#author("2021-07-11T21:31:53+09:00","default:kuzan","kuzan")
宮脇真理子2005
伊東橋塘
講談速記本
//[[成城国文学]]21
//
//<!--
//有喜世新聞
//はじめにー伊東橋塘という人物
// 伊東橋塘は明治十~十五年にかけて小新聞人気記者として活躍した人物である。彼の生涯のうちで記者として最も盛んに執筆していた時期であろう明治十六年一月に、自身が幹理・編集をしていた『有喜世新聞』が発行禁止の処分を受ける。実際には再び記者としての活動も見せるが、これを機に新聞に筆を絶つと宣言し、本格的な執筆活動に入る。その際に見過ごせないのが、彼の講談落語本の存在であろう。同年四月の五明楼玉輔口演、橋塘編輯による『開明奇談写真廼仇討』に始まる橋塘のそれは、巻頭に著名な「口演者」の名を掲出し、自ら「編輯者」としてその名を併記するという体裁であり、それまでのほかの講談落語本とはまったく異なるものであった。明治十七年に初の速記本『怪談牡丹燈籠』が登場し、その後速記本が大量に刊行されるまでの間に陸続と刊行された、この橋塘独自の講談落語本には、どのような意味があったのか、本稿では検証してゆきたい。
// 伊東橋塘の生涯については詳しい資料が無く、不明な点が多い。まず、橋塘の人物像を伝えている略歴として詳細なもののうち石川巖のものと、同時代に生きた野崎左文のものを挙げておく。
// 伊東専三卩○。OO~}り置]橋塘[嘉永三年~大正三年]
//  伊豆の伊東家の末裔と称していたといふ。もとは浅草辺の菓子舗船橋屋主人で、橋塘と号したのは、書を島春塘に学んだ為である。明治の初め、大蔵省の小吏であったが、後、辞して仮名垣魯文の門に入り、『仮名読』『有喜世』『絵入』『自由』等の新聞記者生活を送ったが、その筆が辛辣で毒気を含んでいた為め、敵を多く作り、記者生活も永続しなかったらしい。単行となった主なる戯作は、十三種五十余巻に上っている。その中で、明治十二年刊行の『水錦隅田曙』(有喜世新聞連載)は処女作らしく、維新の瓦解に端を発したお家騒動物で、お定まりの勧懲小説である。『花春時相政』は明治古老の侠客実録談の聞取書。『開明奇談写真廼仇討』は、書名の示す如く写真仇討の事実談。『鳴渡雷於新』『引眉毛権妻於辰』『女天一花園於蝶』などは、毒婦小説としてやや見るべきものであった。(『日本文学大辞典』石川巖)
//  伊東橋塘(名、専三、大正二、三年頃没)は、浅草船橋屋の主人とかで書を善くし又馬琴崇拝者で、八犬伝の如きは十数回繰返して読んだとの事である。最初は魯文翁に師事して居たので僕は仮名読新聞社で逢つたのが始めてであるが、其頃は大蔵省の吏員であつたやうに思ふ。後に何事からか師翁に反いて喧嘩腰となり、翁に対して箍のゆるんだ耄碌などと悪声を発して居た。官職を去つて有喜世新聞に入つてからか、嘲罵的の筆を振つていたが、氏は筆舌ともに毒気を含んでいた為めに敵を作ることが多く、狂犬の専三等と云ふ仇名を取つて居た。有喜世新聞の三益社を去つてからは、一時荒川高俊氏等とともに鯛娘新聞(日本たいむすのことか1筆者注)とかいふのを発行して居たこともあつたが、いつのまにか新聞界から其の姿を消して仕舞つた、僕がその十数年後両国橘町の居宅を訪ふた時は何々教とかの神職らしき者に成りすまし、加持祈祷などを行つて居たやうである。死去のことも知らなかつたが、令息は法学士で某会社に勤めて居るとの噂である。(「明治年間に於ける著述家の面影」野崎左文『早稲田文学』大正十五年四月号)
// 他に宮武外骨、西田長寿らも石川巖の記述をもとに橋塘の略伝を記してはいるものの、各新聞社への入社時期など、明らかに取り違えている点が見られたため、ここには記さない。
//同時代に生きた人の証言として、左文はその強烈な人柄についてよく伝えているが、両者とも、毒筆家であり他人との折り合いの難しかった橋塘について述べ、その人となりについ
//---------------------[End of Page 525]---------------------
//62
//て記されているのみで、いずれも著作自体に関しての言及はほとんどないといってよい。ここで、現在判明している分の著作をまとめたのでみてゆきたい。著作に関わる彼の動向についても簡単に触れてある。
//(凡例)
//一、伊東橋塘 著作年表
//、橋塘が関わった新聞は【】、連載作品名は「」、刊本として確認できたものは『』で示す。また、年月が()で括られているものは序文のみ関わった作。
//、刊行形態、冊数、書肆については各作品の後に記してあるが、便宜的に半紙本は■、中本は◎、ボール表紙本は●と記してある。ボール表紙本は両面刷と袋綴のものを分けて示した。また、▼は全て講談落語本を表す。なお、特にことわらない限り、版式は活版である。
//、彼の動向に関しては、本論で必要なもの以外割愛する。
//○嘉永三年(一歳)
//  五月四日
//江戸に生まれる(篠田鉱造の明治文化研
//究会発表資料より)
//○明治九年(二十七歳)
//  四月一日    【仮名読新聞】
//初投書する
//○明治十年(二十八歳)
//  六月二十八日  【仮名読新聞】編集長となる
//  九月      『遭難記事』刊
//○明治十二年
//  一月十四日
//  一月二十八日
//  二月十九日
//(三十歳)
//四月二十四日
//五月十五日
//七月二十二日
//【仮名読新聞】退社する
//【有喜世新聞】入社する
//「水錦隅田曙」連載開始(【有喜世新聞】~四月二十日)
//「綾重衣紋春秋」連載開始(【有喜世新聞】~六月七日)
//夏頃大蔵省商務局雇となったか
//『水錦隅田曙』初編刊(~六月)[金松堂三編九冊合巻]
//「月雲雁玉章」連載開始(~九月十二
//▽
//七月二十三日
//十一月十三日
//十二月二十五日
//日)
//『綾重衣紋春秋』初編刊[金松堂 三
//編九冊 合巻]
//「現今浮世床」連載(【月とスッポン
//チ】~十二月二十三日)
//「花雨濡袖褄」連載開始(【有喜世新
//聞】~十三年二月八日)
//○明治十三年(三十一歳)
//一月十三日
//士
//戸
//十
//八
//日
//六
//旦
//干
//六
//日
//再
//十
//七
//日
//「花暦明治廼満戯」連載開始
//(【月とスッポンチ】~欠号につき終回不明)
//「新説縁の糸」連載開始(【有喜世新聞】~二月二十四日)
//「咲分色朝顔」連載開始(【有喜世新聞】~八月五日)
//「時雨空遠寺鐘音」連載開始(~十四年一月二十日)
//○明治十四年
// (一月)
//  一月十一日
//  二月六日
//  二月十八日
//  五月
//  七月
//  九月十七日
//○明治十五年
//  一月
//(三十二歳)
//『遊戯菩提記』刊[仮名垣魯文稿 伊
//東橋塘編]
//「性談寝言餘」連載開始(【芳譚雑誌】
//~二月一日)
//「魁談朦文我話」(【芳譚雑誌】~四月
//二十一日)
//「深緑林宵闇」連載開始(【有喜世新
//聞】~五月十四日)
//『府県長官銘々伝』[林吉蔵刊 銅版]
//『月雲雁玉章』[青盛堂刊 三編九冊
//合巻]
//【有喜世新聞】再入社し編集長となる
//(三十三歳)
//一月二十四日
//八月十三日
//『府縣長官銘々伝』[紅英堂刊 京都銅版]
//【有喜世新聞】幹理となる
//『業勝君助力之復讐』[錦耕堂刊 三編
//九冊合巻]
//---------------------[End of Page 527]---------------------
//64
//十一月五日
//○明治十六年
//  一月十六日
//  四月
//(五月)
//五月一日
//六月四日
//六月十日
//久保田彦作と和解手拍式を行う
//楼、口入は魯文と黙阿弥)
//(三十四歳)
//(柏木
//  【有喜世新聞】発禁となる
//
//  【独立曙新聞】創刊する(数号で廃刊
//  か)
//▼◎『開明奇談写真廼仇討』[滑稽堂刊(~
//  十七年三月)五明楼玉輔口演 中本二
//  冊]
//  『いろは文庫 後編』[木村文三郎刊]
//  序
// ◎『鳴渡雷於新』[滑稽堂刊 中本一冊]
//▼■『新編都草紙』[著述堂刊(自宅)(~九月)後に滑稽堂刊となる「色濃緑笠松」田辺南龍口演「島千鳥沖白浪」柳亭燕枝口演「唐土模様倭粋子」春風柳枝口演)半紙本二十三冊二十三編までで中絶]
//  『市村座評判記』[滑稽堂刊 横本]
//七月一日
//七月十四日
//十月四日
//(十一月)
//十二月
//◎『花春時相政』[滑稽堂刊(~十七年二
//  月) 中本二冊]
//◎『引眉毛権妻於辰』[林吉蔵刊 中本二
//  冊]
//▼■『唐土模様倭粋子』[滑稽堂刊(~十七
//  年六月)春風亭柳枝口演 半紙本二
//  冊]
//  三浦義方『名吉原娼妓仇討』[滑稽堂
//  刊]序
// ◎『正札附弁天小僧』[滑稽堂刊 中本一
//  冊]黙阿弥物
//○明治十七年(三十五歳)
//一月
//(一月)
//三月
//三月七日
//◎『小狐礼三情罹罠』[滑稽堂刊 中本一
//  冊]
//  山田春塘『日本橋浮名歌妓』[滑稽堂
//  刊]序(後に伯知が演ずる)
//  『府県長官銘々伝』[田中治兵衛刊 京
//  都銅版]
//▼■『新説暁天星五郎』[東京金玉出版社刊
//---------------------[End of Page 528]---------------------
//65 伊東橋塘の講談落語本一速記本出現前後
//六月
//七月
//七月十一日
//九月九日
//十一月
//  (~七月) 桃川如燕口演 半紙本二十
//  三編]
//▼◎『新説暁天星五郎』[松柏堂刊 中本二
//  冊]
//▼◎『新説暁天星五郎』[井沢菊太郎刊中本
//  二冊]
//  【絵入自由新聞】助筆となる
//▼■『島千鳥沖白浪』[滑稽堂刊 柳亭燕枝
//  口演  半紙本二冊]
//▼■『本町小西屋政談』[東京金玉出版社刊
//  (~八月) 田辺南龍口演 半紙本六
//  編]
//▼■『雲霧五人男全伝』[東京金玉出版社刊
//  春錦亭柳桜口演 半紙本二冊](~十
//  八年三月)
//  【勉強新聞】助筆となる
//▼■『恋闇恨深川』[京文社刊 勉強新聞付
//  録(~十八年一月)談州楼燕枝口演半紙本合本]
//▼◎『新説暁天星五郎』[松柏堂刊 中本二
//十二月
//○明治十八年
//三月
//八
//月
//七
//月
//五
//月
//   冊]
// ▼■『雲霧五人男全伝』
//   別製本(半紙本)]
//(一二十亠ハ歳)
//八月二十五日
//(九月)
//▼◎『本町小西屋政談』
//  冊]
//▼◎『本町小西屋政談』
//  冊]
//▼●『本町小西屋政談』
//  表紙本 袋綴]
//  本二冊]
//▼●『新説暁天星五郎』
//  表紙本 両面]
//[東京金玉出版社刊
//◎『滑稽笑談清仏船栗毛』
//     (後編は川上鼠文)
//◎『名立浪竜神於珠』
// 中本一冊]
// 【日本たいむす】記者となる
// 『大久保武蔵鐙松前屋五兵衛実記』
//由閣刊]序
//[和合館刊 中本一
//[薫志堂刊 中本一
//[和合館刊 ボール
//  [松成堂刊 中
//[和合館刊 ボール
//[東京金玉出版社刊
//[自
//---------------------[End of Page 529]---------------------
//1
//66
//九月八日
//十月
//十二月
//(十二月)
// 「假寢夢幻矇傳次」連載開始(【日本たいむす】八日第六回~十一月十五日第
// 三十二回 他欠号)
//◎『女天一花園於蝶』[上田屋刊 中本一
// 冊]
//◎『正札附弁天小僧』[間花堂刊 中本一
// 冊]
// 『大久保武蔵鐙彦左衛門功績記』[日月
// 堂刊]序
//○明治十九年(三十七歳)
//八 五四
//月 月月
//十月
//  【今日新聞】主幹となる
//▼◎『本町小西屋政談』[内藤半七刊 京都
//  中本一冊]
//▼●『唐土模様倭粋子』[聞花堂刊 ボール
//  表紙本 両面]
//▼●『雲霧五人男』[金桜堂刊 ボール表紙
//  本 両面]
//▼●『開明奇談写真廼仇討』[日吉堂刊 ボ
//  ール表紙本 両面]
//十一月
//十二月
//(十二月)
//▼●『佐原喜三郎大阪屋花鳥島鵆沖白浪』
//  [間花堂刊 ボール表紙本 両面]
//▼●『開明奇談写真廼仇討』[日吉堂 刊ボ
//  ール表紙本 両面]
//▼●『開明奇談写真廼仇討』[間花堂刊 ボ
//  ール表紙本 両面]
// ●『引眉毛権妻於辰』[金泉堂刊 ボール
//  表紙本 両面]
// ●『鳴渡雷於新』[金泉堂刊 ボール表紙
//  本 両面]
// ●『新編明治毒婦伝』[金泉堂刊 ボール
//  表紙本 両面](権妻於辰、雷於新)
//▼■『小堀精談天人娘』[滑稽堂刊 神田伯
//  山口演 半紙本一冊]
//▼●『小堀精談天人娘』[滑稽堂刊 神田伯
//  山口演 ボール表紙本 両面]
// ◎『正札附弁天小僧』[日吉堂刊 中本一
//  冊]
//  雑賀柳香『明治小僧噂高松』[日吉堂
//  刊]序
//---------------------[End of Page 530]---------------------
//67 伊東橋塘の講談落語本一速記本出現前後
//○明治二十年(三十八歳)
//二月
//三月
//五月
//九月
//十月
//十一月
//●『滑稽笑談清仏船栗毛』[松成堂刊
//  ール表紙本 両面]
//▼●『大岡政談小西屋裁判』[和合館刊
//  ール表紙本 両面]
//▼●『開明奇談写真廼仇討』[間花堂刊
//  ール表紙本 両面]
// ●『新編明治毒婦伝』[今井小一郎刊
//  ール表紙本 両面]
//▼●『雲霧五人男』[金桜堂刊
//  本 両面]
//▼◎『開明奇談写真廼仇討』[聚栄堂
//  本一冊(滑稽堂版と酷似)]
//▼●『新説暁天星五郎』[文事堂刊
//  表紙本 両面]
//▼●『開明奇談写真廼仇討』[銀花堂刊
//  ール表紙本 両面]
//▼●『新編古今毒婦伝』[問花堂刊
//  仇討)ボール表紙本 両面]
// ●『新編明治毒婦伝』[金泉堂刊
//ボボボボ
//ボール表紙
//   刊和
//  ボール
//    ポ
// (写真廼
//  ボール
//○明治二十一年
//一月
//十
//月
//六
//月
//月
//○明治二十二年
//  一月
//  五月
//  表紙本 再版 両面]
//(三十九歳)
// ●『絵本 白浪五人男』[文事堂刊 ボー
//  ル表紙本 両面(巻頭画のみ袋綴]
//▼●『暁天星五郎』[文事堂刊 ボール表紙
//  本 再版 両面]
//  宮川春塘『遊郭穴さがし』[土田吉五
//  郎刊]序
//▼●『開明奇談写真廼仇討』[赤松市太郎刊
//   大阪 ボール表紙本 両面]
//▼●『暁天星五郎』[文事堂刊 ボール表紙
//  本三版両面]
//(四十歳) 【成田新誌】にかかわる
// ●『絵本 白浪五人男』[駸々堂刊 大阪
//   ボール表紙本 両面]
// ●『女天一花園於蝶』[日吉堂刊 ボール
//  表紙本 両面]
//---------------------[End of Page 531]---------------------
//68
//○明治二十三年(四十一歳)
//  三月     ●『鳴渡雷於新』[中礼堂刊 ボール表紙本 袋綴]
//  五月     ●『小狐礼三情罹罠』[中礼堂刊 ボール表紙本 袋綴]
//  九月二日    (新)【有喜世】創刊する
//○明治二十四年(四十二歳) 【小説新聞】にかかわるか
//  三月     ◎『白浪五人男』[聚栄堂刊 中本一冊]
//        ●『花春時相政』[伊東倉三刊 ボール表紙本 両面]
//  十一月    ●『明治侠客三幅対』[伊東倉三刊 ボール表紙本 両面]
//  十一月十六日  痘痕会を催す。(中村楼、参加者千名)
//○明治二十五年(四十三歳)
//  三月     ■『伊東案内誌』[滑稽堂刊半紙本]
//          (伊東祐俊とあり 伊東の地での執筆か)
//  六月     ■『伊藤祐親義心録』[滑稽堂刊 半紙本
//          (脚本)](伊東祐俊とあり 伊東の地での執筆か)
//  八月     ■『英雄続菊水』[滑稽堂刊 半紙本(脚本)]
//○明治二十六年(四十四歳)
//  二月    ▼●『島千鳥沖白浪』[礫川出版刊 大阪
//         ボール表紙本 両面]
//  九月    ■実説集録『婦美の錦』に「咲分牽牛
//         花」連載[衆楽社刊](朝日・国会の
//         配達所による附録)
//  十一月十二日  諸君洒落ル会を催す(入谷 鬼子母神
//         判者は幸堂得知、落合芳幾、南新二)
//○明治三十一年(四十九歳)
//  一月     ▼『三日月小僧』[中村鐘美堂刊 大阪
//          (燕枝の「島千鳥沖白浪」)菊判本]
//○明治三十五年(五十三歳)
//  十一月     「道誉上人鈍血衣」(『演芸世界』第二
//1
//---------------------[End of Page 532]---------------------
//「
//○明治三十六年
//  二月
//  八月
//十一号)
//(五十四歳)
//  「孝行団子」(『演芸世界』第二十四号)
//  「英雄続菊水」(『演芸世界』第三十号)
//○大正三年(六十五歳)
//  十月十六日   黄疸により死去
// ふる  うきよしんぶんきしや さき かんり いとうせんざうおのれ ひ
//を揮ひし有喜世新聞記者の前の幹理の伊東専三自己が日
//ゾ  じうじ    そのしんぶん  ことし
//々に従事せし其新聞は今茲(明治十六年ー筆者注)の
// げつそのすぢ        とつぜん  はつかうきんし   めい        つい  ほんしや
//一月其筋よりして突然と発行禁止の命ありしに亞で本社
// とき       いとう  そのひ   しりぞ   さ   ふたへびしんし   ふで  とら
//を解しかば伊東は其日に退き去り再度新紙の筆を採ず
//いち  かく    つくゑ       しよ  よ  しよ  か   う  とき  ほ
//市に隠れて机にか・り書を読み書を書き倦む時は歩を
//めぐら    しよ    あそ      ふうげつ  とも      はんせい  けらくじゆう
//運して処々を遊びた"風月を友となし半世の快楽自由
// み
//の身
//         (『日本橋浮名歌妓』明治十七年刊)
//速記本出現前後
//69 伊東橋塘の講談落語本
//二、明治十六年という転機
// この年表全体を見通すと、『有喜世新聞』が発禁になった明治十六年以降に刊行された著作が圧倒的に多い。連載を経て版本となったもの、事実を脚色した話等が目立つが、十六年以降の特徴として、講談落語本の刊行が相次いでいる。では、この転機となった十六年に橋塘に何があったのであろうか。その件に関しては山田春塘(実際は橋塘の筆によるものか)が当時の有様をよく伝えている。
//こくちょうがし   わびすまゐ    かい  ひと  こも   ゐ   こうこ  すこ  ひつはう
//石町川岸の詫住居の二階に単り籠り居は江湖に少し筆鉾
// 山田春塘は橋塘の弟子であり、この作品は当時評判となった吉安と日本橋芸妓歌吉心中の顛末を綴ったものである。伊東橋塘も叶屋歌吉と関わりがあり、自身も情夫吉田屋安兵衛にのめり込む歌吉を説得するといった重要な人物として登場する。明治十六年有喜世新聞発禁の記事も見え、これより市隠して新聞に筆を絶つとある。この一件が発禁となった理由に直接繋がるものではないと思われるが、これまで紙上で毒筆を揮っていた橋塘が、事実をふまえて綴る記者の職を一旦は辞するという心境の変化に、当時大きな騒動となったこの心中譚は何らかの影響を与えているかもしれない。また、同時期の『新編都草紙』の序では、橋塘自身はこのように語っ
//---------------------[End of Page 533]---------------------
// ■
//{
//70  ている。
//み   しりぞ  かくれ   の   このへんしふ  じふし       ぜんじつ  ごと
//                        ない
//身を退き隠し後ち此編輯に従事すれば前日の如く内
//ぐわい  はん        こもろ  らう      うれひ    れんじつはんばう
//                       ふで
//外百般のことに意を労するの憂なく連日繁忙の筆を
//とり  もの  いま  ひとつき  うちむいか  ほか  つくえ  よら    ないしよく  く
//取し者も今は一月の中六日の他は机に寄ず(内職の九
//さざうし  このかぎ    あら    かみ  つかふ  しやちよう      しも  くわん
//三草紙は此限りに非ず)上に仕る社長もなく下に管
//かつ    しやゐん       ひ と   そし  こと        われ  にくま
//轄する社員もなく他人を讒る事なければ我も憎る・
//しんばい            いま   ふきどくりふ ちよじゆつか
//心配なく(中略-筆者)今こそ不羈独立の著述家と
// なりに       おのれ   しきり  ほこ  もの    またひとあつ
//                     しんぶんきしや
//は成似たれと吾儕は頻に誇る物から又人有て新聞記者
// つひ  げさくしや かけだ   おちぶれはなしかかうしやくし
//                     てうちんもち
//も竟に戯作者の駈出しと落魄落語家講釈子の提灯持と
//なり くそごといふあ もあり われ
//成しとて糞の如くに言もの有らんか設し有しとて我はま
// これ     へ    おも
//た是をば屁とも思はざるなり
//           (『新編都草紙』 第十編之序詞)
// 橋塘が三益社(『有喜世新聞』を発刊)を退職した後の心境を綴ったものである。春塘の記述よりも更に自身の心情が述べられていて、他人との折合いの難しかった記者生活を脱するが如く、読み物類の執筆活動に従事するようになる転機が語られている。ただ、ここでは「落語家講釈子の提灯持」と自嘲的に述べていることに注目したい。以後十九年まで口演者名をたてて自ら編輯をするという形の講談落語本を、彼は陸続と刊行することになるのだが、これはその営為を少なからず自覚的に敢行したことを図らずとも表明したことになると思われるからである。
//
//三、明治十年代の講談落語本・速記本
//
// まず講談落語本の定義であるが、実録小説、速記本と区別するため、ここでは便宜的に「講談落語本」と称する。すなわち、口演者名とともに、編輯者や筆記者名が外題もしくは内題に記されているものをいう。例えば、仮名垣魯文による『薄緑娘白浪』(明治元年)のように、「伯円大人が毎夜定連の耳を歓ばし……」と、序文を見れば講談を下敷きにして書かれているものだとわかるものもあるが、このような講談ものの合巻や小説はここでは扱わない。これに少し遅れて普及する明治十年代の速記本はどのようなものが刊行されているのか、一般に速記本と称されているもののみを挙げる(▼は伊東橋塘による講談落語本で、初版のみ挙げてある)。講談落語本は太字ゴシック体、速記本は細字で示した。
//---------------------[End of Page 534]---------------------
//速記本出現前後
//○明治四年
//○明治五年
//  春
//○明治十二年
//三月
//五月
//71 伊東橋塘の講談落語本
//  0
//  明
//四 治
//月±
//  年
//『菊文様皿山奇談』三遊亭円朝作話
//山々亭有人補綴[青盛堂刊](合巻)
//『今朝の春三ツ組さかづき』三遊亭円
//朝作話 山々亭有人補綴[青盛堂刊]
//(合巻)
//『新編伊香保土産』松林伯円演 若林
//義行編[松延堂刊](合巻)(若林義行
//は伯円の本名)
//『今常盤布施譚』松林伯円演 若林義
//行編[松延堂刊](合巻)
//『賞集花の庭木戸』桃川燕林著 転々
//堂主人閲(序に燕林作を転々堂が校正
//した旨あり)
//○明治十四年
//  一月二日
//六月六日
//九月二十六日
//十月十七日
//十二月五日
//『黄谷於梅復讐』田辺南龍講[諸芸新聞連載七号~四十四号](岡本起泉記とあるのが二十九号から、山下晴平記とあるのが三十二号から、三十六号からは記者名のみになる号もあり。四十号からは燕枝との掛け合いと記される。)
//『鳴神阿金の譚』柳亭燕枝講[諸芸新
//聞連載二十八号~三十四号](第二回
//から文陣子筆記とあり。)
//「有馬土産千代の若松』三遊亭円朝演
//春雨亭主人報[諸芸新聞連載四十四号
//~五十五号]
//「花鏡芸妓誠』桂文治噺 山下晴平記
//[諸芸新聞連載四十五号~五十三号]
//『恋路の奇談』桃川燕林講 山下晴平
//記[諸芸新聞連載五十四号~五十五
//号]
//●
//---------------------[End of Page 535]---------------------
//72
//○明治十五年
//  一月八日
//一月二十二日
//四月
//○明治十六年
//  四月
//六月四日
//『七変化白波小三』春風亭柳枝演
//晴々堂主人記[諸芸新聞連載五十六号
//~八十二号]
//『温故知新』三遊亭円朝演舌 古川魅
//蕾子寄稿[諸芸新聞連載五十八号~六
//十五号]
//『岡山紀聞筆之命毛』団洲楼燕枝演説
//柳亭種彦校正(内題に柳亭燕枝編輯と
//あり)[愛善社刊]
//▼『開明奇談写真廼仇討』[滑稽堂刊]
// (~十七年三月)
// 五明楼玉輔ロ演 伊東橋塘編輯
//▼『新編都草紙』[著述堂刊](自宅)(~九月)後滑稽堂刊(「色濃緑笠松」田辺南龍ロ演「島千鳥沖白浪」柳亭燕枝
// ロ演「唐土模様倭粋子」春風柳枝ロ
//演)伊東橋塘編輯
//十月四日
//○明治十七年
//  三月七日
//六月
//七月
//十一月
//▼『唐土模様倭粋子』[滑稽堂刊](~十
// 七年六月)春風亭柳枝ロ演 伊東橋塘
//編輯
//▼『新説暁天星五郎』[東京金玉出版社
//刊](~七月)
//桃川如燕ロ演 伊東橋塘編輯
//▼『雲霧五人男全伝』[東京金玉出版社
// 刊]
//春錦亭柳桜口演 伊東橋塘編輯
//▼『島千鳥沖白浪』[滑稽堂刊]柳亭燕枝口演 伊東橋塘編輯
//▼『本町小西屋政談』[東京金玉出版社刊]田辺南龍口演 伊東橋塘編輯
// 『怪談牡丹燈籠』三遊亭円朝演述 若林坩蔵筆記[文事堂]
//▼『恋闇恨深川』[京文社刊 勉強新聞付録](~十八年一月)談州楼燕枝口演
//伊東橋塘編
//---------------------[End of Page 536]---------------------
//73 伊東橋塘の講談落語本一速記本出現前後
//○明治十八年
//一月
//三月
//十一月
//○明治十九年
//七月
//十月
//『英国孝子ジョージスミス之伝 西洋人情話』三遊亭円朝演述 若林坩蔵筆記[速記法研究会]
//『鏡池操松影』三遊亭円朝演述 若林坩蔵筆記[牡丹屋]
//『後開榛名梅香安中草三伝』三遊亭円朝演述 酒井昇造速記[朝香屋]
//『越国常盤廼操』桃川如燕講述 傍聴速記法学会速記[傍聴速記法学会]
//『業平文治漂流奇談』三遊亭円朝演述 若林坩蔵筆記 酒井昇造助筆
//『富士額三人娘』松林伯円演述 筆記 学本会員・市東謙吉筆記[上田屋]
//『政談鶴の一節』錦城斎貞朝講演 今村次郎速記[金松堂]
//「松の操美人の生埋」三遊亭円朝口述 小相英太郎速記(やまと新聞連載六日
//十一月
//十二月
//第一回~十二月二日第四十四回)
// 『蓮華往生鮮血台』伊東潮花演述 柳葉亭繁彦著[金泉堂刊]
//▼『小堀精談天人娘』[滑稽堂刊] 神田伯山口演 伊東橋塘編輯
//「蝦夷錦古郷の家土産」三遊亭円朝口述 小相英太郎速記(やまと新聞連載
// 三日第一回~翌二十年一月十九日第三十八回)
// 『文七元結情話之写真』桂庄治郎口演 丸山平次郎速記  [駸々堂 大阪]
//
//四、講談落語本と速記本
//
// 講談落語本は四年の円朝の合巻から始まり、あくまでも口演者名が主張され編者名が併記されているものを挙げたが、表からも認められるように橋塘のそれは非常に多い。橋塘の講談落語本以外では口演者による編輯本ばかりであるが、橋塘の前にいくつか挙げられている諸芸新聞の存在は気になるところだ。諸芸新聞は明治十三年岡本起泉によって創刊された半紙本、和装活版の演芸雑誌であり、前島和橋らも参加、創刊の際には起泉とは有喜世で同僚だった橋塘も祝辞を寄せている。ここで諸本の特徴をとらえるために比較をしてみたい。
// 明治十八年に刊行される松林伯円による講談速記本の『安政三組盃』は、次のような口上から始まる。
//こんにち    よ   はじ        こうだん  かね  ひようばん
//                    あんせいみつくみ
//今日より讀み始めまする講談は兼て評判の安政三組
//さかつき  まをし   はつかかん  よみきり         よう      き  くだ
//盃と申して廿日間に讀切まするから宜しくお聴き下
//      とくがわ   よさか    まを  あんせいかゑいねんかん
//さい。これは徳川の世盛りと申す安政嘉永年間のことで。
//すなわ  とくがわじうさんだい  しようぐん  ころあさくさ  はなかわど   じうきよ
//即ち徳川十三代の将軍の頃浅草の花川戸に住居いたし。
//ろうにん  よりきしようせき  とりたて        ところ
//浪人で與力上席に取立られたる處から。
//               (『安政三組盃』冒頭)
// 前年に刊行された落語速記本『牡丹燈籠』とともに、初の講談速記本とされるものであるが、その高座にて演じている口調をそのまま写し取っているかの如き文体は、以後の講談や落語の「速記本」と同工であり、これは新記録法たる速記を応用したものとほぼ認めてよいであろう。しかし、『越国常盤廼操』のように速記を利用したことを謳っていながら、文語体で記されているものもあり、それもまた従来、講談速記本として一括されてきたふしがある。同じく桃川如燕を口演者に据えながら『百猫伝』の口語体とは異なるにもかかわらず、である。
// それが、明治二十年代になると速記本は新聞附録をあわせると所在が判明しているものだけで四百種以上も活字刊行されるようになる。十年代後半の速記本の成功をきっかけとして、やまと新聞をはじめ、新聞・雑誌連載が盛んに行われる。
//このほか、東京では講談速記物を専門に扱う雑誌『百花園』が創刊され、大阪でも同類の講談雑誌『百千鳥』が創刊される。明治三十、四十年代に大川屋が二十年代の速記本の版権を譲り受けて大量に重版していることを考えると、速記本の隆盛は二十年代がピークであると言え、完全な速記本とは思えないものも混じる十年代は実験的な段階で、まだその型の定まらない状況にあったということができるだろう。
// それでは、速記利用以前の講談落語本は講釈師の口吻をどのように伝えていたのであろうか。
//およ  わざはひ  おの  まつこれ  まね  しか          およ         まう
//凡そ災過は己れ先是を招き而してそこに及ぶものとか申
// ます    げに  さやう  すで  いまこのれうえつごと    へいぜいおこないけんこ
//し升るが實も左様で既に今此了悦如きも平常行状堅固に
//---------------------[End of Page 538]---------------------
//刈
//速記本出現前後
//75 伊東橋塘の講談落語本
// わがほんぶん  ぶつだう  しゆ      た じ    たとへれう  じ  しようこ
//て我本分の佛道を修するに他事なく假令了の字の証據
// ある       かへ  む つ  うけ       をり  をり    じほふ
//が有にもせよ斯る寃枉は受まじきに折も折とて寺法さへ
//やぶ     きいん      とこ  まちぶぎやう  て  ひと
//破り二三日帰院もなさ.・る所から町奉行の手の人々も
//ひたすらそれ    み と      おな  てら  うち  ほんにん  またおる      き
//只管夫ぞと見認められ同じ寺の内に本人が未居ぞとも気
//        こ  すなわ  おの  まづまね         じつ  つへし
//がつかれざりしは是れ即ち己を先招きしものか實に慎
//    つね           ながこうじやう    ねむけ  もと
//むべきは常にありオツト長冒頭はお睡気の基
//    (「黄鳥谷於梅復讐」【諸芸新聞】第拾一号冒頭)
//よ じんこう くわいしや  きじん まつ こと   しよせつまちく
//世の人口に膾炙する鬼神お松が事はしも諸説区々にし
//  てい        そ  うちじつせつ  ちか    おも  このかさまつ  えだ
//て一定ならねど幵が中實説に近しと想ふ此笠松の枝ぶり
// あい   うつ  うえ  もの     まつ  でん  さきだち  そのをつと    べん
//を愛して寫し殖る物からお松の傳に先立て其本夫なる弁
//てんこぞう  こと    しだい  ときわく    それふじん      ねた
//天小僧の事より漸次に説分べし夫婦人にして妬みなきは
//もへ  つたな   おほ       えど こいしかはなかゑさしまち      こく
//百の拙きを覆ふとかや江戸小石川中餌差町に千五百石
// たまは  はたもとふちかけひやうご        ひと    そのつま    はま
//を賜る旗本藤掛兵庫といへる人あり其妻をお濱といひ
//ふうふ      ちか         ねん    つれそへ  いま    し
//夫婦四十に近くして十八年ほど連添ど未だ一子もあらざ
//  ふうふあけくれこれ  のみかこ          にようばう  あるひ おつと   うち
//るに夫婦朝暮是を耳嘆ちゐたるに女房は或日本夫に打
//むか
//向ひ
//      (「色濃緑笠松」【新編都草紙】第一回冒頭)
//いずれものんのん南龍といわれ人気を博した講談師田辺南
//           ソ
//龍のものでありながら、同一演者とは思えぬほどその文体は異なる。岡本起泉の筆記かと思われる諸芸新聞の方がより速記本の体裁に近く、まず冒頭の「そこに及ぶものとか申し升るが」のように、です、ます調しかり、軽妙な調子で進んでゆき、導入部にかなり字数を割いて本題へと入ってゆく饒舌さは明らかに高座の実態を意識してかかれたものであるということができるであろう。引用した部分の後、会話体になってからは登場人物中の誰の発言かわかるように(乙)(早)
//など会話主の名が文頭に書かれていて、脚本のように記されている。それに比べ、橋塘の都草紙は「お松の傳に先立て其本夫なる弁天小僧の事より漸次に説分べし」と、冒頭の但し書があたかも実録のように簡潔にまとめられ、また全体を通して明らかに文語体であり、かなり堅い調子で進んでゆく。この後のお濱夫婦の会話も直接話法を用いず単に地の文で進められており、従来の実録などとさほど変化もなく、話芸であったものをそのまま写しとることに努めて高座の実態を伝えようとしたとは考えにくい。諸芸新聞と比べると、高座の実態を意識したというよりも、高座でどのような筋の話が演じられていたのかという、内容を伝えることに重きを置いているようである。
//---------------------[End of Page 539]---------------------
//】
//76
// 他作品も同じくこのようないささか固い文語体中心の文体を持つ橋塘の講談落語本は、速記的なもの、口語体小説の流れとは異なるもののようである。ここで看過できないのがほぼ同時期に行なわれた活版実録小説であろう。
//ころだけを伝える簡潔さだ。
//これは橋塘の本にも通ずるところである。
//
//五、活字実録の普及
//  こじんいふうたが    すなは  にん        なか  にん      すなは  うたが
//  古人云疑へば則ち任ずること勿れ任ずれば則ち疑
//    なか    これとくがはこうよくそのひと  さつ  よくそのしん  もち  たま  おお
// ふこと勿れと此徳川公能其人を察し能其臣を用ひ給ひ大
// くぼたずのりまたこう ゐだく かうふ よくそのちう つく ところ  さ
// 久保忠教又公の遺托を蒙り能其忠を尽す所なり然れば
// ひこざゑもんそのゐくん まも   だい しやうぐん はうし  こくかことあ
//彦左衛門其遺訓を守り三代の将軍に奉仕し國家事故有
//   のぞ      もうさく  けん  よくこれ   ほよく  えいめい  たうじ   ほどこ
// るに臨みては蒙策を献じ能之を補翼し英名を當時に施
//  しんぎ  ばんせい  のこ    しゆんさい     とくがわししやしよく
//                      しん
// し信義を萬世に遺せし俊才にして徳川氏社稷の臣とも
// しよロつ
//稱すべし
//(「今古実録」『大久保武蔵鐙 松前屋五郎兵衛之伝』冒頭)
// ここで挙げたのは大久保彦左衛門伝の一書、松前屋五郎兵衛伝である。「今古実録」については後述するが、列記した四種を並べると、橋塘の講談落語本は高座の実態であるとされる速記本よりも実録に近いことが見て取れる。文語体で全編進められていくことや、彦左衛門の伝に入っていく前の導入も、徳川家の「社稷の臣」であったことなど、伝えたいと 明治十二年に藍泉による『巷説児手柏』が物語初の活字本として刊行され、十四、十五年から活版印刷が普及し、様々なジャンルの活字翻刻ものが登場した。その中でも刊行数が圧倒的に多いものに栄泉社による「今古実録」があった。半紙本、芳幾画、桜表紙で知られる「今古実録」は、近世以来写本で流布した実録体小説の活字翻刻本で、明治十五年一月の『天満水滸伝』から出発し十九年までに数百種刊行されたという。明治十九年の『大久保武蔵鐙 宇都宮騒動記』下巻の広告には、「弊社出版今古実録の儀は追々盛大に赴き既に太閤記三代記盛衰記の如き大部を始め二百八十余種の発兌に及候」とあり、次頁には「今古実録既成書目録」として八十六編が挙げられている。「今古実録」が成功してシリーズ化されるようになる一方、松村操の『実事譚』のような活版実録小説に対する批判本もあらわれた。これは「異事を作造し虚誕を粧飾して兒女を悦しむるを務め」る稗史小説類が「妄説弁」だと論難し、本来の実説、考証を踏まえて事実を記録した冊子として刊行されたものである。このような刊行物があらわれるのは、実録ものの流行があってこそということができるだろう。それに追随するように、『八百屋お七胡蝶夢』(明治十六年)のような金松堂の「絵入実録」や、日吉堂による『柳沢女太平記』などの「絵入実録」、『実事譚』の続編として『実々事譚』なども刊行された。その他にも活版実録小説は数々刊行されるが、同内容のものが繰り返し刊行された一例を挙げるならば、「今古実録」の『大久保武蔵鐙 松前屋五郎兵衛伝』は明治十六年に刊行され、その後橋塘の序が加えられ、明治十八年九月に自由閣から、同年十二月には日月堂から刊行、十九年は四月に日月堂から再版、七月には間花堂から刊行、間花堂は翌二十年一月に再版している。これらは橋塘による序以外は「今古実録」と同文であり、「今古実録」以降はすべてボール表紙本での刊行である。『松前屋五郎兵衛伝』『宇都宮騒動記』『彦左衛門功績記』をひとまとめにして『大久保武蔵鐙』として刊行されているボール表紙本は、明治十八年十二月に日月堂から、二十年六月に鶴声社、二十四年六月には礫川出版から刊行されている。また、水谷隆之氏も「今古実録」シリーズの『名誉長者鑑』を取りあげて、明治十八年、十九年、三十九年と内容をそのままに数社から幾版にもわたり刊行されている様子を示していることからも、当時広く読者の好評を博していたことが想像できる。
// では、橋塘はこれら活字本実録の隆盛をどのようにとらえていたのだろうか。例えば南龍口演、橋塘編輯による『本町小西屋政談』は、実録『大岡名誉政談』の「小西屋の件」と最終回のお裁きの場面への導入こそ異なるものの、名誉政談と一字一句違わぬ箇所も見受けられるのである。「編輯」とはいいながら、写本などの実録をそのまま流用した形跡があって、その親炙ぶりが見てとれるであろう。また『新編都草紙』初編の序では活版実録についてこのように言及している。
//しんぶんしざつし  かずある        さら    わかんやうしよし   か   しゆつ
//新聞紙雑誌の数有はいふも更なり和漢洋諸氏百家の出
//ぱん  がう   お   あと   つ  むなぎ   み   うし  あせ      いた  いま
//版は号を追ひ後を次ぎ棟に充ち牛に汗するに至り未だ
//それ             ばうかん  ひさ  かしほんや   せおひあるくもの  ほん
//夫のみならずして坊間に鬻ぎ貸本屋の背負歩行物の本と
//いへど  かれこれほんこくさいはん  さくら  もくはん  かつし  えんばん  うえかへふたモび
//雖も渠是翻刻再版し櫻の木版を活字の鉛版に植代再度
//ことば   はな  かざ  もうけ   みいり  はか    おお    かく      よ
//言葉の花を飾り利潤の實入を計るも多かり斯までに世は
//すへ  ゆき  かく        あらは  あらは         なほあきら
//進み行て隠れたるを顕し顕れたるをも猶顕かにせん
//とするにも似ず   「  (『新編都草紙』初編之序)
//---------------------[End of Page 541]---------------------
//78
//「貸本屋の背負歩行物の本と雖も渠是翻刻再版し櫻の木版を活字の鉛版に植代」というくだりは、「今古実録」のように、近世期には写本によってしか流通し得なかったものの活字化の大量翻刻、また馬琴、京伝などの近世版本も改めて多数活字本と変じてあらわれた趨勢に対する橋塘の意識の様が窺われよう。このような流れを睨み合わせながら講談落語本を刊行することになるわけだが、毎月各種の実録、翻刻ものが刊行される中、貸本屋でしか読むことのできなかった実録がこの時期に来て多くの人が手に取ることができるようになった時代背景には見るべきものがある。ここからも橋塘がこれから出そうとする自分の講談落語本の受容層として活字本実録の読者層を意識していることは想像に難くない。
//
//六、刊行までの流れ
//
// ただし、実録とは読者へのアプローチ方法が異なることとして注目しておきたいのは、編輯者としての意図的な刊行の方法についてである。明治十四年から諸芸新聞は実験的に講談.落語の連載を始めていたが、筆記者も回によって異なり、連載ということもあって統一感のある編輯物とはいえない。
//また、諸芸新聞に連載されたものはいずれも単行本化されていない。橋塘は講談落語本刊行にあたり有喜世新聞の同僚でもあった岡本起泉編集長によるこの諸芸新聞を意識してはいただろうが、その後の刊行状況を見ていくと両者にはいささか違いがあることに気づく。活字本が流通するようになったこの時期に講談落語本を刊行することについて、橋塘と三浦義方は次のように述べている。
//かよう  こと      あげ        じまん        あいす
//箇様な事を申し上てはチト自慢らしくて相済みませんが
//かうだんしらくこ か   はなし  うち  もつと  おもしろ  もの  ま
//                     ほん   しる
//講談子落語家の話の中で最も面白い物で未だ書に記
//      ざつしてい  せうさつ  く さざうしがた  ちうほん  つぐ
//                       そめ
//さ"ることを雑誌体の小冊や九三草紙形の中書に綴り染
//   わたくし  はじま      それゆゑさくねんはつだ    みやこざうし
//たのは吾儕が初りにて夫故昨年発兌した都草紙なども
//ひじやう  ごあいこ  かふむ
//非常の御愛顧を蒙り
//     (『新説暁天星五郎』第二十三編 橋塘自序)
// しんぺんみやこざうし  しか    けんゆういとうけうたうし  ちかごろ
//                     しんはつめい
// 新編都草紙は然らず硯友伊東橋塘氏が近来の新発明に
//  たうじせけん  な  たか かうだんらくこか  おはこ  えら かうざ
// て現今江湖に名の高き講談落語家の十八番を撰み高座で
// えん    たねほん  いとおもしろ  ふで  あやつ  しゆれん  うで  より  か
// 演ずる種本を最面白く筆に操り手練の腕に綯を懸け
//         (『新編都草紙』第五編 三浦義方序)
//実際に「吾儕が初り」「新発明」であったかどうかはとも
//---------------------[End of Page 542]---------------------
//速記本出現前後
//79 伊東橋塘の講談落語本
//かくとして、各講談師、落語家の高座にのせた著名な作品を、
//口演者名を掲げて自らは「編輯者」を名乗り、まず半紙本も
//しくは中本で分冊刊行した後中本、あるいはボール表紙本と
//単行本化してゆくこの刊行形態は、他に例を見ないところで
//あった。前掲の講談落語本の年表には、高座に上ったであろ
//ういくつかの作品を橋塘以外の人物も刊行してはいるが、合
//巻、中本で刊行されていて橋塘と同様の刊行形態を推し進め
//た形跡はない。この独特の刊行形態は「編輯者」としての橋
//塘の手腕が揮われているところといってよいであろう。前掲
//の著作年表をもとにして橋塘の講談落語本の刊行の経緯を追
//ってみる。
// 『開明奇談写真廼仇討』は、明治十六四月に前編、翌十七
//年三月に後編が滑稽堂から和装袋綴中本二冊に分けて刊行さ
//れた後、同十九年十一月に日吉堂、闍花堂から一冊のボール
//表紙本として刊行される。ボール表紙本は表紙のみをかえて
//両書肆から各々複数出版されているようである。同二十一年
//六月には大阪でもボール表紙本で刊行されている。明治二十
//年九月に聚栄堂から中本一冊で刊行されるが、これは初版の
//滑稽堂版を模した類版であり、例外的なものであろう。
// 東京金玉出版社による明治十七年の『新説暁天星五郎』
//『本町小西屋政談』『雲霧五人男全伝』、明治十九年十二月の
//滑稽堂の『小堀精談天人娘』はいずれも和装袋綴半紙本一段
//組が初版。滑稽堂以外の三作品は、歌川國峯の画を中心に据
//えた蔦表紙で、一編が五丁から八丁で構成されていて、初編
//が一丁から六丁まで、二編が七丁から十五丁までというよう
//に続きの丁数がふられており、いずれの作品も同じ体裁であ
//るのでシリーズ物かと考えられる。その後『新説暁星五郎』
//は半紙本二十三編をまとめて同年六月井沢菊太郎、松柏堂等
//から和装袋綴中本前後編(各上下巻あり)として刊行され、
//同十八年七月和合館、同二十年十月文事堂より一冊のボール
//表紙本として刊行。文事堂版は、和合館のものと表紙の図柄
//も活字の組み方も同一である。『本町小西屋政談』は、半紙
//本六編大尾の後、翌十八年三月に和合館、薫志堂から和装袋
//綴中本一冊が刊行される。この二つは表紙の図柄は同一であ
//るが、本文の版、挿絵が異なる。同時に刊行されたのが和合
//館の一冊のボール表紙本。この版と薫志堂の中本の版は同一
//である。『雲霧五人男全伝』は同十七年六月に半紙本で刊行
//された後、同年十二月にも同じ書肆から別製本の存在が認め
//られる。同十九年八月、二十年七月に『雲霧五人男』として
//金桜堂からボール表紙本として刊行される。『小堀精談天人
//---------------------[End of Page 543]---------------------
//■
//80
//娘』は、半紙本として刊行されたのと同時に同じ滑稽堂から
//ボール表紙本として刊行されている。
// 『新編都草紙』に連載されていた『唐土模様倭粋子』『島
//千鳥沖白浪』は、『新編都草紙』の突然の中絶後、滑稽堂よ
//り半紙本二段組として刊行。『都草紙』と版は同一である。
//『都草紙』は当初四十編大尾の予定であったが中絶、中絶の
//理由は、『暁天星五郎』第十二編の自序に「少々事故これあ
//り示談の上私は第廿三編限り編輯を断り候」とあり詳しい理
//由はわからないが、「滑稽堂は著述堂より私が記し候所だけ
//は都草紙を引受更に此跡を編輯するやうにと申され候故」、
//三編を別々に合本に製し刊行することを試みたように思われ
//る。『暁天星五郎』の広告欄では各編で『都草紙』の予約注
//文を募っており、金玉社からも売捌く予定である旨が述べら
//れている。ただし、『都草紙』中の『色濃緑笠松』は半紙本
//の合冊を見ることができなかった。滑稽堂の巻末広告には他
//の二編と同様に再三登場していたが、『本町小西屋政談』第
//五編の見返広告欄に、新編都草紙の内「色濃緑笠松 全二
//冊」は「都合により廃刊仕候間此段予約諸君へ広告候」とあ
//り、何らかの事情によって刊行できなかったようである。
//『唐土模様倭粋子』は明治十六年十月に滑稽堂より半紙本で
//完結したものとして刊行され、十九年には闇花堂版のボール
//表紙本が見られる。『島千鳥沖白浪』はこれに半年ほど遅れ
//て十七年に半紙本二冊として刊行された後、十九年十月に
//『佐原喜三郎大阪屋花鳥島鵆沖白浪』と改題して闍花堂から
//刊行、二十六年二月にも礫川出版よりボール表紙本として刊
//行されている。また、三十一年一月には『三日月小僧』とし
//て大阪、中村鐘美堂から菊判本としても刊行されている。内
//容は『島千鳥沖白浪』と同文である。
// 以上のことをまとめると、『開明奇談写真廼仇討』のみ中
//本からの刊行となってはいるが、他作品は活版の一段組、な
//いしは二段組の半紙本で短期間に編を重ねて刊行されている。
//そしていずれも後に中本やボール表紙本で一つの作品として
//まとめられたものが上梓されている。
// 著作年表に示したように、書き下し明治実録の『花春時相政』『引眉毛権妻於辰』『鳴渡雷於新』などの講談落語本以外の橋塘著作の初版はほぼ中本であり、その後ボール表紙本化されることが多い。いずれの作品も架蔵のもの、各図書館等の蔵本を示したのみで未見のもの、現存していないものも多いことと思う。しかし、これらから考えられることとして、『新編都草紙』が有喜世新聞や諸芸新聞、歌舞伎新報などそ
//r
//---------------------[End of Page 544]---------------------
//速記本出現前後
//81 伊東橋塘の講談落語本
//の他の雑誌や和装の新聞、「今古実録」同様活字二段組で構成されていることや、東京金玉出版社版のように同じ体裁の半紙本が複数存在することなどからも、半紙本の講談落語本が逐次刊行物としての体裁を意識していることは窺える。即ち中本出来の講談本と半紙本出来のそれとは別の意識の産物であった節があるともいえよう。また、先に挙げた『大久保武蔵鐙』のように、シリーズ化された実録が後にボール表紙本などで続々刊行されることを考えると、これは橋塘の講談落語本のみの書誌的特色とまではいえないが、ボール表紙本となることが、全体の刊行数の多さからいっても一種の簡素化を意味するものではあったろう。
// これらの刊行形態について書型とともに考えておきたいのが、口演者の名を戴き、自らは「編輯」者として刊行したことである。前掲の講談落語本の年表をみると、多くのものが口演者名を掲げてはいるものの、「補綴」「閲」「校正」という立場をとっている中で、橋塘はあくまでも「編輯」という呼称を貫いている。先に引用した部分からも読み取れるように、橋塘の講談落語本は諸芸新聞や速記本と比べても話芸そのものを残そうとしたというよりも、高座にのせられていた題材を残そうという意識のもとにこの「編輯」作業を行っていたのではないかと推測できる。話芸そのものを残すのであれば、諸芸新聞のように高座の実態を意識した記述方法をとるはずだからだ。橋塘は「編輯」の姿勢について次のように述べている。
//くち  ふで    はんたいぶつ    らくご   をかし         きか  もの  ほん
//口と筆とは反對物にて落語は可笑からざれば聞ず物の本
// をかし      よむ  たへ          さる  らくこ か   ちよじゆつしゃ
//は可笑ければ讀に堪ざればなり然を落語家が著述者の
//しる   まへはなす  おい   らくこか         もの  ほん  よ
//記せし儘話に於ては落語家にあらずして物の本を讀む
//  きかい いつ  か    ちよじゆつしや またしか らくこか  はな
//一の器械と言て可ならん著述者も亦然り落語家の話す
//まへ  しる       ちよじゆつしや    あら      はなし  うつ      き
//儘を記すならば著述者には非ずして話説を寫す一の器
//かい
//械なるのみ      (『雲霧五人男』第三編之序詞)
//
// この抜粋部分の直前では、落語のいわゆる「クスグリ」は話す際には必要だが、編輯する際にはその滑稽味は不要であり、むしろ「客の笑はざらん事を需む」とも述べている。高木元氏は、速記という「言語の写真」によった講談小説は、高座での語りを髣髴とさせ耳目に入りやすいから「普通小説」に劣らない、という序で始まる明治二十九年の速記本『自来也』と、同体裁で刊行された三十三年の『自雷也物語』が江戸読本の翻刻本であることを挙げ、この時期の大衆読物には「実録体小説種の速記本講談小説」と「近世小説の翻刻」という二つの潮流があったことを指摘している。二十年代は速記本の隆盛期でありそれが定着したことを鑑みると、この『自来也』の「序」が示すように「言語の写真」がある程度機能するようになったということはできるかもしれない。
//しかし、十年代の橋塘にとって読み物はあくまでも「物の本」であり、「言語の写真」である必要がなかったということであろう。語りの世界を構築する際に自身が従来慣れ親しんできた読本や実録のような文体で著述するということは、得意分野でもあり一種の書きやすさもあったと窺えるが、橋塘にとっての「編輯」とは、読まれるものとしての「物の本」に置き換える重要な作業であったのであろう。
// そして逐次刊行物としての半紙本をシリーズ化するなどしてまず読者をつかむ。その後の完成版の別製本の半紙本、別版で上梓された中本は、講談落語本以外の諸作品の初版が中本であったことを考えると単行本のように見立てることもできるであろうか。またそこからボール表紙本という一種の簡素化を遂げることからも、実録などの活字本化の時代の潮流を見合わせたこの刊行形態は、他の講談落語本にはみることのできない、橋塘流の新たな「編輯」の意識をみせていたといえるだろう。
//結語
// このように伊東橋塘は活版実録、新聞雑誌などの刊行形態に同調しながら、十年代後半に集中的に講談落語本を刊行した。記者として培ってきた交友関係、演者と自身の知名度をうまく利用し、印刷技術の進化という時流に乗りつつ、意識的に刊行を進めたことは、結果的に僅かながらも独自のジャンルを確立したということができる。また、二十年代に入ると口演者自身の編輯本はあるが、橋塘の講談落語本は十九年に見られる『小堀精談天人娘』が初版としては最後となる。
//しかし、二十年代になっても表紙や形態、題名を変えたものが版を重ね、関西でも再版されるようになることから、一方で速記本が隆盛となっても、橋塘流講談落語本の読者は=疋数存在したことが想像される。十年代、これら速記を媒介としない講談落語本の存在は、相当に版を重ね売られていたという事実からしても、無視すべきではないもののように思われるのである。さらにいえば、従来口述の速記本ばかりが、言文一致体のいわゆる近代小説の出現に貢献したように言及
//---------------------[End of Page 546]---------------------
//速記本出現前後
//伊東橋塘の講談落語本
//83
//されることが多いが、口述を意識しながら速記を介在しない読み物として、旧来の実録に類しながらそれとはまた別の、近代小説につながる一つの潮流として、橋塘風の講談落語本は文学史の中で見直されるべきものではないだろうか。
//[付記]
// 本稿は、二〇〇四年七月に行われた成城国文学会での口頭発表をもとに再構成したものである。
//なお執筆にあたっては、資料の所在などについて多くの方々の御教示を賜った。なかでも講談研究の第一人者である吉沢英明氏には、各図書館では閲覧することのできない資料を御提供いただき、また伊東橋塘についてだけでなく講談速記本全般に関しても縷々御指摘を頂戴した。氏の御厚恩なくしては本稿をなすことはできなかっ

トップ   編集 差分 履歴 添付 複製 名前変更 リロード   新規 一覧 検索 最終更新   ヘルプ   最終更新のRSS