有坂秀世「唐音に反映したチ・ツの音価」

http://www.let.osaka-u.ac.jp/~okajima/PDF/arisaka/on-insi/12.pdf

 ここに私が述べて見たいのは、主として唐音資料に反映した所の、鎌倉時代國語の音韻状態である。
 鎌倉時代唐音資料としては、當時の文獻に見える唐音語彙は勿論重要には相違無いが、その數が極めて僅少である。それらに比すれば、質の正確さに於ては勿論劣るが、量に於て豐富なものに、禪宗寺院で諷經に用ゐられる唐音がある。言ふまでもなく、それらは久しい間口から口へと傳誦されて來たものであり、文字に書き留められたのは、大部分は江戸時代に入つてからのことである。その音韻状態は既に全く日本化して居り、無論傳誦の間に生じた訛も少からす混じてゐることとは思はれるが、これは陀羅尼なり回向文なりの全文を唐音で誦するのであるから、單語の場合の如く断片的ではなく、その傳來時代に於けるその支那方言の音韻組織の全貌を髣髴たらしめるに足るものがある。從つて、一般の經文讀誦の奥書や天台眞言兩宗所傳の漢音などと等しく、國語及び支那語の音韻史料としては極めて重要なものであるのに、その言語學的研究が今日まで等閑に附せられてゐたのは遺憾なことである。

(二七) 史學雜誌第四十八編第八號所載森克己氏「日宋交通と日宋相互認識の進展」に據る。
(二八) 支那人の側から日本語を觀察Lた例を求めて見ると、まづ、鎌倉最初期の日本僧安覺(備中の人)の發音を南宋人羅大經(江西省盧陵の人)が漢字で音譯した例が、鶴林玉露人集卷四に出てゐる。その中に日本語のクチ(口)を「窟底」と記してゐるのであるが、「底」は端母(t)の字であるから、安覺のチは多分tiに近い音であつたらう。次に、元末明初の人陶宗儀(浙江省黄巖の人)は、書史會要卷八の中に、日本僧克全大用(傳未詳)から教はつた「いろは」の讀み方を記してゐる。その中に、「ち」を「啼又近低」と註し、「つ」を「土平聲又近屠」と記してゐる。その中「低」は清音のチに、「啼」は濁音のヂに、「土」は清音のツに、「屠」は濁音のヅに充てられたものと思はれるが、これらの文字はすべて舌頭音(t d)に屬するものであり、從つて克全大用のチ・ツ・ヂ・ヅは寧ろti tu di duに近い音であつたらしく思はれる。但し、此の克全の發音が果して當時の標準的發音であつたかどうかは判明しない。
(二九) 江戸時代に於ては、ヒヤウの假名とヒヨウの假名とは音韻的には等價であつた。〓は小叢林略清規にはヒヨウと振假名されてゐるけれど、ヒヤウ・ヒヨウの間に音韻上の區別の有つた室町以前の時代ならば、恐らくヒヤウと書かれたであらう。
(三〇) Gilesの字書に記された輝の寧波音hweiは、系統から言へば文言音系に屬する。

(三二) 趙元任氏著「現代呉語的研究」聲母表參照。

(三五)黄檗文献では、例へばイ゜(於・于・語)キ゜(去・居・懼)イ゜ン(云・雲・運)等の如く、イ列の仮名の右肩に小圏を付することによって[y]母音を表すことがある。「慈悲水懺法」(寛文十年)巻末の国字旁音例の中に「凡旁音有用小圏於上者矣。如イキ字須撮脣舌居中而呼之也」と言ってゐる通りである。然るにまた一方では、「如パピ等字先閉脣激而発音余倣此」と言ってゐる如く、同じ右肩の小圏が半濁点としても用ゐられてゐるので、ピのやうな字形は、pi p`i 又はhüの何れとも解せられることとなる。黄檗清規が虚にピ又はピイと振仮名してゐるのは、無論、piやp`iではなくて、hü類の音を意味するものである。

(三七) 橋本進吉先生「波行子音の變遷について」(岡倉先生記念論文集)の御説に據る。
(三八) 韻尾の〔m〕〔n〕の區別は、宋末元初の頃、北方官話ではなほ保存されてゐた。併し、當時の呉方言ではどうであつたか、不明である。
(三九) 火箸の箸の假名遣について、大言海は、下學集(下、器財門)の 「火箸《コジ》」を引きながらもそれに從はず、却つて「正韻『箸、治據切、音|宁《チョ》』ナレバ、こぢナリ」と主張してゐるが、この論據は不適當である。何故なら、正韻は近代支那音に基いたもので、その切字には澄母牀母との區別が無いからである。火箸の假名遣は、宜しく下學集温故知新書運歩色葉集室町時代辭書類の記載の一致する所に從つてコジとなすべきである。
(四〇) 黄檗宗心越派(曹洞宗)の諷經の唐音、その他江戸時代に輸入された唐音の資料については、拙稿「江戸時代中頃に於けるハの頭音について」(國語と國文學昭和十三年十月號所載)の中で説明しておいた。


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