#author("2020-08-12T11:53:05+09:00","default:kuzan","kuzan")
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著者の言葉
  國語の将来(昭和十四年五月、國學院雑誌四十五巻五號)
  國語の成長といふこと(昭和十一年一月、二月、ローマ字世界)
  昔の國語教育(昭和十二年七月、岩波講座國語教育)
  敬語と児童(昭和十三年十月、國語・國文八巻十號)
  方言の成立(昭和十五年二月、安藤教授還暦祝賀記念論文集)
  形容詞の近世史(昭和十三年五月、方言八巻二號)
  鴨と哉(昭和十四年一月、言語研究一號)
  語形と語音(昭和十四年二月、國學院雜誌四十五巻二號)
  國語教育への期待(昭和十年五月、十月、方言五巻五號〈原題、「片言と方言と」〉
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著者の言葉
 日本語が今日の姿になるまでの歴史に就いては、私などの知って居ることはまだほんの僅かなものである。しかしたった是ばかりの事實に心付いただけでも、もう色々の興味と疑問、又若干の心配を抱かずには居られなくなった。さうして是を思慮ある同時代人に、説かずに過ぎ去ってはすまぬやうな氣さへするのである。もし斯ういふ知識が更に豊富に蒐集せられ、又整理綜合せられて、愈々萬人の常識となり常用となった場合、國の文化の歩みは之によって、果してどういふ風な影響を受けるであらうか。地方の隅々に人知れず刻苦して、是等の資料を供給した篤志者の努力は、如何なる程度にまで感謝せられるであらうか。「国語の將來」は言はゞその豫測の書、もしくは小さな試驗の一書である。
 大體の見込をいふと、日本語は日ましに成長して居る。語彙は目に見えて増加し、新しい表現法は相次いで起り、流行し又模倣せられて居る。語音の統一はやゝ難事と見えるが、少なくとも耳につく強い訛りだけは、追々と消えようとして居る。國に偉大な文學が生まれ、人が自由に腹の中を語り得る爲には、是は必要なる條件の一つではあるが、無論是だけではまだ足りない。大きくなるものは丈夫に育てなければならぬ。時代環境の次々の變化に應じて、まだ此上にも立派に又すこやかに、成長し得るやうな體質を賦與しなければならない。それには各人に選擇の力と、判別の基準となるべき高い趣味とを、養ってやることが何よりの急務で、口眞似と型に嵌まったきまり文句の公認とは、先づ最初に駆逐しなければならぬ。國民の思想の安らかなる流露を所願する者、無意識なる偽善が習癖となることを悲しむ者は、国語の教育に於て最も有效に、其助長と防衛とを爲し遂げることが出來ると思ふ。
 国語の愛護といふことは、、今更之を口にするのもをかしい位に、一人だつて反射する者の無い國一致の政策である。たゞこの日本語をどうすることが、愛護であるかといふ點について、諸君の言ふことが大分まち〳〵になって居るだけである。或人は他人の言ふ通りを口眞似して、いつもよそ行きの語を使はなければ、愛護で無いとでも思って居るらしく、又或者はむやみに新語を嫌つて、つまりは今のまんまにそっとして置くことが、即ち愛護であるかの如き口気を見せ、中には全く何が愛護であるかを、尋ねても答へてくれさうに無い人も居る。そんな両立しない解釋の下に、愛護を説くことはむだ、むだと言はうよりも寧ろ有害である。私は行く〳〵この日本語を以て、言ひたいことは何でも言ひ、書きたいことは何でも書け、しかも我心をはっきりと、少しの曇りも無く且つ感動深く、相手に知らしめ得るやうにすることが、本當の愛護だと思って居る。それには僅かばかり現在の教へ方を、替へて見る必要は無いかどうか。少なくとももう一度、検討して見る必要があると思って居る。
 此本の文章は、大部分が處々の講演の手控へのまゝである。自分に實行の力が無い者に限って、人に説くときは言葉が強過ぎる。其上に叙述がやゝくど〳〵しく、又そちこちの重複がある。聰明なる讀者の反感を買はずんば幸ひである。斯ういふ表現こそはもっと平易で、且つ切實なる方式があってよかったのである。それが思ふやうに使へなかったといふのは、つまり私一個人にはまだ国語改良の恩澤が及んで居ないのである。是をも學校教育の不完備に、責任を負うて貰ふと氣が楽なのだが、五十年来の自修生としては、残念ながらそれも出来ない。

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*創元選書 [#ce769a7f]
*創元文庫 [#yaab7f4c]
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*角川文庫 [#wceb194e]


*講談社学術文庫 [#cc920983]
**二册本 [#f7435220]
**一冊本 [#r66e6576]


[[『定本柳田国男集』19]]



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