#author("2021-09-06T23:43:05+09:00","default:kuzan","kuzan")
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いろは歌 [[手習詞歌]]の一
【名称】略して「いろは」ともいふ。伊呂波・[[色葉]]とも書く。
【解説】発音の異なるあらゆる假名を集めて、七五調四句四十七字の歌にしたものである。全文は、
 いろはにほへとちりぬるをわかよたれそつねならむうゐのおくやまけふこえてあさきゆめみしゑひもせす
歌は「色は匂へど散リぬるを我が世限ぞ常ならむ。有為の奥山今日越えて浅き夢見じ。酔ひもせず」の義であるが、これを誦へる時には、その意味に拘らず、濁音をも清音にして、假名一つ一つを別々に讀む場合のやうに發音する。但し最後の「す」だけは濁って「ず」と誦へるのが常であつた。また、その際、初から七字づつを一句として呼び、その各句を行と名づけた事がある。即ち「いろはにほへと」を「いの行」、「ちりぬるをわか」を「ちの行」、「よたれそつねな」を「よの行」、「らむうゐのおく」を「らの行」、「やまけふこえて」を「やの行」「あさきゆめみし」を「あの行」、「ゑひもせす」を「ゑの行」と云つた。又最後に「京」の字をつけて呼ぶのも、かなり古くからの習價であつた。院政時代以後、いろはを仮名手本とし、手習の初に授けて仮名を教へたのであつて、いろは四十七字は(いとゐ、えとゑ、おとをの如く、同音に發音するものがあるに拘らず)今に至るまで、總て別の仮名と考へられてゐる。又辭書や索引をはじめ、順序を示すに、いろはを以てする事が多かつた。いろはは、やゝ後には、平假名を以て書する事が一般の風習となってゐた爲めに、いろはと平假名とを混同するものもあるに至つた。
【いろは歌の流布】 いろはの全文が文獻に見える最古のものは白河天皇の承暦三年に作られた「金光明最勝王経音義」であって、これは萬葉假名で七行に書かれてゐる。次で「[[江談]]」(河海抄所引)には、鳥羽天皇[[天仁二年]]の談として、いろはの作者を論じ、大女御自筆の假名法華経供養の時、源信僧都がいろはの事を講じたとの説を記して居る。もしこれが事實であつたとすれぱ、平安朝の半頃には既にいろは歌が出来て居たのであるが、これは傳説で確實であるかどうか解らない。次いで近衛天皇[[康治二年]]に寂した[[覚鑁]]に、いろはの意味を釋した「[[伊呂波釋]]」「[[伊呂波略釋]]」の著があり、[[康治元年]]には西念がいろはの一字づつを沓冠において詠んだ極楽願往生歌がある。又この時代には心覚の「[[多羅葉記]]」や橘忠兼の「色葉字類抄」の如き[[いろは引]]の辭書迄も出来て、いろはが既に一般に行はれた事を示してゐる。
【作者】「江談」に「弘法大師句作云々」とあり、「釋日本紀」(開題の條)にも、「先師説云(中略)伊呂波者弘法大師御作之由申伝歟」とあつで、古くから弘法大師説が稱へられて居り、鎌倉時代には、初の二句は弘法大師、次の一句は[[勤操]]、最後の一句は慈覺大師が作つたといふ説や、初の一句を護命が作り、後の三句を弘法大師が作つたといふ説も出来た([[以呂波四十七字抄]]・[[伊呂波間書]]など)。伴信友は「假字本末」に於て、「[[凌雲集]]」、仲維王の謁2海上人1と題する時に「字母弘2三乖1、眞言演2四句1」とあるのを引いて、これ即ち弘法がいろは歌を作つた事を讚したものと論じたが、榊原芳野は、この詩の字母は、悉曇字母、四句は伽陀(偈)であつて、いろはを指すのではないと反駁した(文芸類纂)。
大矢透博士は、(一)歌調の歴史から観て、七五四句の和讃の形式は、憎千観の「彌陀和讃」よリ後のものであるべき事、(二)平安朝初期天暦以前の草仮名は、漢字の草體に近いもので、いろはの交字のやうな[[極草體]]はない事、(三)延喜以前に於てはア行のエの外にヤ行のエがあつて、四十八音の別があつたのである故、四十七音のいろはは、延喜以前のものでない事、これ等の事を證として弘法説を斥けた。
高野辰之博士は、(一)七五調は平安朝初期から既にある事、(二)いろはの字體は弘法と關係がなく、いろは歌の作者が問題である事、(三)ア行のエとヤ行のエの區別は、昌泰年中の「新撰字鏡」や、元慶元年に訓を加ヘた「地蔵十輪経」にも既に阻れてゐる事を擧げて大矢博士の説を駁し、仲維王の詩によつで、弘法大師説を認めた。
我々は、七五調は平安朝初期から現はれたとしても、いろは歌の如き純然たる七五四句の體は果してあリ得たかどうか疑問であり、ア行とヤ行のエの別は、萬葉集にも混同した例が一つある故、平安朝初期にも混同は全然なかつたとは言へないが、正しい發音としては、區別せられて居た事と思はれ、あめつち(別項)の如き四十八音の誦文が、天時以後までも仮名手本として行はれたのであるから、いろはが弘法大師の時代に出冷たものとすれば、四十八音を區別すべきであり、且つ仲雄王の詩の「字母」と「四句」の解は、榊原氏の説を正當と認める故、弘法説には賛することが出来ない。


【製作年代】大矢博士は、いろはの如き七五、四句単行の和讃は、恵心(源信)僧都の歌占の話(古事談)に出るものが最古で、その數十年前からあつたであらう事、いろは歌が四十七音で、ア・ヤ兩行のエを區別せず、しかもその他の假名遣の正しいのは、仮名遣の歴史上、天祿永觀の頃の有様を代表してゐる事からして、いろは歌を天祿乃至永観前後の作とし、その作者については、民開化導の爲め大乗教の教徒の作つたものとし、空也・千観又はその徒の手に成つたものと推定した。この説は、いろは歌が、古くから行はれたあめつちに代つて假名手本となるに至つたのが、平安朝半過ぎから院政時代初期までの間に在つたらしい事、天緑年間に源爲憲が作つた「口遊《くちずさみ》」に、あめつちの代りに用ひるがよいとて「たゐにいで云々」の四十七音の多為爾歌を載せた事(當時いろはの行はれた形跡はない)、「江談」に源信がいろは歌を講じたといふ傳説が見える事などと合せ考へて、大體に於いて當を得たものと思はれる。但し、作者に關する説はなほ考へる餘地があらう。


【典據】覚鑁の「伊呂波釋」以後、みな涅槃經の四句の偈「諸行無常、是生減法、生減々已、寂滅爲樂」の意を取つたものと解せられてゐる。但し、最近これを疑ふものもある。

【京の字】いろはの終りに「京」の字を添へたものは、今日では「[[悉曇輪略図抄]]」(了尊作、弘安十年成)に見えるものが最も古く、それより、「伊呂波聞書」(嘉元二年成)、頓阿の「高野日記」以下に続いて見え、近世では、これをつけるのが普通になつた。何故に「京」をつけたかの問題については、或は梵字の字母の終りに、liam,ksaの如き二合字(文字を二つ併せて一字としたもの)のあるに倣つたと云ひ、或は拗音を示す為めと云ひ、或は假名手本の終りに、京の大路小路の名を書した為めであると云ふが、何れも確証なく、未だ解決することが出来ない。
【參考】音図及手習詞歌考 大矢透○日本歌謡史 高野辰之○假字本末 伴信友○伊呂波字考録 全長           〔橋本〕

RIGHT:橋本進吉 新潮日本文学大辞典
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馬淵和夫
大野晋
佐藤喜代治
小松英雄
国語史辞典 池上秋彦
日本語文法事典 犬飼隆
国語史資料集 こまつひでお (「あめつち たゐに いろは」)


>http://100.yahoo.co.jp/detail/%E3%81%84%E3%82%8D%E3%81%AF%E6%AD%8C/>
[[近藤泰弘]]
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[[大矢透『音図及手習詞歌考』]]
[[小松英雄『いろはうた』]]


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