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有坂秀世
ハ行子音
唐音
[[有坂秀世]]
[[ハ行子音]]
[[唐音]]


 私がここで論じて見たいのは、主として唐音資料に反映した江戸時代中頃のハの頭音の音価である。まづその資料について一通りの解説を試みる必要があらう。

 我が国に於ける黄檗の宗祖隠元禅師は、名を隆琦と言ひ、明の万暦二十年、福州福清に生れた。承応三年来朝し、寛文元年宇治に黄檗山萬福寺を開き、法を広めた後、延宝元年に入寂した。爾来萬福寺の住持としては、第十三代竺庵(宝暦六年寂)まで支那僧相継ぎ、第十四代龍棟に至つて始めて邦人法嗣となるの端を開いたのである。隠元和尚「[[黄檗清規]]」(註1)は、性潡高泉之を編修し、性瑫木庵の閲する所、寛文十二年の隠元の序がある。木庵は第二代法嗣で泉州晋江の人、高泉は後の第五代住持で福州福清の人。而して、第三代慧林は福州福清の人、第四代独湛は福建甫田の人である。かやうに我が国に黄檗宗を傳へた高僧達は何れも福建省出身の人であるから、その宗徒が諷経に用ゐる唐音も定めし福建音であらう、とは誰しも一応想像する所であり、又実際黄檗清規の中には如(イ゜)遺(ミ)次(チユ)勤(キユン)幽(ヒ-ウ)の如き明白な福州音(註2)も見出されるのであるが、それはただ部分的のことである。全体としてみれば、黄檗唐音は、標準語たる官話(殊に[[南京官話]])の音であり、その間にまゝ[[福州訛]]を混じてゐるに過ぎない。黄檗唐音を記載した刊本は相当に多い。私の所持するものには、右の外、[[禅林課誦]](註3)(寛文二年刊)・[[毘尼日用録]](註4)(寛文四年刊)・[[慈悲水懺法]](註5)(寛文十年刊)・[[慈悲道場懺法]](註6)(天和三年刊)・[[千仏名経]](註7)(過去荘厳千仏名経・現在賢劫千仏名経・未来星宿千仏名経三部合本)・[[律學発軔]](註8)・[[弘戒法儀]](註9)等がある(註10)。

 次に、曹洞宗祇園寺派の開祖心越禅師は諱を興儔、号を東皐と言ひ、明の崇禎十二年、杭州金華府婺郡浦陽の地に生れた。延宝五年来朝し、水戸義公(註11)に聘せられて、元禄五年以来水戸の天徳寺に住し、法化を挙ぐる四年、元禄八年に遷化した。その後、正徳二年、藩命により、天徳寺を改めて壽昌山祇園寺と号し、心越をその第一世と仰いだのである。壽昌開山心越和尚清規は、嗣法門人法澧の編する所、享保十二年法澧の序あり、同年刊行された。今、東皐全集(註12)の中に収められている。心越はまた七絃琴を善くし、の門下に人見竹洞・杉浦琴川の如き名手を出した。心越所傳の琴譜(註13)は琴川によつて最初に編輯された。心越系統の琴書の中、歌詞の唐音を記載した刊本としては、まづ天明七年刊行の琴學入門(註14甲)がある。その著者玄圃先生は、門人大田昌長の跋文に拠れば、琴を清隠翁に學び、翁は之を田東川に學んだとある。小野田東川は即ち琴川の高弟である。又、貫名〔艸但〕の序ある児島祺(鳳林)校訂の琴譜三巻は、木活字を以て印行されてゐる。文政十年の祺の跋がある。序に拠れば、鳳林琴士は美濃の人、少くして琴を蘿道玉堂二叟に學び。その蘊を究めた、とある。而して、永田蘿道(註14乙)は杉浦梅嶽の弟子、浦上玉堂は多紀安元の弟子であり、梅嶽・安元は共に東川の門下である。

 この心越の琴と相並んで、我が国の明楽に於ける双璧たるものに、長崎の魏氏所傳の楽がある。魏氏の先祖は、趙の鉅鹿郡に住み、よつて鉅鹿氏と為つた。

魏双侯は字を之琰と言ひ、明朝の仕人として、朱明氏の楽に通じてゐたが、崇禎の末、楽器を抱いて乱を避け、遂に我が長崎に来つて定住したのである。四世の孫を晧(字は子明、君山と号す)と言ふ。長崎に長じ、幼時より家傳の楽を習つてその技を究めたが、慨然として四方に志し、乃ち海を航して京都に来り、大いにその技を拡めた。その名一時に高く、王侯大人より士君子に至るまで、その傳を受くる者百を以て数えたと言ふ。魏氏楽譜(註15)は、子明の所輯にして、その弟子平信好をして校訂せしむる所。明和五年に刊行された。私の所持するものに、普通に綴ぢた本(註16)と折本仕立のものと両種あるが、版は同一である。名は楽譜であるが、その実印刷されてゐるのは歌詞だけで、これに唐音が付してあり、各行の右に空欄を設けて、譜を書き入れるやうになつてゐる。なほ、魏氏の明楽については、子明の没後その弟子筒井景周の著した[[魏氏楽器図]](註17)をも参考にすべきである。安永九年の序と跋とあり、終に君山先生肖像並に君山先生傳をも載せてゐる。

 江戸時代に於ける支那語學の泰斗[[岡島璞(冠山)>岡島冠山]]については、改めて説明するまでもあるまい。冠山は長崎の人。始め訳士を以て萩侯に仕えたが、その賎役たるを恥ぢ、辞して家に居り、専ら性理學を修めた。嘗て足利侯に聘せられて江戸に来つたが、幾くも無くして致仕し、その後は大阪に於て講説を業とし、又江戸に至り、京都に行き、享保十三年に没した。その著す所は、[[唐話纂要]](享保三年刊)・[[唐訳便覧]](享保十一年刊)・[[唐音雅俗語類]](同)・[[唐語便用]](享保二十年刊)その他甚だ多い。

 冠山は支那語學の普及に大いに尽す所あり、荻生徂徠の如きも冠山と親しく、その教えを受け、稗史を読んで理解せざる所あれば必ず之を冠山に問うたといふ。羽州庄内侯の執事[[朝岡春睡]]は、冠山と共に[[林鳳岡]]の門に學んだ人で、華音を冠山に就いて研究し、[[四書唐音辨]]を著した。これは學庸論孟の中の文字を総画数によつて分類排列したものであり、各文字の右傍に[[南京音]]、左傍に[[淅江音]]を註してゐる。享保五年の冠山の序を付して、同七年に江戸で発刊されてゐる。

 [[唐音和解]]二巻。上巻には乾坤門以下の支那語彙及び飲中八仙詩を収め、下巻には笛譜を載せてゐる。正徳六年の逍遥軒の序には、這一本不知什麼人作的とある。兎に角、真面目な語學書ではなく、卑俗な支那趣味を目ざした道楽本である。私の所持する本は、寛延三年に大阪で出版されたものである。[なほ正徳原刊本も本屋の店頭で見たことがある。]

[ [[唐音孝経]](明和元年刊)一巻。著者石川貞は伊勢の人で、京都に儒學を講じた。かつて長崎に遊び、舌人の業に習ひ、清人の間に周旋して唐音を學ぶこと数歳に及んだ由、南宮丘の序文に見える。]

 次に[[唐詩選唐音]]は、安永六年に江戸で出版された。五言絶句と七言絶句との二部から成り、いづれも崎水劉道音、東都高田識訂とある。詩は全文に唐音の振仮名がついてゐる。加音者劉道は多分唐通事であらう。かの隠元禅師上京の際に同行した唐通事劉東閣(註18)と同じ家の人かとおもはれる。

 [[磨光韻鏡]]の著者[[無相文雄]]は、丹波の生れで、京都了蓮寺の住職であつた。かつて関東に遊學して、徂徠門下の鴻儒太宰春台に接し、大いに華音研究熱を鼓吹された。春台は華音を心越の侍者黙堂に學び、又岡島冠山とも交のあつた人である。文雄は帰洛の後研鑚を積むこと年あり、遂に、支那音韻の組織的研究者としては、江戸時代に於ける第一人となつた。その著[[三音正譌]](宝暦二年刊)に曰く、

 華音者俗所謂唐音也。其音多品。今長崎舌人家所學有官話杭州福州漳州不同。彼邦輿地広大。四方中国音不斉。中原為正音亦謂之雅音。四辺為俗音亦謂之郷音。其中原所用之音有二類。官話之与俗話也。俗話者平常言語音也。官話者読書音此之用。其官話亦有二。一立四声唯更全濁為清音者是。一不立入声不立濁声唯平上去唯清音者。謂之中州韻用歌曲音。二種通称中原雅音支那人以為正音。其俗話者杭州音也。亦曰淅江音。

と。思ふに、[[中川忠英]]が[[清俗紀聞]](註19)(寛政一一年刊)に言へる如く、当時長崎へ来る清商は多くは江南淅江の人であつたから、彼等の間に行なはれた支那語は、当然呉方言であり、就中広く通用したものは呉方言中の標準語たる杭州語であつたことと思はれる。これ即ち彼等の平常言語の音たる「俗話」であつた。而も、杭州語の重要性は、ただに商用語としてのその使用範囲の広いことのみに存したのではない。淅江殊に杭州の地は、歴史的にも由緒あり、早くから開化した地方であつたから、杭州語は、俗話とは言ひながら、他の福州・泉州・漳州等の諸方言とは違つて、独特の品位を具えてゐた。故に新井白石は東音譜に於て杭・泉・漳・福と言ひ、文雄は三音正譌に於て官話・杭州・福州・漳州と次第してゐる。当時我が国に於て杭州語が如何に重んぜられてゐたかを知るべきである。心越所傳の唐音や四書唐音弁の淅江音もこれである。その他、唐音和解・唐話纂要・唐詩選唐音・南山俗語考(註20)等の音は、いづれも之に属する。その言語は、官話に類似してゐるが、古の濁音をよく保存してゐる点を顕著な特色とする。これ文雄の大いに推賞する所であつて、磨光韻鏡の所謂華音(註21)は、この杭州音を韻書に合せて多少変形し理想化したものに外ならない。杭州語は、現代に於ても、なほ濁音(註22)をよく保存して居り、且、音に於ても(註23)基礎的語彙に於ても、呉方言中最も官話に近いものである。

 併しながら、唐通事の通訳事務は極めて広範囲に亘るのであるから、単に商用語たる俗話に習熟した者のみでは事足らない。同時に、公用語たる官話に通ずる者をも必要としてゐた。故に、勿論官話の研究も盛に行なはれたのである。右の三音正譌の文中にも、その事実は明記されてゐる。岡島冠山が官話と俗話との双方に通じてゐたことは、専ら彼に華音を學んだ朝岡春睡が四書唐音辨に南京音と淅江音とを相対照して載せてゐることから見ても明らかである。当時長崎と直接交通の行なはれてゐたのは主として中支南支方面であつたから、唐通事たちによつて學習された官話が、「四声を立て唯全濁を更めて清音と為る」南京官話であつたことは言ふまでもない。(「唯平上去唯清音」なる北京官話(註24)の研究は、江戸時代には未だ盛んでなかつた。)儒者の間の華音尊重思想が、正音を尚ぶ立場から、俗話よりも官話(註25)を重んじたことは当然である。その影響を受けてか、唐話纂要に於て俗話を採用した冠山も、唐訳便覧(註26)・唐音雅俗語類・唐語便用等になると、いつしか官話に転向してしまつた。

 その他(註27)の福州・泉州・漳州等の言語は、必要上學習されてゐたとは言へ、官話や杭州語に比すれば、その品位が格段に下つてゐたのみならず、貿易上政治上の重要性に於ても劣つてゐた。その理由は明白である。即ち、唐通事の子孫であられる何盛三氏に拠れば、「(註28)長崎来舶の所謂唐船は三江の商舶で、其乗組員たる総管夥長以下水手は福州漳州人が主であつたが、商人たる財副は江蘇人を主として居たとは古老の遺話である。」といふ。古来福建省民が所謂華僑として東亜南海諸国に活発な発展を示してゐることは周知の事実であり、彼等が老練な水夫として唐船や天竺船に乗り組み、年々多数長崎を訪れたことは、西川如見の華夷通商考などによつても知られる所であるが、彼等の大部分は、貿易商と言はんよりは、寧ろ船乗や出稼ぎ人と言つたやうな人たちではなかつたらうか。その言語に至つては、「(註29)音律諸国と差ひて通じ難し。南京口と半分通じ、半分は不通。其語音皆鼻に入てなまれる調子なり」(省内一般)と言はれ、殊に漳州語の如きは「(註30)南京諸方の詞と大いに替りて不通。語音尤賎き詞なり。一国なれ共、福州の詞にも不同、但福州口には偶通ずる事もあれ共南京等には曽て通ずる事なし」と貶せられている。故に、隠元や木庵の如き福建出身の名士たちは、同郷人同志の打ち解けた談話の外には、力めて土語を出すことを避け、常に官話を使用してゐたものと思はれる。かく観じ来れば、黄檗唐音が福建方言に非らずして官話であることの、寧ろ当然である所以を、読者は了解されるであらう。

 黄檗唐音に於ては、最古の最も信頼すべき資料(註31)について見ると、支那原音のfaを写すには、すべてフワの仮名を用ゐてある。返・繁・煩・飯・方・房・放(フワン)発・髪・法((註32)フワ・フワツ・フワ。・フワ°)の如し。然るに、支那原音のhuaを写すには二つの流儀がある。即ち、禅林課誦や黄檗清規に於ては、歓・幻・皇・黄(フワン)豁(フワツ)化・花・華(フワ)の如くフワを用ゐ、慈悲水懺法(註33)に於ては、歓・緩・還・患・況(ハン・ハアン)化・花・華(ハ)の如くハを用ゐてゐる。慈悲道場懺法や千仏名経に於ては、faは常にフワで表されてゐるが、huaは場所によりフワでもハでも表されてゐる。

 心越系唐音に於ても、支那原音のfaを写すには、最古の資料以来フワ・フアを用ゐてゐる。即ち、方(フワン)法(註34)(フワ。フア。)髪(フワ)の如し。支那原音のhuaを写した例は、寿昌清規にも琴學入門にも見当らない。稍後のものであるが、児島祺校訂の琴譜では、歓(フアン)荒(フハン)花・譁(フアヽ)化(フハア)の如く一般にフハ・フアを用ゐてゐる。ハを用ゐた例は况(ハン)だけである。なほ、同書では、支那原音のfaは一般にフワ・フハで写されてゐる。発(フワツ)髪(フハ)芳(フワン)方・放(フハン)の如し。ハを用ゐた例は、訪(ハン)泛(ハアン)だけである。

 然るに、訳官系統の文献になると、転写法が右とは大いに相違してゐる。例へば唐話纂要に於ては、反・方・放・坊・妨(ハン)発・法(ハ)(註35)のやうに、支那原音のfaはすべてハで写されてゐる。これは、喚・歓・慌・謊(ハン)化・花(ハアヽ)の如く、支那原音huaの場合についても、全く同じことである。而して、この転写法は、同じ著者の手に成つた唐訳便覧・唐音雅俗語類・唐語便用等にも通ずるものである。その他、唐音和解・四書唐音弁・唐詩選唐音の転写法も、皆この流儀である(註36)。

 魏氏楽譜に於ては、支那原音に於けるfaは、反・蕃・翻・方・芳・放・舫・泛(ハン)発・髪(ハ)の如く(註37)、すべてハを以て写されてゐる。支那原音に於けるhuaは、或は懽(ハン)花・華(ハア)の如くハを以て写され、或は喚(フワン)歓・况(ホワン)の如くフワ・ホワを以て写されてゐる。

 これらに対し、文雄の三音正譌では、支那原音のfaは、煩・繁・飯・房・防(フワン)凡・范・梵(フワム)伐・罰・縛・乏(フワ)(註38)の如く、すべてフワを以て写されてゐる。支那原音のhuaは、或転では桓・緩・換・黄・皇・晃(フワン)幻・還・患(フワン)活・穫(フワ)滑(フハ)の如くフワ・フハを以て写され、或転では華・驊・踝(ハア)の如くハを以て写されてゐる。以上の例は皆三音正譌所載の官話の音である。磨光韻鏡に於ける華音の転写法も大綱に於て右と変りは無いが、磨光韻鏡の華音は人為的に理想化されてゐるので、資料としての価値に乏しい。[石川貞の唐音孝経では、支那原音のfaは、髪・法(フハ)の如くフハを以て写され、支那原音のhuaは、化(ホア)况・懽(ホアン)の如くホアを以て写されてゐる。]

 以上の事実を通覧するに、まづ、黄檗文献の示す所に拠れば、寛文頃の京都辺の言語に於て、ハの頭音がもはや明瞭なfでなかつたことは明かである。即ち、それは支那音faとは到底同一視され得なかつた。又、ハは時として支那音huaに充てられてゐるが、こ完全に同一音であつたわけではない。何故なら、いつぽうにはhuaをわざ/\フワで写してゐる本もあるからである。これによつて見れば、ハは既に完全なhaになつてゐたかも知れない。或は、仮にいくらか唇音性が残つてゐたとしても、唇の働きは、支那語のhuaの場合(註39)よりも更に軽微なものに過ぎなかつたと思はれる。

 勿論、契冲の和字正濫抄(元禄六年序)には、「はは唇の内に触て軽く、まは唇の外に触て重し。」と言ひ、あたかも当時ハの頭音がまだ唇音であつたかの如き叙述をなしてゐる。併しながら、ハ・マを唇音の軽・重となすことは、古くは明魏の倭片仮字反切義解にも見え、近くは寛永十八年版韻鏡所載の五音の歌にも見えて、当時周知の説であるし、又、ハは唇の内分を合せマは唇の外分を合せるとする説も、東禅院心蓮の悉曇口傳に既に存するものである。然らば、悉曇學に通じてゐた契冲が、五十音図の発音を説明するに当り、この種の學説に引かれて、当時の実際の発音と性格に一致しないやうな説を成すことも、無いとは言はれまい。一方、あたかも和字正濫抄と同じく元禄八年に刊行された蜆縮凉鼓集の著者は、従来の五音之図が、ハ行を唇音となすことを不穏当と認め、新撰音韻之図を作つて、ハ行を変喉と改め、之を喉音ア行と顎音カ行との中間に置いてゐる。これは、岩淵悦太郎氏の指摘される通り、当時京都辺に於けるハの頭音が既にh類のものであつたことを示すものでなければならない。

 然らば、それから五六十年後に出た文雄の著書に於て、支那語のfaの全部及びhuaの大部分がフワ・フハで写されてゐることは当然である。かつて本郷の木内書店で見た謡起元といふ写本は、

  右謡之儀者延享二丑歳播州姫路広瀬善左衛門先生ヨリ相傳之巻写譲者也

     明治卅一歳五月上旬

       有馬郡大沢村

       行歳八十七翁

   仲津君江

といふ奥書の有るものであるが、その中に当流謡開合五音と題する左の図が載つてゐる。

   鼻通アイウエオ 牙通ハヒフヘホ

   歯通カキクケコ 唇通マミムメモ

   歯通サシスセソ 喉通ヤイユヱヨ

   舌通タチツテト 舌通ラリルレロ

   鼻通ナニヌネノ 鼻通ワイウヱヲ

 音曲書類に見えるこの種の説の音声學的価値は概ね言ふに足らないものであるが、併し、唇の動きの如きは眼に見えて、何人にもよく分るものである。それ故、ハヒフヘホを牙通とする右の説を始めて唱へた人の(註40)発音では、眼に見える唇の動きは既に全く無かつたものと考へてよからう。寛政頃の京都の學者泰山蔚に至つては、更に明確に言つてゐる。「若コレヲハヒフヘホト呼トキハタヾフ軽ク唇ニ触ル余ハ唇ニ触ルヽコトナシ皆深喉ヨリ出ヅ旧解諸家コノ五音ヲ概シテ軽唇音トス呼試ザルノ誤ナリ」(音韻断(註41)、上)と。

 江戸では享保十二年刊行の音曲玉淵集に左のやうな記載が有る。

 一軟濁の事 三重濁とも云

   は  ひ  ふ  へ  ほ

フハ フヒ フヘ フホ

[フ]は能生の仮名也[ふ]を母字に置て一音に唱ふ事なり但字毎にいひにはあらす如此いふへき所々有

この軟濁は即ちfafifefoの音であり、謡曲を習ふ際わざわざ練習しなければ発音し得ない特別な音であつた。従つて、当時江戸に於ける普通の発音では、ハヒヘホは既にhahihehoになつてゐたものであらう、とは橋本先生の(註42)御説である。なほ(註43)、同書に

  一[し]の仮名 [ひ]と聞えぬやうにいふへき事

   源〇四智円明 兼〇七社の

  一[ひ]の仮名 [し]と聞えぬやうにいふへき事

   〇人 ひたち ひとり

    久し ひちりき

     かやうの所は大かた軟濁に唱へて吉

とあるのに拠れば、、当時江戸では既にヒとシと相混ずる傾向を生じてゐたものである。然るに、fiが一足跳びにšiになり得るものではなく、必ずhiを経過して後にšiになつたものであらう。殊に、四智や七をどう言ひ誤つてもfic<iと聞える筈は無い。故に、江戸に於ては、享保の頃ヒの最も普通な発音はhiであつたに相違ないのである。さて、閉母音たるiの前のfが既にhに変じてゐる位ならば、開母音たるaの前のfはなほ更のことである。

 かやうに享保の頃江戸でハの頭音が既にhであつたものとすれば、水戸城下の教養ある階級の間にも同様な音が行なはれてゐたといふことは、有り得べきことである。従つて、水戸祇園寺の寿昌清規が支那原音のfaをフワ・フアで写してゐることは、少しも怪むに足らない。

 前に列挙した唐音資料の中で、支那原音のfaとhuaとを共にハで写してゐるものは、すべて長崎関係のものばかりである。即ち、岡島冠山は、唐訳便覧の序の中に伊藤長胤が言つてゐる通り、肥に生れ肥に長じた人である。唐音和解の著者は不明であるが、いづれ唐通事中の好事家か、或は唐通事に就いて唐音の知識を得た人に相違無い。唐詩選唐音の加音者劉道は、既述の通り、多分唐通事であらう。思ふに、長崎あたりでは、ハの頭音は第十八世紀頃までも未だ唇音だつたので、長崎人にとつては、支那語のfa、huaは容易に彼等自身のハと同一視され得たのではなからうか。

 魏子明の先祖雙侯の出身地については、或は福建省(註44)とする説もあるが、魏氏楽譜の唐音は大体淅江音の特色を具へてゐる。魏氏は雙侯から子明に至るまで世々長崎に定住して居り、その間長崎のハは大体引続きfaの音価を維持して来たことと思はれるから、魏氏楽譜に於て支那語のfa、hua(懽(ハン)花(ハア)など)がハで写されてゐることは当然である。但し、喚(フワン)歓・况(ホワン)の類は、楽譜のこととて、恐らく支那原音のhuan、huangをゆつくりと長く引いて歌ふ場合の発音(uの要素が明瞭に独立して聞える)を反映してゐるのであらう。

 四書唐音辨の著者朝岡春睡は、岡島冠山の序に拠れば庄内侯の執事と有るが、果して庄内育ちの人なのかそれとも江戸育ちの人なのかは判明しない。もし庄内育ちの人ならば、その方言のハがfaであつたことは当然で、彼が支那原音のfa、huaを共にハで写したことも、それによつて説明される。併し、よし然らずとも、春睡は冠山から華音を學んだのであるから、その表記法に於ても冠山の影響を受けてゐることは、敢て怪むに足らない。

 新井白石の東音譜(註45)(享保四年序)は、国語のハ・ヒ・フ・ヘ・ホに対し、概ね軽唇音又は合口曉匣母の字を充ててゐる。ただ希と好だけが開口曉母である。

ハ東音破 漳音発 東音閉 杭泉福並音花

ヒ東音非 杭漳福並音同 泉音希

フ東音夫 泉漳並同 杭音敷 福音乎

ヘ東音閉 杭音靴 泉福並音分 漳音弗

ホ東音保 杭音訃(註46) 泉音好 漳音福 福音和

さて、趙元任氏の現代呉語的研究の声母表・韻母表から推すに、現代杭州音の花・非・敷・靴・訃は多分hua、fi、fu、sü、hu(註47)であらう。現代福州音の花・非・乎・分・和は、Giles氏の辞書に拠れば、各hua,hi,hu,hung(puong,p'ang),huo.(ho,hu)である。漳州音及び泉州音については手許に材料が無いので、近似の方音である厦門音を以て之に代へる。即ち、羅常培氏の厦門音系に拠れば、発・非・夫・弗・福は各huat(pu),hui,hu,hut,hok(註48)であり、花・希・夫・分・好は各hua(huê),hi,hu,hun(pun),ho(hãu~,ho~)(註49)である。(福建系諸方言にはf音が無い。)右の中ヘに充てられた文字は、杭音靴šü 泉音分hun 福音分hung 漳音弗hutであり、いづれもヘの音註としては余りふさはしくないやうに見えるが、当時は恐らくhüê(>šüê>šü) huên (>hun) huêng (>hung) huêt(>hut)(註50)(註51)(註52)のやうな音ではなかつたかと想像される。以上を通覧するに、同一の仮名に充てられた諸文字の支那音相互の間にかなり大きな差異の存する場合もある。併し、全体として唇音性を帯びたものが多いのは、白石から頼まれた唐通事(註53)たちが、めいめいの長崎弁のハヒフヘホを対象として支那音を充てたからである。[唐通事の長崎弁については清俗紀聞の巻頭の付言に「和解の仮名唐通事に出れば長崎語多し」と言つてゐることによつてもその実情が察せられる。]

 之を要するに、国語のハの頭音は、寛文頃の京都の言語、享保頃の江戸の言語では、既にhになつてゐたか、或は極めてhに接近してゐたのである(註54)。これは既に一六三一年(寛永八年)に於てColladoが「(註55)字母fは日本の或る地方ではラティン語に於けるやうに発音されるが、他の地方では恰も不完全なhの如く発音される。然し乍ら、経験に依つて容易に知られるであらうが、、或るものはfとhとの中間の音であつて、歯と唇とは完全にではないが幾分重ね合せて閉ぢられる。例へばfito」などと言つてゐることを思ひ合せるならば、決して不自然な結論ではない。

 併しながら、長崎あたりの方言では、それより遥か後までもfを保存してゐたやうである。阿蘭陀通詞は、父祖の職を嗣いで長崎に定住してゐた。それ故、主として彼等を通じて(註56)日本語の知識を得た西洋人が、かなり後までも、日本語(註57)のハを写すのにfaの綴を用ゐてゐたことは怪むに足らないのである。

 本稿では専らハの頭音について考へた。ヒ・ヘ・ホ等の頭音がfからhへ移行した年代については、これとは別に研究しなければならない。それには唐音資料も勿論利用し得るのであるが、種々なる事情により、ハの場合よりは推論が余程困難である。例へば、黄檗清規に於て非・費がフイの音になつて居り、唐話纂要に於て飛・費・誹がフイの音になつてゐるのを見て、当時の京都或は長崎方言のヒが既にfiにあらずhiであつたものと、直ちに結論することは出来ない。何故なら、これらの文字の現代音は、北京fei南京fêi杭州fi客家fuiであるが、そのfei,fêiはfuiの形から変化した(註58)ものと思はれ、杭州のfiとてもやはりfuiから変化したものでないとは断言出来ない。仮に近世に我が国へ入つた唐音の支那原音がfuiであつたとすれば、たとひその当時の国語のヒが、未だfiであつたとしても、fuiをフイの仮字で写すことは有り得べきことだからである。なほ、この類の文字の音は、黄檗文献や岡島冠山の諸著や四書唐音弁ではフイ、唐音和解・魏氏楽譜・唐詩選唐音ではヒイ(ヒイヽ)と記してある。寿昌清規や琴學入門には実例無く、児島祺校訂の琴譜には非(フイ・ヒイ)霏・飛(フイ)となつてゐる。又、東音譜では、既述の通り、杭・漳・福諸州の非の音を国語のヒに充ててゐる。これらの諸資料を如何に解釈し如何に利用すべきかは、我々に目下課せられてゐる一つの問題である。

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1、現今書肆で求め得る新刷本は、黄檗宗大本山萬福寺蔵版、京都貝葉堂発兌とあるが、之を古版と対照するに、かなり誤刻が多い。

2、現代福州音は如ü遺mi次č'öü勤k'üng幽hiuである。イ゚はüの音を表す。又、ヒ-ウに於てヒとウとの間に挿入された短線は、それをヒユウと読まず、ヒ、ウと分けて読むべきことを示すものである。この種の記号については、寛文版慈悲水懺法の終に解説がある。

3、二条通鶴屋町田原仁左衛門刻。黄檗清規の中にもその名が見え、黄檗の勤行書としては、黄檗清規と相補つて完璧をなすべき性質のものである。昭和11年に其中堂から出版された正楷活字版の禅林課誦は、古版とは内容が違つている。

4、力果道人性祇述、書林飯田忠兵衛板行。崇禎六年の支那版を重刻したもので、中の陀羅尼に唐音の振仮名が付けてある。

5、平安城田原道住刻。註二参照。

6、天和三年歳旅癸亥五月下浣武陵紫雲山

7、外題は未来星宿千仏名経。但しその頭に小字で 音と記してあるが、題僉の上部が破損して、その第一字は失はれてゐる。刊行年月の記載はない。最終の紙に肉筆で「越之後州蒲原郡笹岡町獅子庵什持、現住光山寄付之、維時享保二十歳舎乙卯仲夏十五日」と書き入れてある。

8、福州鼓山嗣祖沙門元賢述。陀羅尼に唐音の振り仮名が付けてある。刊行年月を記さない。

9、黄檗嗣祖沙門隆琦編正。刊行年月を記さない。この書の唐音表記法は甚だ粗雑である。

10、東京帝国大學附属図書館所蔵の写本「唐音阿弥陀経」(折本一帖)には、「時貞享四年歳次丁卯五月吉旦西来室沙門道瑚月海薫沐拝書与岡田氏処士」とあり、全文に黄檗唐音を付してある。黄檗唐音が普通語彙の中に入つた例は少ないが、普茶料理の名目は和漢精進新料理抄(元禄一〇年序)や普茶料理抄(明和九年序、同年刊)に見えて、多少参考になる。この両書は、共に料理大鑑の中に収められてゐる。

11、水戸の學者今井小四郎・安積澹泊等は、かつて朱舜水に學んで華音を善くし、いづれも心越と交わつた。殊に小四郎は心越を長崎から招聘するために尽力する所が多かつた。

12、浅野斧山師編纂、明治四十四年刊。寿昌清規の原刊本は稀覲の書と見え、斧山師は百方捜索の末やうやく入手された由である。私は未だ原刊本を見てゐない。なほ、長澤規矩也氏の家蔵江戸時代編纂支那語関係書籍解題(支那語學報第二号所載)の中に「関聖帝君覚世眞経一帖」といふものが出て居り、享保三年の刊本で、本文に訓点を施し、右旁に唐音を付してある由であるが、覚世真経は心越の傳ふる所であるから、その唐音も或は心越系のものではなからうか。但し、私は未だその本を見てゐないので、何とも言へない*1。

13、中山久四郎先生御所蔵の東皐琴譜写本の中には、歌詞に唐音の振り仮名を付したものがある。

14、(甲)、京都書林林伊兵衛、近江屋次郎吉、武村嘉兵衛梓行。

14、(乙)、中山久四郎先生著「唐音十八考」二八頁に拠る。

15、奥付に記された書林は江戸の須原屋茂兵衛、大阪の大野木市兵衛京都の銭屋七郎兵衛。

16、見返しに書林芸香堂とある。即ち京都の銭屋七郎兵衛である。折本の方には見返しには文字が無い。

17、浪華松寿堂発行。以上の禅籍並に音楽書の中には、餘り知られてゐないものも有ると思ふから、参考のため一々書肆名を註した。以下は之を省略する。

18、劉東閣のことは、先民傳上巻學術の部に見える。其の先は閩人で、遠祖有恒の時移つて日本に寓したとある。

19、清国の風俗慣習等を説明したもの。著者が職を長崎に報じた際、属僚近藤守重・林貞裕等に命じ清商に就いて見聞諮詢せしめた結果を録したものである。終に関係者の名を記してゐるが、その中には、通事・画工の外に清国蘇州の人三名、湖州の人一名、杭州の人二名、嘉興の人一名が挙げられてゐる。

20、島津重豪著。文化五年源忠道の序及び同九年古賀樸の序がある。

21、韻鏡指要録華音の条に「前に載するものは杭州音なり此音大抵韻書の規矩に叶ふ故に取つて正音とするなり然りといへども其音も亦謬り傳る者間これあり逐一韻書に是正して国字を施す」

22、現代支那方言の濁音の性質については、趙元任氏「現代呉語的研究」二七-二八頁に詳しく記述してある通りである。之をごく大ざつぱに言へば、語頭に於ては、声門状態は日本語の濁音の場合のやうな完全な有声状態ではなく、所謂有声hに等しい状態に在る。私自身が常州育ちの一支那人の発音を聞いた経験では、語頭のvzは殆どfsと区別しにくい位であるが、語中に於ては前者は明瞭な有声音となり後者は無声音のまゝ残るからはつきりと聞き分けられる。例へば、「前日」はスイエニエ、「従前」はソンズイエ、「常々」はサンザンと聞える。又、「思」と「事」とは、単独に発音すれば共にスウと聞えるけれど、「意思」「物事」と連なる場合には、イイスウ、メズウとなつて、清濁明瞭に分れる。「方」と「房」とは、単独に発音すれば共にフアンと聞えるけれど、「地方」「棧房」と連なる場合には、デイイフアン。ヅエエヴアンとなつて、清濁明瞭に分れる。而して語頭に於て殆ど無声のやうに聞えるvzでも、よく注意して聴けば、やはり完全な無声ではなく、咽喉のごろごろ鳴つてゐることが認められるのである。唐話纂要に於て、喫飯(キハン)・請飯(ツインハン)・衣飯(イヽワン)のやうに、同じ飯(v)の音がハンともワンとも記されてゐるのを見れば、今とその条件はよし完全には一致せずとも、発音上恐らく現今と類似の動揺が有つたものかと思はれる。又、同書では、説話(セハアヽ)・真話(チンハアヽ)・回話(ヲイワアヽ)のやうに、同じ話(匣母)の音が、ハアヽともワアヽとも書かれてゐるが、その頭音は、支那原音に於ては、恐らく有声hだつたのであらう。現代呉方言では、匣母の頭音は、或場合には脱落してゐるが、保存されてゐる場合には、有声hに成つてゐる方言が多い。これは我々の耳には、hと無頭音との中巻のやうに聞える。江戸時代の日本人は、之を、或はハ行の仮名で写し、或はアワヤ行の仮名で写してゐる。

23、趙元任氏「現代呉語的研究」の聲母表(二二-二六頁)・韻母表(四〇-六一頁)・詞彙(九〇-一一七頁)・語助詞(一一八-一三二頁)及び英文諸論一四頁參照。

24、明治維新以後北京政府との外交關係が頻繁となるに及び、從來通商貿易關係を主として長崎に用ゐられた南京官話に據つては交渉上の不便支障が多いので、明治九年に、政府は外國語學校支那語生徒の中から三人を選んで通辯見習とし、語學研究の爲め、北京に派遣した。北京官話の研究はこれから漸く盛んになつたのである。(何盛三氏「北京官話文法」に據る。)

25、太宰春臺の倭讀要領に「南京の音は天下の正音にて中華の人も是を則とす」朝岡春睡の四書唐音辨にも、南京音を主とし、淅江音はただ南京音と相違する場合にのみ付記されてゐる。冠山の唐音學庸(享保十二年刊)も官音である。

26、唐譯便覽及び唐音雅俗語類には「毎字註官音竝點四聲」と明瞭に斷つてゐる。

27、江戸時代に唐通事によつて學習された支那方言の種類としては、白石の東音譜には杭・泉・漳・福を挙げ、文雄の三音正譌には官話・杭州・福州・漳州と言つてゐる。然るに、Kampferの「長崎の記事」(異国叢書本二百四頁)や「日本人種起源論」(同六〇二頁)及び西川如見の増補華夷通商考(宝永五年刊)作例などに拠れば、元禄宝永の頃、唐話を南京・福州・漳州の三つに大別する説が、現に支那人と接触しつつある長崎方面に行なはれてゐたやうである。これは、思ふに、その相違する所に従つて、杭州語を南京語の一種と見做し、泉州語を漳州語の一種と見做し、かくて常時我国に知られてゐた支那方言を南京・福州・漳州の三つに総括したものではなからうか。

28、北京官話文法(昭和三年刊)五二-五三頁。

29、増補華夷通商考巻之二。漳州・厦門・泉州等の白話音には、現今でも鼻母音が多い。

30、同上。なほ、漳州音の見本は、同じ巻の終の方に出てゐる唐船役者の名目に就いて見ることが出来る。

31、禅林課誦・慈悲水懺法・黄檗清規・慈悲道場懺法・千仏名経等を指す。弘戒法儀に至つては、一般に音の表記法が極めて粗雑であり不統一である。例へば、同じ方の字がフワン・フウン・ハンの三通りに振仮名され、同じ法の字がフハ。・フハ・ハ。・ハの四通りに振仮名されてゐる。又、飯・発が各フワン・フハであるのに対し、煩・犯・髪は各ハン・ハン・ハ。である。この書に於て支那原音faを屡ハで表してゐるのは、恐く最初ファの形で支那から輸入されたものが日本寺院で傳誦される間に次第にハに転訛して来たものと見らるべきもので、私はかくの如き文献を「最古の最も信頼すべき資料」の中に加へることは出来ないのである。毘尼日用録や律學発軔は中に引かれた陀羅尼に唐音の振仮名が付けてあるだけなので、資料となり得る部分が極めて少い。

32、入声の音尾(支那原音では声門閉鎖)を表すのに、黄檗清規はツを用ゐ、慈悲水懺法・慈悲道場懺法は仮名の右下に小圏を付し、千仏名経は仮名の直下に小圏を付し、禅林課誦は音尾を全然表記してゐない。

33、国語のハの音価を推定するために黄檗唐音を利用しようとする者の、一応念頭に置くべきことは、現代福建系諸方言(福州・厦門・漳州・汕頭など)にはfの音が無いといふ事実である。そこで、福州に於ては、反・翻・繁・煩・飯・凡・犯は皆huangであつて歓・緩・桓・還・幻・患と区別無く、方・放・房は皆huongであつて荒・皇・恍・况と区別が無い。發・髪・法は皆huakであつて滑・猾と区別なく、非・飛・妃は皆hiであつて喜・希・稀と区別が無い。併し、黄檗唐音(官話を基礎とする)の支那原音にf音が存し、従つてfaとhuaとが区別されてゐたことは、慈悲水懺法が前者を徹頭徹尾フワで写し、後者を徹頭徹尾ハで写してゐることに依つて明かである。

34、入声の音尾(支那原音では声門閉鎖)を表すのに、寿昌清規は仮名の直下に小圏を付し、琴學入門は音尾を全然表記してゐない。児島祺校訂の琴譜では、或は之をツで表し、或は全然之を表記してゐない。(もつとも、寿昌清規のことは東皐全集所収の活版本に拠つたので、小圏の位置などは原刊本と正確には一致してゐないかもしれない。)

35、入声の音尾(支那原音では南京・杭州共に声門閉鎖)は、唐話纂要では全く之を表記せず、唐訳便覧・唐音雅俗語類・唐語便用では、ツを以て表記してゐる。唐音和解では多くは之を表記せず、稀にツを用ゐてゐる。四書唐音弁ではすべてツで表してゐる。唐詩選唐音では、或はホツ(復)ハツ(発)の如き表記法を用ひ、或はホ(復)ハ(発)の如く全然之を表記してゐない。

36、和漢三才図会(正徳二年序)の唐音は明らかに官音であり、而も支那原音fa,huaを共にハで写してゐる所に訳官系統の唐音と同じ特色が見られる。享保に入つて岡島冠山の唐話纂要・唐訳便覧等が出るより前には、支那語の知識は未だ普及してゐなかつたから、著者寺島良安(大阪の人)は、官音の知識を直接又は間接に唐通事から得たのであらう。

37、魏氏楽譜は入声の韻尾を全然表記してゐない。

38、磨光韻鏡や三音正譌は入声の韻尾を全然表記してゐない。

39、このhuaは実際上寧ろhoaに近く発音され、従つて唇の動きは極めて弱い。ただに現代官話に於て然るのみならず、明の天啓年間に書かれた西儒耳目資(金尼閣著)に於ても、既に化・華・話・滑hoa懐・壊hoai荒・黄・皇・况hoam桓・緩・還・患hoanのやうな表記法を用ゐてゐるのである。

40、何時の人、何処の人とも判明しない。ただ、若し右の奥書を信ずるならば、延享以前の人たることが知られるのみである。

41、寛政十一年、皇都書肆菊屋源兵衛梓行。泰山蔚のこの説は、既に新村先生が「波行軽唇音沿革考」(国語国文の研究昭和三年一月号及び東亞語原誌所載)に於て紹介しておいでになる。

42、東京帝国大學文學部に於ける昭和二年度の日本音声史の御講義*2。これは岩淵悦太郎氏のノートによつて拝見した。

43、以下は卑見である。

44、日本百科大辞典の明楽の条に「斯楽の我国に傳来せし由来を繹ぬるに、明人魏之琰、字は雙候、爾潜と号し、支那福建省の人、明朝に仕へ頗る朱明の楽に通ず。彼の崇禎年間(我寛永年中)明末擾乱を避けて安南に移り、王族と婚し、二子魏高魏貴を生む当時明朝の政権振はざるを以て、瓢然海を航し、楽記を抱いて我国肥前長崎に来り、遂に帰化す(寛永六年)。翌年允許を得て上京し、内裏に召されて明楽を奏上し、賞賜有り。これ明楽を我国にて奏せし嚆矢なり。(下略)」(富田)とある。私は此説の出所を知らないので確実な批判は出来ないが、最も信ずべき資料である魏氏楽譜の序跋や魏氏楽記図所載の君山先生傳に照して考へるに、疑ふべき点が少なくない。


45、新井白石全集第四所収。

46、新井白石全集本に杭音討一本訃とある。今仮にその一本の方に従つた。併し、なほ研究を要する所である。

47、現代杭州音のfuのuは、官話の場合と同様、頭音fの影響により、vに近い摩擦を伴つて発音される。故に、現代呉語的研究の韻母表には、uと記さないでvと記してある。

48、このpuは入声で、声門閉鎖に終る。

49、字の上の波形は鼻母音を表す。

50、現代官話süe西儒耳目資hiue

51、Karlgren氏の切韻音Pjiuên西儒耳目資fuen

52、Karlgren氏の切韻音Pjiuêt西儒耳目資foe,fo<

53、東音譜五十音字母釈(白石全集第四ノ三九九頁)の表題下の註に「杭泉漳福各州音並係長崎港市舶務都通事所填者」

54、勿論、これは当時の各の社会に於ける最も普通な発音について言ふ。少数の高齢者の間にfの保存されてゐたことの可能性までを、全然否定し去らうとするものではない。

55、大塚高信氏訳コイヤード著「日本語文典」六頁。

56、異国叢書所収呉秀三氏訳「ケンプエル日本の外国貿易史」三六一頁に「和蘭人に関する役人中、最も多く最も貴き属僚は阿蘭陀通詞即ち和蘭通辨なり。


57、新村出先生「国語に於けるFH両音の過渡期(東亜語原誌所収)参照。

58、もつとも、fiのfとiとの間のglideが顕著になつて遂にfui,fêi,feiの形を生ずるに至るといふ過程も考へられないではない。西儒耳目資では、この種の字音をfiと綴つてゐる。


『国語と国文学』15-10(S13)所載のものをもとに電子化し、『国語音韻史の研究』所載のもの( http://www.let.osaka-u.ac.jp/~okajima/PDF/arisaka/on-insi/13.pdf )での、追加部分を[]に入れて示したつもりである。


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