#author("2020-02-17T17:45:11+09:00","default:kuzan","kuzan")

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http://uwazura.seesaa.net/category/214052-1.html

 國語のチ・ツ及びヂ・ヅが[[奈良朝時代]]に於て各ti, tu, di, duの音であつたこと、又それらが[[室町末期]]の頃既にtʃi, tsu, dʒi, dzuの音になつてゐたことは、今日既に定説になつてゐる。私がここで考へて見ようとするのは、その變遷時期が大體何時頃であつたか、といふことである。
 考證の材料としては主に支那關係の資料を用ゐなければならないので、まづ[[支那語]]に於ける[[舌音]]・[[齒音]]の變遷を略述しておきたい。(但し、[[舌音]]の中でも、[[鼻音]]のことは今問題外とする。)まづ、[[舌頭音]]は古來t, d(dental)の音であつて、殆ど變遷が無かつた。[[舌上音]]は、[[隋唐時代]]には未だ純粹の[[破裂音]]であつて、その調音位置は恐らく現代英語のtʃɔis(choice)dʒɔi(joy)のtʃ, dʒに近いものであつたらう。併し、[[中原音韻]]では既に[[正齒音]]と同じ[[アフリカータ]]に轉じてゐる。[[正齒音]]は古來、tʃ , d 類の[[アフリカータ]]であつた。詳しく言へば、[[隋唐時代]]には[[二等]][[cerebral]][[三等]][[palatal]]であつたが、[[中原音韻]]では既に皆[[cerebral]]になつてゐる。[[齒頭音]]は古來ts, dz類の[[アフリカータ]]であったが、現代[[北京官話]]ではi, yの前では[[口蓋化]]されてゐる。
 さて、我が國の[[天台宗]]及び[[眞言宗]]に傳へられた[[漢音]]は、[[平安朝]]初期([[第九世紀]])の頃北支那から借入されたものであるが、普通の[[漢呉音]]に於けると同様、[[支那語]]のts,dz([[齒頭音]])tʃ,dʒ([[正齒音]])類の[[アフリカータ]]をすべてサ行ザ行の形で傳へてゐる。蓋し、當時は[[日本語]]のチ・ツ・ヂ・ヅの[[頭音]]がなほt,dに近い形であり、未だ[[アフリカータ]]化してゐなかつたからである。[[舌上音]]はタ行ダ行の形で現れてゐる、これは當時の支那原音では未だ純粹の[[破裂音]]であつた。
 次に、[[院政初期]](第十一二世紀の交)の人[[明覺]]は、[[悉曇要訣]]に於て、「杭州」の[[宋音]]をアンシウ、「行者」の[[宋音]]をアンシヤと記してゐる。ここでも、[[正齒音]](tʃ)字たる州・者の音は未だサ行の[[假名]]で表されてゐるのである。
 [[鎌倉時代]]に入ると、この期に輸入(一一九一年以降)された[[臨濟]][[曹洞]]系の[[唐音]]は、今もなほ禪寺で経文・回向文等を誦するのに用ゐられてゐるが、それに於ては、[[漢呉音]]の場合と同様、[[支那語]]のts,dz([[齒頭音]])tʃ, dʒ([[正齒音]])類の[[アフリカータ]]をすべてサ行ザ行の形で傳へてゐる。[[日本語]]のチ・ツ・ヂ・ヅの[[頭音]]が此の頃までも未だ單純な[[破裂音]]であつたことを知るべきである。但し、[[支那語]]の[[舌上音]]は當時既に[[アフリカータ]](tʃ,dʒ)化してゐたので、臨濟曹洞系の[[唐音]]ではそれをもすべてサ行ザ行の形で傳へてゐる。知客(シカ)直歳(シツスイ)竹箆(シツペイ)火箸(コジ)のやうな古い[[唐音語]]に於て、[[漢呉音]]でタ行ダ行の音を持つ字がサ行ザ行の音で讀まれてゐるのも、此の故である。知客(シカ)の[[唐音]]讀みは、[[仙覺]]の[[萬葉集註釋]]卷一(文永六年、一二六九)に既にその證を見出し得るものである。又、大體[[蒙古襲來]](一二七四、一二八一)頃の作と推定される[[塵袋]]には、「畜生」の[[宋音]]をシクサンと記してゐるので、[[第十三世紀]]末にはチは未だtiに近い音であつたことが證明される。



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