述をも表現してゐるこ
とは事實である。そこで、用言は陳迎をも表現するものであつて、その點が體言と異なる
ところであるといふ説が出て來るのである。山田孝雄博士は、
 抑も用言の用言たる所以はこの陳述の能力あることによることは既に繰返し説きたる.所
 なるが。(ご
と述べて、用言に於ける陳述性を彊調して居られる。ところが既に述ぺて來たやうに、陳
述といふことは、話手の主體的表現に屬することであり、國語に於いては、客懺的表現と、
主體的表現とは一般に分離して別の語を以て表現され、この兩者の表現上の相違を以て、
                                        蝣
語分類上の根本基準とする立場に立つ時、用言に於ける右のやうな事實をどのやうに取扱
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載 用言に於ける陳述の表現
ふかは重要な問題である。外形だけから考へるならば、陳述は確かに前例の「走る」「暖
い」といふ用言に累加され、含まれて居るやうに見える。しかしながら、主體的表現であ
る辭は、常に客體的表現である詞とは別の語によつて表現され、かつそれは客體的なもの
を包み、統一する關係にあるといふ國語の一般原則に立つならば、陳述は訣のやうな零記
號に於いて表現されてゐると見ることが出來るのである。
  関が圏言
  蘭候が暖い吻
 右のやうな説明法は、「故郷の山よ」といふ表現に於いて、感動を表はす「よ」が表現
されず、「故郷の山!」と表現された場合、これを
  瘋郷の凹翻
として圖解説明するのと同じである。
 以上のやうに、國語に於いては、用言は常にそれだけで別に陳述を表はす語を俘はずに
陳述的表現とすることが出來るのであるが、方言の中には、「犬が走るだ」といふやうに、
「だ」を以て陳述を表はしたり、「犬が走るです」「氣候が暖いです」といふ風に、一、です」
268
聖〜
塾」『・
ぐ  ー曇、   『喚
睡己ザ'
」1蠹農塵饕ー"瞬f尋
---------------------[End of Page 272]---------------------
〜
論
第三三章女
を以て陳述を表現することがある。また、「日中は暖い。だが朝晩は冷える。」といふやう
に、前文を受けて、これを繰返す場合に、ただ陳述だけを繰返して、「だが」といふこと
がある。この場合「だ」は前文の零記號の顯現したものと見ることが出來るのである。ま
た、「朝晩は冷える。」といふ表現は、聞手に對する敬意を含める時、「朝晩は冷えます。」
といふ表現をとる。「ます」は、「だ」「です」と同様に、、零記號の陳述が、語の形式をと
つて現れたものと解することが出來るのである。用言に於いて、零記號の陳述を想定する
といふことは、一見極めて觀念的な説明法のやうではあるが、國語の陳述表現の一般より
類推する時、以上のやうに解することがむしろ爰當であることが了解されたと思ふのであ
る。
 用言に零記號の陳述を想定することは、以上のやうな述語的陳述に於いてばかりでなく、
修飾的陳述に於いても同様である。
  流れる小川
  寒い夜
 右の用言「流れる」「塞い」は、それぞれ「小川」「夜」の聞に零記號の修飾的陳述が介
259
ア媒晩
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五 用言に於ける陳連の表現
在してゐると見なければならない。更に次のやうな例に於いては、
  さらさら流れる小川
  ひどく寒い夜
 修飾的陳述は、「さらさら流れる」「ひどく寒い」を統一して、下の體言を修飾するもの
であることは、「梅の花が」に於いて、助詞「が」が、ただ「花」が主語に立つことを表
はすばかりでなく、「梅の花」を統一しつつ、これ全體が主語に立つことを表はすのと同
じである。
 國語に於ける用言と陳述との關係を右の如く解する時、ヨーロッパの言語と國語との構
造上の相違を次のやうに説明することが出來る。
  〉`α○啝→目βω・
のやうな表現は、一般に次のやうに論明されてゐる。
  》α。ひqヨ饕巨晨即ち[旧冨臼巴
のやうに、陳述を表はす辭が、Aと13との中間にあつて、兩者を結合するものと考へる。
即ち零記號の辭を、AとBとの中問に想定するのである。然るに、國語に於いて、
260
磯
㍗
、,畩ーーー藍丶
---------------------[End of Page 274]---------------------
祉
、
論
璋
躰
  犬 走る。
といふ表現は、AB二の觀念の配列に於いて英語の場合と全く同じであるにも拘はらず、
これを次の如く解さなければならない。
   犬走る互
 即ち、AB二觀念を統一する辭は、AB二觀念の外から、これを包む形に於いて統一し
てゐるのである。前者を天秤型統一形式と呼ぶならば、後者のやうなのは、これを風呂敷
型統一形式と呼ぶことが出來るであらう。このことは、文の統一を論ずる際に、再び觸れ
ることではあるが、明治以後、英文法の知識によつて、日本人は、統一といへば、天秤型
以外にはあり得ないやうに教へ込まれて來たのであるが、右に述べるやうに、別個の統一
形式の存在が可能であることを深く銘記しなければならないのである。それは、物を箱に
入れたり、紐で括つたりするところの統一形式である。
ゾ(一) 『日本文法學概論』六八一頁
2Gユ
---------------------[End of Page 275]---------------------
六 文の威分と格
六 文の成分と格
2G2
イ總  説
 前數項に亙つて述べて來たことを、ここで一往概括して昆るならば、第一に、言語に於
ける單位としての文がどのやうな條件を持つものであるかを明かにし、次にそれを具體化
して、客體的な詞と主體的な辭との結合を以て文を説明する原則とした。そしてそれを次
のやうな圖形に表はした。
  …詞 画
 次に、右のやうな文の構造を構成するものの中、主體的な辭が、客體的な詞をどのやう
にして統一するかの面を述べて、辭特に用言の陳述に説き及んだ。ここで、文を構成する
他の要素である詞について述ぺるべき順序となつた。
 丈に於いては、詞は常に辭と結合して句を構威してゐるのであるかち,文に於ける詞を
---------------------[End of Page 276]---------------------
L
第三章文論
考察するといふことは、そのやうに辭によつて規定された詞について考察することを意味
する。換言すれば、辭は常・に詞を統一するものであるから、辭によつて規定された詞を考
察するといふことは、統一されたもの相互の關係を考察することに他ならない。「辭によつ
て統一された詞は即ち文の成分であり、文の成分を奈體的統一との關係に於いて見た場合
にこれを格とい沁髄ことは、從來の文の成分論で既に説かれたことである。
 文の成分及び格の概念は以上の如くであるから、h成分及び格は、句の中から、辭を除い
たものについて云はれなければならないのは嘗然である。
  花が嘆いた。
 右の表現に於ける文の成分は、句「花が」「険いた」から助詞「が」、助動詞「た」を除
いた「花」「嘆く」について云はれることで、その兩者の關係に於いて格と云ふことガ云
はれるのである。
ロ 述語洛と主語格
すべて陳述の助動詞或は零記號の陳述によつて統一されたものが述語格である。.厂磯
                                   離眺
'
.・1
         ,
〔f
1丶ン
2G3
---------------------[End of Page 277]---------------------
六 丈の成分と格
勉彊家です。
靜かだ。
暖い笏。
2G4
  飛んでゐる翻。
 右の例は、すべて辭と結合して句をなしてゐるが、それらの中から辭を除いた傍線の語
が、述語格と云はれる。更に次のやうな例の傍絲の部分も同じ原則によつて、述語格と云
はれる。
  彼は勉強家です。
  波が靜かだ。
  風は暖い。
  鳥が飛んでゐる。
 これら傍線の部分は、語の結合であるが、陳述によつて統一されたものとして、一の詞
と同樣に見なすことが出來る。しかしながら、それぞれの述語格は、「彼はヒ、波が」とい
ふやうな句を含んでゐる。そこで、これらの句の中から、助詞「は」「が」を除いた「彼」
---------------------[End of Page 278]---------------------
「波」と、「勉彊家」「静か」との間に文の成分上の關係が問題になつて來る。一般にこの
やうな場合、これを論理的な觀點から、「彼」「波」を、「勉張家」「静か」の主語と稱する
のである。ここに恐らく次のやうな疑問が生ずるであらう。「彼は勉張家」を述語としな
がら、「彼」に對して「勉強家」を述語とするのは何故であるか。いづれを述語とするの
が正解であるか。この疑問に對する答は、既に述べたところの入子型構造の原則によって
氷解するであらう。「彼は勉張家です」といふ表現は、既に述べたやうに、「彼は」「勉張
家です」の二句から成立し、そしてこの二句の閘には、次のやうな入子型構造が成立する
ことも既に述べた。
論
第監章文
彼1
は1
匿
 右の鬪形は、「です」によつて統一されたものとして、「彼は勉強家」を述語と呼ぶこと
が出來ると同時に、その中から、「彼」を主語として取出した場合、その主語に對しては、
「勉強家」を述語と呼ぶことが出來るといふ關係を示してゐるのである。〜この關係は、國
語の文の構造として具體的に示すことが出來るのであつて、例へば、「芽生える」「齒がゆ
265
---------------------[End of Page 279]---------------------
六文の成分と格
いL「腹が立つ」「氣が長い」等の語が、それぞれに一の詞として述語に用ゐられると同時
に、「芽」「齒」「腹」「氣」を主語と見れば、それに對する「生える」「かゆい」「立つ」
「長い」を同時に述語と見ることが出來るのであつて、國語の構造の一の根本的な性格と
見ることが出來るのである。
次に、春の圖形から結論することが出來る轟な點は・副語に於いては・主語は述語に
對立するものではなくて、述語の中から抽出されたものであるといふことであ臨國語の
特性として、主語の省略といふことが云はれるが・右の鑾から到斷すれば・主語は述語駅
                                       ∴
の中に含まれたものとして表現されてゐると考へる方が適切である。}拶要に應じて、述語μ
の中から主語を抽出して表現するのである。それは述語の表現を、更に詳細に、更に的確
にする意圖から生まれたものと見るべきである勲主語を述語の中に含めるところにも、そ
れなくしても自明である場合、主語を取出すことが憚られる場合等があるためである。
 述語に對する主語の關係を以上のやうに見て來るならば、f誰傭ゾ後ゆ|述《帆》べる述語の連
用修飾語とは本質的に相違がないものであ齢ことが氣付かれるであらう。事實、國語に於
いては、主語は、述語に羇する論理的關係から云はれるだけで、例へば、次の例に於いて、
---------------------[End of Page 280]---------------------
  私には出來ません。
 「私」は、述語に對して、事實としては「出來ません」といふ述語の主語たるべきもの
ではあるが、この場合「には」といふ助詞に規定された「私」は、むしろ述語の修飾語と
見るべきものである。從つて、それは、「私に於いては」といふ意味の表現と見なければ
ならないのである。國語に於いては、主語は述語の修飾語と見ることが出來るのである。
ハ述語絡と客語、補語、賓語格
論
第胃章 文
 主語が、述語から抽出されたものであり、修飾語と異なるところは、論理的關係に於い
て、主語が述語の主題であるやうな事柄であるのに對して、修飾語はむしろ述語の中の屬
性的事實の抽出であるところにある。客語、補語も述語から抽出された概念であることに
於いて主語或は修飾語と同性質のものであり、ただそれが、述語の主題ではないところか
ら、今日、普通の文法書では、客語、補語を修飾語として取扱つてゐる。本書でもこれを
修飾語の一として取扱ふのであるが、述語に對する論理的關係から、修飾語のあるものを、
主語といふことが出來るやうに、述語及び主語に對して、或る特殊の論理的關係のある修
267
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ナ丈の威分と格
飾語を、客語、時には目的語、或は補語といふことが出來、また便宜上そのやうに取扱つ
てゐる。これはヨーロッパ諸言語の類推に基づく取扱ひであるが、國語には、述語と客語、
補語との關係を規定するやうな明確な文法的記號を指摘することが困難で、ただ意味の上
から、さう云はれるに過ぎない。助詞「を」に規定された詞が客語であるといふことも、し
決定的ではない。
  橋を渡る。
  空を飛ぶ
 右の傍線の語のやうなものは、單に行爲の行はれる場所を云つたもので、客語と云ひ切
れないものである。このことが、ひいては、國語に於いて自動詞と他動詞との區別をつけ
ることが出來ない原因となつてゐる。
 補語は、述語に對する論理的關係によつて規定された成分であるといふよりは、述語の
意味の充足に關する成分である。ある種の述語は、それだけでは意味が分らないばかりか、
丈としての形式が整はない場合がある。これを補ふところの文の威分が補語である。この
ことは、既に述べた形式動詞に關係して來る。
268
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◎
直
♂ー ←
論
第豈童文
  窒を暖かくする。 私はびくびくする。
  氣が樂になる。 科學者になる。
 右の傍線の語を除けば、この文は成立しないことになる。しかしながら、この場合でも、
補語を規定するやうな特殊な助詞がある譯ではないから、その到定が決定的であるとは云
へない。以上のやうな成分の識別は、結局、文を分析してその論理的關係を明かにする上
の便法と見るべきであらうと思ふ。そのやうな事情から、今日では、多くの文法書が、主
語を除いて、客語、補語をすぺて修飾語として一括するやうになつたことにも理由がある
ことである。この場合、主語を修飾語から除外することに、特別の理由がある譯ではない
といふことは既に述べた通りである。
7國語に於いて、主語、客語、補語の間に、明確な區別を認めることが出來ないといふ事
實は、それらが、すべて述語から抽出されたものであり、述語に含まれるといふ構造的關|刀《,ノ》
係に於いて全く同等の位置を占めてゐるといふことからも容易に釧斷することが出來る。 慢
  私は六時に友人を驛に迎へた。
に於いて、「私」「六時」「友人」「驛」といふやうな成分が、すべて、「迎へる」といふ述語
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六 女の成分と格
に對して、同じ關係に立つてゐるのである。その點ヨーロッパ諸言語が、主語と述語との
間には、不可分の關係が結ばれて、他の丈の成分とは全く異なつた關係にあるのとは異なる。
 ただし、國語に於いて、成分の間の關係を表はす格助詞の分類に對應させるならば、客
語以外に更に多くの格を對立させることが當然考へられなければならないのであつて、た
だ客語だけを特立させるといふことは片手落ちである。このやうな成分上の區別は、それ
と述語との…關係に於いて必要なのではなく、むしろ、成分を規定する助詞の意味との關係
に於いて重要となつて來るのである。
 次に、賓語について云ふならば、從來の文法書では、用言は概念と陳述との合體したも
のと考へ、これを述語としたために、概念と陳述との別れた表現、例へば、
  波が靜かだ。
に於いて、「静かだ」を用言に匹敵するものと考へたので、更にこれを分析して、「だ」を
述語とし、「靜か」を賓語としたのである。一般には、陳述の表現を述語と考へるところ
から右のやうな結論が出て來るのであるが、本書に於いては、文の成分は、辭によつて規
定された詞についてのみ云はれねばならないものとしたので、陳述そのものは述語となる
270
,
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6¶ ず  も
ぬ
命
べき資格はない。陳述された内容が述語であるから、右の例に於ける「静か」は述語であ
つて、特にこれを・賓語といふ必要のないものである。賓語といふ名稱は、8日胤Q日Φ馨の
…譯語であるが、oqB覧QBΦ暮と娼日Φ象o暮Φとの間の混亂から、ひいてその…譯語である賓
語、補語、述語の間にも混亂があり、用法が區々である。今、山田孝雄博士の文法體系と
本書とを對比して見るのに、博士に於いては、陳述の表現そのものに、格を認めて居られ
るのに對して、本書に於いては、陳述そのものに格を認めないので、次のやうなずれが|生《、、》
じてゐる。
 ○日本文法學概論  ○本書
  述格        陳述と述語格とに分れる
  賓格       述語格
  補格        客語、補語等の修飾語格
論
第三章文
註 山田博士の述格は、實質概念と陳述との結合を意味する場合(用詳が途格になる噂)と、全く
 陳述のみを意味する場合(「花なり」の「なり」)とがあるのを、本書に於いては、概念と陳述と
271
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六文の成分と格
を峻別する立場をとつた。從って、山田博まの賓格に相當する竜のが逑語格となつた。
二 修飾語格
修飾語の問題としては、 慧黛編煮害吻
 (一) 前項に述べたやうに、諭凶語の構造上、主語、客語、補語等を修飾語と區別するこ
とが、困…難であるところから、これらをすべて修飾語とすることは最近の傾向である。し
かしながらこれにもなほ疑問があつ匡前項の補遺として、ここに一言加へたいと思ふ。
次のやうな例文をとつて見るのに、
  學校に行く。
  親切に世話する。
 「學校に」「親切に」の「學校」「親切」はともに體言であり、文の成分としては、修飾
語として取扱はれてゐる。これらの語は、同樣に「に」といふ語が附いてゐるのであるが、
「學校に」の「に」は助詞で、「親切に」の「に」は指定の助動詞「だ」の連用形であつ
て、その品詞の所屬を異にし、從つて意味が相違すると見なければならない。ここに、同
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論
第三章女
じく修飾語であると云つても兩者に何等かの相違があるべき筈である。この相違は、次の
やうにして説明することが出來るのではないかと考へられる。先づ、體言に指定の助動詞
の附いたものは、零記號の附いた用言の連用形に相當する。
  親切に世話する。……心よく嬲世話する。
  すみやかに流れる。……早く鰯流れる。
そして、これらの修飾語は、事柄の屬性概念の表現であることが分る。これらの修飾語に
對して、體言に助詞「に」の附いたものは、
  六時に出發した。
  東京に着く。
  電車に乘る。
のやうに、事柄それ自髏の屬性ではなく、事柄に關係する外的なものの表現である。
 このことは、助動詞「と」と、助詞「と」の間にも云はれる。
  雨諷U散る。……はげしく翩故る。
  茫然と暮す。……淋しく嬲慕す。
273
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格  右は助動詞の場合であるが、
飢  1ー
成  友と遊ぶ。
如 甲は嵐同じ・
六
  は助詞の場合であつて、兩者の間には前の「に」と同様の差別が存することが分る。
《 ー粛r上のやうにして、修飾語と云つても、格助詞の附いた場合と、助動詞の附いた場合と
一.ン搾では、事柄の外部に關するものと、内部に關するものとの相違があるので、この兩者をど
-沈のやうに區別するかが問題にならなければならないのであるいただ「に」及び「と」につ
  いて、格助詞と認むべき場合と、助動詞と認むべき場合と、到然と匿別し難い場合がある
  ので、この問題は必ずしも容易ではないのである。ともかくも、この差別は、次のやうな
  表現を識別するに役立つであらう。
    近く見える。
    近くに見える。
   前者は、「見え方」の如何を云つたものであり、後者は「近く」が一個の體言として、助詞「に」が附いて、「見える」揚所を指したものとなるのである。
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第三章文
 (二) 修飾語と被修飾語との關係は、結局、語と語との關係になるので、被修飾語が、
體言であるか、用言であるかに從つて、連體修飾語と連用修飾語とに分れる。
  星が美しく輝いてゐる。(連用修飾語、形容詞連用形)
  星が澤山に輝いてゐる。(連用修飾語、體言、助動詞「に」を件ふ)
  美しい星が輝いてゐる。(連體修飾語、形容詞連體形)
  澤山な星が輝いてゐる。(連體修飾語、體言、助動詞「な」を件ふ)
 連用修飾語は、用言へ接續するのであるから、一般に用言の連用形か(零記號の陳述を含める)、體言に指定の助動詞の連用形「に」「と」及びその他の助動詞の連用形の附いたものであり、連體修飾語は、用言の連體形か、體言に指定の助動詞の連體形「な」「の」及びその他の助動詞の連體形のついたものである。しかしながら、この原則は決定的なものでなく、文の成分の關係は、品詞的關係であるよりも、意味的關係であるから、次のやうな現象が生ずる。
  今日は、お早い御出發ですね。(修飾語は連體形、被修飾語は體言)
  今日は、お早く御出發ですね。(修飾語は連用形、被修飾語は體言)
275
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六丈の成分と格
 即ち、述語が體言であるにもかかはらず、潼用形を以て修飾するのは、被修飾語が動作
的な意味を持つためである。一般に個體的な意味に決定されてゐる體言に對しては、連體
修飾語が用ゐられるが、歌態性、動作性の意味を持つ體言に對しては、連用修飾語をとる
ことが可能になつて來る。
  綺麗な花です。(連體修飾語)
  勉強する學生だ。(連體修飾語)
  明日から學校です。(連用修飾語)
  一所懸命に勉強です。(連用修飾語)
 以上のやうに見て來ると、連體とか連用とかの名稱が、既に不適當に考へられて來るの
で、これに對して、形容詞的修飾語、副詞的修飾語の名稱を用ゐるのが適切ではないかと
考へられる。これに關しては、もちろん、品詞としての形容詞の名稱を改めて、このため
に保留されることを前提とするのである(總論「文法用語」滲照)。
276
ホ 對象語格
雛舞横蓋耀辱 {
、
f
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!も倉F- 吐1ーー
論
第三章
 この一般には用ゐられてゐない術語を、ここに用ゐる理由は、國語に於ける次のやうな
現・象に基づくのである。まつ、
  山が高い。  川が流れてゐる。
の例に於いて、述語「高い」「流れてゐる」の主語が、それぞれ「山」「川」であることは、
容易に理解されることである。ところが、
  仕事がつらい。  算術が出來る。
の例に於いて、「仕事」「算術」を、「つらい」「出來る」の主語とすることが出來るかとい
ふと、ここに問題がある。主語は、それとは別に、
  私は仕事がつらい。  彼は算術が出來る。
に於ける「私」「彼」を主語と考へるべきではないかといふ議論も出て來て、「仕事」「算
術」をどのやうに取扱ふべきかが問題になる。ここで、「私」「彼」は當然主語と考へられ
るので、「仕事」「算術」は、述語の概念に對しては、その對象になる事柄の表現てあると
いふところから、これを對豫計と名づけることとしたのである。 《、諮昂・バ嶺
  山が見える。
277
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六 文の膩分と格
  汽笛が聞える。
  犬がこはい。
  話が面白い。
等の傍線の語は、皆同じやうに、主語ではなく、對象語と認むべきものなのである。
 しかしながら、以上の諸例に於ける傍線の語を、主語として取扱ふことが、全然不合理
と考へられないのは何故であらうか。素朴な態度を以て、以上の諸語を文法的に操作すれ
ば、當然、主語として考へられるであらう。これは、次のやうな理由によるのである。右
の諸例に於ける述語、例へば、「見える」「こはい」をとつて考へて見るのに、これらの語
は、∠方では、主觀的な知覺、感情の表現であると同時に、他方では、そのやうな知覺や昏
感情の機縁、條件となる客觀的な事柄の屬性を表現してゐる。云はば、これらの語は、主、!
觀、客觀の總合的な表現で、我々がこれらの語を用ゐる時、必しも一方的に主觀的なもの露影
だけを表現してゐるのでもなく、また、客觀的なものだけを表現してゐるのでもない。そ,
の場合に從つて、「山が見える」と云へば、客觀的なものの表現を意圖し、「私は見える」
と云へば、主觀的なものを意圖してゐるのである。一この點、「山が高い」「川が流れてゐ
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げ
,
蝋
ー
第.章女
るLに於いては、述語「高い」「流れてゐる」は、全く客觀的なものの表現であるために、
主語が一義的に決定される。また一方、「足が痛い」「水がほしい」に於いては、述語「痛
い」「ほしい」は、全く主觀的な感覺感情の表現であるから、「足」や「水」を主語とする
ことは全然許されない?ここに對象語の概念が必要になつて來るのである。右の左右兩極担
の中間に位する語については、主語と認めるか、對象語と認めるかは、その場合場合で異
なつてゐると見なければならないのである。對象語の概念は以上のやうなものであるから、'
主語と對象語とは、全く相排斥する矛盾概念ではないのである。對象語の問題は、述語に
用ゐられる用言の意味に關係することで、それは同一時代、同一社會内でも、時と場合で
異なつて、
  町が淋しい。(「淋しい」は、客觀的な状態、「町」は主語)
  獨りでゐるから、淋しい。(「淋しい」は主觀的な朕態、主語は省略)
のやうに用ゐられると同時に、時代によつても異なる。
  琴の音ゆかし。(「ゆかし」は琴の昔が聞きたいといふ希望の感情を表はし、「琴の並日」は對象
         語、主語は省略)
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六丈の鼠分と絡
人柄がゆかしい。(「ゆかしい」は、人柄の歌態を意味し、「人柄」が主語)
へ 獨立語格
280
 以上述べた諸格は、すべて述語を基本にして、そこから抽出され、またそれに對立する
概念の表現として、それら相互には、相對的な關係があつた。主語は、述語に對する主語
であり、對象語は、主語及び述語に對する關係から規定されたものである。以上述べた諸
格は、すべて陳述によって統一されるので概括していふならば、これを述語格といふこと
が出來る。ここに獨立語格といふのは、右のやうな相對的な關係を持たない、それ自身單
獨の格を云ふのである。画へば、驚きの感情を以て「火事!」と叫んだ場合、文の總論に,ー
於いて既に述べたやうに、この表現は、感情(この場合に零記號)と、その感情の志羇勧
象である一の事柄の詞的表現である「火事」との結合であるから、當然「文」と云はなけ・翻
ればならない。この文の格は、この表現の詞について云はなければならないのであるが、
この詞は、「火事だ」といふ表現のやうに、指定の助動詞「だ」によつて統一されたもの
ではないから、述語絡とはいふことが出來ない。このやうな格を獨立格と云ふのである。r
---------------------[End of Page 294]---------------------
論
第三章文
この場合、「火事」といふ語は、驚きの感情の對象であるから、對象語ではないかといふ
疑問が起こるであらうが、格は常に客體界の秩序で、詞相互の間で云はれることで、この
場合の感情は、詞として表現されてゐないのであるから、「火事」を對象語といふことは
出來ないのである。
  火事がこはい。
といふやうな場合は、全く別で、この時は、感情が「こはい」といふ詞によつて表現され
てゐるのであるから、この「こはい」といふ詞(この場合は述語として用ゐられてゐる)
に對して、「火事」を對象語といふことが出來るのである。獨立語には、多くの修飾語が
伴ふことがあるが、それが獨立語に統合されて、結局、一語として見ることが出來るから、
獨立語は一語文と認むぺきものである。
  荒海や佐渡に横たふ天の川
 右の文は、「荒海や」「佐渡に横たふ天の川」の二の獨立語格を持つた文から組立てられ
てゐる。そして、それは次のやうに鬪解される。
  [鬮凹圖 關闘凹吻
281
---------------------[End of Page 295]---------------------
六文の成分と絡
 上の文は、詞である「荒海」が、感動を表はす助詞「や」によって統一されてゐる。こ
こには陳述による統一がなく、感動による統一があるだけであるから、「荒海」は相對格
を持たず、それだけで獨立格をなす。下の丈は、「佐渡に横たふ」は「天の川」の修飾語
で全體を一語として取扱ふことが出來、かつこれを統一するものは、陳述ではなくして、
零記號の感動であるから、形式としては、上の丈と全く同じ獨立格である。このやうにし
て、この上下二つの文は、感動に包まれた、自然の二つの情景を投出して、讀者をして全
體の景觀を想像させたものであると云ふことが出來る。
 このやうな獨立語による表現は、外形上の形式は同じでも次のやうな表現とは全く異な
るものである。
  昨日は何處へ行つたの?・箱根。
 右の問に對する「箱根」といふ答は、「箱根です」或は「箱根へ行つた」といふ表現の
省略形で、そこには、陳述が省略されてゐると認められるので、述語格か、或は述語格に
含まれる修飾語格と見なければならないのである。
 また、次のやうなものも獨立語とは認められない。
282
L暫皀■「置唇卩雷モー」ー「 ーー}ー、  臨「」
-ー
丶、
空誓晦墨蔘L量腰`
---------------------[End of Page 296]---------------------
〜\
  しかしその電燈の光に照らされた夕刊の紙面を見渡しても、やはり私の憂欝を慰むべ
  く、世間はあまりに凖凡な出來事ばかりでもちきつてゐた。講和問題、新嫻、新則、
  漬職事件、死亡廣告。1私はトンネルへはいつた。(芥川龍之介)
 右の傍線の語は、それぞれ獨立語を構成してゐるのではない。さりとて、それぞれが陳
述の省略された述語或は主語とは認められない。換言すれば、これらの語は、如何なる意
味に於いても、文或は文の一部とは云へないのである。それならば、「講和問題……死亡
廣告。」までは、何と解すべきであらうか。それは、この作者の意識に浮んで來た想念を、
次々に語として表現したのであるから、それは、語の羅列に過ぎないのである。本書の語
論の總論にも述べたやうに、語は、文より歸納されたものとして存在するのではなく、文
が一の單位として扱はれると同樣に、語もまた言語の一單位として、それとは別個に威立
するものであることを示すのである。
肱
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鴨
第
2S3
、
---------------------[End of Page 297]---------------------
第四章文章論
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2S4
總
説
 文章研究が、文法學上の一單位として、その一領域を占めるものであること、またその
必要な所以は、既に總論の中で述べた。文章研究を文法學の正面の問題に据ゑることは、
從來、殆ど試みられなかつたことで、これを文法學の重要な對象として考察するには、今
日はまだ充分な準備が整へられてゐる譯ではないのであるから、本書においてこれを取扱
ふのは、將來この方面の研究を促す機縁になることを願ふ以上のものではないのである。
以下、文章研究上問題になり得る二三の點を列擧したいと思ふ。
二 文の集合と文章
---------------------[End of Page 298]---------------------
鈴
6
第四章 交章論
 文の集合が決して文章にならないことは明かである。一日の斷片的な事件を羅列した覺
書或は日記の記事のやうなものと、漱石の草枕や午家物語のやうなものとが、同じもので
あるとは考へられない。前者は單なる文の集合であるのに對して、後者はそれ自身一の統
一された全體である。文の性質が、語の集合として理解することが不可能のやうに、文章
の性質が文の集合として、或は語の推積として論明することは不可能である。換言すれば、
文章は文の説明原理とは別の原理を以て説明されなければならないことを意味する。この
ことは、常識的にも大體想像されることであつて、我々が文章に接した場合、屡ーその主
題を問題にし、結論を尋ね、或はその結構、布畳の如何を問題にするのは、既に文章が、
丈以上のものであることを常識的に認定してゐるためである。ところが、學問的には、文
章の性質を文によつて説明しようとし、或は語によつて規定しようとするのは、文章研究
が、文法學において正當な位置を要求されてゐないことにもよるのであるが、一方、すべ
て物を、その究極の構成要素によつて説明し、説明することが出來ると考へる原子論的考
方によることが多いのではないかと思ふ。
285
---------------------[End of Page 299]---------------------
三文章の構造
三 文章の構造
 文章はその根本において言語的表現であるから、文章の性質の理解は、何よりもそれが
言語としての性質を持つものであることが確認されなければならない。言語的表現の特質
は、これを音樂的表現、繪書的表現、彫刻的表現などと對比することによって、よくその
特質を把握することが出來る。云ふまでもなく、言語は、それが時間的に流動展開するこ
とにおいて、著しく音樂的表現に類似し、繪書、彫刻などと相違する。このことは、文の
表現においても同樣であるが、特に文章表現において著[しく目につくことである。この時
間的な流動展開といふことが、文章の性質を規定する重要な點であるにも拘はらず、從來
の文章研究において、ややもすれば看過されて居たことである。文章は屡ー繪畫、彫刻に
比較され、平面的構造、或は空間的構造のものとして理解され、またそのやうなものとし
て分析されることが多かつた。作文を意味する○○白bO臨鉱o昌といふ語にも、以上のやう
な文章觀が反映してゐるのではないかと思ふ。
286
---------------------[End of Page 300]---------------------
第四簟女章論
 このことは、藝術的な文章の觀察において著しく現れて來るやうである。文章の藝術的
鑑賞が、讀まれた文章を對象化し、その繪豊的、建築的構圖の尺度を以て律するのでなく、
文章展開の必然性の追求において、鑑賞されなければならないといふことが、ここから結
論されて來るのである。文章の根本的性質が以上のやうなものであるから、㍍|文章《}噛ー》は何より
も表現の展開といふことが・その鑾的讐でなければならない・從つて・その展開の核鰌
心となるものは・文章の冒頭であつて・冒頭が如何に衾し・如何に擴大し茹何に屈翫
して行くかといふところに蹇の展開がある・斎究の主題が・文の論理的鑾にあると畑
するならば・文章研究の主題は・もつと流動的な爨の展開といふやうなところに置かれη
なければならないのである。
 其體的な例を以て説明するならば、ある一の文章が藝術的であり、それが藝術作品であ
ると云はれる根本の理由は、表現そのものに、美が存在するためである。言語的表現は、
上に述べたやうに、思想内容或は表現題材が時間的に音聲、文字を媒介として表現が展開
するのであるから、文章に美があるといふことは、そのやうな流動展開に美があることに
他ならない。これは、建築や彫刻に於いて、部分と全體との布置、結構に美があると云は
---------------------[End of Page 301]---------------------
三文章の構造
れることと、對照をなすものである。文章に於ける右のやうな流動展開の美は、文章を讀
むことによって始めて體驗され、其體化されるのであるから、文章の構造が明かにされる
ことなくしては、正しく文章の美を把握することは不可能である。このやうに、文章の美
は、文章を對象化し、これを平面的或は空間的構造に改めることによって捉へられるもの
ではなく、一義的に、讀む經驗に即して捉へられなければならないのである。最も簡單に
體驗出來る文章の美は、文章の筋の展開に於いて捉へられるところのものであつて、夲家
物語の美はまさにそのやうな序破急の中にあると見てよいであらう。文章の藝術性といふ
ことが、作髻の經驗的題材になくして、むしろ、題材を表現にまで定着させる表現體驗に
あること、また讀者の側から云ふならば、作品を讀む讀書體驗の中にあるといふ考方に對
しては、多くの異論があり得ると思ふのであるが、もし以上述べたやうに、文章の藝術性
といふことが、文章を讀むことに於ける美的體驗であるといふことが許されるとするなら
ば、文藝の正しい鑑賞のためにも、文章の構造とその展開についての研究が必要とされて
來るであらう。
288
レ
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四 文章の成分
第四章文章論
 文の成分が、個々の單語でなくして、格と云はれるものであり、格の論理的構成におい
て文が成立するやうに、文章の成分も、また、個々の文に歸せらるべきものではない。文
章の成分は一般に文節、文段、段落と呼ばれ、或は全體との相互連關の上から、章とか篇
とか呼ばれることがある。言語表現は、常に必しも論理的にばかり展開するものでなく、
例へば連歌、俳諧のやうな特殊な展開法をとるものもあるが、言語表現の一般的性質とし
て、思考の展開を特色とするものであるから、文章の成分は、多少なりともこれを論理の
概念を以て規定することが出來るのは當然である。漢詩において、起句、承句、轉句、結
句と云ふことが云はれ、論文形式において、序論、總論、各論、結論などといふことが云
はれるのはそれである。文論において、種々の格についての説朋があるやうに、文章論に
おいても當然その威分論が必要とされるのである。
289
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五 文章論と語論との關係
五 文章論と語論との關係
 文章の直接の成分的要素は、文でもなく、語でもないが、文章の表現的特質から、語が
重要な關係を持つ場合がある。文章の構造的特質は、繪書一的建築的構圖にあるのでなく、
思考展開の表現にあることは既に述べたことであるが、このやうな展開を表現するものと
して、最も重要な役割を果すのは、接續詞及び代名詞である。文論においては、接續詞は
主語、述語、修飾語に比較して、文の構成に直接關係のないものとして、殆どこれに觸れ
る必要を認めないのであるが、文章論の主題を以上述べたやうに思考表現の法則に求める
時は、接續詞の研究は非常に重要なものとなつて來る。語論における接續詞研究は、全く
文章研究のためにあると云つても過言ではないのである。接續詞が、文章展開の重要な標
識であるといふことは、接續詞が辭に屬し、話手の思考の展開の直接的表現であるからで
あつて、他の詞に屬する語が、文章と關連するのとは、比較にならない重要な意義を持つ
のである。
290
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111艦-】-引1,
第四章文章論
 代名詞についても同様なことが云へる。文論の範圍では、代名詞は他の體言と同樣に、
文の成分となり得るといふこと以外には、代名詞本來の機能は、全く無硯されても差支へ
なかつた。ところが文章論においては、それが文の成文としての意義以上に、代名詞特有
の意義においてはじめて問題にされて來るのである。何となれば、既に語論において述べ
たやうに、代名詞は他の體言と異なり、事物の概念を表現するといふよりも、話手と事物
との關係概念を表現することを任務とするものであるから、一切の事物は、代名詞によつ
て總括されることとなる。「これは」と云つた場合の「これ」は、それに先行する一切の思
想を受けて、次の表現の主題とすることが出來るのである。接續詞が、文章の展開に重要
な役割を持つものとするならば、代名詞は、分裂展開する思想を集約して、これを統合す
る任務を持つものであると云へるのである。接續詞の多くが、「それから」「そして」「か
くて」「されば」のやうに、起源的には代名詞との複合であることを見ても、この二の品
詞が、あひまつて、文章展開に重要な役割を持つこ陀が知られるのである。代名詞や接續
詞は、・建築物に於ける廊下や階段にもひとしい任務を持つてゐる。
291
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六 その他の諸問題
六 その他の諸問題
 (一) 文を如何なる基準によつて分類するかの問題と同樣に、文章についてもこれを分
類することが問題にされなくてはならない。
 (二) 語論においても、文論においても、これを歴史的に考察することが、體系的研究
にとつて必要なやうに、文章論においても、歴史的研究が必要とされるであらう。
 (三) 文章論は、文章の類型を求め、一般法則を抽象することを任務とするものである
が、これに對して、從來の個別的觀察、文章の藝術的價値の問題も、あはせて考慮する必
要がある。類型的觀察と個性的觀察とは、全く別物でなく、類型的觀察は、個性的觀察を
出發點としなければ不可能なことであり、個性的價値の認識はまた類型的認識に基づかな
ければ不可能であつて、この兩者の相互關係が常に問題とされることが必要である。
 (四) 音樂に於いて、テンポが表現效果に重要な關係があるやうに、文章に於いても同
糠なことが云へるであらう。文章に於けるテンポは、主として、文の長短によって規定さ
292
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」遖弖胃- 二」」」冨』■-
れる。短い文の連續は、思想の急速度の轉換を意味し、そこに文章の速度感を意識させる。
 (五) 文體の問題も、文章研究に於いてはじめて取上げることが出來ることである。
 (六) 繪畫が、歴史的物語をそのままに描出すことが出來ないのが宿命であるやうに、
文章はまた瞬問的な印象をそのままに描寫することが出來ないのが宿命である。それはそ
れぞれに表現としての性格を異にするところから來ることであり、そこに題材と表現の性
格との關連の問題が生じて來る。
 (七) 文論に於いて、主體的表現と客體的表現とを論じたやうに、文章論に於いても、
主體的なもの即ち作者がどのやうに表現面に自己を表はしてゐるかが分析追求されること
が必要であらう。
鞴
文
離
第
 文章論については、なほ多くの課題が考へられるであらうが、文章が、語よりも、更に
文よりも一暦其體的な言語單位であるために、これを分析して、擧げ盡すことは容易でな
い。これらの研究に、從來の修辭論が重要な基礎となり、また參考となるべきものである
ことは云ふまでもない。
293
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索引
    あ
あげく(形式名詞)92
あげる 97
あける(形式動詞)97
あそばす(形式動詞)98
脚結《あゆひ》抄 104
あり 93,121,18
あり(指定の助動詞)188
ある(形式動詞)94,126
ある(──日) 136
或は 173
安藤正次 13
あんな 138
    い
意志及び推量の助動詞 202
已然形 106
いたす 97
一語文(sentence equivalent)  233
一囘過程の表現 50
ゐる 94
入子《いれこ》型構造 246,251,252
いはゆる 138
    う
う(意志及び推量の助動詞)  202
受身 116
 ──の接尾語 117,160
 ──の動詞を作る接尾語 117
動くてには 18|1
打消の助動詞 191,194,197
うへ(形式名詞)92
    お
お(接頭語) 151
を(格を表はす助詞) 220
恐らく 144,148
おほかた 145,148
大きな 138
大概文彦 28,32
及び 173
和蘭字典文典の譯述起原 28
をり (形式名詞) 92
音聲 18,19
音聲言語 86
音便形 108
か
か(感動を表はす助詞)227
か(限定を表はす助詞) 222
が(格を表はす助詞)219
が(接續を表はす助詞) 167, 226
が(接續詞) 176
概念 73,231
概念化 60
概念過程 60
概念的 240
か行變格活用 111,113
格  66,135,140,162,262
 一を表はす助詞 219
かくて 291
確認 201
過去及び完了の助動詞 198
かしら(感動を表はす助詞) 227
かた(接尾語) 156
がた(接尾語) 156
がたい(接尾語)158
かつ(接續詞) 163,167,174,176
活語斷續譜 100
活用 99,125,216
 一の種類 109
活用形 104,140
 ─(形容詞の) 126
活用表 100
假定形 106,107,127
過程的言語觀 17
假定的陳述 148
がてら(接尾語)156
可能 118
  ──を表はす接尾語 118, 160
がましい(接尾語) 158
上一段活用 110,111,113
から(格を表はす助詞)220
から(接續を表はす助詞)226
がる(接尾語) 153,158
かん(間,形式名詞)92
關係 81
關係概念 74,75,76,81,291
關係語 58
漢語  71,155
觀察的立場  19
感歎詞 178
間投詞 178
感動詞 62,178,245
觀念語 58
き
木枝檜一 89
聞手 18,73,81
起句 289
技術 19
既然形 106
きつと 147
客觀的  199,201,207,278
客語 114,267
客體化 60,62,66,256
客體界  66,232,240,241
客體的 179,217,231,262,278
客體的概念的表現 66,246
客體的表現  242
きり(限定を表はす助詞)223
きる(接尾語) 158
切字《きれじ》 239
    く
句  246,247,253
句切れ 247,255
具體的思想 182,232,241
具體的思想表現 66,162,231
くださる(形式動詞)97
ぐらゐ 223
    け
げ(接尾語)154,156
形式動詞 89
形式名詞 70,89
形式用言 93
敬讓 120
 ──を表はす接尾語120,160
 ──の助動詞 210
形容詞 29,98,125,137,142,161
 ──的修飾語 31,141
 ──的代名詞 78
 ──の語幹 127
形容動詞 54,70,128
結句 289
決して 144,147
けれど(接續を表はす助詞) 226
けれど(も)(接續詞) 176
けれども(接續詞) 167,174
けれども(接續を表はす助詞) 226
けん(件,形式名詞)92
言語 17,18
 ──に於ける單位 14,20
 ──の成立條件 18,81
 ──の本質 14,20
 ──の要素 15
言語過程觀 17,45
言語構成觀 15,57
言語主體 18,44,73,240
言語的表現の特質 286
言語本質觀 14
現代かなづかい 8,37
限定を表はす助詞 221
    こ
こ(接頭語) 151
ご(接頭語) 152
語 21,44
 ──の構造 49
 ──の認定 54
 ──の分類 56
口語文法の教授4
 ──の研究 3
合成語 52
構成的言語觀 15,18,19
構成要素 154
語幹 102,127
語形の變化 68,71,99
心の聲 62
ございます(敬譲の助動詞) 210
語辭體語  32
五十音圖 35,110
語辭用言 32
こそ(限定を表はす助詞) 223
こと(感動を表はす助詞) 228
こと(形式名詞) 92
事柄 66,81,162,166,217,219,256
この  138
語尾  102,127
これ 291
コンジュゲイション(conjugation) 99
こんな 138
コンプリメント(complement) 271
コンポジション(composition) 286
    さ
さ(感動を表はす助詞) 228
さ(接尾語) 154,156
さう(接尾語) 154,156
さへ(限定を表はす助詞) 222
さ行變格活用 111,113
佐久間鼎 75,84,146
指す語 83,84,85
させる(助動詞) 181
させる(接尾語) 123,158
さて(接續詞)176
さま(接尾語) 156
さらに(接續詞) 176
さらば(接續詞)176
去る 138
ざる(打消の助動詞)196
されば 291
    し
し(接續を表はす助詞) 167, 226
詞  56,62,65,165,240,241,243
 ──と辭との意味的關係  240
辭  32,56,62,146,161,181,240, 241,243
 ──の根本的意義 217
しい(い)(接尾語) 158
使役 123
 ──の接尾語 160
しか(限定を表はす助詞) 223
しかし(接續詞) 163,167,176
しかしながら(接續詞) 176
しかるに(接續詞) 176
時間的流動 286
次元の相違 63
指示代名詞 74
自然可能 119
 ──を表はす接尾語 119
思想 18
 ──の展開 175
思想傳逹の形式 ユ8
したがつて(接續詞) 176
實質用言 93
實踐的行爲 19
指定の助動詞 131,134,183,188
自動詞 114
しな(接尾語)156
しない(打消)194
自發 119
 ──を表はす接尾語 119
事物 74
事物的概念 76
じみる(接尾語) ユ59
下一段活用 111,113
終止形 106,127
修飾語 170
 ──と被修飾語との關係 275
修飾語格272
修飾的陳連 137,139,260
主觀客觀の總合的な表現 278
主觀的な 278
 ──情意 61
主客の合一 233
主語 170,230,266
主語格 263
主體 66
主體的意識 47,54,55
主體的立場  19,47,234
主體的な 231,262
 ──感情 179
主體的表現 242
述語 170,230,266
述語格 263,267
述語と主語との關係 266
承句 289
助詞 32,58,62,168,216,238
助數詞 155
助動詞 32,62,168,181,237
    す
す(接頭語) 150
す(接尾語) 123,159
ず(打消の助動詞)194
推量の助動詞 204,206,209
數詞 91
すこし 143
鈴木朖 60,62,84,100,243
すつ(接頭語) 151
ずつと 143
すでに 138
すなはち(接續詞) 176
する(形式動詞) 95
すると(接續詞) 168,176
    せ
靜辭 32,216
接辭 149
接續 173
接續を表はす助詞 165,224
接續詞  62,65,162,290
接頭語 71,149
接尾語 71,90,94,114,128,149,181,199
せる(助動詞) 181
せる(接尾語) 123
ぜん(接頭語)152
前置詞 65
    そ
そ(感動を表はす助詞) 228
そうして(接續詞) 176
そうすると(接續詞) 176
屬性的概念 75
そこで(接續詞)176
そして(接續詞)174,176,291
その 138
そのうへ(接續詞) 176
そのくせ(接續詞)176
そもそも(接續詞)176
それから(接續詞)172,176,291
それだから(接續詞)176
それで(接續詞) 168
それで(も)(接續詞)176
それどころか(接續詞) 176
それとも(接續詞) 176
それなら(接續詞)176
それに(接續詞) 176
それ故(接續詞) 176
    た
た(過去及び完了の助動詞) 198,199,201
た(助動詞) 107
一た(連體詞) 138,148,157,199
だ(過去及び完了の助動詞)  201
だ(指定の助動詞) 107,129,131,134,183,187,237,280
たい(接尾語)155,159
體 67
髄言 30,66,75,127,131,142,144,160,165,257
體言的代名詞  76
對象語格 276
大暦 142
だいぶん 143
代名詞 34,72,82,138,161,170
 ──の遠稱 75
 ──の近稱 75
 ──の中稱 75
代名詞分類表 80
だが(接續詞)168,176
だから(接續詞)176
たがる(接尾語) 153,159
だけ(限定を表はす助詞)223
だけど(接續詞)176
だす(接尾語)159
ただ(接續詞)176
ただし(接續詞)176
たち(接尾語) 157
だつ(接尾語)159
だつたら(接續詞)176
だつて(接續詞)176
他動詞 114
だの(限定を表はす助詞)223
だのに(接續詞)176
たび(度)91
多分 145
たまふ(給ふ,形式動詞)98
ため(爲)91
たら(過去及び完了の助詞) 198
だらう(指定の助動詞) 189
だらう(推量の助動詞) 148,186,204
だらけ(接尾語) 157
たり(指定の助動詞) 188
たり(限定を表推す助詞)223
たる(連體詞の)129
たる(過去及び完了の助動詞)  198
たる(指定の助動詞) 186
單位 14,20,22,26,44
單語 16,21,26,46
断じて 146,148
断續 100
    ち
直接的表現 162,219
陳述 55,101,135,147,216,256
 ──と陳述との關係 224
 ──の副詞 144
    つ
ついては(接續詞) 177
つぎに(接續詞)177
つく(接尾語) 159
つける(接尾語)159
つつ(接續を表はす助詞)226
つつ(限定を表はす助詞)223
    て
て(接續を表はす助詞) 174, 226
て(接尾語)157
で(格を表はす助詞)220
で(指定の助動詞) 131,134,174,183
で(接續詞)177
であらう 186
である 134
でございます(敬讓の助動詞) 133,134,210
でしたら(接續詞)177
です(敬譲の助動詞)133,134,210
ですが(接續詞)177
でせう(想像・推量の辭)148
でなく(打消の助動詞)192
てにをは 32,58
てには 32,56
|手爾葉《てには》大概抄 56
では(接續詞) 177
ても(接續を表はす助詞)226
でも(限定を表はす助詞)223
でも(接續詞)177
てん(點,形式名詞)92
轉句 289
天秤型統一形式 237,261
テンポ 292
    と
と(接續詞)169,177
と(指定の助動詞)183
と(格を表はす助詞)220
と(接續を表はす助詞)226
とある 186
どうか 148
動詞 98,135,169
重力辭 32
東條義門 68
どうぞ 148
獨立語格 280
獨立する語 59
ところ(形式名詞)93
ところが(接續詞)177
ところで(接續詞)177
とする 186
とても 148
とはいふものの(接續詞) 177
とも(感動を表はす助詞)228
ども(接尾語) 157
とんだ 138
    な
な(指定の助動詞) 101,107,183,187
な(感動を表はす助詞) 228
なあ(感動を表はす助詞)228
ない(打消の助動詞)191,193
ない(否定の)148
ながら(接續を表はす助詞) 226
ながら(接尾語) 157
なす(形式動詞)97
なす(接尾語) 159
など(限定を表はす助詞) 223
|靡《なびき》 104
なほ(接續詞)165,177
なほ(副詞) 165
なみ(接尾語) 157
なら(指定の助動詞) 131,183, 187
ならびに(接續詞)177
なり(限定を表はす助詞)223
なり(指定の助動詞)188
    に
に(格を表はす助詞)220
に(指定の助動詞) 131,132,18
日本文法學の目的 1
日本文法學の由來1
人稱代名詞 72
    ぬ
ぬ(打消の助動詞)128,193
ぬ(ん)(打消の助動詞) 194
    ね
ね(打消の助動詞)194
ね(感動を表はす助詞)288
ねえ(感動を表はす助詞) 288
    の
の(形式名詞)92
の(格を表はす助詞)220
1の(感動を表は鋤詞)228
1の(指定の助動詞) 107,137, 183,187
ので(接續を表はす助詞)226
のに(接續を表はす助詞)226
    は
は(格を表はす助詞)219
は(限定を表はす助詞)222
ば(接續を表はす助詞)226
ばかり(限定を表はす助詞) 222
橋本進吉 3,12,16,33,34,59,129,142,252
場所 74
はず(筈,形式名詞)91
派生語(動詞の一) 114
はた(接續詞)177
はたらく 6|7
はなしかはつて(接續詞)177
話手 18,73,81
  ──の感情 178
  ──の立場 162,164,166,181,182,217
ばむ(接尾語)159
パラグラフ (paragraph) 253
    ひ
ひく(ひつ(接頭語)151
表現 17,18
表現過程 17
表現される事柄 81
表現性の相違 94,246
表現の主體18
ひらく 6|7
賓語 270
品詞 56
    ふ
ふ(接頭語)151
ぶ(接頭語) 152
不完全動詞 91
不完全名詞 91
複合語  52,53,121,127
複合動詞 118,121
複語尾 33
副詞 135,161
副詞的修飾語 141,165,171
副詞的接續詞 173
副詞的代名詞 79,161
冨士谷成章 104
附屬語 216
附屬する語 59
ぶつ(接頭語) 151
不定稱 75
ぶる(接尾語)159
フレイズ(phrase)256
プレディケイト(predicate) 271
風呂敷型統一形式 261
文 21,239
 ──の完結性 238
 ──の構成要素170
 ──の集合 284
 ──の職能 141
 ──の性質 230
 ──の成分と格 262
 ──の統一性234
文章 21,170,284
 ──の藝術性288
 ──の藝術的價値
 ──の構造 286
 ──の成分 162,289
 ──の美 287
 ──の分類 292
 ──の歴史的研究 292
文章論 284,292
 一と語論 290
文節 16,33,34,47,59,217,245,252
丈和當のもの(sentence equiva]ent) 179
文法 12
文法學の對象  11,24
文法用岳  27
    ヘ
へ(絡を表はす助詞)220
べい(推量の助動詞・方言) 209
べし(推量の助動詞)209
變格活用 111
ほ
方角 74
補語  96,268
補助用言 134
|發句《ほつく》 255
ほど(限定を表はす助詞) 223
ま
ま(接頭語) 151
まい(打消の助動詞)197
まうす(申す,形式動詞)98
ます(敬讓の助動詞)210
また(助詞) 166
また(接續詞)163,165,166,177
また(副詞) 165
または(接續詞) 177
まつ(接頭語) 151
まで(格を表はす助詞)220
まで(限定を表はす助詞)224
まま(形式名詞)91
み
み(接頭語) 157
未然形 106,126
む
無論 146
め
め(接尾語)157
名詞 66,69,75,132
 ──的代名詞 76,τ61
命令形 106,107,148
めく(接尾語) 153,159
も
も(限定を表はす助詞)222
目的意識 19
目的語(object)114
もし 144,148
勿論 146
もつと 143
もつとも(接續詞) 177
もと(接尾語)157
本居宣長 62,100
もの(形式名詞)92
ものか(感動を表はす助詞)  228
もらふ(形式動詞)97
もんか(感動を表はす助詞)228
丈字 18,19
丈字言語 86
や
や(限定を表はす助詞)222
や(感動を表はす助詞) 228
や(接尾語) 157

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