#author("2021-08-09T23:45:02+09:00","default:kuzan","kuzan")
石垣謙二
『文學』昭和十八年十月
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 はしがき
 一 接着性と方向性
 二 接着性より方向性へ
 三 方向性の發展
 むすび
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 千年一日の如く少しも渝らぬ意義用法を持ち續けてゐるやうに見える語でも、詳しく觀察すれば小やかながら愼ましい變化の跡を辿ることが出來、而もその變化には常に一貫した目的性の働いてゐる場合が多い。其の一例として私は助詞の「へ」を採り上げてみたいと思ふ。何故なら「へ」の職能用法は國語史を通じて比較的變化してゐないと一般に考へられてゐるからである。
一 接續性と方向性
 「へ」は現在普通に助詞と認められてゐるが、少くとも現代と相近い用法を有すると考へられる一種の「へ」が既に上代から存在する。即ち萬葉假名書きの文獻に於て、散文には發見されず、すべて歌謠の例であつて、古事記一、日本書紀二、萬葉集二九、歌經標式一の三十三例がそれである。之等の「へ」は皆軆言の直下に附き、且下には用言が續くもので、
  摩佐豆古和藝毛 玖邇幤玖陀良須 (記下)
の如きか、或は
  吉野部登入座見者 (萬葉十三、三二三〇)
  新羅奇敝可伊敝爾可加反流 (同十五、三六九六)
の如く、係助詞其の他の助詞を伴ふか、いづれかであつて、形式上全く現代の「へ」と同樣である。
 さて「へ」は現代に於てもその懸つてゆく用言に或る種の制約が存するやうに見えるが、上代に於ける三十三例は、其の下に次のやうな用言を有する。

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  ゆく(行)  萬二八○・八○○・=二四・一六八○・一八二七よ=三〇・三三二一・四四三五
  やる(遣)  萬一〇五・三三六三・四二四〇・四四ニニ
  のぼる(上) 萬八八六・九四四・四四七二
  こゆ(越)、r萬九五四二=二八
  さかる(離) 萬二七四・一ニニ九
  むく(向)  紀十九・十九
  いつ(出)  萬二七四六
  います(往) 萬三五八七
  いる(入)  萬三二三〇
  かへる(歸) 萬三六九六
  かよふ (通)  廿禺一二六一
  くだる(下) 記下
  こぐ(漕)  萬七二
  しつく(沈) 歌經標式
  たつ (發)   萬五七〇
  ます(座) 、萬三九九六
  わたる(渡) 萬二七一
右の中、「ます」の如きは、
  吾がせこが久爾弊痲之奈婆ほととぎす鳴かむ五月はさぶしけむかも (萬十七、三九九六)
のやうに「行く」と同義のものであり、又、
         ヤマトリ
  いざ子ども早く日本邊大伴の御津の濱松待ち戀ひぬらむ (萬一、六三)
の如く動詞を伴はぬ例も一つあるが、之とても「行け」「歸れ」等の動詞が省略されてゐると見る事が出來るのである。
 さすれば之等の諸動詞はすべて甲地點を出發して乙地點へ進み近づく意味を荷つて居り、即ち動作の經由を表してゐるものである。
  「遣る」といふ動詞は他の諸動詞と些か異つて動作主體が直接經由的動作をなすのではないが、間接的に他者をして經由的動作をなさしめる意味を有するから、やはり經由を表す動詞と考へられるのである。
 從つて之等の動詞を伴ふ「へ」は、動作の接着性を表してゐるといふ事が出來るであらう。然るに、上代の「へ」に右の如き性質を認める時は、書紀の「向く」と萬葉の「漕ぐ」の例が問題となる。先づ書紀は、
  韓國の城の上に立ちて大葉子は領布振らすも耶魔等陛武岐底
  韓國の城の上に立たし大葉子は領布振らす見ゆ那倆婆陛武岐底
であつて、「向く」といふ動作は同一地點に於て單に方向を變ずるのみであり、廻轉的で經由的でなく、點的であつて線的でない。從つて右の場合の「へ」は方向性だけを表してゐて之に伴ふ接着性は少しも荷つてゐないのである。
 又、萬葉卷一の例は、
      オキむ   コガジ
  玉藻苅る奥敝波不榜敷妙の枕の邊忘れかねつも (七二)
であるが、「漕ぐ」といふ動詞は其れ自身先天的に動作の經由を表すとは考へられず、一旦「船を進める」即ち「漕ぎ行く」といふ意味に變形補足されて甫めて經由性を第二次的に認め得る動詞である。單に「漕ぐ」事の結果として「船が進む」といふ經由的動作が生ずるに過ぎない。この點、「遣る」事の結果として「行く」といふ經由的動作が生ずるのと同じやうにみえるけれども、「遣る」には語それ自身の意味として「行く」事が既に内在し豫定されてゐるの對しにて、「漕ぐ」に於ける「船が進む」事は、全く外在的であつて語それ自身の意味のみからいへば單なる偶然の結果に過ぎないのである。
 茲に於て、「向く」及び「漕ぐ」といふ動詞を少しく詳察してみる必要が生ずると思ふ。先づ、「向く」乃至「向ふ」に就いては、この動詞が如何なる形式で用ゐられるかを觀ると、
  袁波理邇 多陀邇牟迦弊流 袁都能佐岐 (記中)
  奴婆多痲能都奇爾牟加比底 (萬葉十七、三九八八)
  夷乃一國邊爾…直向淡路乎過 (萬葉四、五〇九)
  淡路乃島二直向三犬女乃浦 (同六、九四六)
  勢能山爾直向妹之山 (同七、=九三)
  海若神之女爾邂爾伊許藝趁 (同九、一七四〇)
  神邊山爾立向 (同九、一七六一)
  三宅之酒爾指向鹿島之崎 (同九、一七八○)
  佳吉乃崖爾向有淡路島 (同十二、三一九七)
  曉月爾向而 (同十九、四一六六)
の如く格助詞「に」を伴ふものであり、又「いつち(何方)」のやうに自身既に方向性を含有する體言に樹しては、
  伊豆知武伎提可 (萬葉五、八八七。類例三三五七・三四七四)
のやうに何等格助詞を介せずにも用ゐられ、時には
  天漢射向居而 (萬葉十、二〇八九。類例二〇=)
の如く、自身方向性を含有しない體言に對しても格助詞を介せずに用ゐられることがある。
 次に「漕ぐ」に於ては、萬葉卷十一に次の例が見られる事を注意すべきである。
      オキ  も へ
  庭きよみ奥方榜出海人舟の梶執る間無き戀をするかも (二七四六)
之は嚮の卷一の例と極めて相似た用ゐ樣であるが、唯卷一の方は「沖へは漕がじ」と「漕ぐ」が單獨で用ゐられてゐるのに對して、右の卷十一の方は「沖へ漕ぎ出つる」と「漕ぐ」單獨でなく「出づ」を俘つてをり、「出づ」の經由性によって「漕ぎ出づ」全體としては經由性の動詞となり、「漕ぐ」は僅かにその「出で」方を修飾規定してゐるに過ぎないのである。
 「向く」及び「漕ぐ」の語性・用法が右の如くであるのに加へて、上代には「大和へ」「難波へ」「沖へ」といふやうな形が夫々全體で一つの體言又は一つの複合語として用ゐられ、「大和の方」「難波の邊」「沖の方(又は邊)」の意味を表す場合が存するのである、即ち、
           ニシ
  夜痲登弊邇 西風吹きあげて (記下)
  夜麻登幤邇 行くは誰が妻 (記下)
  野痲登陛濔 見が欲しものは (紀十五)
  夜痲等弊爾 風吹き上げて (丹後國風土記)
  淤岐弊邇波 小舟つららく (記下)
の如きもので、格助詞「に」が體言にのみ附く事から之を證する事が出來る。恐らくは後世「ヤマトベ」「オキベ」等いふものと同じであらう。故に嚮の「向く」及び「漕ぐ」の場合の「へ」をかくの如きものと考へる事が出來るならば之等を異例的に覗る必要が無くなるのである。而も上來考察した處に依れば、かやうな考へ方は意味上からも文法上からも決して支障のないものと思ふ。然し「へ」は上代特殊假名遣の十三の中の一である爲、最後の決定を與へる前に一應兩者の假名が同類であるか否かを吟味しなければならない。之まで掲出した諸例に就いて觀ればいづれも甲類であつて問題が無いやうであるが、
  射ゆ鹿を つなぐ何播杯の 若草の (紀廿六)
  鮎こそは 施痲倍も宜き (同廿七)
等乙類の確證もある故、簡單に斷定する事は出來ないのである。
 先づ現代の助詞「へ」に類するものは、
  幣(紀・萬)、弊(萬・歌經)、敝(萬)、部(萬)、方(萬)、邊(萬)、〔陛(紀)〕
の如く、すべて甲類である。唯萬葉の四四二二(卷二十)には、
  わがせなを都久之倍夜里弖うつくしみ帶は解かななあやにかも寢も
と乙類の假名が用ゐられてゐる(註一)。然し之は都築郡上丁、服部於田(イ由)妻呰女の歌であり、都築郡は和名抄に依れば武藏國に在つて、吉田東伍博士の大日本地名辭書には、現今の南多摩郡近邊と考證されてゐるから、明かに東國語に屬すべきものである。故に之は例外であつて助詞の「へ」は甲類である。
 之に對して體言又は複合語を構咸する「へ」は、前述の「ヤマトへ」「オキへ」の他、
  脚ー  阿度陛 (紀)
  頭ー  摩苦羅陛 (紀)
  常世- 等許與弊、等許餘弊 (丹後國風土記)
等の甲類なる一方、前掲の「河へ」「島へ」等は乙類である。又、この種の「へ」と少くも密接な關係があると考へられるものに、助詞「の」「が」を介して他の體言の下に附き連語を構咸する「へ」が存するが、それらも
  床のー  辨(記)、弊(萬)、邊(萬)、重(萬)、隔(萬)
  山の1  謎(紀)、部(萬)
  大君の1 敝(萬)、幤(宣命)
の如く甲類の假名が用ゐられる一方、
  河の1  迦波能倍 (記下)
  城の1  基能陪、基能陪 (紀十九)
  岩のー  伊波能杯 (紀廿四)
  山のー  野痲能閉 (萬五)
  膝のー  比射乃倍 (萬五)
  道のー  美知乃倍 (琴歌譜)、美知能陪 (歌經)
 引津の1 比岐都能倍 (歌經)
 我が1  和我戸 (靈異記上第二)
 盃のー  佐加豆岐能倍 (萬五)
の如く、乙類の假名も同時に用ゐられ、而も之等乙類のものは例外と見做す事が出來ない。茲に於て、廣く語末に「へ」を有する語一般に就いて檢討しなければならなくなる。
 本1(モト・へ)  敝巾(記.・紀)、陛(紀)
 末i(スヱへ)  幤(記・紀)、弊(記)、陛(紀)
 後ー(シリへ)  懲み(萬・宣命)、敝(萬、東歌)
 並剛ー(マへ)   齢弊(記)、敝用(記.・紀)、陛(紀)
 外1(トノへ)  重(萬)
 内-(ウチノへ) 重・隔(萬)
 何1(ノ・ヅへ)  敞∴邊・方 (萬)
 夕1(ユフへ)  弊(歌經)(萬)
 行1(ユクへ) 敝・弊・敞・方・邊(萬)、幤(丹後國風土記)
 古-(イニシへ) 敝・湛堪・部・家(萬)、懲刀(萬・後紀)
 退1(ソクへ・ソキへ) 敝・部・隔(萬)
  水漬-(ミヅクへ) 陛(紀)
等皆甲類であり、又「沖」に對する「へ」、家の「へ」及び「一重二重」の「へ」も甲類である。
 然るに之に反して「上」の「へ」は、
  宇閇(記・佛足石・尾張國熱田太神宮縁起)、紆陪(紀)、禺杯(紀)、宇倍(紀.萬)
の如く、すべて乙類であり、唯一例萬葉の卷十四、三五三九に「宇敝」と甲類のものがあるが、之は東歌であるから例外である(註二)。さすれば、「上」が他の語の下に附いて複合語や連語を作る時に母音音節の接觸を避ける爲「ウ」が腕落する事は極めて必然であり、「山の上」「河の上」等や「島上」等のやうな意昧を表す場合、「山のへ」「河のへ」、「島へ」等となり、乙類の「へ」が用ゐられる事となるべきである。即ち、
  耶麼能謎(紀十四) ↓山の邊
  野痲能閉(萬五) ↓山の上
であつて、その咸立を異にしてゐるのである(註三)。
 右のやうに乙類の「へ」は全く成立を異にする事が明らかになつたのであるから、體言や複合語乃至は連語を構成し、「!の邊」「1の方」の意味を表す「へ」も甲類であつて、嚮め「大和へ向きて」「難波へ向きて」及び「沖へは漕がず」の「へ」を夫々後世「ヤマトベ」「ナニハベ」「オキベ」と稱へるものと同樣に考へ、「へ」の附いた全體を一體言又は複合語と認める事は、假名遣の上からも矛盾を來さないのである。
 かくて「向く」「漕ぐ」の二動詞を除外すれば、上代に於ける例がすべて「へ」の下の用言は必ず實際にその方向へ進み近づく經由的な意味を有する事となり、從つて「へ」は單なる方向性のみならず具體的な接着性をも荷ってゐると考へる事が出來るのである。
 このやうに動詞の性質によつて、「へ」の種類を區別する事は、一見少數の例から斷定する如く見えるかも知れないが、それは今奈良時代のみを問題にし「へ」の歴史的變遷發展の傾向を姑く度外に措いてゐるからである。後述するやうに、「漕ぐ」の如くそれ自身先天的に經由性を有するのでない動詞が「へ」に俘つて用ゐられるのは遙かに降つて院政時代以後の事であり、又、經由性の無い「向く」乃至「向ふ」に至つては更に鎌倉時代に至らなくては見出す事が出來ないのである。
 (註一) 殆んど同一の歌を
   わがせなを都久志波夜利見うつくしみえびは解かななあやにかも寢む (萬葉二十、四四二八)
  としてゐるから、東國語に於ては「へ」と「ハ」との對・應さへ見られるのである。
 (註二) 乙類の「へ」を用ゐる語は、「上」の他に等虚辭陪(永久、紀十三)、和加久閇(若、記下)がある。
 (註三) 乙類の「へ」が複合語や連語を作る時にも「ーの邊」の意味を表し、甲類の「へ」と混じ易いが、之は恐らく「上」といふ語自身既に「ホトリ」の意味を有するものと考へられる。

   二矛重英、河上乎翩翔(詩經)
   日o屏唄oジミ津6(1)自35勲
   の如く、外國語に於ても「うへ」と「ほとり」とが同じ語で表される場合が多い。

二 接着性より方向性へ
 奈良時代の「へ」は、動作の方向性のみならず必ず之に伴ふ具體的な接着性を表したのであるが、この事實は平安時代を通じても尚妥當するものである。
萎時代初期には・竹取物語.伊勢物語・土佐日記・大和轗諦を通じて六土例(他に歌三例)悉く、醤性の動
詞を伴ふもののみである。
  とぶがごとくにみやこへもがな (土佐、歌、一月十一日)
  いかにとく京へもがなと思ふ心あれば (土佐、一月十一日)
  みやこへと思ふもゝのムかなしきは (土佐、歌、十二月十七日)
  みやこへと息ふみちのはるけさ (土佐、歌、一月十七E)
の四例は「行きたし」等の意味が既に含まれてゐると考ふべきものであるから右の限りではない。かくの如き形式、特に「と」助詞に直續する「へ」はすべて引用句として動詞の省略された形と考へ考察から除外する事、以下同斷である。
 次に源氏物語は、古典全集本に依ると、
           かたへ む
  もとより有る人だに片方へは無くていと人少ななる折になん有りける へ蜻蛉、一八二頁)
といふ例があるが、河内本に「へ」の無いのが正しいであらう。又、
  いつち ○
  何方へか消え失せにけんと (須磨、二五〇頁)
も河内本では「へ」が無い。前章でも見た樣に「いつち」といふ體言は必ずしも格助詞を介せずに用言へ直接する性質があるから、河内本の方が正しい形と考へる事も出來る。
 さすれば確實なるもの八十二例であるが、すべて經由性の動詞である。唯一例、
  かしこく思ひ企てられけれど、專ら本意なしとて、鱶匙思ひなり給ひぬべかなれば(東屋、八六頁)
といふ例がある。之は常陸守が、淨舟へ求婚した少將を自分の實の女の方へ横取りしておきながら、却つて淨舟の母たる北の方に樹して、少將を淨舟へ横取りしようとしたと言懸りをつける折の言葉である。即ち、
  〔あなた1北の方1は〕かしこく思ひ企てられけれど〔先方の少將は〕專ら本意なしとて外樣へ思ひなり給ひぬべかなればである。他の例がすべて具體的な動作であるのに之は心理作用であつて大いに趣が異つてゐる。然し經由性といふ事を強ち具體的動作のみに限定する必要はないし、心理作用にも經由性と非經由性とを區別する事が出來ると思ふ。
 動詞「なる」は大日本國語辭典に、古くよりの意味として、
  (一) 異なる樣にかはる。此れより彼れに移る。變化す。改まる。
  (二) 時日經てそれに至る。至る。經。經過す。逹す。たつ。
の二義を擧げてゐるが、いづれも經由性という範疇に當てはまるものである。唯その性質が具體的動作でなく概念的動作である爲に、特に「思ふ」の如き心理作用を表はす動詞と複合した場合には、經由する動作主體を「心理」乃至「心」の樣な全くの無形物に求めなければならない結果、他の具體的な經由性動作に比して、宛かも非經由性動作である如く感じられるのである。然し「思ひなる」といふ動詞は語としては「なる」の意味によつて充分經由性を有すると考ふべきものである。
 然しながら、いづれにせよ、具體性のない心理作用に「へ」が用ゐられるといふ事は新たなる現象であり、「へ」が次第に接着性より單純な方向性へ變化の傾向にあるものと見る事は出來ると思ふのである。
 今昔物語集には卷一より卷二十までに一八九例、卷二十二以下に二〇八例(他に歌一例)の用例を數へるが、殆んどすべて經由性動詞を有するもののみである。又今昔物語集には「向ふ」といふ動詞が「へ」を伴ふ例があるが、
  其後王一人侍者ヲ具シテ歩行ニシテ王舍城へ向フ (卷一、四一)
  老婢…正門ニハ佛在マセバ其方ヘハ不レ向シテ脇ロヨリ出ムト爲ルニ へ卷三、一四五)
の如きもので、「我レ軍ヲ引將テ彼ノ山へ可二行向一シト(卷五、二五七)」の「行向フ」と同じ意味であり、ただ方向を變ずるのみの意味ではない。更に、
  息ト思シキ方へ只這二這ピケルニ (卷十六、三五六)
  オキ
  若キ女三人打群テ内樣へ行ケリ (卷十七、八=ハ)
             アルキ
  彼方へ走リ此方へ走リ (卷十七、八二八)
  後へ手掻テ (卷十八、八八四)
  何方へ可レ迯シトモ不二思エ一ズ (卷卅一、一〇六一)
  外必國へ迷ヒ失ニケリ (卷卅一、一〇八二)
等の「這ふ」「歩く」「走る」「手掻く」「迯ぐ」「迷失す」の如きは先天的に語として經由性を内在する動詞でなく、之等の動作が結果として經由的動作を伴ふのみであり、夫々「這行く」「歩行く」「走行く」「手をやる」「迯行く」「迷行く」等の意味に變形補足されて甫めて第二次的に經由性を認められるものである。
  先の萬葉集の「沖へは漕がじ」の「漕ぐ」に該當するものであつて、かかる性質の動詞が「へ」に俘つて用ゐられるのは、右の今昔物語集の例を嚆矢とするのである。
 如上、平安時代に於ては奈良時代同樣、「へ」は必ず經由性の動詞を伴ふものであり、動作の接着性を表はすのであるが、源氏物語の「思ひなる」に見られる如く語としては充分經由性の動詞と見得べきに拘らず事實に於ては具體性の全く無い一見非經由的と見える動作を表はす動詞を伴ひ、又今昔物語集の「這ふ」等に見られる如く事實に於ては充分經由的動作を表すと見得べきに拘らず語としてはそれ自身經由性を有つてゐない動詞を伴ふ事に依つて、「へ」が具體的接着性のない單なる方向性のみを荷ふに至る傾向を見得るのである。
 この傾向は鎌倉時代に入つて愈ヒ結實するのであつて、先づ宇治拾遺物語(註三)二四九例(他に歌一例)中、次の如き例が見出されるのである。
  このよし院へ申てこそはといひければ (卷十二、二一二〇)
動詞「申す」には何等の經由性を見る事が出來ない。故にこの場合の「へ」は單に「申す」樹手に對する方向性のみを表はしてゐるといふべきである。
 かくの如く「へ」が接着性のない純然たる方向性を示すに至つて、
      (監河侯)
  となりにかんかこうといふ人ありけり、それがもとへけふくふべき料の粟をこふ (卷十五、二八七)(註四)
の「乞ふ」、
  御堂殿邊へはた玉りをなされけり (卷十四、二六七)
の「祟をす」即ち「祟る」等、非經由性の動詞は相當に用ゐられ、「へ」は純粹の方向性のみを表してゐる例が見出されるのである。かくて「向ふ」も從來はすべて「向ひ行く」意味の場合のみであつたのが
  遙に補陀落世界のかたへむかひて、もろともに聲をあげて觀音を念じけるに (卷六、=一〇)(註五)
のやうに全く非經由的のものが生じ、從つて「向く」も、
  母おほきに恨みて、この兒をいだきて、日本へむきて、ちこのくびに遣唐使それがしが子といふ簡をかきてゆひつけて、すくせあらば親子の中は行逢なんといひて海になげ入てかへりぬ (卷十四、二五九)
の如く非經由的の意味で而も「へ」に件ふ事を得るに至るのである。
  右の如き例は實にこの宇治拾遺物語のものが最初であり、宇治拾遺物語の「へ」は上逋のやうに接着性より方向性への推移を完了したと考へられるが故に、右の「向く」の如き例が見出さるべきは誠に自然であると云へるけれども、それには上來縷述したやうな「へ」助詞の性質上の變邁乃至發展が必要である。日本書紀に於ける「やまとへ向きて」「難波へ向きて」の「へ」  が別種のものであるべき事を知り得ると思ふのである。
 (註一) 調査に用ゐた底本は衣の通りである。
  竹取物語  岩波文庫本
  伊勢物語  三條西伯爵家藏傳定家筆本
  土佐日記  前田侯欝家藏定家自筆本
  大和物語  日本古典全集本
   濁點は筆者。
 (熟二・註三) 調査に用ゐた底本は新訂櫓補國史大系本、數字はその頁數。
 (註四・註五) 今昔物語集に於ける同一の説話には夫々次の如くなつてゐる。
   其ノ隣二[日一ト云フ人有リ。其ノ人二今日可ソ食キ黄ノ粟ヲ請フニ へ卷十、四五六)
                                コム
   遙二補随洛世界ノ方二向テ心ヲ發シテ、皆昔ヲ擧テ觀昔ヲ念ジ奉ル事無二限リ噸 (卷五、二二七)
丶   三 方向性の發展
 平安時代からその兆候を示しつつあつた「へ」助詞の發展、即ち接着性より方向性への移行は、鎌倉時代に至つて途に結實したのであるが、宇治拾遺物語以後の諸文獻にも此の傾向は益ミ顯著である。先づ、古今著聞集三七五例(他に歌一例)・愚管抄一二一例・保元物語二〇三例・平治物語二〇三例に就いて檢するに、(註一)
  内裏へ申されたりければ (著卷三、六五)
   類例、蓉九、 一八九・卷十一、二三三・卷十八、三六六
院へ申テ公卿僉議二及テ (愚卷六、一八四)
 類例、卷三、九四・卷四、=一三・卷五、一五七・一六八・卷六、二〇〇
此の由五宮より内裏へ申されたりければ (保卷二、四九)
 類例、卷三、八二・同、八三
これによりて蒔繪師がもとへかさねて、いかにかやうなる狼藉のてとばをば申ぞ、只今の程にたしかに參れと仰られければ (著卷十六、三一二)
宇治殿知仰あいタリケル御返事二 (愚卷四、一=一)
この酌取の法師いかにも御酒まいらぬ由をおくのかたへいひければ (著卷十七、三五四)
關東ヘハ君ノ御氣色ワロク候ト云テ (愚卷六、一七七)
 類例、卷六、二〇〇
二條中納言定高卿、放生會に參向の時、二條宰相雅經卿のもとへ馬をかるとてよみ侍りける (著卷二十、四〇七)
さるにても宇治へ尋ねてこそきかめとて (著卷十二、二五九)
爲家卿のもとへ御尋有けるに (著卷八、一八二)
中御門左府へ案内申されければ (著卷十八、三六六)
初ヨリ其議…兩方ニワカレテヒシくト論ジテユリユクホドニ、サスガ道理ハ一コソアレバ、ソノ道理ヘイ丶ヵチ
テヲコナフ道理也 (愚附、二一〇)
  此の由都へ聞えて (保卷三、八三)
  御後悔ありて復り帥かせ給はん由方々へ御所りどもあり へ保卷三、七五)
等、すべて話者の聽者に對する方向性のみを荷つた「へ」であり、
  うしろへ見むきて見れば (著卷十六、三三一)
  東の堤を上りに北へ向つてぞ歩ませける (保卷二、二七)
   類例、卷二、二八
  さらば安樂壽院の方へ御車を向けて懸けはつすべしと仰せければ (保卷三、七二)
  牛をはつし西方へ押し向け奉れば (保卷三、七二)
  御馬の口を北の方へ押し向けければ (平卷二、一四一)
等は接着性の無い「向く」(自動.他動)「向ふ」の例である。
 更に室町時代に於ては愈ヒ頻繁に用ゐられたものと見られ、天草本に就いてみると、伊曾保物語七三例・平家物語七〇五例(他に歌三例)の「へ」助詞中(註二) 、次の如く比較的多數の用例を見出す事が出來る。
  立ちかへつて野牛へいふは (伊、七九)
                         をよもリ          
  頼盛「さては力に及ぱぬ」と申してゐられた所へ清盛また重ねていはれたは (平卷二、=一三)
  いかにすぐれて氣高い裝ひなるお方へ申さうずることがある (伊、七六)
  重盛へ申されたれば (平卷一、五五)(類例、卷一、=ハ。六四.卷二、一二四.卷四、二〇一.三六二)
  國王へ奏した へ伊、二八)
  夜なく天へ甲斐ない怨をないてさけぶ (伊、四九)
  この事がほかへ聞えぬやうにせい (伊、一八)
  日本國へ聞えさせられた木曾殿 苹卷四、一一一一〇)(類例、卷三、一六八)
  われ迯げうと思はうずる時は、御邊へその御意をば得まじい (伊、=二)
  文覺のもとへ便宜の時は「……」と仰せられたれば (平卷四、三五一)
  一門の人々ヘコニ草の手既に敗れたと聞えたれば人々お向ひあれLとあつたれども (平卷四、一ご一九)
  都へ告げたれども (平卷三、一四一)(類例、瑜四、二〇一)
  殿上人逹が一同にまた忠盛のことを帝王へ訴へまらした (平卷一、九)
  此の由を法皇へ伺ひ奉つて (平卷一、五五)
  三種の神器を八島へ所望せられた事 へ平卷四題、二六〇)
  義經院へ奏聞せられたれば 苹卷四、二六三)
  して重盛はこの事について清盛へ意見をば召されなんだか? (平卷一、ご八)
右の諸例は話者の聽者に對する方向性の例。
  恩を知らぬ惡人に恩をほどこさうずるときは偏へに天道へ對してめされい (伊、四一)(類例、同、八)
  法皇へ對し奉つての憤り (平卷一題、三九)
  ある片眼な鹿……「われ眼を一つもちたれば、別して用心が要つたことちや」と心得ただてで、良い方をば野の方へなし(伊、九四)
  火のほの暗い方へ向うて (平卷一、六)(類例、卷二、一一六・卷四、二〇六・二四三・二九九)
  馬の鼻を東へ向け 本卷三、一九八)(類例、卷二、=九・==)
  木曾殿へお目に掛りたい仔細 (平卷三、一八三)
右の諸例は接着性を伴はない「向く」の類の例。
 かくの如く、「へ」助詞は純粹に方向性のみを表す場合が益辷多くなりつつあるのであり、從つて時に次のやうな例が見出されるのも亦當然の勢である。
  うしろ戸のひつじさるのすみより北へ第四のまに以ての外くろき山有けり (著聞集卷二、四三)
  四條を東へくしげまではまさしく目にかけたりけるを (著聞集譽十二、二五一)
  ツギく二履中・反正・允恭ト三人、兄ヨリオト丶ザマへ御位ニテ (愚管抄卷三、六五)
 かやうな例が生じ得るのは全く「へ」助詞が純粹の方向性のみを荷ふに至つた結果といはねばならない。更に進んでは、
  震旦の長安城より天竺舍那大城へは幾萬里ぞと問へば (平治卷一、一〇七)
  有木の別所へはいかほどの道ぞ へ天草本平家卷一、五三)
  八島へはいかほどあるぞ (同卷四、二九四)
の如く二地點間の距離をいふに至り、特に、
  も都へも無下に近かつたほどに (天草本平家卷三、一四〇)
の例に於ては、「へ」に續く用言は動詞から一轉飛躍して形容詞「近い」となつた。茲に至つて「へ」の發展は全く完咸したと稱する事が出來るのである。即ち專ら動作の接着性を荷つた助詞「へ」が、完全に接着性を捨象した純粹方向性のみをも荷ひ得るに至つたのである。勿論之は「へ」の用法の擴大乃至擴充であうて、經由性の動詞一を伴ふ「へ」本來の用法は、此の期に於ても決して失はれたのではなく、上に檢討した諸例の他はすべての用例が接着性のものである事は、あへて附言するまでもない處である。
 「へ」助詞の性質に起つた右の如き變化は、次の二つの現象によつても窺ふ事が出來る。その第一は、室町時代以後、
  女房の許への文 (天草本平家卷二、一三四)
      ぬ かどで
  西國への首途  (同卷四、二〇五)
  幼い人へのお文 (同卷四、二五八)
  北の方へのお文 (同卷四、二五八.二六四)
  八島への案内者 (同眷四、二九四)
のやうに、準副體助詞の「の」へ直接續く「へ」が現れることであり、之は「へ」が純方向性のみを荷ふに至つた結果である。
 又、第二は接續助詞的な「へ」が發生し來つた事である。國語の格助詞は大體に於て接續助詞化する傾向を持つてゐるが、それには二通りの經路がある。第一はそれ自身直ちに接續助詞化するもので代表的なものは「が」助詞である。第二は他の語と結合して新たな接續助詞を作るもので代表的なものは「の」助詞が「ものの」となる場合である。而して「を」助詞の如きは此の兩者を象ねたものといふ事が出來る。
 格助詞の接續助詞化中、第一のもの即ち其れ自身で接續助詞化するものは、用言を直接承け得る場合に限る。「へ」助詞は體言のみを承ける傾向にあるから、それ自身接續助詞化する事が出來なかつた。
  尤も愚管抄には
   コノ東宮ヲバ恒貞親王トゾ申ケル、太子ノ冷泉院ニヲハシマスヘマイラレタリケルニ (卷三、八○)
   イザ佛道ト云道ノアンナルヘイリナントテ (卷四、一〇二)
   其邊二房ックリテ居タリケルヘヨセテ同意シタル者共ヲバ皆ウチテケリ (卷六、 二〇〇)
  の如く用言の連體形を承けるもの三例を見るのであるから、この方向にも幾分の傾向は認められるのであるが、愚管抄以外所見が無く發展しなかつたものと考へられる。
 然るに、「へ」が純粹の方向性のみを荷ふに至つて、具體的接着動作を必ずしも伴ふ必要がなくなるに及び、「へ」の抽象的な方向性によつて二つの敍述を接續する如き形式が發生したのである。それは體言「所」と結合した「所へ」といふ形に於てである。
 元來體言「所」は形式體言として或る場面を形式的に代表する能力があるから、
  イモウトノ女院當今ノ母后ニテヒシトカクヲボシメシタリケルヲ、主上ノ思フヤウニモ御ユルシナクテアリケルホドニ、イタク申サレケルヲウルサクヤヲボシメシタリケン、アサガレイ丶ヲタ丶セ給テ、日ノ御座ノカタニヲ
  ハシマシテ、藏人頭俊賢ヲオマヘニメシテ、御モノガタリアリケルトコロへ、ヨルノヲトマノツマドヲアケテ女院ハ御目ノヘンタマナラデ、イカニ世ノタメヨク候ベキコトヲカク申候ヲバ、キコシメシイレヌサマニハ候ゾ、コノ儀ニサブラハマイマハナガクカヤウノ事モ申候マジ、心ウクコハクチヲシキコトニ侍物カナト申サセ給ケル時、云々 (愚管抄卷三、九四)
の如きは、強ち「トコロ」は「場所」を意味するのでなく、むしろ「場面」「場合」等の意味とも解され、且「へ」の下に長々しい敍述が續いてゐる點、「へ」が直ちに「申サセ給」にかかるものと斷定する事が出來ないやうに見える。
 更に室町時代の例になると、
  さうある所へ、狐そのあたり近うゐたが鷄の曉うたふをきいて、走つてきて木のもとに寄つていうたは (天草本伊曾保、七三)
、さうする所へ、五人の兄弟逹が門の内へ打入つて、「行幸は遙にのびさせられたになぜに今まで後れさせらるムぞ」と面々に去合うてす玉められたれば (天草本平家卷三、一六五)
の如きは、大分接續助詞的色彩が濃く、又、
  「すは我命を失はうずるとて武士どもが來る」と待たるゝ所へ、清盛自ら板敷高らかに蹈み鳴らいて、大納言のゐられた後ろの障子をざつとあけたを見らるれば へ天草本平家卷一、二六)
  山崎の關戸の院といふ所に主上の召された玉の御輿をかき据ゑてござる所へ、貞能といふ者が、川尻へ源氏が向うたときいて、蹴散らかさうというて五百あまりで向うたが、ひがことであつたによつて歸り上るほどに、道で御幸にあひまらして、宗盛のお前で馬から飛んでおり、弓を脇に挾うで畏まつて (同卷三、一六九)
  「……その上今度は用意もおりないほどに、迎ひの者をお待ちあれ」とすかいて置かうとせられた所へ、若君も姫君も御簾の外へ走り出て、鎧の袖・草摺にとりついて、「これはさていつくへござるぞ? 我も行かう、我も參らう」と慕うて泣かるゝ所で、維盛も詮方なう思はれたと聞えまらした (同卷三、一六五)
の諸例の如きは、寧ろ「所へ」で一の接續助詞的に見てよいものである。蓋し、接着性のない「へ」助詞にあつては、その概念的方向性によつて一つの事件へ他の事件を累加する敍述が構咸し得べきだからである。
 (註一)・(註二) 調査に用ゐた底本は家の如くである。數字は左の頁數。
  古今著聞集・愚管抄  新訂増補國史大系本
  保元物語・平治物語  國民文庫本
  天草本伊曾保物語   岩波文庫本
  天草本平家物語    龜井高孝先生飜字本
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むすび
以上を要するに助詞「へ」の變遷發展は、具體的な接着性の捨象、概念的な方向性の抽象といふ事であり、大體鎌倉時代に發して室町時代に完成し現代に至つてゐるのである。即ち、「へ」の進み來つた道は一千年を貫いて唯一筋、具體性の剥落であるといふ事が出來るであらう。一助詞の小やかな變化などが國語の全體系に及ぼす波紋は云ふに足らぬものであるかも知れない。然し渝らざる目的性に沿うて生き貫いて來た助詞「へ」の歴史を省る時、凡庸ではあるが而もひたむきな人間の生涯を見る心地がして捨て難い愛着を覺えるのは私一人のみであらうか。
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