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 國語のチ・ツ及びヂ・ヅが奈良朝時代に於て各ti, tu, di, duの音であつたこと、又それらが室町末期の頃既にtʃi, tsu, dʒi, dzuの音になつてゐたことは、今日既に定説になつてゐる。私がここで考へて見ようとするのは、その變遷時期が大體何時頃であつたか、といふことである。
 考證の材料としては主に支那關係の資料を用ゐなければならないので、まづ支那語に於ける舌音齒音の變遷を略述しておきたい。(但し、舌音の中でも、鼻音のことは今問題外とする。)まづ、舌頭音は古來t, d(dental)の音であつて、殆ど變遷が無かつた。舌上音は、隋唐時代には未だ純粹の破裂音であつて、その調音位置は恐らく現代英語のtʃɔis(choice)dʒɔi(joy)のtʃ, dʒに近いものであつたらう。併し、中原音韻では既に正齒音と同じアフリカータに轉じてゐる。正齒音は古來、tʃ , d 類のアフリカータであつた。詳しく言へば、隋唐時代には二等cerebral三等palatalであつたが、中原音韻では既に皆cerebralになつてゐる。齒頭音は古來ts, dz類のアフリカータであったが、現代北京官話ではi, yの前では口蓋化されてゐる。
 さて、我が國の天台宗及び眞言宗に傳へられた漢音は、平安朝初期(第九世紀)の頃北支那から借入されたものであるが、普通の漢呉音に於けると同様、支那語のts,dz(齒頭音)tʃ,dʒ(正齒音)類のアフリカータをすべてサ行ザ行の形で傳へてゐる。蓋し、當時は日本語のチ・ツ・ヂ・ヅの頭音がなほt,dに近い形であり、未だアフリカータ化してゐなかつたからである。舌上音はタ行ダ行の形で現れてゐる、これは當時の支那原音では未だ純粹の破裂音であつた。
 次に、院政初期(第十一二世紀の交)の人明覺は、悉曇要訣に於て、「杭州」の宋音をアンシウ、「行者」の宋音をアンシヤと記してゐる。ここでも、正齒音(tʃ)字たる州・者の音は未だサ行の假名で表されてゐるのである。
 鎌倉時代に入ると、この期に輸入(一一九一年以降)された臨濟曹洞系の唐音は、今もなほ禪寺で経文・回向文等を誦するのに用ゐられてゐるが、それに於ては、漢呉音の場合と同様、支那語のts,dz(齒頭音)tʃ, dʒ(正齒音)類のアフリカータをすべてサ行ザ行の形で傳へてゐる。日本語のチ・ツ・ヂ・ヅの頭音が此の頃までも未だ單純な破裂音であつたことを知るべきである。但し、支那語舌上音は當時既にアフリカータ(tʃ,dʒ)化してゐたので、臨濟曹洞系の唐音ではそれをもすべてサ行ザ行の形で傳へてゐる。知客(シカ)直歳(シツスイ)竹箆(シツペイ)火箸(コジ)のやうな古い唐音語に於て、漢呉音でタ行ダ行の音を持つ字がサ行ザ行の音で讀まれてゐるのも、此の故である。知客(シカ)の唐音讀みは、仙覺萬葉集註釋卷一(文永六年、一二六九)に既にその證を見出し得るものである。又、大體蒙古襲來(一二七四、一二八一)頃の作と推定される塵袋には、「畜生」の宋音をシクサンと記してゐるので、第十三世紀末にはチは未だtiに近い音であつたことが證明される。


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